2013年6月29日土曜日

森重靖宗+木村 由@喫茶茶会記



森重靖宗木村 由
Cello & Dance Duo
日時: 2013年6月28日(金)
会場: 東京/新宿「喫茶茶会記」
(東京都新宿区大京町2-4 1F)
開場: 7:30p.m.、開演: 8:00p.m.
料金: ¥2,000(飲物付)
出演: 森重靖宗(cello) 木村 由(dance)
予約・問合せ: TEL.03-3351-7904(喫茶茶会記)



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 即興演奏のライヴに足繁く通い、これはと思う共演者を見つけ出しては、新たな表現領域に挑んでいるダンサーの木村由が、喫茶茶会記でチェリスト森重靖宗との初共演にのぞんだ。ダンス公演では趣向を凝らすのが普通になっているタイトルは、パフォーマンスにあらかじめのイメージがつかないよう、あえて「Cello & Dance Duo」というそっけないものが選ばれたが、深々とした弦楽の響きと、いびつにゆがんだサウンドの間を往復するパッショネートな森重のチェロ演奏は、個性的な即興演奏にふさわしい舞台をライヴごとに準備する木村由にとって、新しいダンスへの挑戦をうながしたのではないかと思う。革新的なダンスというような専門的な評価を、門外漢の私がくだせるはずもないが、少なくとも、木村由があらゆる機会をとらえて新しい動きの探究に努める貪欲な表現者であることは間違いなく、演奏家との即興セッションに限っても、どこか資質に似たところのある森重靖宗との初共演は、確実に彼女の探究の一里塚となるように思われる。ライトはこれまで演奏家の側面から、楽器ともどもその影を会場の壁に大きく投影させるようにセッティングされていたが、この日は、まったく別のスタイルが採用された。演出のこの相違は、いうまでもなく、ダンスが展開する空間構造を根底から変えることを意味している。

 弱々しい光を放つカンテラふうのアンティークな照明が、下手に座るチェロ奏者のかたわらの台に乗っている。ダンス用には、上手寄りにやや強いスポットがひとつ、天井から床へとまっすぐに落ちている。ピアニスト照内央晴とのセッションが、ステージの全面を使うことになるのとは対照的に、ダンサーは光の輪のあたりを離れることなく、その場所にとどまったまま、座る、立つ、寝るの上下動を構成して即興的なダンスをした。この日は、偶然にも、喫茶茶会記の奥さまから、ピンクの薔薇の花束が差し入れられた。花束はそのほとんどが、演奏者の前あたり、台上の照明を取り囲むように配置されたが、木村はそのなかから一輪だけを引き抜くと、ダンス用のスポットのなかに横たえた。情熱的なフラメンコが踊られる雰囲気のなかに、立ったり座ったりするだけの女が登場するというのも意外性に満ちた趣向だが、そうではなく、この薔薇の配置は、いつものライトのセッティングを代替するようなもの、すなわち、ライトでは結ばれることのないふたりの表現者の存在を、仮につなぐようなものだったのではないかと思われる。薔薇の豪華さによってある種の退廃感が、あるいは、花たちのかすかな息づかいによって生きものの猥雑感がかもし出されていたが、後者は、この晩のふたりの表現にも通じるところがあったように思う。

 指先や足先のささいな動きによって表情を変えつづける魔術的な木村由のダンスは、その動きだけでも人々に特別な感覚を喚起しないではいないが、この晩は、スポットのなかに薔薇の一輪を置き去りにしたまま、光のなかに手や足や身体の一部分を差し入れたり、光の外周に身を置いて、床からの反射光でぼんやりと身体を(あるいは赤い花柄があしらわれた古風なシフォンの衣装を)照らし出したりと、光と影の境界性をじゅうぶんに意識しながら、絶妙の匙加減でその内外を出入りし、遊戯的にも、文法的にも感じられる動きを展開していった。光と影の境界性を、見ているものに境界性として意識できるようにするため、こんなふうに木村のダンスはみずからを亡霊化する。細部まで磨きこまれた動きの精度は、おそらくちゃぶ台ダンスで加速的に鍛えられたものだろう。この晩のパフォーマンスは、丸いスポットの輪やダンスの上下動が、ちゃぶ台的な世界をも連想させたが、それはあくまでも森重のサウンドの垂直性や即物性に見あうダンスの空間構造として選択されたものである。ダンスの後半、薔薇の枝を手にした木村は、ダンスの流れのなかで杖でも使うように天井高くさしあげると、力いっぱい床にたたきつけた。乱離骨灰とはこのことか、無惨にも、花びらは一枚も残らずあたり一面に飛散し、観客は、一瞬にして解釈のおよばない領域に突き落とされたのである。

 どこからかかすかに響くうなり声のような演奏からスタートした森重は、共演者の一挙手一投足を注意深く凝視しながら、ダンサーのあとにぴったりとついていく演奏をした。どんなに断片的なサウンドを使おうが、森重の演奏は、けっしてアブストラクトなもの、記号的なものに足をとられることがない。それはまるで呼吸のようでもあれば、動物的な声のようにも聴こえる。すなわち、それらは演奏者の身体深くへと通じる井戸の底から汲みあげられるサウンドなのである。ミュージシャンが演奏中にする作業は、大なり小なりそのようなものだろうが、森重の場合、自己に沈潜していくにしたがって、生々しい情感が、存在の孤独のようなものをともなって出現してくるところに特徴あり、おそらくはこの点が、木村由のダンスと親和的なのではないかと思われる。ダンサーが先行しチェリストがそのあとを追う。この順序が入れ替わったのは、パフォーマンスの終盤、大きなサウンドの動きを作り出した森重が、木村を激しいダンスに誘ったときだろう。森重の演奏は、静から動へという音楽的な流れのなかにあり、木村もこの展開に乗ることになった。もしふたたびこのふたりに共演のチャンスがめぐってきたならば、今度は、周囲に配慮するいとまもあらばこそ、ひたすら深く自己に沈潜していく森重サウンドのなかに飛びこんでダンスする木村由が見てみたいものだ。

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2013年6月24日月曜日

白石民夫+井上みちる@多摩川是政橋



白石民夫井上みちる
THE FIRST REUNION
日時: 2013年6月23日(日)
場所: 府中市/稲城市「是政橋」多摩川北岸河川敷
開演: 2:30p.m.~
出演: 白石民夫(sax) 井上みちる(舞踏)
雨天決行 観覧自由 投銭歓迎



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 米国から一時帰国したアルトサックスの白石民夫を迎え、2012年のニューヨーク滞在期間中に、彼とコラボレーションした舞踏の井上みちるが、多摩川をまたいで府中市と稲城市を結ぶ大橋「是政橋」の北岸河川敷で、東京での再会を記念する40分ほどの野外セッションをおこなった。それにしてもなぜ是政橋なのだろう?  帰国の知らせが急で、準備期間がとれなかったという事情があるのかもしれない。しかし、もしそうだとしても、帰国の報を聞いた井上が「まっ先にここで踊ることを思いついた」のには、じゅうぶんな理由がある。その活動歴のなかで、2010年に「おどりすと」を宣言した井上は、隔月公演に挑戦した。そのとき選ばれた公演場所が、いまはなき小金井アートランドであり、美学校屋上であり、彼女自身もメンバーである<国立舞踏の会>がその前年に公開稽古をした是政橋だったということが一点。もうひとつは、白石と井上のふたりが、ニューヨーク滞在中に、ビルの屋上だとか、ブルックリン地区の汚水処理場などで屋外セッションをしているということ。ライヴハウスや画廊のような、通常の屋内空間とは別に、美術で「サイトスペシフィック」と呼ばれるような、特別な磁力を発する場所での舞踏を、井上みちるは求めているようである。

 多摩川是政橋の北岸は、近隣の人々の散策コースであり、フェンスで囲ったグラウンド設備などもある土地柄なのだが、大橋が空を分断してそこだけ天井のようになっている橋下あたり、広い河川敷を水際まで深く入った場所には、人もあまり足を踏み入れず、生活空間から隔絶されたようなひっそりとした空間が開けている。右手に見える南武線の鉄橋をときおり電車が渡っていく以外は、これといった動きも目につくことがなく、多摩川をはさんだ対岸の建物は、広い空の下で静かにたたずんでいる。大きな河原石がごろごろとして足もとは覚束なく、バーベキューでもしたのだろうか、黒々と焼けた石がキャンプの痕跡をとどめている。川や橋があるところは、人々の身体に変容を起こさせる境界的な場所だとはよくいわれることである。府中市と稲城市の間という行政区域のはざまにあり、生活空間と密着した日常性からキャンプのような非日常性への移行も、境界線ではっきりと区切ることができないような形で空間的に存在している。盂蘭盆の季節になると、海や河に近づくなという言いつたえも思い出される。屋外の、野外の自然空間というより、ここは都市の周縁が露出してくるような場所といえるのではないだろうか。

 サックスの白石民夫は多摩川の流れを背にして立ち、舞踏の井上みちるは黒い上着を羽織り、白い手袋をした手を、左手、右手、両手と、空に向かって高く掲げながら、一段高く土盛りをしたあたり、雑草が生い茂る草むらのなかに、遠く離れて白石と対峙するように立った。サックスの演奏といっても、阿部薫や柳川芳命の系譜にある白石の演奏は、高周波のサウンドだけを選択して、鳥のような、風のような、悲鳴のような、呼び声のような響きを発するもので、演奏と演奏の間にじゅうぶんな間をとりながら、出発点となった位置から水際まで、ひとつの水際からもうひとつの水際まで、水際から最初に井上が立った土手の草むらのなかへと、河川敷を円を描くように移動しながらパフォーマンスした。かたや、黒い上着を脱ぎ、灰色の(銀色の?)シルク地のワンピースで踊った井上は、白石と対照的に、位置をあまり移動せず、土手のうえと土手の斜面という、自由なダンスをさまたげるような環境で踊った。この動きにくさが意図的な選択だったことは、彼女が赤い下駄を履いていたことでもあきらかだろう。土手の斜面での動きにくさ、下駄に足もとをとられての限られた動きを受け入れての舞踏は、この場所との対話を意味している。

 パフォーマンスの最終局面で、土手の草むらのなかに入った白石を見届けた井上は、周囲にあった大きな石を投げながら、ふたたび土手をよじ登っていき、胸のあたりまで生い茂った雑草を引き抜いては、ダイナミックに四方へと放り投げるアクションをくりかえしてから、力士のように両脚をふんばり、両腕を激しくふりまわし、身体全体にパッションをみなぎらせるクライマックスを作った。その一方で、河川敷に鳴り響く白石のサックスは、環境を驚かすようなものとしては演奏されておらず、見え隠れする響きの間歇的な構成は、クライマックスと呼べるようなものをあらかじめ排除していた。それでも立ち位置の変化によって、井上との距離が縮まることが、デュオが作り出す空間そのものの変容につながり、時間的な物語に相当するような流れを描き出すことになったと思う。風にまぎれて環境に溶けこんでいく白石のサックスの響きと、環境を(日常的な)身体を変容させる契機として受け入れていく井上の舞踏のありかたの相違は、とても興味深いものだった。踊り仲間も含め20人ほどもいただろうか、このパフォーマンスを見ることのできた見物客は、河川敷にインスタレーションされたようなふたりのアクションを、環境を異化するものとして感じただろうか、あるいは環境に溶けこんでいくものとして感じただろうか。

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多摩川是政橋
 


2013年6月22日土曜日

木村 由: 夏至



夏至
木村 由|ちゃぶ台ダンスシリーズ2013
日時: 2013年6月21日(金)
会場: 東京/経堂「ギャラリー街路樹」
(東京都世田谷区経堂2-9-18)
開場: 7:30p.m.,開演: 8:00p.m.
料金: ¥800(飲物付)
出演: 木村 由(dance) 太田久進(music)
問合せ: TEL.03-3303-7256(木村)



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 梅雨の季節、一年のうちもっとも昼の長い一日を選んで、木村由のちゃぶ台ダンス「夏至」の公演がおこなわれる。木村の地元である経堂の「ギャラリー街路樹」を会場に選び、2008年から足かけ6年、「夏至」「冬至」と名づけられたふたつのちゃぶ台ダンスが定期公演されてきた。暦にちなんでつけられた公演タイトルは、逆説的に、それと明言されずにおこなわれるタイトルの拒否と受け取ることもできるだろう。音楽も装置もない、自然光だけをテーマにした無音独舞公演「ひっそりかん」とくらべるとあきらかなように、「夏至」「冬至」に見られるちゃぶ台ダンスの特色は、積極的に記憶の問題を取り扱おうとしている点にあると思われる。もちろん記憶といっても、ダンス以外に、なにがしかの物語が語られるわけではなく、身ぶりが特定のプロットを構成するわけでもない。ちゃぶ台ダンスにおける記憶は、ちゃぶ台そのものが雄弁に語るようなこととしてある。すなわち、衣装であるとか小道具であるとか、ダンサーが舞台で触れることになる物によって感覚的に与えられるのである。逆にいうなら、古びた道具のあれこれがもっている(はずの)記憶を賦活するような魔術的な行為が、ダンスとしておこなわれるといってもいい。あれこれの古びた道具に、また観客に、なにごとかを思い出させること。

 今年の「夏至」も、例年通り、アップライトピアノのある街路樹の奥まった空間を使い、コンクリートの床に低い衝立てを置いて、その前に日に焼けた茣蓙を敷き、そのうえにちゃぶ台を乗せるという簡素なステージが作られていた。ライトは上手の天井に固定され、ダンサーがちゃぶ台のうえに乗ると、動きの具合で壁に大きな影ができる。衣装は、ひじのあたりまで腕まくりした白い長袖シャツに紺のスカート、古くなって破れ目のできた無地の白エプロンにホワイトソックスというモノクロームなものだったが、これは学生時代に立ち食い寿司屋でアルバイトしていた時代のものとのこと。木村にとって、ちゃぶ台とは別の時代の記憶を運ぶものである。いつものように観客席から静かに登場した木村は、奥の壁に点灯している洋風ライトを消し、首に巻いたヨレヨレの手拭いを衝立てにかけると、しばしちゃぶ台の前にたたずんだ。空間を開く儀式のようにも見えるが、それ以上に、背景に退いている道具に触れることで、出来事を見ている観客に、そのものの存在を気づかせる行為といえるだろう。おなじようにして、ダンスの後半に登場する下手側の壁に視線が “触れる行為も、ものに対する観客の感応力を賦活する身ぶりのひとつといえる。

 音響の太田久進は、ちゃぶ台ダンスのテーマというべき、客入れ時に流されるドリーミーな電子音をはじめ、ダンスの流れと意図的なずれを作ったり、これから起こることの気配を感じさせたりする演奏で、公演を立体的に体験させる重要な役割をつとめている。使われるサウンドは、音楽的な意味に汚れていない物音やホワイトノイズが中心となり、ダンスの流れにコメントはしても断ち切ることはしない音響モンタージュによって、木村が積極的に展開している他の即興セッションにはない、ちゃぶ台ダンス独自のスタイルを作りあげている。そのなかでもっとも注目されるのは、木村のパフォーマンスのなかで過去の記憶と現在時が触れあい、ときに混線を引き起こして、錯乱にまでいたるような時間の宙づり状態を作り出すことだろう。あれこれの物語ではなく、ものに触れるというダイレクトな感覚からやってくる即物的記憶に相当するサウンドの創造である。この日の「夏至」では、木村が音の展開を待って聴いてしまう場面が見られた。このようなダンスと音の水平的な関係は、デュオの即興セッションでは問題にならなくても、(垂直方向に展開される)ちゃぶ台ダンスの潜在的可能性とは別のもののように思われる。ちょっとした鍵のまわし方で、これまで開かなかった箱が開くような、あるかなしかの領域に触れられるかどうかが、パフォーマンスの成否をわけるのではないだろうか。

 少しまえ、木村由のダンスにおいては、<二階にあがる>ような動きが、彼女のダンスの全般にわたって重要なモチーフを形成している点を指摘し、ちゃぶ台ダンスとも結びつけながら、それを「ステージの床のような「ここ」とは別の(「あそこ」ではない)位相に身を移したことを意味する身ぶりのこと」と定義したことがある。記憶と深くかかわるちゃぶ台の存在は、いわば宙づりになった陰の領域とでも呼べるようなものをステージ上に出現させ、この世(ちゃぶ台の外)との間に時間的・空間的なずれを作り出して、木村のダンスを亡霊化する感覚装置なのだと断言していいだろう。ダンスの可能性ということも含め、そこは(木村の身体を通して)危機的なものが露出してくる現場である。危機的なもの、危険なもの、過激なもの、そのような感覚によってつかまえられるものの出現には、ちゃぶ台のうえにあってもグラデーションがあるようで、木村の身体がそこでとるいくつかの基本姿勢──すなわち、立つ、座る、寝転ぶ(横向き、仰向き、うつ伏せ)、指や足先や髪など身体の尖端部分と床を接触させる、ちゃぶ台の下の暗がりをのぞきこむ、の順で濃度を増していくように感じられる。それはちょうど、ちゃぶ台の下の暗がりに、境界領域が(猫のように?)うずくまっているかのような印象を与える。





  【関連記事|夏至】
   「木村 由: 夏至」(2012-07-23)
   「木村 由: 冬至」(2012-12-22)

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2013年6月18日火曜日

池上秀夫+笠井晴子@喫茶茶会記8



おどるからだ かなでるからだ
池上秀夫デュオ・シリーズ vol.8 with 笠井晴子
日時: 2013年6月17日(月)
会場: 東京/新宿「喫茶茶会記」
(東京都新宿区大京町2-4 1F)
開場: 7:30p.m.、開演: 8:00p.m.
料金/前売: ¥2,300、当日: ¥2,500(飲物付)
出演: 笠井晴子(dance) 池上秀夫(contrabass)
予約・問合せ: TEL.03-3351-7904(喫茶茶会記)



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 次回の公演をもって、第二期の「おどるからだ かなでるからだ」が終了するこの時点で再確認しておけば、コントラバスの池上秀夫が喫茶茶会記で開催しているこのシリーズは、舞踏からモダンダンス、バレエからベリーダンスというように、出自によって大きく異なる身体トレーニングを経て現在に至っているダンサーを選び、デュオで即興セッションに挑戦していく月例公演である。参加するダンサーたちの幅広さは、即興演奏の領域においても、新たに登場してきたプレイヤーたちと積極的に共演する池上の姿勢に通じている。初共演が多いこともあり、外からは、ダンスを媒介にした即興演奏の全方位的展開というように見えるかもしれないが、ゲストの人選は、出会いの予感を感じさせるものとしてなされている。シリーズ公演をここまで見てきたところでいうと、越境的な要素のあるこの種の公演において決定的なのは、専門性をもち、固有に習得してきた身体技法(あるいは、表現者のアイデンティティを形作るような舞踊ジャンル)の違いよりも、どちらかといえば、どのようなことを即興とみなすか、即興によってなにをしようとしているか、さらには、どのような身体感覚の持ち主なのかというような、個人的な要素のほうであるように思われる。

 コントラバス奏者との即興セッションにのぞむダンサーたちは、自分の表現が、音楽に踊らされるがままにならないようにするため、例外なく、独自の身体技法や動きの方法論、あるいは芸能性などをもちこんで、即興演奏が生み出す音楽の時間とは別に、自律的なダンス空間を創出したり、動きの時間性を確保したりしたのだが、第8回公演に出演した笠井晴子は、それらをすべて捨てることをもって即興としたように思われる。もちろん、池上のこのセッションは、正しい即興のあり方を問おうとするようなものではなく、越境的な空間をしつらえることで見えてくる多彩なダンサーの身体性がキーになっている。パフォーマンスの冒頭、照明をピアノのうえに突き出ている暖色のライトだけにしぼり、ピアノを弾く姿勢で椅子に座った笠井は、視覚が自由にならないことで研ぎすまされる触覚を喚起しながら、暗闇のなかの影の動きとなって、閉じたピアノの蓋に触れるしぐさから世界をまさぐりはじめた。原初的な感覚の世界に降りていこうとするこの出だしは、シンプルにして直接的な身体の提示というべきもので、この共演で笠井が提案した唯一の構成だった。しばらくピアノ相手に暗闇のなかでの演技がつづいたあと、椅子から離れるとともに、会場の照明が入った。

 笠井晴子のダンスは、池上の即興演奏に乗って積極的な反応を返すことはもちろん、さらに激しい動きとともに、思いつくすべてのことを実験的に試すなかから、彼女自身の展開をつかみだしていくものだった。観客席に乱入して、背もたれに腰かけたり、椅子のうえに寝そべったり、椅子のうえに立ち、背伸びをして両手で天井に触るなどしたあと、ピアノ椅子まで戻ってしばしの休憩、その姿勢で身体を海老ぞりにすると、ピアノ椅子の背もたれを、後ろ向きのまま両脚で羽交い締めにし、椅子から立ちあがって共演者に鋭い視線を放ったかと思うと、ピアノに寄りかかって眉毛を抜くような小技をくり出す。そして、どのダンサーもパフォーマンスのなかで挑戦することのひとつで、共演者の身体に直接アプローチするデュエットのダンスがあった。池上の背後にまわりこんだ笠井は、肩と肩をぴったりとくっつけ、池上がこうしたアクションにも応じる相手とわかると、彼の背後を動きながらさまざまに身ぶりを作っていった。セッションの終盤、床のうえに胎児のようにまるまって動きを止めた笠井は、寝たままの姿勢で靴下を脱ぎ、ポニーテールにまとめていた髪をふりほどいて激しく頭を振った。これ以上裸にはなれないという身支度をして、最後のダンスにのぞんだのである。池上の目の前に出て、天井を見あげる姿勢で終幕。

 ときどき休みを入れながら、思いついたことを次々に試していった笠井は、みずからの身体をセンサーにしながら、ほとんど体当たりで、(池上秀夫というコントラバス奏者のいる)喫茶茶会記が、どういう場所であるのかを知っていく過程をダンスにしたといえるだろう。その意味では、公演の導入部を飾った、暗闇のなかでの原初的触覚への下降は、彼女のパフォーマンス全体を貫くものでもあったと思う。初共演となる池上秀夫、初会場となる喫茶茶会記という点を勘案すれば、こうしたダンスが踊られたことは、ほぼ必然的ななりゆきだったかもしれない。この日、彼女のダンスが雄弁に語っていたのは、すべてを肯定したい、世界をまるごと受け入れたいという身体の声であり、観客は、そうしたヴィジョンをもった身体や身ぶりが、まばゆいくらい純粋なものとしてあらわれることを体験した。このことには笠井自身も自覚的なようで、自分の身体と世界との向き合い方を「太陽のダンス」という言葉で呼んでいた。素朴なものから複雑怪奇なものまで、あらわれはダンサーにより千差万別だが、生命的なものに触れるというのは、おそらくダンスの核心部分をなす醍醐味のひとつであろう。笠井と池上の共演は、そのことに気づかせてくれる魅力的なものだった。





  【関連記事|おどるからだ かなでるからだ】
   「池上秀夫+長岡ゆり@喫茶茶会記1」(2012-12-17)
   「池上秀夫+上村なおか@喫茶茶会記2」(2012-12-18)
   「池上秀夫+喜多尾浩代@喫茶茶会記4」(2013-02-19)
   「池上秀夫+木野彩子@喫茶茶会記7」(2013-05-21)

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2013年6月15日土曜日

野村あゆみ+高原朝彦+木村 由



高原朝彦 Solo & Duo
日時: 2013年6月14日(金)
会場: 東京/江古田「フライング・ティーポット」
(東京都練馬区栄町27-7 榎本ビル B1F)
開場: 7:30p.m.、開演: 8:00p.m.
料金: ¥1,500+1drink order
出演: 高原朝彦(10string guitar, recorder)
野村あゆみ(dance) 飛び入り: 木村 由(dance)
問合せ: TEL.03-5999-7971(フライング・ティーポット)



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 ダンスと即興演奏家のセッションでもっとも多いのは、おそらくデュオのフォーマットであろう。そもそも、身体表現において「即興」と呼ばれるものと、音楽においてそう呼ばれるものは、かならずしもおなじことをさしているとは限らないため、出会い頭の驚きとともに、あるいは回数を重ねながらの探究とともに、ふたつの領域の間に横たわる境界線を測量していく作業を欠かすことができない。この境界線は、事前の話合いのなかで明確になるような性格のものではなく、たった一度のパフォーマンスにおける身体の交感や交錯のなかに出現するものなので、とにかくやってみるしかないというようなものになっている。デュオの組合わせは、この境界線をはっきりと見るために、最適なもの(最低限の条件)といえるのではないかと思う。こうした場合の即興演奏は、フリー・インプロヴィゼーションが中心を占めることになる。より正確にいうならば、現代の即興演奏は、雑多な要素の混合物となっているので、そこから純粋な形でフリー・インプロヴィゼーションだけを抽出できるというわけではない(そんなことをすれば、演奏者の固有性そのものを損なってしまう)のだが、フリー・インプロヴィゼーションが歴史的にあつかってきたものを遺産として受け継いでいることは間違いないように思われる。

 あらゆる音楽形式(音楽ジャンル)から抜け出たところでも成立する演奏を、フリー・インプロヴィゼーションが問うていくなかで発見されたもののひとつに、響きを媒介にした演奏者の身体と場の関係性があるように思う。これは現在にいたるまで、美術用語でいうところの「サイトスペシフィック」な試みとしてなされてきているものだ。洞窟のなかとか地下水道など、特別な響きをもたらす環境での演奏が、場所そのものの特異性を聴取可能なものにする。おそらくはこの経験が、ダンスと共演する場合に、大きな力を発揮するのではないかと思われる。それを空間にコミットメントする演奏ということができるだろう。もちろんダンスと即興演奏の共演では、ある種の身体的な交感を通して、共演者との間の境界線を踏み越してしまうような出来事が問題になっているのだが、場との共振というのは、物理的な作用のことではなく、演奏における音楽的な出来事そのもののことなので、デュオにおいては、もうひとりの身体表現者とともに、こうした出来事に接近するということがおこなわれているのではないかと思われる。ダンスが即興的なものに接近する事情は別に考えられなくてはならないが、音楽においては、ある種の必然性が背景にあるといえる。

 10弦ギターの高原朝彦が、新しい演奏活動の拠点を求めて、ダンサーの野村あゆみと共同企画した新シリーズの初回ライヴに、観客としてきていたダンサーの木村由が飛び入り参加した。衣装の準備もなく、普段着のTシャツとジーパン姿だったが、ダンサーふたりに演奏家ひとりという組合わせは、数多い木村の即興セッションでも見ることのできないもので、思いがけなく新鮮なものであった。即興デュオから即興トリオになるというのは、音楽の場合もダンスの場合も、単に数だけの問題ではなく、パフォーマンス空間の構造やテーマが一変することを意味している。トリオ編成では、<ダンサー+演奏家+演奏家>がひとつの方向性としてあるが、これまで予想していなかったもうひとつの可能性を、この日偶然に見ることになった。江古田フライングティーポットの会場照明を落とし、床上に置かれたライトがステージのほぼ中央、演奏する高原をはずしてやや左側の壁を照らすなか、野村は下手の椅子に座って演技をスタート、一方の木村は、音をたてて椅子を引きずりながら上手から登場してくる。ひきずった椅子を途中で倒した木村は、ライトの光のなかでパフォーマンスしてから下手の野村と位置を交換、野村は木村の倒した椅子によりかかりながら床のうえで演技し、そのまま上手奥の玄関口へと歩き去ってゆくというシンプルななりゆきをたどった。

 発見のひとつは、ダンサーがふたりいるときのほうが、ひとりで演奏家に対しているときよりも、ダンサーのそれぞれにおいて、動きの特異性が浮き彫りになってくることだった。それは少し感じ方の角度を変えることで、初めて見ることのできるような特異性であって、たとえば、椅子のような道具の使い方の違いであるとか、舞台上での動線のとりかたの違いなどにあらわれてくるものである。これはおそらく、関係性をあらかじめ固定するような振付のない即興ダンスだからこそ、見えてくるものでもあるのだろう。発見のふたつ目は、ふたつの即興ダンスが、コンタクト・インプロヴィゼーションのような(ときにはアクロバティックにもなる、身体の強度を前面に出した)方法論をとるのではなく、いわばおたがいを照らし出しあいながらおこなう身体の提示になっていたことが、もうひとつの触れあいとして感じられたことである。複数の身体の間には、あなたでもなければ私でもない、明確にラインを引くことのできない曖昧な領域があって、それへの対処のしかたに感覚の特異性があらわれてくる。これもまた、当然のことながら、ふたりのダンサーがいることで、初めて私たちに感覚可能になるものといえるだろう。

 下手にある壁前の椅子のうえでなにかの到来を待った野村あゆみに対して、だらりとさげた左手に椅子を引きずりながら、この場所に侵入してきた木村由は、まさしく(予期せぬ)出来事の到来そのものだった。野村にとっての椅子は、いまだ座る道具という日常性のなかにあるのに対し、木村の椅子は、彼女の「ちゃぶ台ダンス」におけるちゃぶ台がそうであるように、日常性を逸脱するような出来事を起こすための道具、いや出来事そのものと化していた。ふたりのダンサーの交差は、日常性と非日常性がスパークするような、ありえざる領域の交錯/錯乱のようなものを垣間見せたと思う。扇の要にあたる位置に身を置き、ダンサーの交差を見守っていた10弦ギターの高原朝彦は、スピード感のあるいつもの演奏を封印し、弓を多用するサウンド指向の演奏で、あたりの暗闇をぼんやりと照らし出す線香花火のような響きを放ちながら、出会いの緊迫感をいや増しに増していた。15分間の短いパフォーマンスにもかかわらず、それはこれまでにない感覚を開く異色のセッションとなった。ダンスと即興演奏家の共演におけるデュオの重要性はゆるがないだろうが、ここにはまだまだ未開拓の表現領域が豊かに広がっている。そんなことを実感させてくれた強烈な15分間だった。

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2013年6月8日土曜日

田辺知美: 水無月金魚鉢



田辺知美 舞踏公演
水無月金魚鉢
日時: 2013年6月7日(金)
会場: 東京/明大前「キッド・アイラック・アート・ホール」
(東京都世田谷区松原2-43-11)
出演: 田辺知美(舞踏)
照明: ソライロヤ 音響: サエグサユキオ
写真・宣伝美術: GMC
開場: 7:00p.m. 開演: 7:30p.m.
料金: ¥2,000



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 田辺知美は、触れることについて、とてもセンシティヴな感覚をそなえた舞踏家であるように思われる。指先でなにかに触れることはもちろん、足先が触れる、肩が触れる、尻が触れる、背中が触れるというささいなことにも、彼女のなかで、繊細な感覚が解き放たれてくるように見うけられる。ダンサーや舞踏家を名乗るものに、触れることについて意識的でないものなどいないだろうが、田辺は、触れることそのものの界面で、なにごとかを成立させようとしているように思われる。67日(金)に明大前キッドで開催された舞踏シリーズ「水無月金魚鉢」(「金魚鉢」の前に、公演が開催される月の異称をつけるネーミング方法)の最新公演では、世界を触診するための高度なセンサーである指先が、指のつけ根あたりから、両手ともに真赤に染め抜かれていた。それは嬰児殺しのような罪深い犯罪の痕跡のようでもあれば、盟神探湯(くかたち)で熱湯に手をさしこんだ古代の女のようにも、トラウマをもった女がいままさに見ている幻覚のようにも見えた。シンプルな舞踏の構成を参照すれば、血染めにも見えれば、火傷の爛れのようにも見えるこの赤い指は、おそらくなにかしらの物語を描き出すような道具立てとしてではなく、もっとダイレクトに、指の喪失そのものを表明するようなものではなかったかと思う。

 道路に面した会場の壁に、観客席の雛壇が作られているだけで、特別な舞台装置のない会場に入ってきた田辺は、観客が座っている下手側の壁の前まで歩いていき、観客の肩越しに手を壁につけると、そのまま壁に触れながらステージを横断していった。上手側の壁までたどりついたところで、スタッフが会場の扉を閉めると、演技の開始点である下手側の床に正座した。少しずつ姿勢を崩して身体を床のうえに横たえ、頭の向きや、身体の向きを変えるなかで、わずかに両脚をあげたり、それをからませたり、身体を起こしたりするという、これといって目にとまることのない(記号化されていない)動きをつなげていった。演技冒頭、天井から彼女を照らしていたライトは、やがて上手床に転がされたライトへと移っていき、田辺が上手側にある太い柱に背中をつけて立つ場面では、柱の真上から流れおちる瀧のようにダンサーを照らし出し、最後には、立ちあがったあとステージ中央に進み出るダンサーを、前方からのハロゲンライトで迎えた。ステージ中央で前進と後退をくりかえす田辺が、背後の壁までさがっていったところで暗転。構成そのものはとてもシンプルなステージであった。

 何度も身体を起こしかけては、床のうえを、あちらへ、こちらへと転がるように動きまわり、一度も立つことなく、上手の床に置かれたライトの前までいった田辺は、突然、それまでの文脈を外れた身ぶりをした。それは床を這っていた身体が立つきっかけではなく、むしろこの晩の舞踏の本筋を離れたアクションだった。おはじきのような硬いものを手に持った田辺は、カーッカーッという硬質な音をさせながら、半円形の輪を描いて目の前の床を引っかきはじめたのである。その瞬間まで、はっきりとした輪郭をもたず、曖昧な領域を動いていた彼女の手は、ゆっくりと積みあげられてきた動きのすべてを、一気にご破算にするような明確な目的をもって動きはじめた。物音をさせる動作は、床を引っかくだけではとどまらず、彼女はほとんど事務的に立ちあがると、今度は、床上のライトの裏側にあたる上手側の壁をやたらめったらに引っかきはじめた。こちらは彼女の舞踏がこれからたどることになる<立つ>という(このときはまだ未来時にあった)クライマックスを、事前にご破算にするものだった。パフォーマンスのこの部分は、身ぶりの構成であれ「劇的なるもの」であれ、身体の動きから意味を排除するため、あえて身ぶりの形式をはずして演技しているものが、舞踏の進行とともに、今度は、はずすことそのものが意味をもってしまうことを、さらに拒絶する身ぶりなのだろうか。もしそうであるならば、それは意識を食う意識というようなもので、私たちは最初から身体など見ていなかったことになる。

 蓋のない耳が聴くことを拒絶できないように、皮膚をもつ身体は、触れることを拒絶できない。床のうえでつづいた不安定な姿勢は、不安定な姿勢そのものをしたり見せたりしたいためのものではなく、そのような姿勢を支える身体部位の沈黙に、饒舌に語らせるためのものであろう。公演開始直前、会場に入ってきたときにしてみせた壁との接触は、本番の演技にはいってからは、身体のすべてでおこなわれた。横になったまま交差する二本の脚のからみあい、床面との間で刻々と変化していく背中、脇腹、肩、尻の接触面、太いコンクリートの柱を背にして立ちあがるときも、注意は危うげに立つ姿勢そのものにではなく、その背後で起こっている出来事、すなわち、変化をつづけるコンクリートの柱と自分の背中の触れあいかたに集中している。延々とつづけられる意味や形のない動作であるにもかかわらず、そこに緊張感が持続するのは、それが舞踏だからという(観念的な)理由ではなく、触れあう皮膚のうえで、田辺知美が繊細な感覚を解き放っているからに他ならないだろう。見るべきものがない(思いこむ)ころで精神は眠りこむが、私たちは感じつづけるための覚醒を忘れてはならないように思う。田辺がしてみせた中間部分の転調は、間違いなく、そのようにして精神を眠りこませている観客たちを叩き起こすためのものだったに違いない。



  【関連記事|田辺知美】
   「田辺知美+陰猟腐厭@間島秀徳展」(2012-07-08)

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2013年6月6日木曜日

伊津野重美: フォルテピアニシモ Vol.9



伊津野重美: フォルテピアニシモ Vol.9
~ consider yourself a soul ~
日時: 2013年6月5日(水)
会場: 東京/吉祥寺「スター・パインズ・カフェ」
(東京都武蔵野市吉祥寺本町1-20-16 トクタケ・パーキング・ビル B1)
開場: 7:00p.m.,開演: 7:30p.m.
料金/前売: ¥2,500、当日: ¥3,000+order
出演: 伊津野重美(朗読) 森重靖宗(cello)
協力: 真鍋淳子 記録: 田中 流
制作: 赤刎千久子
予約・問合せ: TEL.0422-23-2251(スター・パインズ・カフェ)



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 飛びながら海に見る夢 この星のヒトの行方を 教えてアジサシ


 歌人の伊津野重美は、この数年、チェロの森重靖宗をゲストに迎えた朗読会「フォルテピアニシモ」を、年に一度、文化の日に開催しているが、余裕があれば、おなじ年の上半期にもうひとつ朗読会を開くことがある。「consider yourself a soul」とタイトルされた今回の朗読会は、そうした上半期のソロ公演である。前回の「Rebirth」公演では、椅子を使った舞台装置が効果をあげていたが、今回は、透明の、あるいは半透明のビニール傘が、天井からぶらさがったり、観客席で傘をひらいたりして、舞台装置をつとめていた。川のように蛇行して曲線を描く会場照明が、ステージ奥から、中央が広く開けられた観客席を貫いている。公演開始とともに蛇行する光の帯が消えると、舞台中央にスポットがあたり、裸足の歌人がそのなかに立つ。三部構成の朗読会は、毎回、伊津野自身が時間をかけて練りあげるもので、何度も読みかえされる詩と新たな作品を組みあわせ、声によって言葉に新たな生命を吹きこんでいく。森重のチェロ演奏も、ここでは伊津野の声にこたえるひとつの声としてあり、いくつもの言葉、いくつもの声の交錯のなかで、「フォルテピアニシモ」ならではの詩的ドラマツルギーが形作られていく。

 歌集『紙ピアノ』(2006年、風媒社)所収の短歌にはじまり、「ちいさな炎」や「れいこ」といった詩、あるいは書き下ろしの断章「シアン」など、自作品の朗読を中心に構成された第一部には、ほぼおなじ音の高さを保つ、ひとりごとのような、祈りのような、歌うような声が登場する。私がいまも私であることを確認しつづけるための声。伊津野の短歌や詩がそうであるように、声はひとつの文体をもち、同時に(自身の身体に触れるようにして)みずからに語りかける内省的なものとなっている。この声は、伊津野重美が誰だか知らなくても、私たちが彼女のなかで起こっている出来事に接近したり、参加したりすることを可能にするものといえるだろう。かたや、森重靖宗が加わる第二部では、宮沢賢治、魯迅、尹東柱、山村暮鳥、伊東静雄、辺見庸の作品がメドレーで朗読されるが、ここでは詩のメッセージ性を外に向かって解き放つ別の声が登場する。他者(の言葉)をケアする声ともいえるだろうか。前回の公演につづいて、辺見庸の「死者にことばをあてがえ」が朗読されたが、3.11原発震災という未曾有の出来事にたちむかう詩の連帯(表明)として、特筆すべきものだろう。休憩なしでつづけられた第三部は、単発の作品を味わうというより、「フォルテピアニシモ」の大団円として置かれたもののようだった。

 ヨーロッパツアーから戻って一週間という森重靖宗の演奏は、耳に注意を集中しないと聴こえないほどの小さな響きからスタートした。しばらくして伊津野の声を迎え入れると、朗読の流れに沿って演奏を構成しながら、途中でメロディアスになる展開を入れたりした。特に、辺見庸の「死者にことばをあてがえ」では、チェロのテールピース部分を弓奏する特殊奏法で超低音を出し、見せ場を作った。第二部の最後には、宮沢賢治の「永訣の朝」「宗谷挽歌」(部分)などが朗読されたが、ダンスでもするようにリズミカルに身体をはずませ強度をあげた伊津野の声は、深いチェロの響きと感情の交感をおこなった。ふたりのこの場面は、何度見ても魅力的だ。セッションの前半、微細なサウンドを多用した森重のチェロ演奏は、伊津野から少し離れた場所で、小さな焚き火がチロチロと燃えているような感じで、朗読を伴奏する役割を大きく超えて、即興演奏が存在を奏でるための音楽であることを雄弁に物語っていた。こんなふうにふたつの孤独を刻むような前半の展開が、後半に登場した感情の響かせあいを、いっそう際立たせたと思う。朗読を終えた伊津野は、チェロ奏者を残していったん退場、しばらく森重がソロ演奏を聴かせた。

 今回の公演で興味深かったのは、第一部で朗読された、書き下ろしの断章「シアン」である。もっと正確にいうなら、「シアン」のなかに登場するふたつの声である。そのひとつは作者と等身大の声であり、もうひとつは、いったいどこからやってくるのか、作者と等身大の声に、こうしてくださいああしてくださいと、一方的な指令を出す出所不明の声である。断章「シアン」は、この非対称のふたつの声からなり、声はテクストの構造をトレースするものになっている。にぎやかな場所に人々といる主人公にやってくる、過去の時間からの誘いのような声が、断章の物語を構成していくが、謎の声が出す指令は、誘惑的なものでも脅迫的なものでもなく、あえていうなら事務的な響きをもって発せられていた。たとえば、宮沢賢治の『注文の多い料理店』に出てくる、硝子戸や扉に書かれた文字のような。伊津野はその文字を、ただ機械的に読んでいるだけというふうに聞こえる。立て看板に書かれた宛先のない指令など、従っても従わなくてもどちらでもいいものだろう。それにもかかわらず、主人公は不思議な声の指令に従って地下へと降りていき、ひとりの子どもと出会うことになる。声が感情を持つようには、文字は感情を持つことがない。そうでありながら、私たちは文字をたどってある感情に到達する。もしかするとこれは、文学の秘密というべきものなのかもしれない。



文中に掲載した写真は、すべて専属カメラマン     
田中流さんのものです。ありがとうございました。   


  【関連記事|フォルテピアニシモ】
   「伊津野重美:フォルテピアニシモ Vol.6」(2011-10-31)
   「伊津野重美:フォルテピアニシモ Vol.7」(2011-11-08)
   「伊津野重美: フォルテピアニシモ Vol.8 Rebirth」(2012-12-31)

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2013年6月1日土曜日

照内央晴+木村 由: 照リ極マレバ木ヨリコボルル vol.2



照内央晴木村 由 DUO
照リ極マレバ木ヨリコボルル vol.2
日時: 2013年5月31日(金)
会場: 東京/荻窪「クレモニアホール」
(東京都杉並区荻窪5-22-7)
開場: 7:30p.m.,開演: 7:45p.m.
料金: ¥2,000
出演: 照内央晴(piano) 木村 由(dance)
会場問合せ: TEL. 03-3392-1077(クレモニアホール)



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 通算すると今回が五度目となるピアニスト照内央晴とダンサー木村由の共演のなかで、グランドピアノがある荻窪クレモニアホールを会場にしたデュオ公演「照リ極マレバ木ヨリコボルル」は、じゅうぶんな仕込み時間がとれないながらも、おたがいの持ち味をフルに発揮できる環境のなかで全力をつくすガチンコ勝負に最適という点で、このデュオにとって理想的なものとなっている。昨年暮れにおこなわれた前回の公演では、細長いクレモニアホールを縦に使って、奥の壁前にピアノを設置し、観客席のうしろに立ち見コーナーが作れるくらいの余裕をもって折り畳み椅子が並べられたため、肝心のパフォーマンス空間が、ピアノの周囲に押しこめられたような感じになったのだが、ホールを横に使った今回は、ピアノの前後にスペースが大きく開くことで、自由度がより大きくなっただけでなく、ピアノを大きく取りかこんで半円形に並べられた一列の観客席は、椅子どうしが密集していないところから、ステージと観客席の間に見えない壁を作ってしまう劇場の空間構成を脱して、見るものと見られるものがひとつの場を共有するなかの緊張感を生むことになった。集団性に守られて、別室の暗がりからパフォーマンスをのぞくという一方通行の視線ではなく、観客の身体そのものがさらされることになることからくる緊張感。

 演奏家とダンサーが一対一で対するように、パフォーマーと観客も一対一で対するという感覚が生まれたのは、会場を横に使うことで、距離感や皮膚感が変化したからだと思うが、そのことの意味は大きく、前回の公演で前面に出ていた、音楽とダンスがふたつの焦点を作るパフォーマンスの楕円構造を、観客を含め、すべてを身体的な関係に結びなおすことで打ち破ることになったのではないかと思う。比喩としてではなく、この場所では、ピアニストもまたひとりの身体表現者であることを、観客はじゅうぶんに感じ取ることができたように思う。前回の公演では、上手・下手それぞれの床面に置かれた投光器が、ピアノやピアニストの影を壁に投げかけ、強い光のなかに浮かびあがる木村のダンスを、ドイツ表現主義映画から抜け出してきたノスフェラトゥのように見せていたのであるが、今回も、照明コンセプトは前回を踏襲して、下手側の床面に置かれた投光器が、長くのびたピアノの影を壁に投影するものだった。投光器からもっとも遠い上手側の壁を、時間的な出発点(空間的な入口)とし、投光器の光源そのもの、あるいは投光器の前あたりを時間的な到着点(空間的な出口)にするというのは、木村由がもっとも慣れ親しんでいる空間構成である。

 共演回数を重ねるにしたがい、相方の顔が見えてきたのだろう、変化はデュオの演奏態度にもあらわれ、この日の公演では、おたがいが積極的にパフォーマンスをしかけていくやり方が成立するようになっていた。木村の衣装は、丈の長い濃紺の冬物ワンピース、白いソックスに黒いパンプスというモノクロームのいでたちに、赤い縁飾りのついたカンカン帽というあざやかなアクセントをつけたものだったが、木村はこの帽子を演奏中の照内にかぶせ、しばらくあとで、今度は照内が木村にかぶせ返すというやりとりをした。これは相方のしていることを邪魔することなくこちらのなにかを引き渡すという、この晩のデュオの身体的な交感を象徴していたと思う。似たようなことは長沢哲=木村由の二度目の即興セッションでも見られたが、こちらのデュオの場合、身体的交感はもっと遊戯的なものに思われる。たとえば、床に這いつくばって手にした帽子を(手裏剣のように)とばす、二度にわたりピアノの下の床をクロスした方向で這う、椅子のうえで伸びをして長押に触る、照内の背後から肩に触れるというような木村のダンスは、これまで見たことのなかったもので、いずれも思い切ったことのできる照内とのデュオならではの遊戯牲の発露というべきものになっていた。

 なかでも印象深かったのは、ステージ中央からピアノ下の床を這って壁側に出た木村が、ピアノ椅子と背中あわせにつけられたもうひとつの椅子につかまり、ゆっくりとした動作でピアニストをまわりこむと、演奏中の照内に背後から亡霊のように迫り、右手を伸ばしてその肩に触れるという場面だった。ピアノ椅子の背後に開けた領域は、床に置かれた投光器のさらに外側にあたり、いってみれば楽屋口、階段下のようなもの、もっと直接的には、柳の下にあたる敷居的空間となっており、亡霊的なるものが出現する中間領域なのであった。そこはデュオの初共演の際、やはり照内の背後に椅子が置かれた記憶を喚起する、時間的な過去の領域にもなっていた。そこに亡霊が出現したわけである。照内の肩に触れたあとの木村は、そのままピアノ椅子の端に腰かけ、ピアニストに肩をもたせかけるようにして椅子からずり落ちると、猛烈な勢いでピアノを弾きはじめた照内を残していったんステージ裾に消えていったが、最後に再登場して、パフォーマンスの開始地点にまで戻ると、そこでひと舞いしてこの晩の公演を閉じた。積極的なしかけあいが見られたこの晩のデュオ演奏を、最後の瞬間まで徹底するみごとなクロージングだったと思う。


※「照リ極マレバ木ヨリコボルル」という公演タイトルは   
北原白秋の詩「薔薇二曲」からとられた。  




  【関連記事|照内央晴+木村 由】
   「木村 由+照内央晴@高円寺ペンギンハウス」(2012-08-26)
   「照内央晴+木村 由: 照リ極マレバ木ヨリコボルル」(2012-12-26)
   「照内央晴+木村 由: コマの足りないジグソーパズル」(2013-04-21)

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