2014年3月25日火曜日

亞弥+森重靖宗@楽道庵 月曜ws


楽道庵 月曜ws
日時: 2014年3月24日(月)
会場: 東京/神田「楽道庵」
(東京都千代田区神田司町2-16)
【ストレッチ&体操】
時間: 7:00p.m. - 8:10p.m.
【身体表現の稽古】
時間: 8:30p.m. - 10:00p.m.
料金: 各¥1,000/両方参加の場合: ¥1,500
進行: 亞弥
ゲスト講師: 森重靖宗(cello)
予約・問合せ: snackpunk@gmail.com



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 墨痕たくましく「楽道庵」(らくどうあん)と揮毫された大きな看板が扉の左脇にかかる玄関を入ると、テーブルに置かれたカタツムリのライトが、小さな靴脱ぎ場を薄暗く照らし出している。外履きからスリッパにはきかえ、すぐ目の前にのびる細い階段を登った二階が、ダンサーの(田中)亞弥が進行役を務め、毎週月曜日に開催される身体ワークショップの会場だ。ダンスはもちろんのこと、広く身体を使った表現の稽古にあてられる第二部では、他のダンサーや演奏家を講師に招いて、個性的なワークの方法を体験してみたり、ぶっつけ本番の即興セッションをしてみる実践的な場がもうけられている。特徴的なのは、参加者のサイドから、演奏や照明に注文が出せる点だろう。これらもすべて、実践における気づきの要素といえるものだ。参加者は、独自に表現活動の場を持っている人たちが多い。演奏家と即興でおこなうセッションに関しては、ジャズのジャムセッションがそうであるように、半分は、気づきのきっかけとなる体験学習であるとしても、あとの半分は、本番と変わらないステージそのままという性格をあわせもっている。実際にやってみなければたしかなことはわからないという、身体表現の特徴といえるだろうか。

 そのとき呼ばれたゲストの意向もあるだろうが、ワークの段取りはおおむね決まっていて、最初のセッションは、途中休憩のないひとつらなりの演奏のなかに、参加者がひとりずつ交代で入っていく形をとる。そのとき、先行者と後行者が重なり、少しだけデュエットになる時間帯がある。身体を使いながら、先行者がどのように後行者にバトンを渡すのか、あるいは逆に、後行者がどのように先行者からバトンをもらうのかについても、その場での即興的なアイディアや判断が試されることになり、見たところ、これは少し高度なワークの課題となっているようである。かたや、二番目のセッションは、演奏者との相対でおこなわれ、一回のセッションごとに休憩が入り、照明や演奏に対する参加者の要望があれば、述べていいことになっている。これまでに何度か招かれたゲスト奏者のほうから、アイディアが出されることもあるようだ。会場使用の時間制限があるので、参加人数の多いときは、一回あたりのセッションが短くなってしまうが、少ない場合には、ひとつの作品を構成するのにじゅうぶんな時間を確保できる。チェロの森重靖宗を迎えた日は、進行役の亞弥を加えて女性三人の参加者だったため、各自に20分ずつの持ち時間が割りあてられた。

 この日、第二部でおこなわれた亞弥のパフォーマンスは、「作品」と呼ぶにふさわしい内容を備えていた。参加者以外に見学者(観客)のいないワークにおいても、身体表現を身体表現たらしめる一回性の出来事は起こりうる。というよりもむしろ、出来事はいつどこで起こるかわからない。楽道庵の階段口にある柱を背中にして座ったチェロ奏者の目の先、壁際に横になった亞弥は、惚けたように口を開け、全身を脱力した。演奏がスタートすると、いったん身体を胎児のようにまるめていき、時間を使って身体の中心にエネルギーを凝集すると、今度は、ゆっくりと手足を開き、開いた手足を、まるで生長する植物の蔓のように天井に向かってのばしていくことで、身体に充満したエネルギーを周囲へと解放していく。力を入れて強く拳を握ってから、大空に向かって五本の指を全開するようなベーシックな動き。手足の伸びきったところで、天井からの照明が足もとからのライトに切り替わると、亞弥は両立て膝をした姿勢で床に座り、明かりがまぶしいという具合に、両手で顔をおおった。いつのまにか胎児が子どもに変身した印象なのだが、そうしたイメージを別にすると、ヨガ的な動きの連鎖も加味されているように感じた。

 ワークのなかで出来事が起こるとき、そこにいる演奏家の存在もまた、欠くべからざるものであることが明白になる。いうまでもなく、演奏家たちは、パフォーマンスの演出役として招かれるわけではない。特に、共演者の存在に強く働きかける即興演奏は、ダンスする身体が環境にみずからを開くとき、深々とした感情の交換をおこなうことになる。過去の共演から見ても、亞弥とはもともと相性がいいように思われる森重であるが、この晩も、かすかに弦に触れる触覚的なノイズを中心にした催眠的な演奏を聴かせ、亞弥のパフォーマンスを包む楽道庵の暗闇を、さらに奥深いものにしていた。横になった床の位置をまったく動かずに演技した亞弥だったが、細かく変化していく微細なノイズで聴き手をさまざまに触発するチェロの響きによって、広大な空間のなかに解き放たれていたように感じられた。サウンドからサウンドへと経めぐっていく終わりのないチェロの旅、起承転結のような堅固な構成をもたない森重の演奏にくらべ、闇からはじまって闇に戻っていった照明の転換は、生きもののベーシックな動きを扱う亞弥のダンスに、物語的な色彩を与えた。すべてがまるであつらえたように起こる。これが出来事の同時多発性というものなのだろう。

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2014年3月12日水曜日

おちょこ+木村由@イマココニイルコト


イマココニイルコト
日時: 2014年3月11日(火)
会場: 東京/阿佐ヶ谷「Yellow Vision」
(東京都杉並区阿佐ヶ谷北2-2-2 阿佐谷北2丁目ビルB1)
開場: 7:00p.m.、開演: 7:30p.m.
料金: ¥1,500+drink order
出演: 第一部:愛染恭介(guitar, voice)
第二部:おちょこ(voice)+木村由(dance)
第三部:国分寺エクスペリエンス
おちょこ(voice)、ゆきを(guitar, chorus)
新海高広(el-bass)、清水達生(drums)
ゲスト:森順治(sax)、今井蒼泉(華道家・龍生派)
予約・問合せ: TEL.03-6794-8814(Yellow Vision)


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 今年で結成26年目を迎えるロックバンド国分寺エクスペリエンス(以下「エクペリ」と略称)が中心となり、3.11三周年の日に特別プログラムを組むイヴェント「イマココニイルコト」が、阿佐ヶ谷のイエローヴィジョンで開催された。愛染恭介のギター弾き語りや、ギタリストゆきをとは旧知の仲というサックスの森順治をゲストに迎えたエクペリの演奏があり、その冒頭では、メンバーがインスト演奏するなか、華道家の今井蒼泉(龍生派)が生け花パフォーマンスを披露した。企画段階で、打楽器の長沢哲とダンサーの木村由による「風の行方 砂の囁き」コンビにもライヴへの参加が打診されたが、残念ながら実現にいたらず、そのかわり、即興をするようになって2年というエクペリの歌手おちょこと木村由が初共演する好カードが組まれた。即興セッションということをおいても、ダンスと声の組合わせは、器楽演奏とは違い、声が言葉に関わることなどから、ダンスがイメージや物語性に引きずられやすいこともあり、むずかしいとされている(ようである)。その一方で、菊地びよの最近の公演などに見られるように、みずから声を出しながら、あるいは共演者の声とともに切り開いていく身体は、ダンスにおいても未開拓の領域となっているように思われる。

 (私が見たかぎりでの)木村由の活動に即してみると、小唄という伝統芸能の世界からきた柳家小春との共演、本田ヨシ子/イツロウのコンビとシリーズ化している「絶光OTEMOYAN」でのパフォーマンス、河崎純とのセッション(2013926日、音や金時)で出会った徳久ウィリアムというように、これまでにも(即興)ヴォイスとの共演はいくつかおこなわれている。それらはいずれも、歌と演奏、朗読と演奏のような安定した関係性のなかでのダンスではなく、即興ダンスが声と身体の間にどんな橋を架けられるのかという問いかけを、暗に前提とするようなものだった。とはいえ、木村由のダンスは、ヴォイスだからといって特別なことをするわけではなく、声そのものというより、むしろそうした声を支えている身体のありように対して、あるいは、声が描き出す固有の音楽世界の広がりに対して、踊りをぶつけているように思われる。もちろん声(の表現)は、言葉の要素をおくとしても、器楽演奏以上に身体と直結したサウンドとしてあり、そうであるがゆえに、演奏者にとっても、また聴き手にとっても、客観的に聴くことのできないたくさんの領域を抱えている。この意味では、本田ヨシ子やおちょこが使用しているエフェクター群は、そうした声をいったんに出すことで操作可能なものにする(客観化する)ための装置といえるかもしれない。

 おちょこの即興ヴォイスは、巻上公一であれフィル・ミントンであれ、すでによく知られている演奏スタイルのヴァリエーションとしてあるものではなく、まったくオリジナルに、身体の奥深くにマグマ溜まりのように滞留している大きなエネルギーを解き放つため、深みへ、さらなる深みへと、釣り糸のように声を垂らしていく作業のように思える。その意味では、歌手としてオリジナル曲を歌っているバンド活動とは、まったく異なる声の使い方といえるだろう。木村由との30分弱のパフォーマンスでは、エフェクター類を使用して声を異物化する方向に進み、ギター弾き語りとパワフルなロックというプログラムのなかで、異次元体験とでもいうべき非日常の時間/空間を切り開いてみせた。細長いオレンジ色の仮面をかぶり、最初の立ち位置をほとんど動かず、ひとつところでの立ち座りをくりかえして踊った木村由。かたや、ステージ下手からダンスを凝視しながら、声やサウンドを厳選して演奏したおちょこは、即興のソロ・パフォーマンスだとか、ギターの加藤崇之や、コントラバスのカイドーユタカとのデュオなどでは聴けない身体的な深みから音を引き出していた。金属ボウルを指ではじいて音を出すいつもの演奏も、この晩は、まるで宗教儀式を司る鉦のように響いた。

 立ち位置の移動がないダンスは、いうまでもなく、ステージがせまいという場所の制約を逆手にとったものである。オレンジの仮面をかぶった木村のアブストラクトな動きが、深い身体の井戸から水を汲みあげてくるようなおちょこのヴォイスと、対照的なあらわれをしていたことは事実であるが、木村のトレードマークになっている「ちゃぶ台ダンス」にも見られるように、ダンスの上下動が、結果的に、(身体への)下降の感覚をもたらすという点では、ふたりの出会いが可能にする世界に沿うようなパフォーマンスになっていたといえる。このことは、オレンジの仮面をつけたこと、あるいは、両手で仮面をはさみ、身体を泳ぐようにねじ曲げてムンクの「叫び」を叫んだ印象的な場面以上に、ダンスの骨格を支える大きな要素だったと思う。彼女の即興セッションのなかでは、天井から照らす一本のスポットの下で踊った、チェロの森重靖宗との初共演(2013628日、喫茶茶会記)を思い起こさせるものだった。試みのセッションだったにも関わらず、この日のふたりは、森重と共演したときより、さらに深い場所にまで下降していった。3.11の日がそうさせたのか、おちょこのヴォイスがそうさせたのか、木村の探究がさらに深まったことの証しなのか、はたまた女の決闘がもたらす特別な要素があったのか、いまはよくわからない。活動の継続性のなかで確認していく他はないだろう。



【次回】木村 由(dance)+ おちょこ(voice)  
2014年4月26日(土)日野「Soul K」  
※他に、I GUESS、ジェロニMOND、フィードバックオン、の3組が出演  

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2014年3月10日月曜日

細田麻央の人形ぶり@土方巽・生誕祭


土方巽・生誕祭
ラッタ舞踏学院×ヴェクトル美人派
日時: 2013年3月9日(日)
会場: 東京/明大前「キッド・アイラック・アート・ホール」
(東京都世田谷区松原2-43-11)
開場: 6:00p.m.、開演: 6:30p.m.
料金/予約: ¥2,500、当日: ¥3,000
出演: 第一部: ラッタ舞踏学院「春・ズンズンズン」
Novko
いとうまく(guitar)Inner Trance Organ
鳥賀陽弘道(bass)、磯部智宏(percussion)
第二部: Clean, Clear&Cool-Concert Show
Trance-Romance(ヴェクトル美人派)
成瀬信彦(舞踏歌)、“オブジェンヌ” 細田麻央(dance)
協力: 奥山 孜
音楽: 早川善信(hyper-improvisation)
照明: 早川誠司
予約・問合せ: TEL.03-3322-5564(キッドアイラック)



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 39日(日)は、土方巽の誕生日だという。明大前キッドアイラックアートホールでは、<ラッタ舞踏学院>と<ヴェクトル美人派>が、それぞれのパフォーマンスをわけあう「土方巽・生誕祭」が開催された。公演の第二部で、<ヴェクトル美人派>の作品「Trance-Romance」に出演した細田麻央は、「オブジェンヌ」(女性の形をしたオブジェ)の役どころで人形ぶりのダンスをおこなった。第一部が終了したあとの休憩時間から、白いヴェールをかけられた状態で、荷物のように客席に置かれたオブジェンヌは、開演とともに黒子に担がれ、ステージ中央へと運ばれる。黒子が階下の楽屋に通じる奈落の蓋をあげると、そこから悪魔にも魔術師にも見える全身黒づくめの衣装に身を包んだ成瀬信彦が登場。細田の周囲を回りつづけながら、長髪をかきあげ、笠井叡が公演のなかでしてみせるような饒舌さと扇動的な口調で、「舞踏歌」と名づけた即興的な語りをし、ときおりヴェールのうえから細田の頭に手をかざす。魔術師の呪いか、作品に生命を与えたいと願う芸術家の欲望か、やがてオブジェンヌはぎくしゃくと動きだし、みずから白いヴェールをはねのけて、人ならぬ機械的な動きを意味もなく連ねていく。これがピュグマリオン神話を下敷きにした作品であることは、いうまでもない。

 「Trance-Romance」公演の核になっているのは、もちろんオブジェを人称化する細田麻央の人形ぶりである。しかし、ここで踊られたオブジェンヌの人形ぶりは、ピュグマリオン神話をそのままなぞるようなものではなかった。人形から人間へという一方通行の物語として整序されたものではなく、つねに人形と人間の間にある薄暗闇の領域──物質と身体の境界とでもいうべきもの──をさまよいつづけるいまわしい存在として出現したように思われる。すなわち、用意されたのは、見るものを安心させるハッピーエンドの物語ではなく、ゾンビとして蘇った最愛のものを愛せるのかといった、こたえることのできないショッキングな問いの提示だったといえるだろう。現代的であり、悪夢的であるような、終わりのない物語。ピュグマリオン神話との間にある相違は、意図的なものというより、おそらくはこうした身体観の変質によってもたらされたものだろう。喜びも悲しみもなく、行為の意味も持たずに、ただ不気味なものとして出現するオブジェンヌの動き。先達の魂を神降ろしする「土方巽・生誕祭」の儀式に臨み、ピュグマリオン神話を宙づりにする身体を形象することで、<ヴェクトル美人派>はなにを示そうとしたのだろうか。

 人形ぶりについて触れておくべき点は、それが写真に写らないということであろう。マリオネットなりロボットなり、イメージの源泉を映像にとどめることはできても、ストップ&ゴーで構成されるぎくしゃくとした動きそのものを、写真から想像したり再構成したりすることは不可能である。もちろん、人形ぶりが写真に写らないのは、ストップ&ゴーする機械的な動きの配分を、カメラがすべてストップモーションしてしまう写真の特性によるものだが、細田麻央が踊ったオブジェンヌのダンスにおいてそのことが致命的なのは、人形と人間の境界線上を千鳥足で往来するとき、彼女がときどきの瞬間におこなう人形ぶりの選択が、出来事の核心になっていたからである。その選択の微妙さを、ストップモーションが「均質化」してしまうことで、踊りそのものも見えなくなってしまう。ある踊りのあるシークエンスに、部分的に人形ぶりを使うというケースならば、そこでの人形ぶりの採用を示せばいいということもあるだろうが、ここでは採用されたいくつかの人形ぶりの違いを違いとして、映像のなかに刻印できなくては話にならない。瞬間瞬間で、動きの意味を切断していき、ひとまとまりの長いシークエンスを描き出さない人形ぶりは、写真に残らない特異なダンスを構成する。

 細田が演じるオブジェンヌの動きは、動きが描き出す(はずの)意味を、次々に切断していくことで構成されていく。一般的な比較とはいえないが、即興演奏でいうなら、故デレク・ベイリーの演奏スタイルを引きあいに出すことができるだろう。たとえば操り人形のように、手足の動きの支点を身体の外側に置くこと、突然、糸が切れたように身体全体を沈めること、あるいは浄瑠璃人形のように、首を棒につけて胸のあたりから(誰かが)回すように回すこと、あるいはロボットのように、胸のあたりに動力を置くイメージで動くこと、さらには人間としか思えないようなスムーズでやさしい動きをしてみせること。オブジェンヌの動きは、こうした複数の人形ぶりからなりたっている。複数の人形ぶりは、ときおり挿入される人間的な動作からも、意味を剥奪してしまう。長いつけ爪をした成瀬の手も、細田の頭のうえで、ときに操り人形師の手を連想させる動きをしたが、これはふたりの登場人物の間に意味を発生させてしまう点で、逆効果ではなかったかと思う。盲目的なゾンビの食欲、孤独なフランケンシュタインの苦悩、労働するロボットの従順さ、そうした人形たちの感情からも遠ざかって、オブジェンヌは草食系アンドロイドのような身体を身にまとっていた。

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