2025年3月31日月曜日

自己処罰・到来する言語・少女群──UNIca/坂田有妃子『ANTIPIOL アンティピオル』@シアターバビロンの流れのほとりにて

 


UNIca

ANTIPIOL アンティピオル

王子神谷 シアターバビロンの流れのほとりにて



アンティピオルさんのテーマ


ママの 林檎が 食べたい

手が 猫のように 見える

それは 前触れ

もうじき アンテイピオルさんが やってくる


Je veux manger la pomme de maman

Tes mains ressemblent à celles d'un chat

C'est un signe avant-coureur

M.Antipiol viendra bientot



 今回の公演タイトル「Antipiol(アンティピオル)」は、『分裂病の少女の手記』の本のなかで実際に病院で腫物に使われていた軟膏の名前。少女は精神疾患で入院中に聞こえた幻聴の声をアンティピオルさんと呼ぶ。嘲笑し命令する声のアンティピオルとの闘い。彼女だけでなく誰でも心の中にある自分でもわからない感情、押さえつけられた思い、トラウマなどが何かのきっかけでアンティピオルのように現れるものだと思います。 


坂田有妃子(UNIca主宰)



出演・振付: 上田 創、古茂田梨乃、斎木穂乃香、

鄭 亜美、平田理恵子、坂田有妃子(演出・構成)

演奏: Miya(modular flute)、池田拓実(computer、他)

アフタトーク: 佐々木誠(28日)

藤本俊行、侘美秀俊(29日マチネ)


日時:2025年3月28日開演: 19:00

29日(土)開演: 14:00開演: 18:00

30日(日)開演: 14:00

開場時間は開演の30分前

会場: シアターバビロンの流れのほとりにて

(東京都北区豊島7-26-19)

料金一般前売: ¥4,200、当日: ¥4,500

U29前売: ¥3,500、当日: ¥3,800

高校生以下前売: ¥1,000、当日: ¥1,300

シニア割・障害者割/前売: ¥4,000、当日: ¥4,000

リピーター割: ¥4,000

UNIca応援チケット: ¥6,000

来られないけど応援チケット: ¥2,000

(後日映像配信をご覧いただけます。)

音楽・音響: 侘美秀俊

照明: 藤本俊行(Kinsei R&D)

衣装: るう(Rocca Works)

舞台監督: 原田拓巳

記録撮影: 松本和幸

記録映像: 粟屋武志

宣伝美術: 長谷川友紀

WEB: 中島侑輝

制作: 滝沢優子

舞台協力: 武田ゆり子

美術協力: サカタアキコ

協力: セキネトモコ、山村佑理、

Sophia Ellen Manami Crouzet

主催: UNIca

助成: 公益財団法人 東京都歴史文化財団

アーツカウンシル東京[東京都芸術文化創造発進助成]



 ダンスアート制作団体「UNIca」のネーミングは、スペイン語で「唯一の、奇妙な、とっておきの」という意味に由来するというが、訳語の選択は、公演ごと作品ごとにリサーチをおこなうクリエーションスタイルや作品傾向についていったものらしく、言葉は同時に、「ただ一つの、ただひとりの、独自の、特有な」というややニュアンスを異にする意味も持ちあわせている。こちらは共通のカツラをかぶり共通の衣装を身につけた数人の女性ダンサーが、ミニマリズムをベースにした振付で一体となって踊る/動くという少女群舞のイメージに直結する訳語になるだろう。UNIcaの群舞は、個々の身体がユニゾンの動きによって連結されるのではなく、ソロのありようを排除して、最初から存在のワンネスを際立たせながらアメーバのように瞬間ごとに変異していく生物体として踊られている。すなわち、群れる少女は性的存在としてではなく、細胞レベルにまで下降した生命現象の位相で蠢くものを視覚化/感覚化する媒体としてとらえられ、それが作品の特異性をも構成しているのである。そのような群舞が、今回の作品『アンティピオル』では、主人公のルネにとって声はすれども姿は見えずという「アンティピオル」の幻聴を舞台に登場させるにあたり、上田 創による男性的実体──上田の演技は、サイレント映画の吸血鬼ノスフェラトゥを連想させるもの(人形めいた悪魔)だった──が与えられることで、ルネの統合失調症という出来事に、男女対立という性的レベルを持ちこむことになった。

 作品のインスピレーション源となったM.セシュエー著『分裂病の少女の手記』(1955年11月、みすず書房)には、すぐれてユダヤ・キリスト教的な不全感からくる自己処罰の感情に責められるルネは登場しても、性的な衝動に悩まされるルネは登場していない。宗教的な原罪感情については、ルネ自身が聖書のエピソードを引用していることとか、彼女の経歴を記した「付録」のページに、「十一歳の頃、宗教に熱心になり、毎朝五時に起きてミサに出た。また墓地を熱心に見回りお墓の掃除をした。彼女は死者に話しかけ、墓の前の一部を、放置してあるお墓に供えるのを許してくださいといい、死者が承諾する声を聞いたように思った。」とあるなど、キリスト教圏特有の精神構造が背景をなしていることがわかる。この問題は、放っておけばほぼ自動的に学校組織や医療組織(精神病院)の問題に敷衍していくが、ダンス批評を大幅に逸脱してしまうことになるのでいまは控えることにしたい。上記の引用文でも「声」に触れられているが、絶えることなく命令してくる「組織」の長官「アンティピオル」も含め、物語に登場する精神分析医のママ、小さな猿、お人形のエゼキエルなど様々なキャラクターは、現実を構成する意味を失う一方、理由もなしに到来する裸の言語とともに経験されている。『分裂病の少女の手記』は、ルネ自身による物語とセシュエーによる精神分析のテキストから構成されているのだが、あえて言語体験を軸にしていえば、第二部の「解釈」の章は、統合失調症の「理由もなく」を前にして、フロイトをはじめとする精神分析の言語が(出来事に遅れて)セシュエーに到来してくる章(セシュエーの物語)と考えることもできるだろう。彼女が構成した著書において、物語の終わりは症状の治癒にではなく、出来事の再言語化に設定されているのである。

 少女たちの群舞は、(観客には見えているが少女たちには見えていないらしい)アンティピオルの出現と消滅を境に、前半/中盤/後半で大きく性格を変える。前半の中心は、2人並んで双子のようなしぐさをするデュオ、背中あわせになる2人の足元をバックで抜けていく1人という組体操のようなトリオ、4人が床にすわった姿勢で重なり上体を回転させるのを残った1人が剥がしにくる群舞などが、全体でひとつのサイクルを描くように組みあわされ、ヴァリエーションとともに反復されていく場面で、ルネが学校の休憩時間に校庭で友達と遊ぶ場面を連想させるものだった。お手玉のようなたくさんのジャグリングのボールが床を伝って投げこまれるのと同時にアンティピオルが登場、ノスフェラトゥの怪人のようにステージを歩き回り、箱馬のうえに集まって震えている少女たちを、ひとり、またひとりと羽交い締めにして上手に運んでいくのが中盤の場面。運ばれた少女たちは木偶人形のように両手をあげて顔を伏せ、じっと動かなくなる。この中盤で特に印象的だったのは、静止する少女たちの腰や肩にボールを載せたアンティピオルが、観客席前に箱馬をひとつ出してすわると、まるで彫刻作品を鑑賞するようにして、自分がしたことの成果を満足気にながめたことである。作業を終えたアンティピオルはホリゾント前に集めた箱馬をベッドがわりにして横たわる。少女たちは動き出し、UNIcaのワンネスを取り戻したミニマルな群舞を展開していく。なかには植物の生態系を癒しに結びつける前公演の『菓』を引用する場面も登場した。生命の感覚を回復した少女たちは、箱馬のうえで寝こんでいるアンティピオルを取り囲み、上手のカーテン裏まで転がしていった。

 身体の回復と現実への帰還をめぐる物語のあとにやってくるエピローグは、少女たちがステージに散らばり、思い思いにジャグリング・ボールに触れるような、触れないような場面で暗転となった。クリエーションの段階で、ジャグラー山村佑理のワークショップを受ける実践的リサーチが試みられたが、そのときの感想を、坂田がメンバーを代表してノートに記している。「実際にワークショップを受けてみて感じたのは、ボールに対しての自分の感覚をリセットして、広げていくことの大切さでした。」(『「Antipiol」を創る その③』)このテクストを勘案すると、エピローグにおけるジャグリングの場面は、生の喜びを伴うルネの現実への帰還がどういうものであったのか、その内実をダンサーたちの触覚を介して、ダイレクトに観客の身体に伝えようとする場面だったのではないだろうか。細かい指摘になるが、もう一点触れておかなくてはならないのは、少女たちが鼻歌のように口ずさむ歌である。歌詞ははっきりと聞き取れず、それがはたしてアンティピオルの歌であったかどうかはわからないままなのだが、回復過程の最後の階段を登るルネがリンゴを(乳のように)飲むという妄想の美しさともども、これが身体性や全体性を取り戻し、「組織」の命令をやめないアンティピオルの声を弾きかえすルネの闘いの歌(声)であったことは間違いないであろう。男性ダンサーの登場、ジャグリング・ボールの採用、物語性の導入と、いくつもの試みに開かれたシンUNIcaの作品において、とりわけて希望を感じさせる場面になっていた。

(北里義之)


2025年3月24日月曜日

場所と記憶──六畳半/山口なぎさ『矢立の初めの躍り』@北千住 仲町の家


六畳半

山口なぎさ

矢立の初めの躍り

北千住 仲町の家

アートアクセスあだち 音まち千住の縁

拠点形成事業パイロットプログラム



情に棹させば流される。

智に働けば角が立つ。

どこへ越しても住みにくいと悟った時、

詩が生まれて、画が出来る。


夏目漱石『草枕』より



出演: かずみおり、浅川奏瑛、阿部理子、山口なぎさ

日時: 2025年3月22日&23日(日)

[マチネ]開場: 1:30p.m.、開演: 2:00p.m.

[ソワレ]開場: 5:30p.m.、開演: 6:00p.m.


会場: 仲町の家

(東京都足立区千住仲町29-1)

料金前売: ¥1,500、当日: ¥2,000

フライヤー・衣装: NOGUCHI

ビジュアル写真: 染宮久樹

記録写真: アラキミユ

主催: 山口なぎさ(六畳半)



 北千住の古民家でダンスといえば、地階の元銭湯というユニークな場所性を持ち、実験的な公演によく使用されているBUoYの近所にある「仲町の家」とは正反対の方角、東口学園通り商店街の一角でダンサーの緒方彩乃が主宰していた「家劇場」(2018年から2023年まで活動)があった。山口なぎさが主宰するプロジェクト「六畳半」の公演『矢立の初めの躍り』もまた、「家劇場」で1ヶ月間ロングランされた日めくりダンス公演『家と暮らせば』(振付・演出:中村 蓉)のように、場所と記憶をテーマにした作品だったが、その印象は180°といっていいくらい異なっている。その相違を端的にいうなら、プロジェクトを支える「」+「劇場」という二大要素のうち、「家劇場」では、ダンサーが二軒長屋の元駄菓子屋に実際に住んでいたように、パーソナルな居住空間である「家」に比重がかかっているのに対し、今回「六畳半」の公演会場となった「仲町の家」は「文化サロン」と銘打たれるような地域振興のための「劇場」に比重がかかっているところから生まれている。両者を詳細に比較してみると、「家劇場」は、ソロ公演するのがやっとの広さであり、古びた畳も根太が抜けるのではないかと心配になるほどボコボコで、それにも関わらずダンサーは部屋のなかで飛んだり跳ねたりする。毎回限定8人の観客は、家劇場の片隅に偶然居あわせるようにして座布団にすわり、35分ほどの作品を体験するのだった。かたや「仲町の家」は、ダンサー4人が踊るだけの広さがある畳敷きの居間をステージにしていて、ホリゾントと上手側には(日中ならば)陽光の差しこむ廊下があり、ガラス戸の向こうには手入れの行き届いた庭が静かに広がっている。公演でメンバーが実際に食事をする場面で囲むちゃぶ台も頑丈そうで、使いこまれた日用品というよりは演劇の小道具のようだった。おなじ古民家だが「家劇場」のような生活臭はない。2間ある和室の奥の部屋に椅子や座布団を敷きならべた観客席は、ダンサーたちが食事をする居間とは別世界のように切り離されていた。ダンサーたちが飛んだり跳ねたりの踊りをしなかったのも、おそらくは家がよそゆきの空間だったからだろう。

 こうした場所と人との関係は、均質化された舞台空間で踊られる抽象的なダンスを観る場合とは違って、別種類の鑑賞眼が求められるばかりでなく、ダンスにとってはさらに本質的な踊り手の身体そのものに関わって「場所と記憶」のテーマを大きく決定づける。ここでも「家劇場」と「仲町の家」を比較してみていくのが有効だろう。『矢立の初めの躍り』の冒頭、ちゃぶ台を囲んだダンサーたちが小さな色紙に書きつけていたのは、公演後半で読まれることになる断片的な記憶、思い出であった。記憶はダンサーの身体とともに「仲町の家」に持ちこまれてきたものなのだ。かたや『家と暮らせば』の記憶は、ダンサーのものではなく、中村 蓉が作品化した家そのものの記憶、家具や調度品がダンサーの身体を触発して喚起された家の記憶なのである。縁側にさしこむ陽光や風通う庭先が醸し出す「仲町の家」の快く平明な空間性に対し、「家劇場」が闇を抱えているのは、二階へ登る階段の先にあるのが平家の天井だったり、ダンサーの分身である等身大の人形が階段から転落するなどの謎を通して、誰にもその正体を明かすことのない家の記憶が踊られていたからである。『矢立の初めの躍り』中間部に置かれたおしゃべりしながらの長い食事場面は、フィクションの時間をショック療法で倒壊させる省略することのできない現実の時間の闖入というべきもので、ダンサーの身体が場所に最接近する緊迫したクライマックスだったが、居間と切り離された観客席を食事の欲望に巻きこむことはなく(というか、そもそも観客を巻きこむことは考えられていなかったようだ)、映画の一場面のようになっていた。供される食事がもしも観客の空腹をダイレクトに襲うカレーライスなど香ばしい料理であれば、身体は生々しい記憶を刺激され、感覚が一気に解放されることになったかもしれない。

 ダンサーが設備の整った公共劇場を飛び出すのは、歴史的にみて、コンテンポラリーダンスの延長線上に生じた必然性といえるだろう。現代ダンスの発展の方向性は、一方通行路をいくようなものではなく、いわば複数の車線が縦横に走っており、公共劇場のような制度に支えられた場と、都市空間のただなかにあって記憶を堆積する場所とは、ダンサーの身体によって出入り自由な往来的関係に置かれている。日常的な空間にダンスの場を開く流れは、特に若手ダンサーの場合、世代的なダンサー間のネットワークを具体的に形にしてみせる公演形式を、経済的に無理のない範囲で求める事情が支えているが、それ以外にも、コミュニティダンスとも別の関係性の作り方によって、ダンスの多様なありようを社会的な場から開いていく可能性を持っている。そのときのキーワードになるのが、身体的な記憶であり、場所への感応力であり、パーソナルなものへの関心──『家と暮らせば』や『矢立の初めの躍り』ではそれが「家」=home の場所性として出現している──なのである。一時期の若手のダンスには、日常生活の周辺に、彼ら/彼女らにとってリアルな個別のテーマを見つけようとする傾向がみられたが、いまはそうした日常性に密着することを徹底して、ダンスの領域を拡大するような別の場所を発見しかけているように思う。場所によって喚起される記憶のありようは多様であり、ダンスもまた多様な形をとりつつ展開している。

(北里義之)





2025年3月21日金曜日

【書籍・定期刊行物】『テルプシコール通信 No.204』

 


書籍・定期刊行物

テルプシコール通信 No.204

2025年3月12日号

発行:テルプシコール編集室

編集: 宜子


Terpsichore 3月-4月 Schedule

鯨井謙太

舞踏計画:剥製の光へ Vol.1

UBUSUNA異聞

(構成・振付・演出:鯨井謙太


電気通信大学演劇同好会

ケチャップ・オブ・ザ・デッド

(演出・制作: 鳥海晃正)


美しき老体─Gracefully Aged Bodies-2025─

-ZAN-

(企画・制作: Miyuki Lima)

出演: 

三浦一壮生滅流転

小林嵯峨、それから

深谷正子カラカラ

原田伸雄冥い海光る海

小関すま子TAWAKU多惑─』


大森政秀舞踏公演

遠くから やってくる


P.S.Goodrag 企画公演

気づいたら、宇宙だった。

(作・演出: 磯部美波)


ダンス演劇ワークショップ

鯨井謙太&大倉摩矢子

ユリイカ!! ワークショップ

(毎月開催)


【舞踏新人シリーズ 第49弾

郷坪聖史萬古開闢

玲鳳ヒ 私だけの緋色

喫茶みつる蜥蜴に日陰私の断面図

あみあみ神楽


【舞踏ニュース】

豆猫

合田成男さんご長寿お祝いの会


【公演評】

北里義之

「廃墟化した身体、金色の生命体

──舞踏派ZERO↗『Sin Soup(zero)をかきまぜる


【新刊本】

石井達朗

『マヤ・デレン』

(2024年12月、水声社)


【漫画】

LUNACY

「るなしい人々」


奥付 ■


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2017terpsichore@gmail.com