2025年3月24日月曜日

場所と記憶──六畳半/山口なぎさ『矢立の初めの躍り』@北千住 仲町の家


六畳半

山口なぎさ

矢立の初めの躍り

北千住 仲町の家

アートアクセスあだち 音まち千住の縁

拠点形成事業パイロットプログラム



情に棹させば流される。

智に働けば角が立つ。

どこへ越しても住みにくいと悟った時、

詩が生まれて、画が出来る。


夏目漱石『草枕』より



出演: かずみおり、浅川奏瑛、阿部理子、山口なぎさ

日時: 2025年3月22日&23日(日)

[マチネ]開場: 1:30p.m.、開演: 2:00p.m.

[ソワレ]開場: 5:30p.m.、開演: 6:00p.m.


会場: 仲町の家

(東京都足立区千住仲町29-1)

料金前売: ¥1,500、当日: ¥2,000

フライヤー・衣装: NOGUCHI

ビジュアル写真: 染宮久樹

記録写真: アラキミユ

主催: 山口なぎさ(六畳半)



 北千住の古民家でダンスといえば、地階の元銭湯というユニークな場所性を持ち、実験的な公演によく使用されているBUoYの近所にある「仲町の家」とは正反対の方角、東口学園通り商店街の一角でダンサーの緒方彩乃が主宰していた「家劇場」(2018年から2023年まで活動)があった。山口なぎさが主宰するプロジェクト「六畳半」の公演『矢立の初めの躍り』もまた、「家劇場」で1ヶ月間ロングランされた日めくりダンス公演『家と暮らせば』(振付・演出:中村 蓉)のように、場所と記憶をテーマにした作品だったが、その印象は180°といっていいくらい異なっている。その相違を端的にいうなら、プロジェクトを支える「」+「劇場」という二大要素のうち、「家劇場」では、ダンサーが二軒長屋の元駄菓子屋に実際に住んでいたように、パーソナルな居住空間である「家」に比重がかかっているのに対し、今回「六畳半」の公演会場となった「仲町の家」は「文化サロン」と銘打たれるような地域振興のための「劇場」に比重がかかっているところから生まれている。両者を詳細に比較してみると、「家劇場」は、ソロ公演するのがやっとの広さであり、古びた畳も根太が抜けるのではないかと心配になるほどボコボコで、それにも関わらずダンサーは部屋のなかで飛んだり跳ねたりする。毎回限定8人の観客は、家劇場の片隅に偶然居あわせるようにして座布団にすわり、35分ほどの作品を体験するのだった。かたや「仲町の家」は、ダンサー4人が踊るだけの広さがある畳敷きの居間をステージにしていて、ホリゾントと上手側には(日中ならば)陽光の差しこむ廊下があり、ガラス戸の向こうには手入れの行き届いた庭が静かに広がっている。公演でメンバーが実際に食事をする場面で囲むちゃぶ台も頑丈そうで、使いこまれた日用品というよりは演劇の小道具のようだった。おなじ古民家だが「家劇場」のような生活臭はない。2間ある和室の奥の部屋に椅子や座布団を敷きならべた観客席は、ダンサーたちが食事をする居間とは別世界のように切り離されていた。ダンサーたちが飛んだり跳ねたりの踊りをしなかったのも、おそらくは家がよそゆきの空間だったからだろう。

 こうした場所と人との関係は、均質化された舞台空間で踊られる抽象的なダンスを観る場合とは違って、別種類の鑑賞眼が求められるばかりでなく、ダンスにとってはさらに本質的な踊り手の身体そのものに関わって「場所と記憶」のテーマを大きく決定づける。ここでも「家劇場」と「仲町の家」を比較してみていくのが有効だろう。『矢立の初めの躍り』の冒頭、ちゃぶ台を囲んだダンサーたちが小さな色紙に書きつけていたのは、公演後半で読まれることになる断片的な記憶、思い出であった。記憶はダンサーの身体とともに「仲町の家」に持ちこまれてきたものなのだ。かたや『家と暮らせば』の記憶は、ダンサーのものではなく、中村 蓉が作品化した家そのものの記憶、家具や調度品がダンサーの身体を触発して喚起された家の記憶なのである。縁側にさしこむ陽光や風通う庭先が醸し出す「仲町の家」の快く平明な空間性に対し、「家劇場」が闇を抱えているのは、二階へ登る階段の先にあるのが平家の天井だったり、ダンサーの分身である等身大の人形が階段から転落するなどの謎を通して、誰にもその正体を明かすことのない家の記憶が踊られていたからである。『矢立の初めの躍り』中間部に置かれたおしゃべりしながらの長い食事場面は、フィクションの時間をショック療法で倒壊させる省略することのできない現実の時間の闖入というべきもので、ダンサーの身体が場所に最接近する緊迫したクライマックスだったが、居間と切り離された観客席を食事の欲望に巻きこむことはなく(というか、そもそも観客を巻きこむことは考えられていなかったようだ)、映画の一場面のようになっていた。供される食事がもしも観客の空腹をダイレクトに襲うカレーライスなど香ばしい料理であれば、身体は生々しい記憶を刺激され、感覚が一気に解放されることになったかもしれない。

 ダンサーが設備の整った公共劇場を飛び出すのは、歴史的にみて、コンテンポラリーダンスの延長線上に生じた必然性といえるだろう。現代ダンスの発展の方向性は、一方通行路をいくようなものではなく、いわば複数の車線が縦横に走っており、公共劇場のような制度に支えられた場と、都市空間のただなかにあって記憶を堆積する場所とは、ダンサーの身体によって出入り自由な往来的関係に置かれている。日常的な空間にダンスの場を開く流れは、特に若手ダンサーの場合、世代的なダンサー間のネットワークを具体的に形にしてみせる公演形式を、経済的に無理のない範囲で求める事情が支えているが、それ以外にも、コミュニティダンスとも別の関係性の作り方によって、ダンスの多様なありようを社会的な場から開いていく可能性を持っている。そのときのキーワードになるのが、身体的な記憶であり、場所への感応力であり、パーソナルなものへの関心──『家と暮らせば』や『矢立の初めの躍り』ではそれが「家」=home の場所性として出現している──なのである。一時期の若手のダンスには、日常生活の周辺に、彼ら/彼女らにとってリアルな個別のテーマを見つけようとする傾向がみられたが、いまはそうした日常性に密着することを徹底して、ダンスの領域を拡大するような別の場所を発見しかけているように思う。場所によって喚起される記憶のありようは多様であり、ダンスもまた多様な形をとりつつ展開している。

(北里義之)





2025年3月21日金曜日

【書籍・定期刊行物】『テルプシコール通信 No.204』

 


書籍・定期刊行物

テルプシコール通信 No.204

2025年3月12日号

発行:テルプシコール編集室

編集: 宜子


Terpsichore 3月-4月 Schedule

鯨井謙太

舞踏計画:剥製の光へ Vol.1

UBUSUNA異聞

(構成・振付・演出:鯨井謙太


電気通信大学演劇同好会

ケチャップ・オブ・ザ・デッド

(演出・制作: 鳥海晃正)


美しき老体─Gracefully Aged Bodies-2025─

-ZAN-

(企画・制作: Miyuki Lima)

出演: 

三浦一壮生滅流転

小林嵯峨、それから

深谷正子カラカラ

原田伸雄冥い海光る海

小関すま子TAWAKU多惑─』


大森政秀舞踏公演

遠くから やってくる


P.S.Goodrag 企画公演

気づいたら、宇宙だった。

(作・演出: 磯部美波)


ダンス演劇ワークショップ

鯨井謙太&大倉摩矢子

ユリイカ!! ワークショップ

(毎月開催)


【舞踏新人シリーズ 第49弾

郷坪聖史萬古開闢

玲鳳ヒ 私だけの緋色

喫茶みつる蜥蜴に日陰私の断面図

あみあみ神楽


【舞踏ニュース】

豆猫

合田成男さんご長寿お祝いの会


【公演評】

北里義之

「廃墟化した身体、金色の生命体

──舞踏派ZERO↗『Sin Soup(zero)をかきまぜる


【新刊本】

石井達朗

『マヤ・デレン』

(2024年12月、水声社)


【漫画】

LUNACY

「るなしい人々」


奥付 ■


☞テルプシコール通信の定期購読をご希望の方は送料込み、

年間1,500円(切手可)で郵送致しますのでお申し込み下さい。

2017terpsichore@gmail.com

2025年3月19日水曜日

舞踏を開く──ダンスの犬 ALL IS FULL: 深谷正子 演出・振付『ブレイン・ロット うすい風 脳の腐敗からの』その1、その2

 


ダンスの犬 ALL IS FULL: 

佐藤ペチカ×小松 亨

筆宝ふみえ×みのとう爾径

作・演出: 深谷正子

ブレイン・ロット うすい風 脳の腐敗からの

その1、その2

六本木ストライプハウスギャラリー・スペースD



日時:2025年3月17日

開場: 6:30p.m.、開演: 7:00p.m.

出演: 佐藤ペチカ、小松 亨

日時:2025年3月18日(火)

開場: 6:30p.m.、開演: 7:00p.m.

出演: 筆宝ふみえ、みのとう爾径


会場: 六本木ストライプハウスギャラリー・スペースD

(東京都港区六本木5-10-33)

料金1回: ¥3,000、2回: ¥5,000

3回: ¥7,000、4回: ¥8,500

照明: 玉内公一

音響: サエグサユキオ

舞台監督: 津田犬太郎

写真提供: 平尾秀明

主催: ダンスの犬 ALL IS FULL

問合せ: 090-1661-8045



 ネット・スラングとしての「ブレイン・ロット」は、ネット情報への過度の依存によって引き起こされる思考停止状態をさすもので、「頭わいてんのか」という罵倒の文句、「熱で沸騰したようになって気が確かでない様子とか、脳みそに虫が涌いているのかと思われるさま」を意味するテン年代に登場した言葉にどこか通じている。すっかり依存状態であるにも関わらず、本体がすでに根腐れを起こしているため(あるいは人々が集団でそうした状態に陥っているため)それに気づくことができず、日常化した生活態度などをあらためようとしない病的状態といったらいいだろうか。ネットで拡散される膨大な情報は、選択の自由の拡大という身体拡張の原理(マクルーハン)であったはずだが、身体感覚そのものの空無化という予想外の事態が引き起こされ、身体をネット空間に組みこみオートマトン化する言語のエコーチェンバー化閉じた小部屋で音が反響する物理現象──すなわちブレイン・ロット状態──へとたやすく進行していった。身体変容の速度は、私たちが想像するよりはるかに急激なものだった。深谷正子の新シリーズに選ばれたこの言葉には、彼女が指向してきた日常性の豊かさそのものを奪い、腐らせるものに対して、<極私的ダンス>によって培われてきた《極私的身体》を対置する意思がこめられている。ここでの身体は明確に抵抗の拠点として示されたといえるだろう。深谷が共通の要素を提供して作品の大枠を提供し、領域を異にするダンサーたちがダンス/身体表現によって肉づけしていくスタイルは、同じ会場で公演された昨年のシリーズ「動体観察2Days」を発展的に継承するものであるとともに、個性的な身体の出会いによって新たな共闘関係を開くネットワークの試みにもなっている。


佐藤ペチカ×小松 亨(Photo: 平尾秀明)

 2日間連続公演の初日には、佐藤ペチカ、小松 亨のデュオが、2日目には筆宝ふみえ(舞踏派ZERO↗)、みのとう爾径(にけ)のデュオが登場した。佐藤ペチカと深谷正子は共演歴が長いが、後の3人は舞踏関係という以外さしたる共通点もなく、共演機会も持ってこなかった。現在の舞踏界は、有名カンパニーに所属したり先達に師事したりして集団的に活動するスタイルと、舞踏に触れる機会を持ちながらどこにも所属せず、本来的には独学で固有の身体性を探究していくスタイルに大別される。それぞれのグループで営まれている社会性には大きな相違があり、それが踊りの世界観や評価にも関わってくるが、そうした局面がこれまでまともに論じられたことはなく、それが舞踏の今日的な評価をむずかしくしている側面もあるようだ。後者のケースにあっては、踊り手どうしが観客席を埋めるなどして交流はあるものの、公演に際してモダンやコンテのようにひとつの作品のなかで身体をぶつけあうという意識がない。舞踏を定義する「一人一流派」という言い方は、身体のありようやめざす方向の多様性ばかりでなく、そうした特徴も指し示しているといえるだろう。その結果、作品を現実化していく際に身体のチューニングを経由するのではなく、内面の対話を通じて深めていった固有な身体をインスタレーションする方法を選択することが圧倒的に多い。舞踏との関わりには深浅あっても、こうした共演スタイルは定番といえるだろう。本シリーズの深谷正子は、舞踏であると否とを問わず、さまざまなダンサー/パフォーマーを他者として迎え入れながら、パフォーマンスのディレクションやデザインによってこれら身体表現者の単独性に働きかけ、これまで実践してきた彼女の<極私的ダンス>を原イメージとする《極私的身体》のヴィジョンがどこまで普遍性を持ちうるのか、果たして普遍性に橋をかけることは可能なのか、実地検証したいと思っているのではなかろうか。その意味では、いままさに<極私的ダンス>の多様性が私たちの前にあらわれ出ようとしている。


筆宝ふみえ×みのとう爾径(Photo: 平尾秀明)

 こうしたこととは別にもうひとつ、新版2Daysの初回公演における舞踏家の参加には特別な要素があった。それは内面の作業を第一とする舞踏の身体行為の半分が、初共演する共演者の存在によって外面に向かわざるをえないという条件のためである。振付家によって大枠を決定されている時間・空間によって、ステージに置かれる身体の内面的な作業はいたるところで寸断される。特に、中間部のコンタクト場面では、四つん這いになった佐藤の背中に身を投げ出すように小松がおおいかぶさったり、筆宝の背後に立ったみのとうが頭や手を筆宝の肩にかけて重なって歩くなど、意識的な行為にならない、まるで荷物を渡すようにして共演者に触れていくコンタクトが連続していった。動いている物体が衝突してしまったというような、不可抗力の出来事さながらのコンタクトダンスにおいて、身体の内側と外側に対する意識はともに消されることなく、触れるもの/触れられるものは物体の堅固さを保ったままであった。触れてくる手を無視するというのではなく、双方の身体が物体の接触面を観察しているような、そんな不思議なコンタクトダンスが展開したのである。身体インスタレーションによる共演から一歩その先へ。ここには舞踏を開くという、そのことを目的とはしないまでも、結果として生じざるをえない出来事の効果があるように思う。舞踏家たちがそうした機会をとらえて本プロジェクトに飛びこんだところに、現在の地点からその先を照らし出すような光が生まれている。
(北里義之)