2024年10月24日木曜日

出会いの物語を紡ぐ──深谷正子: 動体観察 2daysシリーズ[第6回]|山㟁直人、やましん、冨士栄秀也「音と身体」

深谷正子 ダンスの犬 ALL IS FULL: 

動体観察 2daysシリーズ[第6回]



極私的ダンスシリーズ

深谷正子

入射角がずれるその2

日時:2024年10月22日(火)

開場: 6:30p.m.、開演: 7:00p.m.


ゲストダンサーシリーズ

音と身体

出演: 山㟁直人(打楽器)

やましん(ソプラノサックス)

冨士栄秀也(ヴォイス)

日時:2024年10月23日(水)

開場: 6:30p.m.、開演: 7:00p.m.


会場: 六本木ストライプハウスギャラリー・スペースD

(東京都港区六本木5-10-33)

料金/各日: ¥3,500、両日: ¥5,000

照明: 玉内公一

音響: サエグサユキオ

舞台監督: 津田犬太郎

会場受付: 玉内集子、曽我類子、友井川由衣

写真提供: 平尾秀明

問合せ: 090-1661-8045



 過去のワークショップやダンス公演で共演経験のある男性演奏家3人をゲスト・プレイヤーに迎えた「動体観察」の2日目は、主催の深谷正子が、本シリーズの課題として、演奏家である3人に動きやしぐさのタスクを与えて作った“振付”の場面をパフォーマンスをはさんで前半と後半に配置、中間部分で楽器を使った自由な即興セッションが展開するという、両論併記的な「音と身体」の試みがおこなわれた。公演全体の流れもしっかり考えられていて、公演冒頭、ホリゾント前に並んだ3人が歩き出し、とまっては身体の向きを変える動きから、部屋の片隅へと疾走するより大きな動きへ、さらには右肘に左手で触れるしぐさをしたあとクラウチング・スタートのポーズをとる身ぶりを、三者三様にアレンジを加えつつ反復し、最後には上手の桟に寄りかかって動きをいったんとめてから、楽器を手にする場面へと移行する。この動き出しの場面は、そのあと即興演奏に引き継がれる各自のソロとして演出され、3人それぞれが異質な音楽性を発揮する音楽パフォーマンスも、音楽的に相手の領域に踏みこむことなくソロ/ソロ/ソロの並立形式によって演奏──冨士栄が2人の共演者それぞれに接近して身体的に間を取り持つような配慮を見せてはいたが──されていた。

 音楽的なクライマックスは、山㟁がゴムでドラムの皮を擦り低音を出しながらステージを回遊していく、そのサウンドに巻きこまれるようにして他の2人がヴォイスでシンクロナイズした瞬間に訪れた。ホリゾント前に立ち並ぶ3人。このときホーメイ的な発声法(モンゴルの伝統的な歌唱法)をとったやましんのヴォイスは、冨士栄のアモフルな声の表出とは別のスタイルだったが、ここで初めて関係性が開かれるという出来事が起こった。音楽の頂点を経てからはじまる後半部分は、この声のシンクロナイズを動きに転写するコンタクトダンスといえるようなもので、3人が相方の背中を取りあって押し倒すゲーム的パフォーマンスが展開していった。ダンス的な訓練を経ていない身体によって踊られるコンタクトダンスは一向にダンス的ではなく、プロレスの取っ組み合いのようだった。予想外のなりゆきに観客席は大きな笑いに包まれた。ふたたびホリゾント前に並んだ3人は、ホリゾント壁をたたいて音を出しはじめ、「アイウエオ、カキクケコ」とくりかえす冨士栄に、ソプラノを離れたやましんも唱和、やがて3人そろって仰向けに横になり、床をずってステージ中央へと出ていくところで暗転となった。出会いのその先は……というわけであろう。全体は身体によって関係を作るという物語に貫かれていた。

 タムドラムを一台引きずりながらステージを歩きまわり演奏した山㟁直人は、タムの底についているワイヤーを長く引き出して音を出すなど、あえて広い空間を使うことで共演者の動きとニアミスを起こすという偶然性を狙ったようだった。日頃あまり見ないスタイルでの演奏。身体の動きと演奏が不即不離の関係にあるサウンド・インプロヴィゼーションのプレイヤーだが、トリオがそれぞれに平面的な領域を動いてパフォーマンスした本公演では、存在に訴える持ち前の音楽的な深みは犠牲になり、サウンド・インスタレーションの色合いが前面に出たように思う。ソプラノサックスを演奏したやましんは、様式性を重んじる演奏家のようで、伝統的なフリー・インプロヴィゼーションのよさを体現する正統的な演奏家といえる。共演者の音楽に深く侵入することなく自身の領域を守り、タンギングを多用した短いフレーズによって演奏を構成していた。ヴォイスの冨士栄秀也は、ヴォイス・パフォーマンスのなかでは、ストックされたヴォキャブラリーによって演奏を展開するのではなく、その時々の身体表出を導き出すような声によってパフォーマンスする。生声だけでなくアンプとマイクも使用しながら演奏した本セッションでは、与えられた動きのタスクをアレンジして動いたり、さかんに立ち位置を変えることで状況に変化を呼びこむ展開によって、偉大な振付家の前で借りてきた猫状態にならないような工夫を重ねていた。「音と身体」の異色公演は、こうした3人の異質の音楽性を逆手にとった深谷のアイディアも存分に生かされたトリオ・セッションとなった。

(北里義之)



深谷正子 ダンスの犬 ALL IS FULL: 

動体観察 2daysシリーズ


 

2024年10月23日水曜日

ギリシャ彫刻のように──深谷正子: 動体観察 2daysシリーズ[第6回]深谷正子ソロ『入射角がずれる』その2

 

深谷正子 ダンスの犬 ALL IS FULL: 

動体観察 2daysシリーズ[第6回]



極私的ダンスシリーズ

深谷正子

入射角がずれるその2

日時:2024年10月22日(火)

開場: 6:30p.m.、開演: 7:00p.m.


ゲストダンサーシリーズ

『音と身体』

出演: 山㟁直人、やましん、冨士栄秀也

日時:2024年10月23日(水)

開場: 6:30p.m.、開演: 7:00p.m.


会場: 六本木ストライプハウスギャラリー・スペースD

(東京都港区六本木5-10-33)

料金/各日: ¥3,500、両日: ¥5,000

照明: 玉内公一

音響: サエグサユキオ

舞台監督: 津田犬太郎

会場受付: 玉内集子、曽我類子、友井川由衣

写真提供: 平尾秀明

問合せ: 090-1661-8045



 『入射角がずれる』の初回公演は、コロナ禍で緊急事態宣言が出されたことの余波が消えず、社会的な混乱の残る時期におこなわれた。ある意味、意を決した公演だった。生活感覚に密着し、深掘りされる身体感覚に訴えておこなわれる深谷正子の極私的ダンスだが、そのダンスが自閉的なものにならないのは、作品テーマに選ぶなどして直接的に触れられることはないものの、彼女のパフォーマンスにおいては、現代社会の出来事もまた、観念的な議論によってではなく、細かな皮膚の震えのようにしてキャッチされているからといえるだろう。深谷正子の身体感覚はつねに社会性を帯びている。むしろ個人的な生活と社会を串刺しにしているといったほうがいいかもしれない。そのダンスがダンスにとどまらず、アートへと越境しておこなわれているのはこうしたところに淵源している。

 美術展で踊る機会を多く作っている深谷だが、彼女自身の公演においてもまた、舞台装置は一種の美術インスタレーションと呼べるものになっており、ダンサーの美的センスに貫かれているのだが、それ以上に重要なのは、伝統的なモダンダンスをベースにあれこれ印象的なポーズをとっていく身体そのものも、ステージ空間にインスタレーションされていくものとして存在しているという点だ。その分厚い存在感をある評論家がギリシャ彫刻にたとえていたのを思い出す。「その2」における舞台装置は、初演時とまるで違ったものになっていた。そのときの公演レヴューが残っていて、タイトルにある謎の言葉「入射角」がなにを意味するのかという考察とともに場面描写をおこなっているので引用してみよう。

(1)公演冒頭の場面で、ステージ中央に仁王立ちしたダンサーの顔がわずかに動くことでスポットライトの入射角がずれる。顔の隈取りが変化する。(2)ヘリコプターの玩具を吊るした紐が右肩にかかっていて、ダンサーが下手に歩くとともに天井から伸びる紐の入射角がずれる。肩の緊張感が増加する。(3)床に横寝した姿勢のまま、足をふり手をふって左回転していく場面で、疲労によって次第に足が床に突き刺さる入射角がずれる。次第に角度が大きく、身体が平べったくなっていく。(4)床に仰臥してホリゾントに片足をあげ、また両足をあげる場面で、膝を曲げたり壁から足を離したりすると足と壁の間で入射角がずれる。逆さにあげた不安定な足の動きがダンスとして踊られる。そして(5)斜めになった板をホリゾントまで登っていくラストの場面で、静かにたどられる歩行は、最後まで入射角がずれることがない。この最後の場面は、動きがずれを起こさないような装置の存在によって、ダンサーは最後まで同じ角度で坂を登っていく。」──後半部分で、スプリングだけに剥かれたベッドマットが活躍した本公演でも、末尾を飾るクライマックスの場面では、スプリングのうえに横になった深谷によって(3)の動きが引用された。そこまでにいたるパフォーマンスでベッドマットを斜めに抱えた動きを多用したのは、明らかに身体とマットで作る「入射角」が意識されてのことだったろう。

 『入射角がずれる』その2では、ヒリヒリとした時代の空気感に切迫されていないぶんだけ、極私的ダンスにおけるモダンダンス度があがっていた。その代表的な動きが、両ひじを前後にあげて全力疾走するポーズをくりかえす公演前半のミニマルな身ぶり構成にあらわれていた。たしかにそれはすでにモダンタンスの振付ではなく、深谷ならではの美意識を反映した身体インスタレーションになっているぶんだけコンテンポラリーにはみ出した身体といえるようなものなのだが、彼女ならではの手法になっている自身の身体を邪険に扱うことから生じる切迫した身体感覚──観客の感覚を否応なく巻きこみ「極私的ダンス」を立ちあがらせる骨や肉の軋み、痛みといった身体の生々しさを欠いていたからだろう、地層のようにして積み重なっているダンス教育という)身体の深層が透けて見えたのだと思う。(北里義之)



深谷正子 ダンスの犬 ALL IS FULL: 

動体観察 2daysシリーズ


2024年10月21日月曜日

記憶の交差点──KAAT×山田うん×池上高志『まだここ通ってない』

KAAT×山田うん×池上高志

『まだここ通ってない』



日程:2024年10月18日~10月20日

会場:KAAT 神奈川芸術劇場

ホール内特設会場
構成・演出・振付:山田うん

(ダンサー、コレオグラファー、演出家)
構成・演出・コンセプト:池上高志

(理学博士|東京大学大学院広域システム科学系・教授)
ダンス:川合ロン、飯森沙百合、黒田 勇、

猪俣グレイ玲奈、リエル・フィバック
ピアノ:高橋悠治
サウンド、エレクトロニクス:土井 樹
VR/ドローン/デバイス設計開発:

Alternative Machine
音響:江澤千香子
照明:藤田雅彦
衣装:Martin Churba(マルティン・チュルバ)
舞台監督:齋藤亮介
主催・企画制作:KAAT 神奈川芸術劇場
後援:アルゼンチン共和国大使館



 本公演に先立って池上と山田がマイクを手に登場、ホワイトボードを使った作品解説がおこなわれた。そこで池上が語ったのは、コラボ3度目となる今回の作品『まだここ通ってない』が「記憶と身体」をテーマにしていること、また舞台装置を製作するにあたり、(1)コンピュータ・テクノロジーの記憶として、およそ80年前の記憶装置である「ディレイ・ライン・メモリー」という白色光のチューブをホリゾントに並べ置き、(2)タルコフスキーの映画『鏡』(1975年)に触発された美術家の三上晴子(1961-2015|故人)が生前「ステージにススキの原っぱを作りたい」と言っていた記憶にちなんでステージ全面にススキのオブジェを配置、さらに(3)記憶は──ひいては生命的なるものもまた──つねに群の一部として発生するという池上の認識からたくさんのドローン群を飛ばせることにしたということであった。ダンスの振付も、前後を群舞で挟んだ5つの場面から構成され、サウンドアートの作曲法や即興演奏、ススキの原っぱにちなんだ2台のゴーグル映像、空中を不安定に上下するドローンなどに絡めつつ、伝統的な振付を利用した新たな作品として構想していくものだった。プロジェクトの大枠をなしているのは、「現代のコンピュータ・サイエンスが再定義する人間像の可能性」を、異質な芸術ジャンルの出会いから切り開いていく試みということになるだろうか。そこから公演はミックスドメディア形式をとっていた。

 作品解説で池上がドゥルーズに言及していたように、時代をさかのぼることおよそ40年前、建築からはじまったポストモダンの流行がブームを過ぎて下火になったいまでも、モダンアートを脱構築する20世紀芸術の重要な様式としてのポストモダンは、未解決の問題として生き残り(あるいは中途半端な放置状態で投げ出され)、本公演のように新たな表現者から応答を引き出している。このことはアートとしての潜勢力がいまだ地下水のように流れつづけていることを意味しているだろう。ダンスの領域でそのことを意識的に探究しているのが、みずからのスタイルを「スキゾダンス」と呼んで舞踏の様式とスパークさせ、日本的身体に自閉しがちな舞踏を現代世界に開くべく活動しているニューヨーク在住の山崎広太であることはよく知られている。偶然にも、一週間ほど前に、ニュージーランドのダンスカンパニーと共演した『薄い紙、自律のシナプス、遊牧民、トーキョー(する)』(10月12日~14日、三軒茶屋シアタートラム|未見)が公演されたばかりだ。しかしながら、ともに異質なものの出会いというポストモダン美学に則りながら、山崎のダンスは「スキゾ」という分裂の概念を採用することで、異質なるものの散種をダンス戦略に選択しており、ここで生命的なるものに収斂していこうとする山田/池上の本作品とは、真逆のベクトルを持ったものとなっている。この両者をもって、ポストモダンの現在的帰結──異質なるものの出会い方の基本をなすものと要約できるかもしれない。山崎のダンスがつねに「逃走」を至上命題とするのに対して、テクノロジーの進化形態を積極的に取り入れながら、「記憶」をキーワードに身体を再定義しようとする『まだここ通ってない』のヴィジョンは、異質なるものの出会いの場として「人工生命」という中心コンセプトを持っており、そこへと収斂していく。ここでの生命は、動物的でも植物的でもなく、一種のイデオロギーと化している。

 特筆すべきは、ピアノの即興演奏で高橋悠治が参加していたことだろう。本公演でそうと言及されることはなかったが、その存在は、演奏がどうの即興がどうのというより、沈黙の記憶を持ち運ぶ身体をステージに置いていたことで注目された。というのも、彼もまた、80年代ポストモダンの時期に活躍した立役者のひとりであり、いまではあたりまえになったサンプリング技術を駆使しながら、一連のカフカシリーズによって舞台芸術の世界に巨大な余白を生み出したコンポーザー=パフォーマー──この言葉自体、現代音楽の作曲家を再定義する概念として編み出された造語──だったからである。土井 樹による本公演の音楽は、サウンドアートと呼べるものだろうが、音楽構造を自由に解体/再構築する方法は同じでも、高橋の場合、響きに演奏者の身体が憑依し、演奏からは「音が存在する」としか言いようのない実体感が立ちあがり、異形な身体そのものと化すという大きな違いがある。この相違は決定的だ。この異形さにおいて、訓練されたダンサーたちの身体は、むしろノイズを剥ぎ取られ、きれいに整序された構築物となっていた。『まだここ通ってない』における他ジャンルとの共演が、ダンスそのもの、ダンスする身体そのものの再定義に及ぶことはなかった。異文化共演の淵に立とうとする試みではあったが、山田による振付は、オーソドックスな群舞をはみ出すことなく、伝統的な振付技法の手慣れた応用によって構成されていた。コンテンポラリーの現在地点に立てば、前衛的というよりは、むしろ保守的なものだったといえるだろう。

(北里義之)