2011年10月8日土曜日

平間貴大


 「実験音楽を語る」の第二回に参加したパネリスト平間貴大は、同席した角田俊也が、思わず「新人類」という懐かしのジャーナリズムの用語で形容したように、一種つかまえどころのないアーチストだった。常時持ち歩いていたカセットによる録音を自分の「即興」といい、最短時間で盤面に詰めこめるだけ詰めこんだ無音トラックだけのCDを構成するなど、続々と出てくる発想そのものが奇抜な、前代未聞のものであり、どれひとつとして誰も思いつかないし、思いついたとしてもけっして実行に移さないだろうと思われるようなものばかりだった。オフサイトを経験した平間が、活動の最初期に影響を受けたという秋山徹次や中村としまるなどが、ごくまっとうな、平間にくらべれば、ごく平凡な即興演奏家に見えてしまうほどだ。時間の関係で、彼の現在の活動がフォーラムの俎上に乗ることはなかったが、会場には、平間が現在参加している「新方法主義」の美術家・中ザワヒデキらの姿もあった。しかしながら、そうであるがゆえに、パネリストの資質に予想以上の大きな開きがあったフォーラムの対話は、行為へといたるコンセプトや思想を語るのではなく、これまで自分のしてきたことを箇条書きにして、坦々と自己紹介していった彼の新人類ぶりを軸に(あるいはネタに)進行していったのだった。


[初出:mixi 2011-02-25「平間貴大」/加筆修正のうえ転載]  
 

2011年10月7日金曜日

実験音楽とコンセプチュアル・アート

第2回パネリスト:左から、平間貴大、宇波拓、角田俊也


シリーズ「実験音楽を語る」第二回
実験音楽とコンセプチュアル・アート
出演: 宇波拓 角田俊也 平間貴大
日時: 2011年2月24日(木)
会場: 千駄ヶ谷ループライン
(東京都渋谷区千駄ヶ谷1-21-6 第三越智会計ビルB1)
TEL.& FAX.03-5411-1312
開場: 19:00,開演: 19:30
料金: ¥2,000+order
司会進行: 北里義之 企画構成: 音場舎
主催: 音場舎


♬♬♬


 角田俊也、宇波拓、平間貴大の諸氏をお迎えしたループライン・フォーラム「実験音楽を語る」の第二回が終了した。このシリーズでは、テーマ設定をする際に、実験音楽とはなにかといった本質論をしたり、参加するパネリストが自分の実験音楽を語るという自己紹介をできるだけ避け、現在「実験音楽」と呼ばれる領域にどのような要素が流れこんでいるのかを、結果的に腑分けしていくような語りを集めるというスタイルを目指している。ケージが編み出したタイム・プラケットの発想を援用するなら、ここでいう「実験音楽」というのは、既成概念のようなものではなく、いくつもの語りがやってくる時間/場所の形式的枠組につけられた名前のようなものといったらいいだろうか。

 前回はジョン・ケージという強力な参照項があり、パネリストのふたりが「実験音楽」という言葉を(歴史的に)引き受けているという条件がさいわいして、話のまとまりがよかったのだが、コンセプチュアル・アートを参照項にしようとした今回は、ループラインという場所が、これほどに立ち位置も資質も異なった人々の集まる場所になっているのだ、という事実をあらためてつきつけられるようななりゆきになった。20世紀前衛芸術運動におけるコンセプチュアル・アートや、個々の演奏を成立させるときに考慮されるコンセプトという切り口で三人の語りを通分するようなことは、最初からできない相談だった。


 角田俊也氏は、コンセプチュアル・アートと実験音楽の関係を実証的に跡づけることはむずかしいと前置きしながら、その黎明期に活躍したスタンリー・ブラウンによる「純粋歩行」の作品を紹介しながら、コンセプチュアル・アートが具体的にどういうものかを解説し、あわせて氏自身の関心のありどころを述べた後、ヴァンデルヴァイザー楽派のマンフレート・ヴェルダーの演奏を例示して、その対比をおこなった。最後に、角田氏自身のフィールド・レコーディングの録音も紹介された。

 二番手の宇波拓氏は、自身があくまでも音楽家/演奏家であることを強調しながら、その場のコンテクストを逸脱/攪乱/異化するような要素を導入する手法について述べるだけでなく、宇波氏ならではのホラー・コメディーな趣味に立脚しながら、音楽監修でかかわった沖島勲監督作品『一万年後』や『怒る西行』のこと、スペキュレイティヴ・リアリズムという日本にあまり紹介されていない思想に関連して、Ray Blassier『Nihil Unbound』、Thomas Ligotti『My work is not done』などの著作について触れ、さらに宇波氏がスコットランドの音楽祭で知りあったという打楽器奏者ジャロット・ファウラーが奉じていたバクテリア・ベースの思想 “ディープ・エコロジー” などを紹介してから、それが氏自身の実作にどう反映されるかを解説した。

 最後の平間貴大氏は、プロジェクターを使った履歴の展示とともに、具体的な創作過程について触れつつ、氏がこれまでたどってきた活動を紹介した。オフサイトで聴いた秋山徹次、中村としまるの演奏に感銘を受けたこと、自分の活動をするときに演奏者はいらないと思い、つねにレコーダーを携帯して即興演奏としてのカセット録音をはじめたこと、それをやめてからは、即興的な要素を次々に捨てていく方向へと進み、Macの音楽ソフトであるガレージバンドを使って、演奏時間を4分33秒に限定した曲を50曲ぐらい作ったことなどついて述べ、いくつかの作品をプレイした。


 個別の話につづくフォーラムは、これは方向性の異なる三者の間でトークを成立させることが優先したということだと思うのだが、この日のテーマについて議論するというより、個々の話の内容をめぐる雑談のようになり、奇抜な発想を展開する最年少の平間貴大氏の「新人類」ぶり(古びた表現でもうしわけない)に、司会を含めた各自が、それぞれの立ち位置を照らし出すような格好で話が進行していった。タイトルから現代美術の議論を期待されていた観客の方には、羊頭狗肉を売る類のフォーラムになったのではないかと恐縮する。



 最後にもうけられた宇波拓氏によるデモンストレーション・ライヴは、時間も押していたので休憩をとらず、フォーラムにつづけておこなわれた。ステージ中央にエコーを深めにかけたマイクが一本セッティングされ、パネリストの全員が客席にはけると、準備をすませた宇波氏は、カウンターで本日の料金を払い、ドリンクを注文してから、あいていた高いスツール席に腰をかけた。


 そのままなんのパフォーマンスもおこなわれず、時間だけが経過していく。これはどうやら、過去に何度かおこなわれたことのある「ノン・イヴェント」というイヴェントであるらしかった。観客席のどのくらいの人が事態を了解していたのかわからないが、誰ひとりとして騒ぎだしたり、席を立ったり、怒りはじめたりしなかった。みんなじっとしている。ジョン・ケージの「4分33秒」の再演に、誰もがわけしり顔で立ちあうのとよく似ていた。


 とはいえ、「ノン・イヴェント」とはいうものの、実際になにもおこなわれないわけではなく、この会場の雰囲気を見てとった宇波拓氏は、「みなさん2000円もはらってこんなですよ!」といったような挑発的な発言をくりかえすだけでなく、イヴェントを終わらせるために客電をつけたり、誰もいないステージに、紙つぶてやガラスコップを投げこんだりした。ガラスコップは割れることなく(あとで聞くと、どうやら割れる予定になっていたらしかった)、大きな音を立てて床に転がり、その音をエコーを効かせたマイクがひろった。宇波氏があれこれ手をつくしても観客は微動だにせず、いっこうに「ノン・イヴェント」が終わる気配をみせないので、最後に、宇波氏にうながされて、司会者の私がステージのマイク前に立ち、観客席にお礼の挨拶を述べて、無事?お開きとなった。ループラインでは、観客も手だれだったのである。


[初出:mixi 2011-02-26「実験音楽とコンセプチュアル・アート」/加筆修正のうえ転載]
 

2011年10月6日木曜日

今井和雄の振動する世界


 即興演奏とのかかわりを議論したシリーズ最終回の「実験音楽を語る」では、フォーラムに先立つ冒頭の30分で、今井和雄のデモンストレーション・ライヴがおこなわれた。振動する世界、世界は振動するというヴィジョンをコンセプトに組み立てられた装置は、大小のヴァイブレイターやモーターで動くガジェットが、金属ボウルや金属板などに触れて発するノイズを、コンタクト・マイクで拾って拡大するというもので、パフォーマーの周囲に配置された震動源がひとつずつ “点火” されることで、場がゆっくりとヴァイブレーションで満たされていくという過程を、そのまま演奏にするものであった。はたしてこれが大震災を意識したパフォーマンスだったのかどうか、後半のフォーラムで本人に確認し忘れてしまったが、いずれにせよ、災後10日という直近の時点でのイメージ連鎖は避けられないだろう。ひとつひとつの発音源は、美術的なオブジェというより、生命力が宿った呪物のようで、固有の存在感をたたえていた。準備に長い時間をかけながら、パフォーマーの周囲にぐるりと円を描いてインスタレーションしていく際、今井があれこれのオブジェを指して、「この人」と呼んでいたのがとても印象的だった。



[初出:mixi 2011-04-05「振動する世界」/加筆修正のうえ転載]  
 
 

十年来の友人

2011年3月21日・千駄ヶ谷ループライン。シリーズ「実験音楽を語る」開場前

 ステージいっぱいに広げたオブジェを使っておこなうデモンストレーション・ライヴのため、早目に会場入りした今井和雄のセッティング作業を片目に、本を読み、雑談を交わしながら、少しずつ緊張感を高めていくようだった秋山徹次(左)と中村としまる(右)は、「蟬印象派」のデュオとしても活動する十年来の友人である。ベタベタとするわけではないにもかかわらず、ふたりの間には、なんともやわらかい空気感がかもしだされている。「盤上盤外」の言葉どおり、ステージ上で演奏するときもトークするときも、あるいはステージの上でも下でも、環境に対するミュージシャンのふるまいかたは変わらない。それを日常生活とステージとが地続きになっているということもできるし、ステージの外においてすでに演奏がはじまっているという言い方もできる。だから、本当のことを言えば、ステージの上で特別な話をする必要もないのだが、同時に、そうしたなんの変哲もない話が、「飲み屋の会話」であってはならないというむずかしさを備えている。私たちがそこですることになるのは、公的な表明をともなう語りのスタイルをとることで、はじめて語ることが可能になるような内容のことを語るということなのだろう。この日の秋山徹次は、ギター演奏するときとは別の帽子をかぶってきた。それは彼があるスタイルを選択してここにやってきていることを示している。すでにトークがはじまっているのだ。


[初出:mixi 2011-03-23「十年来の友人」]  
 
 
 

2011年10月5日水曜日

実験音楽と即興演奏

第3回パネリスト。左から、秋山徹次、中村としまる、今井和雄


シリーズ「実験音楽を語る」第三回
実験音楽と即興演奏
出演: 今井和雄 秋山徹次 中村としまる
日時: 2011年3月21日(月・祝日)
会場: 千駄ヶ谷ループライン
(東京都渋谷区千駄ヶ谷1-21-6 第三越智会計ビルB1)
TEL.& FAX.03-5411-1312
開場: 19:00,開演: 19:30
料金: ¥2,000+order
司会進行: 北里義之 企画構成: 音場舎
主催: 音場舎


♬♬♬


 フォーラム「実験音楽を語る」シリーズの最終回<実験音楽と即興演奏>は、今井和雄、秋山徹次、中村としまるのお三方をゲストパネラーに迎えた。セッティングに時間がかかるため、バイブレーションを発する様々なオブジェふうの小物類を、演奏者の周囲に配置しておこなう今井氏によるデモンストレーション・ライヴ(30分)を冒頭でおこなった。休憩時間にステージを入れ替え、各パネラーの前に丸テーブルを配した後半のフォーラムは、最初に、中村、秋山、今井の順で、個別の演奏や方法論をめぐるお話をいただいてから、次のステップでフリー・トーキングをおこなうという、これまでの「実験音楽を語る」に準じる流れで構成した。

 フォーラムのなかばにいれた短い休憩時間に、「実験音楽と即興演奏」のテーマに関する部分が見えてこないという会場からの意見をいただき、トークの後半は、司会者である私の見解を述べることから、議論の糸口を探すこととなり、60年代のニュー・ジャズ/フリー・ジャズの時期、あるいは現代音楽が即興演奏と深く関わった時期に試みられた社会モデルとしての即興演奏という、今回のテーマに対する私自身の基本イメージを話した。既成の社会モデルから新しい社会モデルに移行するときの破壊/切断に、実験性や即興性が重要な役割を果たしてきたからだ。個別の話のなかで、今井氏がマージナル・コンソートの活動に触れていたので、それまでの議論に関係づけられる点も幸便だった。

 しかし本来なら、そうしたどこかで聞いてきたような話をするのではなく、個々の演奏家の実践のつきあわせから、現代の即興演奏における社会形成の問題がどうなっているのかを、拾いあげていきたかったというのが本心である。結果的に、現代ではそのような問題意識がまるで消失してしまっているし、思い出されもしないという事実を知るようなことになったとしても、それはそれでひとつの成果だと思うのだが、活動における個別性が重視されるなかで、なかなかそうした話にまで踏みこんでいけないというのが、現代の即興シーンのみならず、どの表現領域においても広く見られる傾向である。

 こうした議論のなりゆきは、これまでの混民フォーラムでも何度となく経験してきている点であり、批評も音楽の現場も、まったく選ぶところがない。もしかすると、テーマ設定そのものに問題があるのかもしれない。今後に残された問題点だろう。

 個人的な見解であることを断りながら、私なりに結論をまとめると、即興演奏は、あるいは考え方によれば実験音楽も、デレク・ベイリーやジョン・ケージのような、制度化した大文字の固有名を扱うなかでなければ一般的な議論ができず、個別の実践の領域はバラバラということなのだと思う。中村としまる氏は、それのどこがわるい、音楽というものはもともとごく個人的な出来事だ、自分はこの場所を離れようと思わないし、離れることもできないし、離れることがいいとも思わない、という趣旨のことを明言したが、おそらくこれが多くの演奏家の偽らざる(あるいは、自分の発言に責任をもつことのできる)本心なのではないかと思う。

 フォーラムのなかの発言ではなかったが、秋山徹次氏は、それを「飲み屋の会話」と呼ぶことで批判し、個別の発言を越えるような議論を成立させるスタイルを模索するところがあった。実際にも、現代美術の領域におけるグリーンバーグとジャクソン・ポロックの関係で批評と実践の問題を例示し、冒頭でおこなわれた今井氏の演奏を「実験音楽とか、音楽の実験性を議論するのに適切な演奏だった」と評価することによって、議論の共通基盤を求めるというように、司会者以上に議論の一般化に努力されたと思う。

 ループラインの存続中に実験音楽に関連したフォーラムを開催するという大枠があったため、即興演奏を扱いながら、議論の方向が限定されたものになったことはいたしかたない。それでも、私にとって、即興演奏の話は興味深い。すでにそのようなものがあると一般には信じられていないだろうが、即興演奏の中心を射抜くような議論の構築に、あらためて取り組んでみたいと思った。


 即興演奏に限らず、誰もが守ろうとしている私的領域のありようなどというものは、いみじくも今度の大震災が示したように、公共圏や公共的領域が危機にさらされるようなときには、いくらでも組み変わってしまうものだ。もし即興演奏の歴史というものがあるとしたら、それはまさしくそのようなもの、すなわち、社会の流動性のなかの出来事だったと思われるのであるが、いまでは誰もそのことに触れようとしない。これまた現代的な現象だと思う。即効力のある処方箋が書けるわけではないが、受け身のままでいいとも思えない。なにかがなされるべきだろう。



[初出:2011-03-22「実験音楽と即興演奏」/加筆修正のうえ転載]
 
 

2011年10月4日火曜日

mori-shige&パール・アレキサンダー



WINDS CAFE #169
チェロとコントラバスによる即興演奏
── mori-shige & Pearl Alexander DUO ──
日時: 2011年1月30日(日)
会場: 東京/西荻窪「トリア・ギャラリー」
(東京都杉並区西荻北5-8-5)
開場: 1:30p.m.,開演: 2:00p.m.
料金: 投げ銭制(入場無料)
出演: mori-shige(cello)
パール・アレキサンダー(contrabass)


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 西荻窪のトリア画廊で、ユニークな音楽性で独立独歩の道をいくチェロ奏者の mori-shige と、まだ20歳代にもかかわらず、単身日本の即興シーンに飛びこんで活躍中のアメリカ人コントラバス奏者パール・アレキサンダーによる即興セッションがおこなわれた。

 第一部は、mori-shige、アレキサンダーの順でおこなわれたそれぞれのソロ・インプロヴィゼーション(22分/17分)、第二部はデュオ(26分)というシンプルなライヴ構成で、毎年来日しているフランスのチェロ奏者ユーグ・ヴァンサンと mori-shige のデュオが、このデュオならではといった絶妙のかけひきを味わうことのできるオリジナリティを獲得しているのにくらべると、過去数回の共演というふたりのデュオは、アレクサンダーの演奏スタイルが確立されていないということもあるのだろう、いまだセッションの域を越え出ていないように思われた。

 沈黙を多用しながら、変則的な奏法から生まれるいくつもの弦楽ノイズを組みあわせて演奏を構成していく mori-shige に対し、クラシックの素養があるパール・アレキサンダーの演奏には、技術の確実さに裏づけられた確乎とした動かしがたさがあり、ミニマルなサウンドの変化を追うスタイルによく似た部分があるとはいえ、mori-shige の音楽がもっている欲望の絶対的スピードとでもいうようなものとは、むしろ好対照をなす演奏を展開する。それはアレキサンダーが別にトリオで活動している斎藤徹のパッショネートな音楽性とも、似たようで違ったものであり、おそらく現在の彼女は、タイプの違う演奏家たちと即興セッションの機会を多くもつことによって、演奏テクニックには還元することのできない、プレイヤーの人間性と強烈に結びついたサウンドのありようといったものを吸収している真最中なのではないかと思われる。
 高音部をノイジーに気持ちよく滑走していく mori-shige のチェロの、饒舌で、快楽的な演奏と、低音部でよりリズミックなサウンドの塊を作りだしていくコントラバスの鈍重さは、それぞれ別の方角を指し示し、別の領域を動いているように聴こえた。コントラバスの響きの鈍重さは、演奏技術やインスピレーションの不足からくるものではなく、アレキサンダーが考えながら演奏するための遅れであったり、楽器解釈を含む演奏のヨーロッパ性とでもいったものに淵源していると思われる。おそらくは正規にクラシックを学んだことが、彼女にとって音楽形成の重要な部分をなしているということなのだろう。自分の置かれている状況を冷静に判断することのできるアレクサンダーには、そのときどきの感興に大きな影響を受ける即興演奏の到達点も、おそらくおぼろげながら感じられているのではあるまいか。

 アレクサンダー本人がいうには、彼女が活動の場として日本を選択することになったきっかけは、アメリカを訪れた斎藤徹のワークショップに参加したからだという。しかしながら、日本での彼女の積極的な活動の様子を見ていると、欧米で即興演奏の研鑽を積むのではなく、あえて極東の日本という迂回路を選択し、斎藤徹や mori-shige といった、強烈な個性をもった演奏家たちとの共演を選択しているのは、けっして偶然のきっかけばかりではないように思われる。回答は未来にしかないだろう。

 毎年のようにやってくる来日組は別にしても、ジム・オルークにせよ、トッド・ニコルソンにせよ、ケリー・チュルコにせよ、彼らが一時的にでも日本の音楽シーンに拠点をもち、そこでなにを見ているのかは興味のあるところである。東京は国際都市だからというようなありきたりの一般論で終わらせるのではなく、演奏活動を通じた日々の実践のなかで、彼我が見ているものの違い、聴いているものの違いを確認してゆく作業が、とても大事なのではないかと思われる。

西荻窪にあるトリア画廊

扉をはいると本日の演目のお品書き





















[初出:mixi 2011-02-14「mori-shige&Pearl Alexander」/加筆修正のうえ再掲載
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トリア・ギャラリー http://www.toriagallery.com/
 
 

2011年10月3日月曜日

パール・アレキサンダー&柿崎麻莉子


Contemporary Dance & Music
パール・アレキサンダー+柿崎麻莉子
日時: 2011年2月26日(土)
会場: 東京/神田「楽道庵」
 (東京都千代田区神田司町2-16)
出演: パール・アレキサンダー(b)
柿崎麻莉子(dance)
料金: ¥2,000
予約・問合せ: 03-3261-8015(楽道庵)


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 コントラバス奏者パール・アレキサンダーとダンスの柿崎麻莉子という、女性ふたりの表現者によるダンスと即興演奏の夕べが、神田のヨガ道場「楽道庵」で開催された。観客席には、斎藤徹や mori-shige といったパール周辺のミュージシャンも顔を見せていた。暗転したステージの暗がりで手を動かしはじめるダンスではじまり、最後はたったひとつともった天井の電球が消えていくのを必死に呼び戻そうとするかのように、あえぎながら激しくからだを動かすダンスとともにおわっていく45分のパフォーマンスは、沈黙のなかから出来事を起こし、沈黙のなかへと出来事を帰していく、印象的なステージであった。

 身ぶりが固有のイメージや風景を喚起するというのではなく、手や足の動きが機械的な身体を描き出すというのでもなく、指の爪を立てるように床に触れ、存在を確かめるようにして両手でみずからのからだに触れ、まるでそこをはいあがろうとするかのように壁に触れというように、両手の指が生々しく世界を触れまわるさまから動きを立ちあがらせる柿崎麻莉子は、いうべきことをもったダンサーだった。からだの動きはいくつかの場面の連結によって構成されていったが、なかでも全身を痙攣させるように小刻みにふるわせ、次第に強く床を踏み鳴らし、最後には部屋全体を振動させたクライマックスは、優雅なアレキサンダーの即興演奏と対照的な、荒ぶる魂の発露を思わせた。

 柿崎のダンスに少し遅れてスタートしたアレキサンダーの演奏は、優しくパストラルな弦の響き(作曲されたモチーフのように感じられた)を冒頭に配したもので、中間部では、即興演奏の語法を経めぐりながら、シークエンスの接続によって流れるような時間を構成していった。瞬発的な動きによって、鋭角的に場面を連結していく柿崎に対し、伴奏するようなあわせ方をすることもなく、かといって柿崎の感情を劇化するようにダンスを煽ったりすることもないアレキサンダーの演奏は、最初のパストラルなサウンドの提示に見あうようなゆったりとしたバイオリズムのままに、ダンスとは別の時間軸を織りなしていた。

 ステージでは性格の異なるふたつの出来事が同時進行していたということができるだろう。近くにいるのに触れることのないこうした両者の関係性に、触れることがダンスの重要な構成要素のひとつになっていた柿崎は、アレキサンダーの周囲を回ったり、スポットライトに照らされて背後に長くのびたアレキサンダーの影のなかで踊ったりと、まるで仔猫がじゃれるような場面をいくつも作っていたが、これはそうすることで縮まるような種類の距離ではなかった。おそらくそのことをじゅうぶん承知のうえで、柿崎はアレキサンダーにからんでいったのではないかと思う。

 振幅の少ない、ゆったりとしたバイオリズムのなかで展開するパール・アレキサンダーの即興演奏は、いつも共演している斎藤徹や mori-shige と異なり、激しい感情表現をともなうことのない即物的なものということができるように思う。過剰なものをあらしめる演奏の絶対的スピードを重視するよりも、むしろひとつひとつのサウンドを、静物画を描くようにして、ていねいに場のなかに置いていくという演奏になっている。即興的な自己表現の点においては、楽器を演奏者固有の色で染めあげることのない、ニュートラルな性格をもったものといえるだろう。端的にいってしまうなら、ありようはクラシカルであり、その意味で、西欧的な普遍性を感じさせるものとなっている。むしろそのことが、異端だらけといってもいい日本の即興シーンにおいて、これまでになかった演奏の広がりやネットワークを可能にしていくことになるかもしれない。



[初出:mixi 2011-02-27「パール&柿崎麻莉子」/大幅な加筆のうえ転載]

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