音舞奏踊地点
日時: 2013年2月8日(金)
会場: 東京/阿佐ヶ谷「イエロービジョン」
(東京都杉並区阿佐谷北2-2-2 阿佐ヶ谷北2丁目ビルB1)
開場: 7:30p.m.、開演: 8:00p.m.
料金: ¥1,500+1 drink order
出演: 【第一部】照内央晴(p)+石原 謙(ds)+木村 由(dance)
【第二部】ARIA/しゃあみん(vocal, guitar)
【第三部】本田ヨシ子(voice)+長沢 哲(perc)+木村 由(dance)
予約・問合せ: TEL.03-6794-8814(イエロービジョン)
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木村由のダンスは、ちゃぶ台ダンスのようなテーマ性のあるものでも、すべてがステージ上でのただ一度きりの身体のたちあらわれをめざすものといえるだろうが、容易に見てとれるように、ソロ、デュオ、トリオ、カルテットと、パフォーマーの数による公演形態の相違によって、ダンスの方向性が条件づけられている。もちろんこれは、数によってパフォーマンスの前提となる関係性が決定されてしまうからで、音楽の即興演奏にも通じる数のマジックだ。たとえば、無伴奏でおこなわれるソロでは、自然光と投光器の相違はあれ、いずれも光の粒子のなか(あるいは影のなか)で、なにかをとらえようとして動きや身ぶりがくり出されてくるが、即興演奏とのデュオになると、等しく投光器を使用しても、時間と空間という二重焦点を持ったパフォーマンスの場の楕円構造が前面化してくるといった具合なのである。当然のことながら、動きや身ぶりがとらえようとするものは、まったく別のものとなる。ドラマーの石原謙とのコラボレーションによって企画され、この日が初共演となるふたつのトリオ演奏が試みられた「音舞奏踊地点」は、本田ヨシ子/イツロウとの「絶光 OTEMOYAN」がそうであるように、ふたりの演奏家が作りあげる音楽(構造)のなかにダンスが侵入していくことで、デュオの楕円構造を解消するという方向にむかうものだった。
第一部は、すでに二度のセッションを経験しているピアニストの照内央晴に、ドラマーの石原謙を加えた編成で、また “しゃあみん” のギター弾き語りのあと、第三部は、別々に共演しているヴォイスの本田ヨシ子と打楽器の長沢哲を引きあわせる形で、ふたつのトリオ演奏がおこなわれた。センターに位置した木村は、ふたつのセッションの冒頭で、前者では壁に顔を向けたまま、後者では本田の横に座ったまま、はっきりとした動きをせずにデュオによる演奏を先行させた。音楽にあわせてダンスしてしまうことが表現を弱いものにしたり、セッションを通俗的なものにしたりすると考えている(らしい)木村は、共演者と別のことをするため(あるいはパフォーマンスの楕円構造を維持するため)、デュオ演奏ではオリジナルに空間構造をアレンジすることが多いが、ひとつの音楽内でのパフォーマンスを条件とするトリオ演奏では、おそらく意図的に出遅れることで時間的なズレを作り出し、ダンスの自律性を確保しようとしたのではないかと思われる。このことから、「音舞奏踊地点」のセッションにあっては、ダンサーである木村もまた、第三の演奏家としてステージに立った、あるいは時間的に動きを配分していく音楽的なダンスをした、というようにいうことができるだろう。もちろんこれには、せまいイエロービジョンのステージに三人がならべば、背中の壁と足もとの床にしかダンススペースが確保できないという、実際的な条件にもよっている。
最初のトリオ演奏では、演奏の冒頭、機先を制してアグレッシヴに出ようとする石原のドラミングと、そのスピードをはずしながら、静かなすべり出しを提案する照内の間でかけひきがあったが、これは木村が壁に面して “沈黙” を守っていたことも手伝い、おそらくは多数決原理から、ピアニストにリーダーシップが渡ることになった。ダイナミックレンジを広くとって演奏する石原謙の打楽は、パルスによって無窮動の流れを作り出すフリージャズ的なものではなく、激しい場面を強打を連続によって、静かな場面をミニマルなサウンドを点描的につないで構成していくものだった。対する照内は、持参したエレピアンの機能を生かして、エコーのかかった音やオルガン・サウンドなど、いつもの彼からは予想のできないいくつかの音色を使った演奏もして、音楽に幅を持たせていた。ふたりの演奏家の間には、どうしても組みあわないパズルのような、漠然とした曖昧な領域が開けていた。これが音を出さないダンサーがいることによるのか、初対面の手探り状態を証言するものなのか、ふたりの演奏スタイルが根本的に違っていることによるものなのか、あるいはそのどれもが少しずつなのか、明確にいうことはできないのだが、演奏はこのもどかしい部分を抱えたまま最後まで推移した。
二番目のトリオ演奏は、休憩時間が終わらないうちにはじまった。床に音響機器を並べ、座りこんでサウンドチェックをしようとした本田ヨシ子の声出しが、そのまま本番に移行したようだ。ループで重ねられていく幻想的なコーラスと長沢のシンバル・サウンドはことのほか親和的だったが、そればかりでなく、ミニマルな響きをていねいにつないでいく繊細なドラミングや、語りかけるようなリズムが本田の声にうまくマッチして、余白を多くとった、浮遊感覚のある音楽空間を生み出していった。声も打楽も、ともに根源的なサウンドであるところから、特別な親和力を発揮するようである。木村のダンスの流れも、椅子を使って展開を試みるなどした前半よりもスムーズで、最後に演奏家ふたりを残してステージを降りるという選択も、デュオに直接対決をさせる効果を生んで、意外性のある結果をもたらしていた。トリオの演奏からひとりが抜けてデュオになる場面は、即興演奏では日常茶飯事だが、ダンスの場合、このようにいったんステージを降りるのが、「抜けた」ことを明確にしていい選択なのかもしれない。慣れが解決する問題なのかもしれないが、現時点のこととしていうなら、ダンサーの身体を内側から生きるわけではないミュージシャンにとって、なにもしないでステージにいる身体が、果たしてそのようなダンスをしているのか、あるいは演奏からオフの状態になっているのか、直感ではつかまえにくいからである。■
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