2012年1月22日日曜日

宵(酔い)どれ黒海周遊ジャズツアー 十番目の航海

左から、泉秀樹、岡島豊樹、片岡文明の諸氏


宵(酔い)どれ黒海周遊ジャズツアー
第10回ウィンター・ヴァケーション篇:イタリア特集第2回
イタリア・フリーその後
featuring
イタリアン・インスタービレ・オルケストラ
会場: 吉祥寺「サウンド・カフェ・ズミ」
(東京都武蔵野市御殿山 1-2-3 キヨノビル7F)
開演: 2012年1月15日(日)5:00p.m.~(3時間ほどを予定)
料金: 資料代 500円+ドリンク注文(¥700~)
添乗員: 岡島豊樹(「ジャズ・ブラート」主宰)、片岡文明
主催: サウンド・カフェ・ズミ


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 昨年末、聖夜の晩に開かれたイタリア特集第1回「SUDから来た男とイタリア・フリーの流れ」は、1960年代、70年代の貴重なアナログ盤を多数所蔵している片岡文明が中心となって、1990年代のイタリアン・インスタービレ・オルケストラ結成へといたるイタリア・フリージャズの原点を、ジョルジォ・ガスリーニ、マリオ・スキアーノ、エンリコ・ラーヴァといった巨匠たちのアルバムで再確認するというものだった。1月15日に開催されたイタリア特集第2回「イタリア・フリーその後」は、ナビゲーターを岡島豊樹にバトンタッチし、イタリア半島の靴の踵あたりに位置するルヴォ・デ・プーリアを拠点にするピノ・ミナフラの提唱によって、イタリアン・インスタービレ・オルケストラに結集することになった新旧のメンバーを中心に、現代イタリア・ジャズの諸相を総覧する回となった。

 選曲はイタリア音楽の独自性を意識したものだったため、西ヨーロッパで花開いた即興シーンとの交流よりも、むしろ郷土意識の強い音楽作りの側面に光があてられる格好となった。「90年代が進む中、イタリア・ジャズ・シーンでは、オーソドックスなバップ系ジャズメンの中にも、『イタリア性』『地中海的多様性』『南イタリア性』を打ち出す人が増えはじめました。」(当日配布のレジュメより)サウンド・カフェ・ズミの泉秀樹が、ニュージャズ/フリージャズが開いたインターナショナリズムに力点を置いた議論を展開するのと比較すると、この「地中海的多様性」は、岡島の紹介にあるように、あくまでも「再発見された地中海」であり、対抗文化的な意味合いを持されたインナー・マルチカルチュアリズム(地中海が内海であることをふまえた「インナー」という意味だが、ポストモダンの議論を視野にいれたうえで、あえて翻訳するなら「内破する多文化主義」ということになるかもしれない)というように定義できるのではないかと思われる。フリージャズの伝統がイタリアに引き継がれていったというよりも、むしろそこで一度「反転」しているのではないかという印象を強く受けたのである。地中海の影すら見えなかった西ヨーロッパの即興シーンでは、国別の音楽圏の特徴が前面に押し出され、今にいたるまで、イタリアで起きたような出来事は生じていないように思われる。

 当日かけられたアルバムは以下の通り。

(1)Carlo Actis Dato Quaretet『Delhi Mambo』(YVP, 1998年)
(2)Roberto Ottaviano『Aspects』(Ictus, 1983年)
(3)Enrico Rava/Massimo Urbani『Live at JazzBO '90』
(Philology, 1990年)     
(4)Gianluigi Trovesi & Paolo Damiani『Roccellanea』(Splasc(h), 1983年)
(5)Paolo Damiani Opus Music Ensemble『Flashback』(Ismez, 1983年)
(6)Gianluigi Trovesi & Janni Coscia『Radic』(Egea, 1995年)
(7)Pino Minafra Quintet『Colori』(Splasc(h), 1985年)
(8)Pino Minafra『Quella Sporca 1/2 Dozzina』(Splasc(h), 1989年)
(9)Carlo Actis Dato Quartet『Ankara Twist』(Splasc(h), 1989年)
(10)Italian Art Quartet『Italian Art Quartet』(Boxes Ed., 1987年)
(11)Geremia - Tommaso - Damiani『Italian String Trio』
(Splasc(h), 1993年)     
  ※イタリア・ジャズの郷土意識を聴く
(12)Nexus『Free Spirits』(Splasc(h), 1994年)
  ※Nexus:Daniele Cavallanti, Tiziano Tononi
(13)Eugenio Colonbo『Giuditta』(NelJazz, 1995年)
  ※「Giuditta」は『聖書外伝ユデット書』を素材にしたもの。
(14)Italian Instabile Orchestra『Live in Noci and Ruvo de Gier』
(Leo, 1992年)     
   ※インスタービレ・オルケストラのアルバム・デビュー盤。
(15)Italian Instabile Orchestra『Litania Sibilante』(Enja, 2000年)

 【現代イタリア・ジャズの諸相 - バーリ、ナポリ、サルディーニア、シチリア】
(16)Pino Minafra Sud Ensemble『Terronia』(Enja, 2005年)
(17)Daniele Sepe『Viaggi fuori dai paraggi』(Il Manifesto, 1996年)
(18)Marco Zurzolo『Ex Voto』(Egea, 2000)
(19)Paolo Fresu, Antonello Salis and others『Sonos'e Memoria』
(ACT, 1996年)     
(20)Gianni Gebbia『The Mystic Revelation』(Curva Minore, 1990年代)
(21)Giorgio Occhipinti『The Kaos Legend』(Leo, 1993年)

 なるほどジョルジォ・オッキピンティのピアノには強いジャズ色が感じられるものの、現代イタリア・シーンの諸相に触れてみると、郷土性を意識する彼らが、モダニズムとして受容したニュージャズ/フリージャズを内破していった先にあるものは、総じて「イタリアン・ポピュラー・ミュージック」としか呼びようのない、(ジャズをその一部に持つ)複雑な音楽の混合体だといえるのではないだろうか。「宵(酔い)どれ黒海周遊ジャズツアー」は、ジャズと世界音楽の接点において、このようなことが日常的に起こっていることを紹介してきたということであろうが、ニュージャズ/フリージャズを大きく特徴づけた、モダニズムやアヴァンギャルドの精神から接線を引いてみるとき、合衆国はもとより、西ヨーロッパにも、また日本にも、こうした音楽の混合体が生まれているようには見えない。波の彼方からなにがやってくるかわからない、広大な無意識とも呼べるような地中海に半身を(もしかすると「全身を」かもしれない)浸したイタリアの土地柄は、「土着と近代」という有名なテーマが、音楽においても全面衝突する文化のメルティング・ポットになっているということなのだろう。

 第11回の「宵(酔い)どれ黒海周遊ジャズツアー」は、バルカン・旧ユーゴ系の音楽を特集する予定とのこと。■

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吉祥寺サウンド・カフェ・ズミ
 

2012年1月21日土曜日

パール・アレキサンダーのにじり口


Pearl Alexander presents "Nijiriguchi"
パール・アレキサンダー:にじり口
日時: 2012年1月15日(日)
会場: 東京/新宿「喫茶茶会記」
(東京都新宿区大京町2-4 1F)
開場: 2:30p.m.,開演: 3:00p.m.
料金/前売り: ¥2,300、当日: ¥2,500(飲物付)
出演: 
パール・アレキサンダー(contrabass)
中村としまる(no-input mixing board)
予約・問合せ: TEL.03-3351-7904(喫茶茶会記)



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 コントラバス奏者パール・アレキサンダーが、喫茶茶会記で新たにスタートしたコンサート・シリーズ「にじり口」のタイトルは、背を低くして、にじりながらでなくては入ることができない茶室の入り口のことで、おそらくは公演場所にちなんでつけられた洒落なのであろう。しかしそればかりではなく、茶室のように極小の空間が、それ固有の美学や宇宙観を持っているように、「音の隠れ家」という銘のはいったプレートが玄関に掲げられたこの場所も、おなじように主宰者の美学や宇宙観によって彩られていること、そこでおこなわれるライヴ・パフォーマンスは、茶の湯をふるまう儀式のなかに凝縮されたコミュニケーションと同質の濃密さをたたえたものである(べき)ことを含意している。フリー・インプロヴィゼーションが最もその特質をあらわにするデュオという形式にとって、幅広で、天井の威圧感がなく、PAなしでも部屋の隅々にまでじゅうぶんに音が届く喫茶茶会記は、最適の環境を提供する場所のひとつといえる。

 記念すべき第一回のゲストは中村としまるだった。公演はそれぞれ30分程度の演奏を前半と後半にわけておこない、アンコールはなし、ライヴの最初と最後には、主催者のパール・アレキサンダーから簡単な挨拶があった。通常の即興セッションにしては短めのライヴといえるだろうが、これまで経験してきた中村としまるの即興セッションのなかには、さらに短く凝縮されたパフォーマンスがあったので、演奏時間について極端な印象は受けなかった。そのときは、たしか20分の2セットと記憶しているのだが、張りつめた演奏を聴いたあとで、それでも音楽の満足度とは別に、演奏時間が短かすぎることは気にならないのかということを、中村に直接たずねたことがある。内容より時間を気にするあまり、不必要な演奏をして結果がよくなくなるのだったら、短いほうがずっといいではないかというのが彼の返答だった。また、最近では、演奏がだんだん短くなっていく傾向にあるともいっていた。このような時間の(あるいは時間経験の)凝縮傾向は、けっして気分や気まぐれの問題ではないだろう。

 短歌や俳句に見られるように、表現を節約して余白を大事にするというのは、日本人の伝統的な美学にもなっている。中村としまる本人は、音響的即興にひとくくりにされるような日本人の演奏の背後に、日本文化の特殊性を読むことに懐疑的だが、そこに欧米の演奏家にはない、あるいは欧米の演奏家とは、発想の点においてどこかずれてしまう、身体化された(ということは、演奏者が意識していなくても、ということである)独特なサウンド構成のやり方があることは間違いないように思われる。あるいは、おなじような演奏をしても、流れのなかでの意味づけがまったく違っているという言い方もできるだろうか。

 様々なタイプのミュージシャンと幅広く共演しているパール・アレキサンダーのインプロヴィゼーションは、現場で鍛えあげられ、日進月歩の勢いで進化/深化している。聴くたびに、彼女のなかの違う側面が、少しずつあらわになりつつあるように思う。積極的な活動は、30歳を目前にして、ひそかに期するところもあるのだろう。その意味では、コンサート・シリーズ「にじり口」は、彼女の新たなステップというべきものなのである。ライヴの前半は、おそらく中村としまるがしかけた趣向で、意識的に演奏のタイミングをはずし、距離をとってサウンドを提示しあうような演奏になった。ギタリスト秋山徹次との “蝉印象派” デュオでは、余白をきわだたせる美学が前面にせりだしてくるところであるが、アレクサンダーは、フリー・インプロヴィゼーション風のサウンド構成をしながら、時間的な対話を求めたために、それこそ “にじり口” が見つからないといったふうだった。人の演奏ではなく、場に聴き耳を立てる(あなたの演奏でもなく、私の演奏でもないような場所を埋めているものに、聴き耳を立てる)という、これは聴き手にも意識の再チューニングが求められる場面である。

 ライヴの後半は、お互いがより積極的にサウンドをぶつけあっていく演奏が展開された。ひとしくノイズを扱うとはいえ、コントラバスの特殊奏法はなおもエクスプレッシヴな演奏(音を自分の内部に置く)であり、新しい音響ガジェットの接続で、意図的に不確定要素を導入するエレクトロニクスの演奏は、すでに一般的な楽器とみなされるようになったとはいえ、その本質においてあくまでも操作的なもの(音を自分の外部に置く)である。これが初共演のデュオは、エレクトロニクス環境(地)のうえにコントラバス演奏(図)を置くというような、安易な役割分担に陥ることはなかったものの、このような楽器特性の間に、どのような “にじり口” が作れるのかを、じゅうぶんに示すことはなかったように思う。この問題へのアプローチは、おそらくインプロヴァイザーとして充実した演奏活動をしているパール・アレキサンダーが、やがて即興そのものの概念を塗り替えていくようになる時点で、可能になるのではないかと思う。■


※「にじり口」フライヤーの写真とデザインは山田真介。 

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喫茶茶会記




2012年1月20日金曜日

夜の音樂



ヒグチケイコ - 神田晋一郎

夜の音樂

日時: 2012年1月18日(水)
会場: 東京/新宿「喫茶茶会記」
(東京都新宿区大京町2-4 1F)
開場: 7:00p.m.,開演: 7:30p.m.
料金: ¥2,000(飲物付)
出演: ヒグチケイコ(voice, vocal)
神田晋一郎(p, toy piano)
予約・問合せ: TEL.03-3351-7904(喫茶茶会記)

──ソングリスト──
【1st set】
how deep is the ocean. バルバラソング. sabia.
神田ソロ. 3月の歌. 3つの太陽.
盈虚. 
【2nd set】
sweet love from four walls. ラブレター. ワルツ.
calling you. 美貌の青空.
昨日のしみ.


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 歌を聴くことは、私にとって、自分の心のなかでかすかに響く鈴の音を聴くのに似ている。「琴線に触れる」という言葉で、古人が指し示そうとしていたことは、もしかするとこういうことをいうのかもしれない。この鈴には、言葉が触れる場合もあるし、声が触れる場合もある。節が触れる場合もある。どれも目の前にいる歌手のものではなく、歌手を通して私にやってくるものである。言葉がやってくる。声がやってくる。節がやってくる。そんなふうにいうべきなのだろう。特別な時間と場所を選んで、私を襲うそのものは、たいていはまったく知らない世界のものなのだが、おそらくはそうであるがゆえになおいっそう、魅力的な輝きを発するように思われる。

 しかしこのことは、いまも多くの人々が歌をそのようなものとして受けとっている、声の贈与、声の言祝ぎということからするなら、歌の死というべきものであるはずである。言葉が言葉としてやってくること、声が声としてやってくること、そしてそれとはまた別個に、節のようなものがあらわれたり消えたりすること。こんなふうに、歌がすでにひとつの身体をもっていないために、私は歌手から呼びかけられることがない。歌手の身体が、あるいはパフォーマンスがしていることは、場所と時間の鋳型のなかに、ばらばらにやってくるこれらのものを流しこむ蝶番役のようなものといえるだろう。あるいはメディア的存在といえるだろう。それはこの時間にだけ、この場所にだけあらわれるものなので、ほんの少し即興演奏に似ている。しかし似ているだけで即興ではないので、演奏がどこかに発展していくというようなことは起こらない。見通しのきかない、海の底のような場所、「夜の音樂」と呼ばれるこの場所に、言葉も声も節も響きも、つぎつぎにふりつもり、滞留していく。

 ヴォイスのヒグチケイコが、神田晋一郎のピアノ伴奏でポピュラーなスタンダード曲を歌うシリーズ「夜の音樂」は、もともと神田がゲストを変えておこなっていたシリーズ公演だったが、ヒグチケイコとの共演が度重なり、アルバムまでリリースする運びとなり、いまのような形に定着したものである。美青年を思わせる端正な神田の演奏スタイルと、声による肉感的なフェイクを身上にするヒグチのコンビは、異色といえば異色のもので、端正なよそおいと底を割ったものが同居するふたりのパフォーマンスは、ポピュラーソングをなにがしかの境界線上に立たせ、不安定に揺れ動くさまを観察しているかのようである。寡黙なピアニストは、ライヴの冒頭、「どうぞ、部屋の出入りはご自由に」と聴衆に告げ、黒いコートに身を包んで「バルバラソング」を歌う女歌手の思いは、はるか昔、場末のカバレットで演じられていた雑芸にオマージュを捧げる趣向に見えた。

 歌の死を告げるための歌。ここは歌の墓場。ロウソクの光だけをたよりに催される墓石の前での一晩の酒宴。マッチ売りの少女が炎のなかに見たつかのまの幻。ゾンビ・ジャンボリー。ポピュラーソングはもはや私たちの共通語ではなく、マッチの炎のなかにあらわれる、はるか遠い記憶のなかの風景のようなものになっている。この場所から見あげると、歌のある方角の空には、まだほんのりと日没後の明るさがさしている。どの歌も、人生の最後に聴かせられる歌のように聴こえるのはそのためだ。神田晋一郎は、いわば昼の世界の司祭であり、巨大なダイダラボッチになって夜の世界をのぞきこんでいる。ヒグチケイコは、いわば夜の世界の女王であり、闇の目を見開いて昼の世界を見あげている。ふたりの間では、伴奏は伴奏ではなく、夜を際立たせる光のようなものといったほうがいいだろう。どのような歌の公演でもお目にかかることのない、こうした移行の時間を、「夜の音樂」は開いてみせる。

 どこで退出しても、どこで拍手してもいいことになっていたが、それぞれ40分ばかりの前半と後半は、黒い厚手のコートを脱いだり、赤いトイピアノを弾奏したりの一幕を含む、演劇的なひと連なりの時間のようになっていたので、その場にいた誰もが、曲ごとに拍手したり席を立ったりすることはなかった。演奏曲目を解説するMCもなく、気分を変えるためか、ときおり歌手が伴奏者のかたわらに立って注文を出す姿も、流れのなかの絵になっていた。しかしながら、私たちが経験している歌の死は、「死」という言葉がイメージさせるものに反して、もしかするとそれほどに劇的なものではないかもしれない。縁の下でひからびた猫の死骸のような、とるにたらないものかもしれない。ある日、ペットがいなくなったことに気がついて探したら、縁の下にひからびた歌の死骸が固まっていた、というようなものなのかもしれない。どちらが恐ろしいかはいわずにおくとしても。■


※写真はいずれもリハーサル時のものです。  




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喫茶茶会記
 

2012年1月8日日曜日

小冊子『Loop Line』


LOOP LINE(坂本由記子・坂本拓也)編
LOOP LINE
発行: Loop Line design: 岸田 灯
発行: 2010年12月28日 頒価: 1,000円


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 千駄ヶ谷にある烏森八幡神社の近くで、2011年の3月まで店を開いていたアート系レンタルスペース「ループライン」が刊行した『Loop Line』は、2010年10月に開催されたシンポジウム「朝まで生LOOP」と連動して刊行される予定だったものが、諸般の事情から延期となり、紆余曲折の末、原稿依頼からほぼ一年をへて完成された小冊子である。ループラインで開催されたミュージシャン主催のオリジナル公演シリーズを、実際にライヴを経験した寄稿者が、演奏者の立場から、あるいは聴き手の立場から紹介することを目的に編まれたものである。

 表紙に書かれてはいないが、「創刊号」に相当する本書の構成は、総論的な杉本拓の「実験音楽入門」を冒頭に、大蔵雅彦、杉本拓、宇波拓が中心メンバーだった「室内楽コンサート」シリーズについて論じた角田俊也「『室内楽コンサート』へのオススメと私見」、木下和重の「Segments Project」シリーズを、みずからの体験に即して論じた星智和「批評屋撲滅宣言 vol.1 ~“Segments Project” を巡って~」という三論考の間に、若手の表現者を紹介した座談会「ジャンルに収まらないものを どう捉えるか」(川口貴大、神田聡、大城真、坂本拓也、坂本由記子)と「平間貴大インタヴュー」の二編をはさみこんでいる。他に、記録として「室内楽コンサート 年表」と「Segments 年表」をそれぞれの記事の後につけ、巻末には、ループライン閉店の挨拶を兼ねた編集後記が掲載されている。ライヴ演奏の写真が多数掲載されていて、シリーズ公演当時の様子を彷彿とさせる。

 本誌で扱われているどの公演も、目前でおこなわれるパフォーマンスを、なにがしかの音楽的出来事として聴くために必要な、演奏者と聴き手の間の共通感覚であるとか、不文律になっている約束事などを、あえて踏み外していくような工夫や奸計が張りめぐらされているため、いざそこで得た経験を書き記そうとするときに、一般的なものとして表現する言葉が存在しないというやっかいな事態が生じている。演奏者を含む聴き手のひとりひとりに、パフォーマンスの多様な意味づけが託されるため、個別の経験は重要視されているが、それが作品鑑賞にとってどうして「正しい経験」といえるのか──実際には、寄稿者の誰一人として、テクストのなかでそのようにいうことはないのだが──つまり、いったい誰が、聴いたり書いたりするこの人は、作品を正しく聴いたり書いたりしていると評価できるのか、あるいはこれらのテクストがどうしてシリーズ公演の紹介と呼べるのかを証明するものが、なにもないのである。

 このことは、杉本拓、角田俊也、星智和が経験したものについては、テクストからおぼろげに想像できたとしても、シリーズ公演が音楽や美術の制度性を逸脱した(あるいは破壊した、あるいは相対化した)行為だったかどうかが、まったく論証不可能だということを意味している。このような自己差異化的な論理の特徴を、音響派時代の佐々木敦は「トートロジー」と呼んでいたのではないかと思う。簡単にいうなら、証明すべきことがすでに結論になっているために、初めに実験音楽ありきというような、神的テクストになっているということである。それは自己の経験に対し、素朴な信頼に立つことなしに不可能な記述といえるだろう。

 以上述べたことは、批判ではない。この領域においては、本誌の執筆者のように、自己の体験に信憑するより他、出来事の一般的な記述など、どこにも存在しないということを述べているのである。テクストを読むあなたの判断は、実際のライヴにおもむくことで得られる「私はそのようには感じなかった」、あるいは「私もまったくおなじように感じた」という経験のうえにしか構築できないはずである。そうであるならば、パフォーマンスの場におもむけばいいのだが、悩ましいのは、テクストに書き記された他者の経験が、二度と反復されることはないだろうということである。しかしそのことを気に病むことはない。というのも、「室内楽コンサート」シリーズ、「天狗と狐」シリーズ、「Segments Project」シリーズというように、ここで「シリーズ」によって名指されているものは、彼らが、固有の経験の多様性を確保しながら、無名のパフォーマンスにアプローチするための、解釈的な枠組みを用意してくれているということだからである。たった一回の経験でも、そこから過去の出来事の記憶や、未来で起こるだろう出来事との対話が可能になっているのである。

 小冊子において「実験音楽」と呼ばれているものを聴こうとするとき、そこにもし人を尻ごみさせるものがあるとしたら、それはたぶん、演奏者よりも、聴き手のすべてが、無知もセンスの悪さも、まるごとさらけだされてしまうからではないかと思われる。そして本誌の寄稿者たちこそは、そのようにして自らがさらけだされてしまうことを最初に引き受けた人たちということができるだろう。

 様々なシリーズ公演を通して、ループラインで起こっていた出来事は、「世界のどこででも起こっていない」といいたくもなるが、そんなことはなく、むしろまったく逆に、世界のどこででも起こっている出来事である。スペースの最終期にこの場所を訪れるようになり、シリーズ公演のいくぶんかを経験した私に、それは特別珍しいことではないように思われた。世界の複雑怪奇さにくらべたら、むしろある種の単純化(還元)作業がほどこされていたぶん、ずっとわかりやすいものだったと思う。そこで起こる出来事は、おそらく逸脱の工夫や奸計のために、高踏的なもの、学究的なもの、思想的なものというふうに想像されていたと思うが、けっしてそんなことはなく、誰にでも分有可能な、極めてセンシティヴかつ素朴な問いを提示するものだったと思う。楽しむことしかできない、ほとんど説明不要の行為だったといっていい。むしろそのような問いさえもはずれていくようなもの、すなわち、彼らのパフォーマンスがもっている味わいのようなもの、存在することの滑稽さのようなもの、親密な雰囲気のようなもの、その場に居あわせたものの心をわくわくとさせるあの不思議な質感のようなものこそは、なかなか言葉にならない、実際に経験してみるしかない、出来事の核心部分をなすものではなかったかと思われる。

 ループラインは閉店後、大崎の「l-e」へと本拠地を移している。■



[初出:mixi 2011-01-15「小冊子『Loop Line』の刊行」/大幅な加筆のうえ転載]


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l-e
 


 

2012年1月7日土曜日

村山征二郎/ステファーヌ・リーヴ


SEIJIRO MURAYAMA / SÉPHANE RIVES
村山征二郎/ステファーヌ・リーヴ
AXIOM FOR THE DURATION
(potlatch, P211)
 演奏: 村山征二郎(perc) ステファーヌ・リーヴ(ss)
録音: 2010年5月5日、6日
場所: フランス、パリ「NAXOS BOBINE」
発売: 2011年7月


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 沈黙と空間性を生かしたジャン=リュック・ギオネとの共演盤『ウインドー・ドレッシング』と対になってリリースされた『アクシオム・フォー・ザ・デュレーション(持続の原理)』では、シンバルの弓奏だけで通す村山征二郎が、サーキュラーブリージング奏法で倍音成分の多いサウンドを延々と持続しつづけるソプラノサックス奏者ステファーヌ・リーヴと共演している。展開の単調さ、あるいは選択された貧弱さ、またフレーズのようなサウンドの外形ではなく、微妙に変化していく音色という、いわばサウンドの “内声” が織りなしていくミクロな対話による進行(もしそこになおも「進行」を聴くとするなら)などから、村山=リーヴ・デュオの演奏は、Sachiko M のサイン波を連想させるものとなっている。

 もちろん私たちは、サウンドが万華鏡のように変化していくジョン・ブッチャーのサックス演奏をすでに知っているし、演奏楽器をシンバルに限定して集中的に音場を構成するフリッツ・ハウザーやレ・カン・ニンの演奏も経験している。即興演奏のパラダイムシフトと呼ばれることもあるが、それは誰彼の革命的な演奏によって突然出現したものではなく、いわば多国籍の演奏家たちがお互いの演奏を反照しあうところに生まれた、シーンの緩慢な移行によったものといえるだろう。いわゆる「音響的即興」の実験は、そのような名前の新しいスタイルが生まれたということではなく(その意味では「音響派」は存在しない)、音響をピボットにした即興演奏全体のとらえ返し、読みなおしといったものに発展していったので、名称は存在するものの、デレク・ベイリーの演奏といったときに私たちが思い浮かべられるような、明確な境目が特定できるわけではないようである。Sachiko M のサイン波や中村としまるのミキシングボードも、たしかにシーンの特異点をなしてはいるものの、こうした反照関係のなかから自然に生まれでてきた発想や演奏の側面をあわせ持っている。

 本盤に聴かれるような、切れ目なく高周波のサウンドが鳴りつづけている演奏のあり方を、しばしばそうクレジットされるように「振動する平面」と呼ぶのは、単にサウンドの特徴についていっているようでありながら、デュオ演奏の感応的なあり方が、即興演奏よりむしろノイズ音楽からやってきたことを暗示しているかもしれない。なぜなら、聴き手の耳が演奏者を離れてサウンド面に移行し、そこに滞留することで、響きを自立したものとして扱いはじめるようになるということを、この「平面」という言葉が示しているからだ。本盤では、Sachiko M のサンプラーのように、演奏者なしでも勝手に音を出しつづける音具が使用されているわけではないが、響きを受け取る耳のほうでフォーカスの移動がおこなわれ、演奏者の姿がサウンドのうしろに隠れるということが起こるように思われる。そこにあるのは、プレイヤーの存在を際立たせるような対話的な即興ではなく、それぞれにサウンドを限定したシンバルとソプラノによって生み出されふたつの「平面」が、細部を触れあわせることで起こる界面の発生ということになるだろう。皮膚に触れる行為をひとつの出来事と感じるような感性が、そこから引き出されてくることになる。これは、わたしたちがよく知っていながらあまりよく知らなかった、新しい聴取スタイルということができるだろう。

 そうでありながら、村山=リーヴ・デュオにおいては、エレクトロニクス機器を使用するノイズ音楽に特徴的な操作性が際立たないところから、私たちは、複数のサウンド平面の接触から生まれる音楽的感応というものを、過去の即興演奏の記録──たとえば、アルバート・アイラーの『スピリチュアル・ユニティ』(1964年録音)などに求めることも許されるのではないかと思う。もしかするとこうした皮膚感覚的なサウンド界面は、複数の音楽が統合しきらない時点の演奏に、しばしば発生するということなのかもしれない。しかし、いわずもがなのことではあるが、本盤の演奏は決してニュージャズ/フリージャズではない。あえていうならば、こうした複数の水脈が合流した地点に誕生した新たな音楽というべきだろう。■

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2012年1月6日金曜日

ジャン=リュック・ギオネ/村山征二郎


JEAN-LUC GUIONNET / SEIJIRO MURAYAMA
ジャン=リュック・ギオネ/村山征二郎
WINDOW DRESSING
(potlatch, P111)
 曲目: 1. Procédé、2. Processus、3. Procession、4. Procès
 演奏: ジャン=リュック・ギオネ(as) 村山征二郎(perc)
録音: 2010年6月30日、12月
場所: スロヴェニア、リュブリャナ/フランス、パリ
発売: 2011年7月


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 ジャン=リュック・ギオネのアルトサックスは、ラインとドットだけで描かれた抽象絵画のような演奏を、また村山征二郎のスネアドラムは、断片的なリズムというよりは、あらゆる音楽の機能性が剥奪されているという意味で、むしろひと山の土塊のようにしてあつかわれたサウンドを生み出すというふうな演奏をしながら、そのような演奏の性格上、デュオとしての共演ではなく、あたかも偶然のようにしてそこに居あわせるということを合意したアンサンブルが編みあげられている。即興演奏にクライマックスは訪れず、沈黙の瞬間は、徹底して身体的な深みを欠いている。意味を欠いているという意味で、わからないと言えばわからない演奏といえるだろうが、そこで演奏されているのがどんな種類の音楽かに配慮する必要もなければ演奏者も問題にならない、サックスでありスネアドラムであることさえ重要ではなくなっていることで、聴き手が響きをダイレクトに受けとることができるという点では、これ以上に具体的で、説明のいらないサウンドはないだろう。

 即興演奏によって生じる音楽的な構造を回避するために、深度のない響きの表層に滞留しつづけるというサウンド戦略は、かつての抽象表現主義が歩んだ道だし、強力な物語性を持っていた映画の領域でなされた蓮實重彦の「表層批評宣言」を思わせるものでもある。さらに「音響派」がブームだった時代の数々の音響実験が一巡したいまの時点では、クリシェと批判することも可能かもしれない。しかしたとえば、これはジャズの領域の話になるが、演奏の隠れなさ、あるいは平明さという点で、強力な関係性を築いていたスティーヴ・レイシーと富樫雅彦のデュオは、音楽することの無意味さといおうか、ある種の虚無といおうか、すべきことはすべてなされてしまったあとの領域を歩きながら、なおもその場の空気を輝かせるような演奏をしていたように思う。ギオネ=村山デュオのサウンドにそのような輝きはない。それはジャンルや演奏能力の違いによるというよりも、音楽になにを求めているかの相違なのではないかと思われる。レイシー=富樫のデュオは、ともに演奏することになにか崇高なものを感じているために、その感覚が音に輝かしさを帯びさせるという順番になっているように感じられる。音楽がないということではないにしても、このアルバムにはそのような音楽はすでにない。

 一般的に「音響的即興」と呼ばれている、音響ムーヴメントが即興演奏と交差する領域を見てきたなかで、私が個人的に重要なものと考えているのは、習慣化した聴取スタイルの脱構築とか、心理的なものとして考えられていたサウンドの物質化という以上に、演奏者と聴き手の間に演奏を介して生まれる、(これもわかりにくい言い方になってしまうが)経験の構造の変化である。音楽が変わったのではなく、私たちの経験のあり方が変化したということ。あるいは、変化の事実を、身体的に了解するのではなく、聴き手も演奏者も、明確に意識化することになるような演奏をすること。そのことが目立つ演奏もあればそうでない演奏もあり、現段階では、出来事をきちんと理解するため、個別に即していう必要があるだろう。使われるフレーズが局限されていることから、「リダクショニスト」の演奏といえばそういえてしまうジャン=リュック・ギオネと村山征二郎の本盤も、私たちがサウンドを聴く前提としている経験の構造の変化を踏まえた演奏をしている。それを場の音楽、環境を浮かびあがらせる演奏というふうにいうと、理解は少し容易になるが、この言い方では、出来事が自分の外にあるようにイメージされてしまうだろう。それではまずいのである。変化はこの世界全体においてもたらされており、それがわからなさの一部を構成している。■



※タイトルの「window dressing」は、ショーウィンドーの飾り付け、粉飾、見せかけ、粉飾決算などの意味。











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2012年1月1日日曜日

謹賀新年


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北里義之/音場舎