2012年1月24日火曜日

キース・ロウ/ジョン・ティルバリー


KEITH ROWE & JOHN TILBURY
キース・ロウ/ジョン・ティルバリー
E.E. TENSION AND CIRCUMSTANCE
(potlatch, P311)
演奏: ジョン・ティルバリー(p) キース・ロウ(g)
録音: 2010年12月17日
場所: フランス/モントルイユ「レザンスタン・シャヴィレ」
エンジニア: ジャン=マルク・フッサ
発売: 2011年12月


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【プレスリリース】

 キース・ロウとジョン・ティルバリーは、即興音楽の領域に多大な影響を与えてきた伝説的アンサンブルAMMのメンバーとして、ともによく知られた著名人である。

 [抱えて弾くのが常識だったギターを、テーブルのうえに寝かせて操作する]テーブルトップ・ギターの発案者であるキース・ロウは、1965年にAMMを共同設立した。それ以降、少しだけ例示するなら、MIMEO、中村としまる、ラドゥ・マルファッティらによる、幅広いレンジのプロジェクトにかかわってきた。

 ジョン・ティルバリーは、著名な現代音楽の演奏家として知られ、ハワード・スケンプトン、クリスチャン・ヴォルフ、ジョン・ケージなどの作品を数多くレコーディングし、モートン・フェルドマンの作品については、最高の演奏者のひとりと言われている。1965年にティルバリーとロウが出会ったきっかけは、ともにコーネリアス・カーデューの「トリーティーズ」をBBC放送のために演奏するよう依頼されたからだったが、それ以来、ヴォルフやケージの作品を演奏するスクラッチ・オーケストラや、最も有名なAMMといったあれこれのグループで共演、プロフェッショナルとしての輝かしい関係を築いてきた。1980年前後になって、ティルバリーはAMMに参加する。

 2004年、ロウがAMMを脱退することになったのは、打楽器奏者エディー・プレヴォーとの間に確執が生まれたからだ。プレヴォーが二冊目のエッセイ本『Minute Particulars』のなかで、ロウの演奏に対する手荒い批判をおこなったことに激怒したのである。

 『E.E. テンション・アンド・サーカムスタンス』は、ロウとティルバリーにとって、この決別以来、あらためての出会いなおしを証言するもので、デュオとしての録音はこれが二度目となる。第一弾『Duos for Doris』(Erstwhile)は、2003年1月に、フランス・ヴァンドゥーヴルにあるCCAMスタジオで録音され、ティルバリーの母親に捧げられた。

 本盤の表紙を飾るドローイングは、すでに他界したキース・ロウの兄弟ミルフォード・ロウの手になるもので、ライナーノートは、キース・ロウ自身が母親アイリーン・エリザベス・ロウの筆跡をまねて書いたものである。


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 とても重いあれこれの鉄くずを体じゅうから紐でぶらさげ一時間ばかり、疲れたら途中休憩などを入れつつ、あれこれの鉄くずを地面に引きずり、かすかなノイズを立てながら、キース・ロウはゆっくりと歩みを進めていく。かたわらに寄り添うジョン・ティルバリーは、いそぐでもない旅に、同伴者と歩調をあわせながら、ポロンポロンと鍵盤を鳴らし、気のない歩みを重ねている。とまればとまるし、歩けば歩く。太陽は中天にかかり、額からはじっとりと汗が噴き出す。どちらからも、何も言い出さない。鉄くずを地面に引きずる金属の音ばかりが、いつまでも響いている。

 演奏をどうしようという気もなく、またデュオであることの意味をさぐる(いまさらさぐるものなどあるのだろうか?)というのでもなく、これまでそのようにしてやってきたように、これまでそのようにしてやってきたから、今日もまたいっしょに歩くだけというなんでもなさは、そこに響くサウンドを、異様なまでに透明度の高い、澄んだものにしている。ジャケットの表紙を飾る兄弟の画、ライナーノートの母の筆跡というように、キース・ロウのふるまいは、おそらくどれも彼固有の記憶と強く結びついたもののように思われるのだが、アルバムのどの一瞬をとりあげても、演奏は描写的・説明的なものではなく、サウンドそのものが喚起する見たことのない他者性で、聴き手の耳を打ちつづける。

 あまりの所在なさに、ティルバリーは、気のない歩みのテンポを変えることはないものの、ピアノ線を直接はじく、弦をミュートする、ボディをかすかにたたく、鍵盤の右端だけを使って音質を変化させる、というようなことをする。そしてそれは、音に形があることによって、たとえその場かぎりの思いつきであったとしても、まるで即興語法のように響いてしまう。聴き手によく知られている音の形を拒否して、ピアノ線にe-bowをあてたとしても、それはたちまちのうちに語法と化していってしまうだろう。ピアノで即興演奏することは、それほどに至難の業である。

 デレク・ベイリーの演奏スタイルがそうであるように、ここでもふたりの即興演奏は、還元的ということができるだろう。もちろんこれは、サウンドへの還元という原理主義のことを指すのではなく、音楽から、起承転結や序破急というような物語性(文学性)を抜きさったところに、サウンド・プラトーを実現しているという意味である。緊張感と環境という、あいいれないものが同居する。ここでは時間は過ぎていかない。聴き手はずっと変わることのない風景を眺めることになる。これまで味わったことのない時間経験として。

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POTLATCH