2024年11月6日水曜日

【書籍・定期刊行物】『テルプシコール通信 No.202』

 

【書籍・定期刊行物】

『テルプシコール通信 No.202

2024年10月31日号

発行:テルプシコール編集室

編集: 宜子


【Terpsichore 11月-12月 Schedule】

上村なおか

『今もある、もうないもの』

(中央線芸術祭)

マリアッチ単独公演

『トゥーモロコシ』

(振付・構成:数 澪里)

杉田丈作加藤 啓茅野秀一

「鳥の歌、空のサーカス…紙の鳥、白い風」

藤井マリ木部与把仁柴崎健太秦真紀子

『崩壊、あるいは異邦人鈍色の光の彼方へダンスする

野良芸劇-HEMATITE-東京公演

『mother』

(作・演出:大村正泰)

舞踏派ZERO↗

『Sin Soup スープ 空(zero)をかきまぜる』(再演)

(構成:筆宝ふみえ、演出:KUSU☆KENN)


【ダンス/演劇ワークショップ】

David Glass演劇ワークショップ

「非凡の錬金術」

鯨井謙太&大倉摩矢子

「ユリイカ!! ワークショップ」(毎月開催)


【公演評】

北里義之

「YOUは何しに病院へ──慢性腎臓病顛末記」

國吉和子

「小林嵯峨幻の字の子供

門 行人

『2024 Dance Now Asiaフェスティバル(台北)


【新刊本】

アトリエサード編

『ExtrART file・42』書苑新社

【訃報】

鈴木べらさん

【漫画】

LUNACY「るなしい人々」

奥付


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2017terpsichore@gmail.com

2024年11月5日火曜日

林立する言葉、声、ダンス──三浦一壮・石丸麻子・南 阿豆「文学とダンスvol.7」

 

三浦一壮・石丸麻子・南 阿豆

「文学とダンスvol.7」

ダンサーが朗読し、踊る

3つ物語。潜在的な中毒性。



朗読テクスト

三浦一壮

坂井眞理子一枚の皿

石丸麻子

押井 守迷宮物件 file538

南 阿豆

堀 辰雄風立ちぬ



日時:2024年11月4日(月・祝)

開場: 6:00p.m.、開演: 6:30p.m.

会場: アトリエ第Q藝術

(東京都世田谷区成城2-38-16)

料金: ¥2,500

照明/音響・宣伝美術: 早川誠司

動画記録: 高山尚紀

協力: 工藤大輔

絵画: 高山八重

主催: アトリエ第Q藝術​




 公演タイトルは、その内容が短い言葉でわかりやすく表現されていればいるほど、これから起こる出来事をあらかじめ解釈するものとして働き、発案者の意図のあるなしにかかわらず、ほとんど無条件に観客の自由な観劇体験を縛り誘導する。パフォーマンスのあとに書かれる公演評を先取りする最初の言葉といってもいいだろう。本公演のシリーズタイトルとなっている「文学とダンス」もまた、本来異質であるふたつのジャンルが組み合わされたところに、通常のダンス公演でも文学作品の朗読でもない、従来なかったもうひとつのジャンルを提案する意味合いを持っている。主催者を務めるアトリエ第Q藝術の意図としては、主軸をダンス公演に置きながらも、「朗読で踊られるダンス」「朗読を通して語られるダンサーの文学性の開示」などの点に見どころを置き、今回特に「ダンサーが朗読し、踊る/3つ物語。潜在的な中毒性。」というコピーを付しているが、毎回異なるこのコピーも、落ち着きどころを見つけられず浮遊している印象だ。最後にある「潜在的な中毒性」の一文は、そのわからなさを自白した言葉になっているとも受け取れるだろう。むしろこういうべきだろうか。シリーズタイトルが邪魔になって、公演のなかで観客が出会っているものは、じつはずっと隠されたままになっていると。

 試みにタイトルを取り払ってみる。裸になった舞台にあらわれてくるのは、ダンサーによって選択された言葉の身体と、テクストを読む声の身体と、ダンスする身体の3種類である。3つのセクションごとに3つの異なる身体が入れ替わり、おたがいにコンタクトすることなく林立し、接近したり離れたりしながらあらわれては消えていく。本公演において、声は3者とも感情的になることなく、テクストへの没入を回避するものだった。その声がテクストに対して批評的な距離をとる。あるいはテクストの身体から弾き返される。

 この春に第Q藝術で出版記念展「赤、そして黒」を開催した美術家・坂井眞理子の『一枚の皿』を朗読する三浦一壮──同展を共同主催し会場で関連イベントをおこなった──の声は、甲高く金釘流で言葉を拾っていく。美術を通じて結ばれた縁をつないでのテキスト選択。『一枚の皿』は、語り手が皿に描かれた絵の世界に迷いこんでいく内容で、芥川龍之介の芸術至上主義的な色彩を感じさせる幻想小説。80歳で舞踏に開眼した三浦一壮もまた、こうした芸術センスを分かち持っているが、これにダンスで相対した石丸麻子は、終始途切れることのない緊張感を維持しながらしなやかに踊り、そこだけ浮いたような単発の動きをアクセントにさし挟みつつ、ひとところにホバーリングしているような動きの反復で全体を構成した。

 髪が邪魔になるのか頭を無意識にふりながら震えるような音が入ってくる南 阿豆の声が朗読していくのは、サナトリウムで療養するフィアンセとの静かな日々をつづった自伝的な堀 辰雄の『風立ちぬ』で、文学の理想を女性的なるものの永遠化によって語る内容。不安定で繊細な声の震えは、堀辰雄の文学世界とどこか遠くで共振するようだった。自然主義文学以来の流れで私小説的・文壇的になっていた日本文学の土壌に、西洋文学的なロマン形式を導入しようとしたことで知られるこの作家の、自伝的ではあってもスキャンダラスな現実暴露ではないところに清心な気品を感じさせるテクストに相対して、ポーズをとりながら動いていく三浦一壮は、舞台に彫刻のような身体を立てるインスタレーションのダンスで応じた。身体の先鋭的な表出という点で多く舞踏とのかかわりを語られる三浦だが、ダンス的な視点からいうなら、男性カンパニーモダンディーズのダンディズムに近い感覚を持っているように思う。

 最後に組まれたセットで登場した石丸麻子は、テクストの選択において、前回「文学とダンス」vol.6(2024年8月12日)に出演したおなじく山田奈々子(故人)門下のイトカズナナエが、本人執筆の「漢方古典解説」を朗読したことに通じる変化球を投げてきた。アニメーション作家である押井 守の幻想的な──というより「つげ義春的」といったほうが正確だろうか──初期作品『迷宮物件 file538』(1987年)から、本来は映像を伴った脚本スクリプトを映像なしで坦々と叙述するようにして朗読したのである。映像なしで読まれたテクストながら、それはじつに映像喚起的、物語喚起的なテクストで、石丸の声がいっさいの感情表現を遠ざけているにもかかわらず、南阿豆の舞踏から(論理にならない)感情的な強度を引き出したのだった。このテキスト選択は大きな成果をあげた。ステージに林立する言葉、声、身体。位相を異にして動いていくこれら身体が偶然によって、予測し得ない要因によって接近をはじめるとき、出来事が起こり、新たな芸術形式が生み出されるのである。

(北里義之)

楕円の力学──オムニバス公演「ダンスリンクリングvol.20」@アネックス仙川ファクトリー

 

ダンスリンクリング vol.20

アネックス仙川ファクトリー



Von・noズ

上村有紀 久保佳絵

1% BATTERY


岩渕貞太 関かおり

ふる


伊藤キム

ワルキューレの私

振付・構成: 伊藤キム

出演: 篠原 健、高橋志帆、西川璃音

(以上GERO)

浦島優奈、髙宮 梢、中村泉輝、立花あさみ

(以上、加藤みや子ダンススペース)


日時:2024年11月4日(月・祝)

開場: 12:30、開演: 13:00開場: 16:30、開演: 17:00

11月5日(火)開場: 19:00開演: 19:30

会場: アネックス仙川ファクトリー

(東京都調布市仙川2-18-21-B1)

TEL.03-3309-7200/FAX.03-3309-7263

Mail: annexsengawafactory@gmail.com


企画監修: 加藤みや子

照明: 岩品武顕

音響: 小笠原美優

舞台監督: 田中汰樹

舞台監督助手: 立花あさみ

写真撮影・写真提供: 池上直哉

制作: 畦地真奈加、髙宮 梢

チラシイラスト: 加藤 律

宣伝美術: 畦地真奈加

スペシャルサンクス: 

上野真菜、大岩尚子、横田 恵、鈴木梨音

主催: 加藤みや子ダンススペース

助成: 公益財団法人東京都歴史文化財団

アーツカウンシル東京

[東京ライブ・ステージ応援助成]



 最近では加藤みや子ダンススペースの活動拠点であるアネックス仙川ファクトリーで開催されることの多い「ダンスリンクリング Dance, Link/ Ring」は、2006年にスタートしてすでに20回を数えるまでになったオムニバス・ダンス公演である。ダンス界における長い活動歴から斯界の事情に通暁する加藤みずからが人選にあたり、カンパニーメンバーはもちろんのこと、現在活躍中のダンサーを広く外部に求め、ユニークな組合せのダンスをプログラムするとともに、すぐれた編集長のいるダンス雑誌のようにして、ときどきのエポックメイキングな活動をピックアップして最新のダンス情報を共有するジャーナリズムの役割を果たしている点でも見落とすことができない。個々のダンサーの活動を見ながら、そこからさらに一歩を踏み出すテーマを特集することもあり、公演はさわやかな緊張感に満ちた場となっている。

 20回目となる今回は、キャリアの違う3世代に焦点をあてながら、「2」をコンセプトに掲げ、上村有紀/久保佳絵の『1% BATTERY』と岩渕貞太/関かおりの『ふる』というデュオ2組と、振付・構成を伊藤キムが担当した群舞『ワルキューレの私』の1組で、後者は伊藤が主宰するフィジカルシアターカンパニー「GERO」とダンススペースから選抜されたメンバーがコラボレーションした作品となっている。最近の伊藤は、一般公募されたメンバーとともにおこなう入念なワークショップをショーイングにまでつなげる形式でカンパニーの外部を広げながら、作品としても成立するような創作方法を試みている。群舞の集団性に上意下達のシステム性ではなく、群舞構造がどうしても揺らいでしまうような偶然的な要素、余白の部分を生み出すためのダンス戦略をあれこれ試しているといってもいいだろう。ショーイング公演があることで、ワークショップにお試し体験を超えるような目標が与えられる。本公演の3作品に共通する「2」の性格は、デュオがひとつのことをするという双子的なものではなく、それぞれが別個性をそなえたものがひとつの場を共有することで楕円を描き出すところから、ソロのダンスでは決してあらわれることのないものが出現してくる。それを楕円の力学と呼んでもいいだろう。

 ちなみに、中心点がふたつという楕円の法則については、宇宙はひとつといった古典的な世界観に結びつく円の法則との対比で、以下のことがいわれていて参考になる。「(惑星の楕円軌道を証明した)ケプラーまで、この天体の運動の円秩序と等速性の自明性を疑った者は──ティコ・ブラーエらきわめて少数の例外を除いて──いない。15世紀に運動の相対性を断乎として主張し、地球の中心性を否定した地動説の先駆者クザーヌスでさえも『無限な線は円形である.というのは、円形においては、始めは終りと一致するからである。それゆえ、いっそう完全な運動は円である。(中略)それゆえ、地の形態は優れていて球形であり、その運動は円形である』と語っている。」「ケプラーが2000年にわたる円軌道の固定観念を見棄てて楕円に到達し、等速性を放棄して面積定理を見出したことは、それだけで、ロバチェフスキーがユークリッドの第五公理を放棄したことに、あるいはアインシュタインが平らな時空を棄ててゆがんだ時空を採用したことに、匹敵することなのである。」(山本義隆「重力と力学的世界」)




(1)Von・noズ[上村有紀・久保佳絵]の『1% BATTERY』は、最近では、演劇的要素(というより、セリフもしっかりと書かれた演劇そのものといったほうがいいかもしれない)も取り入れ、ダンスと演技を半々にパフォーマンスして物語を紡いでいく方向性を打ち出しているコンビが、久しぶりに純ダンスのデュオに取り組んだ作品。応用問題を解くことから初心に返った印象があり、デュオの原点を再確認させるとともに、デュオが関係性のあり方を模索していた時代を彷彿とさせて、懐かしささえ感じさせた。活動の最初期には、相方が振付けた作品を交換しあってソロで踊ることもしていたデュオは、それぞれに個性のあるダンスを持ち寄るばかりでなく、ダンス的でないさまざまなしぐさも組みあわせ、多彩な語法を駆使した動きを次々と連射するようにくり出してくる。テンポのスピード感、動きの饒舌さが生む緊張感は独特のものだ。タイトルの「1% BATTERY」はiPhoneの電池残量のことだろうか、作品のなかでは、ふたりがそれぞれに別の動きをする多焦点の場面、コンタクトして関係性を紡いでいく場面、ひとつの動きをふたりしてくりかえしていくミニマルな場面などが組合わされ、次々にスイッチされていった。このデュオでなければどこにもないというような関係性を築きながら、長期間の活動を維持してより大きなプロジェクトに挑戦する日々がつづくなか、久しぶりの里帰りとなった。




(2)岩渕貞太、関かおりのデュオ『ふる』も、いまではそれぞれの身体観、それぞれの身体理論を積み重ねてソロと群舞の関係性を刷新しながら、独自の世界観を描き出すにいたっているふたりの振付家が、8年ぶりにクリエーションしたデュオ作品である。タイトルの「ふる」に関して、「古語で、年月がたつ。年月が過ぎる。年月を過ごす。年をとる。老いる。」の語義が示されている。2012年度の横浜ダンスコレクション参加作品『Hetero』(未見だが、記録映像がYouTubeで公開されていて、内容の概略について確認することができる)で受賞もしている評価の高いデュオだが、私個人は、この時期のデュオを観ておらず今回が初体験。長髪にして獣のような叫び声をあげるソロ・パフォーマンスを通じて、野生味あふれる身体性こそが岩渕のダンスの真骨頂という認識を持っていたところで、清潔なショートカットにして好青年に変身、黙々と作業をこなしていく『ふる』とのあまりの落差に驚かされた。てっきり関のコンセプトによる作品だろうとあたりをつけ、公演後に直接疑問をぶつけてみたが、ふたりで作るといつもこんなになるとの回答だった。作品はコンタクトダンスと呼べる『Hetero』などよりさらにダンス色が薄まり、横寝したり、正座したり、4つんばいで這ったり、前屈になったりと、自宅の居間でなにげに過ごす日常生活をそのまま切り取ったような動きの連続からなっていた。生活音らしき環境音が、小さな音で聞こえている。なにもすることがないということをしているような。ようやく最後の場面になり、ふたりが並んで横になったところで、岩渕が関の上に乗りかかって反対側に降りるという、コンタクトらしき場面が登場するくらい。それでも変わらないものもあったように思う。それはふたつの身体の間に漂う空気感のようなもので、どちらの身体に所属するのでもない、楕円の力によって編みあげられる場の潜勢力といったものだったろう。



(3)伊藤キムが振付・構成を担当した7人編成の群舞『ワルキューレの私』に参加したのは、フィジカルシアターGEROと加藤みや子ダンススペースのカンパニー選抜メンバーたち。あまりにも有名なワグナーの楽劇から切り出された主要モチーフがくりかえし流れるなか、カラフルな短パン姿のダンサーたちが、戦場を疾駆する女性軍団のワルキューレとなって踊り狂う。鼠男のような灰色の出立ちに身を包んだメンバーがひとり、フードをかぶった謎の語り部として登場、予備知識のない観客のため、作曲家リヒャルト・ワグナーの生まれについて、北欧神話に素材を求めたワルキューレについて語り、「勇敢に戦った戦士」「死におびえ震える戦士」と戦場のありさまを描写し、最後に「立ちあがるのか、倒れたままなのか」という言葉を残してステージを去っていく。女性軍団のワルキューレとは、「北欧神話の主神オーディンに仕える武装した乙女たちで〈戦死者を選ぶ者〉の意。 オーディンの命で馬を駆り戦場で倒れた勇士たちを天上の宮殿バルハラに導き、世界の終末の巨人族との決戦にそなえて武事にはげむ勇士たちをもてなす女たち」のこと。群舞では戦場で倒れた勇士たちを集めたり、ワルキューレが仕える主神オーディンの役らしき男性ダンサー(篠原 健)を中心に群舞を踊ったりして、物語をエピソード的にトレースしていった。戦場で活躍する女性軍団という場面設定が奇抜であるとともに、カラフルな短パン姿の女性軍団というミスマッチの演出には、ワグナーの楽劇を解体/再構築するポストモダンの要素もあり、一筋縄ではいかない演出には、二重三重の仕掛けが施されているようだった。



 身体表現にとって作品とは、身体がそこを訪れることのできる(ダンスの内側からみた場合)部屋のようなものであり、同時に(ダンスの外側からみた場合、大規模なものならば特に)城のようなものである。探究される身体の位相とは別に、観客を含む集団がある共同性を生きようとするとき、ダンサーがなにを踊っているのか、どんな場所に立って踊っているのかを教えてくれるのが、作品という建築物ではないだろうか。あるときには物語であり、あるときには抽象的な設計図であったりと、ありようはさまざまだが、作品が持つ意味には変わりがない。作品性を立ちあげるのに時間がかかるばかりでなく、踊るダンサーの身体に感覚をフォーカスしようとすると、こうした作品性は、体験のリアル、身体のリアルの間に割りこみ削ぐものとして、ある意味余分に感じられることもあるだろうが、再演に足る作品性を獲得するまでにダンスを徹底して考え抜くという体験をしているとしていないとでは、ダンスの深度に大きなレベルの違いが生まれてくる。万難を排して、一作品でも多くダンス創造の経験を積み重ねる努力が求められるところである。

(北里義之)