三浦一壮・石丸麻子・南 阿豆
「文学とダンスvol.7」
ダンサーが朗読し、踊る
3つ物語。潜在的な中毒性。
■
【朗読テクスト】
三浦一壮
坂井眞理子『一枚の皿』
石丸麻子
押井 守『迷宮物件 file538』
南 阿豆
堀 辰雄『風立ちぬ』
■
日時:2024年11月4日(月・祝)
開場: 6:00p.m.、開演: 6:30p.m.
会場: アトリエ第Q藝術
(東京都世田谷区成城2-38-16)
料金: ¥2,500
照明/音響・宣伝美術: 早川誠司
動画記録: 高山尚紀
協力: 工藤大輔
絵画: 高山八重
主催: アトリエ第Q藝術
■
公演タイトルは、その内容が短い言葉でわかりやすく表現されていればいるほど、これから起こる出来事をあらかじめ解釈するものとして働き、発案者の意図のあるなしにかかわらず、ほとんど無条件に観客の自由な観劇体験を縛り誘導する。パフォーマンスのあとに書かれる公演評を先取りする最初の言葉といってもいいだろう。本公演のシリーズタイトルとなっている「文学とダンス」もまた、本来異質であるふたつのジャンルが組み合わされたところに、通常のダンス公演でも文学作品の朗読でもない、従来なかったもうひとつのジャンルを提案する意味合いを持っている。主催者を務めるアトリエ第Q藝術の意図としては、主軸をダンス公演に置きながらも、「朗読で踊られるダンス」「朗読を通して語られるダンサーの文学性の開示」などの点に見どころを置き、今回特に「ダンサーが朗読し、踊る/3つ物語。潜在的な中毒性。」というコピーを付しているが、毎回異なるこのコピーも、落ち着きどころを見つけられず浮遊している印象だ。最後にある「潜在的な中毒性」の一文は、そのわからなさを自白した言葉になっているとも受け取れるだろう。むしろこういうべきだろうか。シリーズタイトルが邪魔になって、公演のなかで観客が出会っているものは、じつはずっと隠されたままになっていると。
試みにタイトルを取り払ってみる。裸になった舞台にあらわれてくるのは、ダンサーによって選択された言葉の身体と、テクストを読む声の身体と、ダンスする身体の3種類である。3つのセクションごとに3つの異なる身体が入れ替わり、おたがいにコンタクトすることなく林立し、接近したり離れたりしながらあらわれては消えていく。本公演において、声は3者とも感情的になることなく、テクストへの没入を回避するものだった。その声がテクストに対して批評的な距離をとる。あるいはテクストの身体から弾き返される。
この春に第Q藝術で出版記念展「赤、そして黒」を開催した美術家・坂井眞理子の『一枚の皿』を朗読する三浦一壮──同展を共同主催し会場で関連イベントをおこなった──の声は、甲高く金釘流で言葉を拾っていく。美術を通じて結ばれた縁をつないでのテキスト選択。『一枚の皿』は、語り手が皿に描かれた絵の世界に迷いこんでいく内容で、芥川龍之介の芸術至上主義的な色彩を感じさせる幻想小説。80歳で舞踏に開眼した三浦一壮もまた、こうした芸術センスを分かち持っているが、これにダンスで相対した石丸麻子は、終始途切れることのない緊張感を維持しながらしなやかに踊り、そこだけ浮いたような単発の動きをアクセントにさし挟みつつ、ひとところにホバーリングしているような動きの反復で全体を構成した。
髪が邪魔になるのか頭を無意識にふりながら震えるような音が入ってくる南 阿豆の声が朗読していくのは、サナトリウムで療養するフィアンセとの静かな日々をつづった自伝的な堀 辰雄の『風立ちぬ』で、文学の理想を女性的なるものの永遠化によって語る内容。不安定で繊細な声の震えは、堀辰雄の文学世界とどこか遠くで共振するようだった。自然主義文学以来の流れで私小説的・文壇的になっていた日本文学の土壌に、西洋文学的なロマン形式を導入しようとしたことで知られるこの作家の、自伝的ではあってもスキャンダラスな現実暴露ではないところに清心な気品を感じさせるテクストに相対して、ポーズをとりながら動いていく三浦一壮は、舞台に彫刻のような身体を立てるインスタレーションのダンスで応じた。身体の先鋭的な表出という点で多く舞踏とのかかわりを語られる三浦だが、ダンス的な視点からいうなら、男性カンパニー“モダンディーズ”のダンディズムに近い感覚を持っているように思う。
最後に組まれたセットで登場した石丸麻子は、テクストの選択において、前回「文学とダンス」vol.6(2024年8月12日)に出演したおなじく山田奈々子(故人)門下のイトカズナナエが、本人執筆の「漢方古典解説」を朗読したことに通じる変化球を投げてきた。アニメーション作家である押井 守の幻想的な──というより「つげ義春的」といったほうが正確だろうか──初期作品『迷宮物件 file538』(1987年)から、本来は映像を伴った脚本スクリプトを映像なしで坦々と叙述するようにして朗読したのである。映像なしで読まれたテクストながら、それはじつに映像喚起的、物語喚起的なテクストで、石丸の声がいっさいの感情表現を遠ざけているにもかかわらず、南阿豆の舞踏から(論理にならない)感情的な強度を引き出したのだった。このテキスト選択は大きな成果をあげた。ステージに林立する言葉、声、身体。位相を異にして動いていくこれら身体が偶然によって、予測し得ない要因によって接近をはじめるとき、出来事が起こり、新たな芸術形式が生み出されるのである。■
(北里義之)
0 件のコメント:
新しいコメントは書き込めません。