2024年11月5日火曜日

楕円の力学──オムニバス公演「ダンスリンクリングvol.20」@アネックス仙川ファクトリー

 

ダンスリンクリング vol.20

アネックス仙川ファクトリー



Von・noズ

上村有紀 久保佳絵

1% BATTERY


岩渕貞太 関かおり

ふる


伊藤キム

ワルキューレの私

振付・構成: 伊藤キム

出演: 篠原 健、高橋志帆、西川璃音

(以上GERO)

浦島優奈、髙宮 梢、中村泉輝、立花あさみ

(以上、加藤みや子ダンススペース)


日時:2024年11月4日(月・祝)

開場: 12:30、開演: 13:00開場: 16:30、開演: 17:00

11月5日(火)開場: 19:00開演: 19:30

会場: アネックス仙川ファクトリー

(東京都調布市仙川2-18-21-B1)

TEL.03-3309-7200/FAX.03-3309-7263

Mail: annexsengawafactory@gmail.com


企画監修: 加藤みや子

照明: 岩品武顕

音響: 小笠原美優

舞台監督: 田中汰樹

舞台監督助手: 立花あさみ

写真撮影・写真提供: 池上直哉

制作: 畦地真奈加、髙宮 梢

チラシイラスト: 加藤 律

宣伝美術: 畦地真奈加

スペシャルサンクス: 

上野真菜、大岩尚子、横田 恵、鈴木梨音

主催: 加藤みや子ダンススペース

助成: 公益財団法人東京都歴史文化財団

アーツカウンシル東京

[東京ライブ・ステージ応援助成]



 最近では加藤みや子ダンススペースの活動拠点であるアネックス仙川ファクトリーで開催されることの多い「ダンスリンクリング Dance, Link/ Ring」は、2006年にスタートしてすでに20回を数えるまでになったオムニバス・ダンス公演である。ダンス界における長い活動歴から斯界の事情に通暁する加藤みずからが人選にあたり、カンパニーメンバーはもちろんのこと、現在活躍中のダンサーを広く外部に求め、ユニークな組合せのダンスをプログラムするとともに、すぐれた編集長のいるダンス雑誌のようにして、ときどきのエポックメイキングな活動をピックアップして最新のダンス情報を共有するジャーナリズムの役割を果たしている点でも見落とすことができない。個々のダンサーの活動を見ながら、そこからさらに一歩を踏み出すテーマを特集することもあり、公演はさわやかな緊張感に満ちた場となっている。

 20回目となる今回は、キャリアの違う3世代に焦点をあてながら、「2」をコンセプトに掲げ、上村有紀/久保佳絵の『1% BATTERY』と岩渕貞太/関かおりの『ふる』というデュオ2組と、振付・構成を伊藤キムが担当した群舞『ワルキューレの私』の1組で、後者は伊藤が主宰するフィジカルシアターカンパニー「GERO」とダンススペースから選抜されたメンバーがコラボレーションした作品となっている。最近の伊藤は、一般公募されたメンバーとともにおこなう入念なワークショップをショーイングにまでつなげる形式でカンパニーの外部を広げながら、作品としても成立するような創作方法を試みている。群舞の集団性に上意下達のシステム性ではなく、群舞構造がどうしても揺らいでしまうような偶然的な要素、余白の部分を生み出すためのダンス戦略をあれこれ試しているといってもいいだろう。ショーイング公演があることで、ワークショップにお試し体験を超えるような目標が与えられる。本公演の3作品に共通する「2」の性格は、デュオがひとつのことをするという双子的なものではなく、それぞれが別個性をそなえたものがひとつの場を共有することで楕円を描き出すところから、ソロのダンスでは決してあらわれることのないものが出現してくる。それを楕円の力学と呼んでもいいだろう。

 ちなみに、中心点がふたつという楕円の法則については、宇宙はひとつといった古典的な世界観に結びつく円の法則との対比で、以下のことがいわれていて参考になる。「(惑星の楕円軌道を証明した)ケプラーまで、この天体の運動の円秩序と等速性の自明性を疑った者は──ティコ・ブラーエらきわめて少数の例外を除いて──いない。15世紀に運動の相対性を断乎として主張し、地球の中心性を否定した地動説の先駆者クザーヌスでさえも『無限な線は円形である.というのは、円形においては、始めは終りと一致するからである。それゆえ、いっそう完全な運動は円である。(中略)それゆえ、地の形態は優れていて球形であり、その運動は円形である』と語っている。」「ケプラーが2000年にわたる円軌道の固定観念を見棄てて楕円に到達し、等速性を放棄して面積定理を見出したことは、それだけで、ロバチェフスキーがユークリッドの第五公理を放棄したことに、あるいはアインシュタインが平らな時空を棄ててゆがんだ時空を採用したことに、匹敵することなのである。」(山本義隆「重力と力学的世界」)




(1)Von・noズ[上村有紀・久保佳絵]の『1% BATTERY』は、最近では、演劇的要素(というより、セリフもしっかりと書かれた演劇そのものといったほうがいいかもしれない)も取り入れ、ダンスと演技を半々にパフォーマンスして物語を紡いでいく方向性を打ち出しているコンビが、久しぶりに純ダンスのデュオに取り組んだ作品。応用問題を解くことから初心に返った印象があり、デュオの原点を再確認させるとともに、デュオが関係性のあり方を模索していた時代を彷彿とさせて、懐かしささえ感じさせた。活動の最初期には、相方が振付けた作品を交換しあってソロで踊ることもしていたデュオは、それぞれに個性のあるダンスを持ち寄るばかりでなく、ダンス的でないさまざまなしぐさも組みあわせ、多彩な語法を駆使した動きを次々と連射するようにくり出してくる。テンポのスピード感、動きの饒舌さが生む緊張感は独特のものだ。タイトルの「1% BATTERY」はiPhoneの電池残量のことだろうか、作品のなかでは、ふたりがそれぞれに別の動きをする多焦点の場面、コンタクトして関係性を紡いでいく場面、ひとつの動きをふたりしてくりかえしていくミニマルな場面などが組合わされ、次々にスイッチされていった。このデュオでなければどこにもないというような関係性を築きながら、長期間の活動を維持してより大きなプロジェクトに挑戦する日々がつづくなか、久しぶりの里帰りとなった。




(2)岩渕貞太、関かおりのデュオ『ふる』も、いまではそれぞれの身体観、それぞれの身体理論を積み重ねてソロと群舞の関係性を刷新しながら、独自の世界観を描き出すにいたっているふたりの振付家が、8年ぶりにクリエーションしたデュオ作品である。タイトルの「ふる」に関して、「古語で、年月がたつ。年月が過ぎる。年月を過ごす。年をとる。老いる。」の語義が示されている。2012年度の横浜ダンスコレクション参加作品『Hetero』(未見だが、記録映像がYouTubeで公開されていて、内容の概略について確認することができる)で受賞もしている評価の高いデュオだが、私個人は、この時期のデュオを観ておらず今回が初体験。長髪にして獣のような叫び声をあげるソロ・パフォーマンスを通じて、野生味あふれる身体性こそが岩渕のダンスの真骨頂という認識を持っていたところで、清潔なショートカットにして好青年に変身、黙々と作業をこなしていく『ふる』とのあまりの落差に驚かされた。てっきり関のコンセプトによる作品だろうとあたりをつけ、公演後に直接疑問をぶつけてみたが、ふたりで作るといつもこんなになるとの回答だった。作品はコンタクトダンスと呼べる『Hetero』などよりさらにダンス色が薄まり、横寝したり、正座したり、4つんばいで這ったり、前屈になったりと、自宅の居間でなにげに過ごす日常生活をそのまま切り取ったような動きの連続からなっていた。生活音らしき環境音が、小さな音で聞こえている。なにもすることがないということをしているような。ようやく最後の場面になり、ふたりが並んで横になったところで、岩渕が関の上に乗りかかって反対側に降りるという、コンタクトらしき場面が登場するくらい。それでも変わらないものもあったように思う。それはふたつの身体の間に漂う空気感のようなもので、どちらの身体に所属するのでもない、楕円の力によって編みあげられる場の潜勢力といったものだったろう。



(3)伊藤キムが振付・構成を担当した7人編成の群舞『ワルキューレの私』に参加したのは、フィジカルシアターGEROと加藤みや子ダンススペースのカンパニー選抜メンバーたち。あまりにも有名なワグナーの楽劇から切り出された主要モチーフがくりかえし流れるなか、カラフルな短パン姿のダンサーたちが、戦場を疾駆する女性軍団のワルキューレとなって踊り狂う。鼠男のような灰色の出立ちに身を包んだメンバーがひとり、フードをかぶった謎の語り部として登場、予備知識のない観客のため、作曲家リヒャルト・ワグナーの生まれについて、北欧神話に素材を求めたワルキューレについて語り、「勇敢に戦った戦士」「死におびえ震える戦士」と戦場のありさまを描写し、最後に「立ちあがるのか、倒れたままなのか」という言葉を残してステージを去っていく。女性軍団のワルキューレとは、「北欧神話の主神オーディンに仕える武装した乙女たちで〈戦死者を選ぶ者〉の意。 オーディンの命で馬を駆り戦場で倒れた勇士たちを天上の宮殿バルハラに導き、世界の終末の巨人族との決戦にそなえて武事にはげむ勇士たちをもてなす女たち」のこと。群舞では戦場で倒れた勇士たちを集めたり、ワルキューレが仕える主神オーディンの役らしき男性ダンサー(篠原 健)を中心に群舞を踊ったりして、物語をエピソード的にトレースしていった。戦場で活躍する女性軍団という場面設定が奇抜であるとともに、カラフルな短パン姿の女性軍団というミスマッチの演出には、ワグナーの楽劇を解体/再構築するポストモダンの要素もあり、一筋縄ではいかない演出には、二重三重の仕掛けが施されているようだった。



 身体表現にとって作品とは、身体がそこを訪れることのできる(ダンスの内側からみた場合)部屋のようなものであり、同時に(ダンスの外側からみた場合、大規模なものならば特に)城のようなものである。探究される身体の位相とは別に、観客を含む集団がある共同性を生きようとするとき、ダンサーがなにを踊っているのか、どんな場所に立って踊っているのかを教えてくれるのが、作品という建築物ではないだろうか。あるときには物語であり、あるときには抽象的な設計図であったりと、ありようはさまざまだが、作品が持つ意味には変わりがない。作品性を立ちあげるのに時間がかかるばかりでなく、踊るダンサーの身体に感覚をフォーカスしようとすると、こうした作品性は、体験のリアル、身体のリアルの間に割りこみ削ぐものとして、ある意味余分に感じられることもあるだろうが、再演に足る作品性を獲得するまでにダンスを徹底して考え抜くという体験をしているとしていないとでは、ダンスの深度に大きなレベルの違いが生まれてくる。万難を排して、一作品でも多くダンス創造の経験を積み重ねる努力が求められるところである。

(北里義之)





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