大橋可也&ダンサーズ
『くだる Decend』
@木場EARTH+GALLERY
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日時:2024年11月7日(木)~9日(土)
開演: 7:30p.m.(7日)
開演: 3:30p.m./7:30p.m.(8日)
開演: 2:00p.m./6:00p.m.(9日)
開場は開演の30分前、上演時間は90分弱を予定。
会場: EARTH+GALLERY
(東京都江東区木場3丁目18-17)
料金: ¥3,500
出演: 阿竹花子、横山八枝子、高橋由佳、今井琴美、
ヒラトケンジ、大橋可也
振付・構成・演出: 大橋可也
音楽: 涌井智仁
衣装: るう(ROCCA WORKS)
照明: 遠藤清敏
グラフィックデザイン: 古郡 稔
広報: 星 茉里
もろもろ: 皆木正純
主催: 一般社団法人大橋可也&ダンサーズ
協力: 公益財団法人セゾン文化財団
助成: 公益財団法人東京都歴史文化財団
アーツカウンシル東京
【東京ライブ・ステージ応援助成】
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くだっていく、くだっている
記憶の階段を、いつまでも
おりていく、おりている
身体の奥底へ、どこまでも
無数の私とともに
細く、深く、密やかに
リーチフォークリフトを運転する手に感じるウラグロニガイグチ
オデーサ(オデッサ)の階段を転がり続けるオオワライタケ
バブルに浮かれる六本木で出会ったウスキキヌガサタケ
大西洋の氷海に沈むロクショウグサレキンモドキ
広大な砂漠に取り残されたカラスタケ
結成25周年を迎えた大橋可也&ダンサーズは、
キノコとともに記憶を巡る新作『くだる』を上演します。
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【参照テキスト】
池澤春菜『糸は赤い、糸は白い』
山田太一『ふぞろいの林檎たち』
フランク・ハーバート『デューン 砂の惑星』
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舞踏からの影響を公言している大橋可也の舞踏らしさは、もっぱら言葉の喚起する原イメージから振付を起こしたり、ダンサーズの身体を通してそうした原イメージを官能的な表現につなげてもらうといった方法論的なものにもっともよくあらわれている。どのダンス・ジャンルにも見られるが、とりわけて土方巽がそれを踊ったことで多用され一種の型のようになっているポーズ(とそこから生み出される動き)が使われることもあるが、それは舞踏史にコミットしたりアイデンティティを確保したりするために踊られるというより、瞬間ごとにあらわれては消えていく多彩なダンス語法(散種されるダンス)の一環という面がより強く感じられる。全体が群舞のユニゾンで構成される作品もあるが、タスクとして与えられたふりを、ダンサーズそれぞれの身体感覚が受け取るにまかせ、ときにはメンバー間で対話を交わすような演劇的な演出をしたり、ときには個性が吹き飛んでしまってひとつの肉団子になったりするなど、群舞の多様性として結実している。舞踏における幽霊的なもののあらわれは、歴史的にみれば、シュルレアリズムの影響から人の意識に収まりきらないもの、意識の底にうずくまって姿を見せない無意識の領域に釣り糸を垂れるものとしてあり、身体はダンス的な形の明瞭さを捨て、動きがとまってみえるような“微細動”という皮膚の震えのようなものへと感覚を細分化しているが、明瞭な語法の断片的あらわれが断続的に続いていく大橋可也の振付が、精神的なるものにおいて、こうした垂直の領域に足を踏み入れることはない。作品にあらわれる異形なものたちは、つねに水平の地平を踊ってゆき、SF小説からイメージをとった多くの作品にみられるように、科学的イマジネーションに集約点を持ち、異形のものたちは幽霊的というよりむしろ怪物的なるものとして登場している。この身体の“怪物性”という点では、工藤丈輝の舞踏の異形さに底通するものを持っているといえるだろうか。
キノコたちの記憶をアリアドネーの糸にして身体の深淵へ“くだる”本作品においても、迷宮は群舞構成によって描かれ、あくまでも水平的なるものとしてあらわれる。女性たちが笑いながら群舞を踊ったり、ホリゾント階上にあるラウンジをパフォーマンス・スペースとして使い、階上に昇ったヒラトケンジが女性たちをあやつる指揮者のように威嚇的に踊ったりと、小説の一場面を想像させるようにダンスは物語的に構成された。以下に概略を示す。
(1)ヒラトケンジ・ソロ。
(2)ホリゾント階上にある2Fで踊る男/1Fフロアで踊る笑う女たち
による対比的ダンスの同時進行。
(3)1Fフロアの女性たちを2組にわけて場面を反復する。
(4)ひとり残った阿竹花子とヒラトケンジのデュオ。
(5)ダンサーズ5人の群舞。
(6)大橋可也ソロ。
(7)大橋可也&ダンサーズの群舞。
作品によっては、前後の脈絡がない断片化された抽象的身ぶりの連続によって振付がおこなわれることもあるが、キノコをキャラクター化したと思しき本公演の振付は、人形ぶりの採用、指揮する手ぶり、腕立て伏せ、水泳のクロール、ワイングラスを打ちあわせる乾杯、空中に字を書くしぐさ、床からなにかを拾いあげるしぐさ、綱引きなど、日常的なしぐさが多く引用され、そのぶん物語を連想させるシチュエーションが多かったことが特徴的だった。
本作品で突然キノコがフィーチャーされた理由について考えてみる。第一番に考えられるのは、これもまた言葉が喚起してくるイマジネーションの強度によるということだが、ダンスとキノコの組合せという点では、すでに解散してしまった平成の代表的カンパニー“珍しいキノコ舞踊団”(1989-2019)の名前を挙げなくてはならない。今回ダンサーズが着用したカラフルな衣装は、日常的な身ぶりの採用ともども、モダンを(深刻になることなく)軽妙なスタイルで脱構築していたキノコ的センスに通じるものを持っていて見逃せないのだが、21世紀的な文脈でいうなら、現代音楽の作曲家ジョン・ケージ(1912-1992)のキノコ研究を引きあいに出すべきと思われる。というのもケージがみせていたキノコへの執着は、そのまま森への執着であり、日本においては生物学者の南方熊楠(1867-1941)の粘菌研究に比すことができるような、エコロジカルな生態系への配視であると同時に、マジックマッシュルームの幻覚作用によって意識をより大きなものへ解き放っていくアシッドな側面も持っているからである。大橋可也のストイックなまでの振付スタイルは、動きの細部の泡立ちが、森の生態系が生み出したキノコ的存在に通じているだけでなく、長時間にわたって細かな振付が連続していくスタイルの執拗性において観るものの感覚に働きかけ、確実なアシッド作用をもたらす。おそらくは振付家自身においても、この振付スタイルがみずからのストイックな性格によるのか、振付するほどに発散されてくる快楽に幻惑されているのか、その境をわけることは不可能なのではないかと想像される。ダンサーズのキノコ化は、個性を喪失する群舞の生態系を背景にして、振付家自身を雄弁に語るものだった。■
(北里義之)
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