2025年1月19日日曜日

あなたはなぜ踊るのか?──JaDaFo DANCE TALK 2025 YOKOHAMA@横浜赤レンガ倉庫1号館2F スペースC

 


日本ダンスフォーラム

ダンスついて、とことん話そう!

JaDaFo DANCE TALK 2025

YOKOHAMA

横浜赤レンガ倉庫1号館2F スペースC



今、ダンスの現在はどうなっているのか。

1980年代の日本で「コンテンポラリー・ダンス」という潮流が起こってから、

40年がたつ。ダンスは変化し進化しているのだろうか。

海外からのプログラムを含め、確かに多くのダンス・パフォーマンスが日々展開されている。

この現状はダンス関係者として接していて、良い状態にあると言えるものだろうか。


今回のセッションは、ダンスの現在について、

創り手であるダンサー、コレオグラファーを中心に、

日頃思い巡らしている状況を自らの言葉で、

徹底的に語り合う場となるよう、企画致しました。

第1回から第18回までの日本ダンスフォーラム賞受賞者をはじめ、

一人でも多くのダンサー、コレオグラファーのみなさまの積極的な参加を望んでいます。



日時:2025年1月18日(土)

時間: 13:30p.m.~18:00p.m.(開場: 13:15p.m.)

会場: 横浜赤レンガ倉庫1号館2F スペースC

(神奈川県横浜市中区新港1-1-1)


プレゼンター: 笠井 叡(創り手の立場から)

梶屋一之(プロデューサーの立場から)

その他の発言者: JaDaFo賞受賞者、

JaDaFoメンバー、当日ご参加の皆さま

参加者: ダンサー、コレオグラファー

ディレクター、スタッフ等

募集定員: 30名(メールにて要事前申込)

参加費: 1,000円(税込)当日会場にて支払い

主催: JaDaFo 日本ダンスフォーラム

共催: 横浜赤レンガ倉庫1号館




 活動のあらましをあらためて記せば、日本ダンスフォーラムは、2003年というコンテンポラリーダンス最盛期に発足した団体で、現在14人の会員からなり、「評論家、学者、研究者、ディレクター、プロデューサー等の、複合的な舞踊関係者によって構成」され、ダンス界にある多くの職能団体と違って、「ダンスの送り手ともいうべき、ディレクター、プロデューサーと、それに対して正確な価値を与える評論家、学者、研究者」が連合した「極めて新しい、組織」(活動の趣旨)として、毎年一回、前年におこなわれたダンス公演を対象とした「日本ダンスフォーラム賞」を出して、大賞1名とフォーラム賞数名、特別賞などを選出(北村明子、倉田 翠、中川絢音を選出した2024年度で18回目となる)してコンテンポラリーダンスを活性化する活動をつづけている。同会が主催した「ダンスついて、とことん話そう!」は、2023年度の大賞受賞者である笠井 が、授賞式の席上、フォーラムへの入会希望を表明、「断る理由もない」という理由から、フォーラム初のダンサーを会員に迎えた後に開催されたシンポジウム=語り場である。授賞対象となるダンサーの参加は、横断的なネットワーク作りから創造的な評価を生み出すという会の趣旨に沿った選択でもあろうが、李下に冠を整さずの金言もあり、客観的な評価が求められる賞の授与という点で、利益相反の問題にかからないかどうかは未知数である。「笠井さんの参加でJaDaFoがどう変質していくか、大変楽しみである」(榎本了壱)という発言から、笠井になにが期待されているかははっきりしている。榎本氏の持論が、長らく使用されてきた「コンテンポラリーダンス」という名称の再検討であることともあわせ、JaDaFoもその一部をなす批評状況を打開する必要性が強く感じられていると想像される。

 限定30名の語り場は、テーブルなどは出さず、背もたれ椅子を円陣に組んだ円卓方式で開催された。シンポジウム冒頭、参加者の自己紹介が求められ各自が簡潔に発言。私の左隣は、ダンサー/振付家の加藤みや子氏、舞踏の南 阿豆氏という並び、右隣は、赤レンガ倉庫の館長・小野晋司氏(JaDaFo会員)、ダンス/映像の福永将也氏という並びで、ダンス界でよく知られた多士済々の面々が顔を連ねていた。遅れて参加するメンバーも早退するメンバーもいる──この日は舞踏批評家・合田成男氏の102歳の誕生日だったそうだ──ことを確認、話しあわれるテーマも、発言者の希望に沿って意見を出しあうという自由な進行がとられた。複数参加していたJaDaFo会員は、こうした語り場の采配に慣れているようで、参加者の顔色を見ながら、話題は適宜その場にいる参加者の発言が引き出されやすい方向に軌道修正されていった。司会進行は梶屋一之氏。話が一段落するごとに10分の休憩時間がとられた。テーマは「ダンサーはもっと発言すべきだ」という笠井氏の提言を受ける形で、最初に発言者当人に口火を切ってもらい、山田せつ子氏や福永将也氏にバトンタッチ、ダンサーとして話をふられた金森 穣氏が、日本の「劇場文化」に話を転じたのを機に、佐藤まいみ、榎本了壱、尼ヶ崎彬の各氏が発言、國吉和子氏がダンスを外側のものとしてとらえる見解に異を唱えて舞踏における身体性の問題に触れたり、加藤みや子氏がマスによって浮かびあがる身体ではない個の身体を探究していく場がどんどんなくなっていることの危機感──「崖っぷちにある」と表現された──について触れるなど、公演の規模の縮小化が、経済的な理由という外側の要因ばかりでなく、身体というダンスを支える基体の問題に直結していることを指摘した。これらの発言はいずれも、ダンサー生活の保障がない現状で、それでも「ダンサーが踊りつづける理由」の周辺をめぐるもので、最終的なテーマ「コンテンポラリーダンスのこれからの方向性」(所用により未見)につなげるものだった。

 対話のなかでは、いくつかのポイントをめぐり、鮮やかな意見の対照性が描き出されたのが印象的だった。(1)そのひとつは、ダンスの現状を評価する視点に関し、根気強い行政の説得を重ねながら新潟で自身のカンパニーNoismを主宰する金森 穣氏が、文化行政を視野に入れた日本文化の改革を提言したのに対し、無一文で、無名で、無力で、それをする価値があるかどうかもわからない状態で踊りはじめてしまう人、また生きている人よりずっと多い死者たちの声を引き受けるようなダンス・プロジェクトを、(数年単位ではなく)1,000年単位で構想する必要があるとアジテートした笠井 叡氏の間にみられた。もうひとつは、(2)日本でフリーランスの創り手を支える劇場が少なくなっている一方で、台湾や香港では業界全体をエンカレッジするような援助がさかんにおこなわれている現状が報告された(小野晋司)ことに関して、山田せつ子氏が最近韓国から受けたオファーが、滞在費、交通費、生活費、クリエーション期間などの条件において充実していた実例を挙げたのに対し、梶屋一之氏が「これは日本ではできない」「制作側も自己流でやっている現状では、システム的に100%無理」「正面突破できない」という断固とした言い方で実情を語った点であった。

 語り場であるシンポジウム「ダンスついて、とことん話そう!」は、今回はJaDaFo受賞者のダンサー/振付家に特化した声かけであったが、意見の対立からひとつの正解を導き出すための販促会議ではなく、集合した顔ぶれを一覧すればわかるように、ダンス界のそれぞれの場所において活動し、日頃は出会う機会のない個々人が、ダンス界で相応の活動歴を持っていればすでに周知の現状に相対し、それぞれどのように闘っているのかという姿を生の声をもって見せあう集会になっていた。その一方で、新会員となった笠井 叡氏の提言は、「JaDaFoがどう変質していくか」という古参会員からの期待に応答するものでもあっただろう。その意味では、円陣が「円卓の騎士」を思わせたこの場は、新会員のイニシエーションという儀礼の場でもあったはずだ。たとえダンスに関わるものでなくとも、言葉は丁寧に育成していくケアの精神なくして、誰でもが使えるようなものになっていかない。その点、公共空間の創造にこだわり、横浜ダンス・コレクションで批評頁「おどりよむ」の責任編集にあたっている呉宮百合香氏の「絶望はしていない。動くものはあるなと思う」という発言は、ダンサーでも批評家でも、いまこそ若い人の意見が希望になることを予感させるものだった。未来のダンスがどんな名前を持つことになるかはわからないが、それを作っていくのは、ひとえに若いダンサーと批評家(実年齢に関わらない)の共同作業にかかっているといえるだろう。

(北里義之)






2025年1月13日月曜日

等身大のダンス──女屋理音─身体と音を探る─vol.1『朝ぎりの中に』@彩の国さいたま芸術劇場・大稽古場

女屋理音

身体と音を探るvol.1

朝ぎりの中に

彩の国さいたま芸術劇場提携プログラム

彩芸ブロッサム room.Onaya Rion女屋理音



朝ぎりの中に


朝ぎりの中に立っていると からだが冷たくなる

髪は濡れた柳の葉のように重く垂れ

眉は水の粒子で真っ白になる

睫毛はねむの葉のように自然にとじる

白いもやの中で澄んだ鳥の声が聞こえる


不意に足許が崩れる

いつか川のふちを歩いていた

草の中に川はかくれている


晴れようとする大気の流れの故か

私の体温は急に上昇した


暑い一日が始まる


(関野宏子 詩集「蜂の列」野火の会)



演出・振付・出演: 女屋理音

作曲・演奏: 家坂清太郎(Drums)

音響: 中村嘉宏


日時:2025年1月11日(土)開演: 17:00~

12日(日)開演: 12:30開演: 16:30

(会場は開演の30分前)

終演後、観客とのディスカッションを含めたアフタートーク(15分程度)あり

会場: 彩の国さいたま芸術劇場 大稽古場

(埼玉県さいたま市中央区上峰3-15-1)

料金前売: ¥2,500、当日: ¥3,000

(U25前売: ¥2,000、当日: ¥2,500)


舞台監督: 河内 崇、北野ひかり(URAK)

照明: 福永将也

演出助手: 白井 耀

記録写真: 立川一光

制作: 後藤かおり

主催: room.Onaya Rion

提携: 公益財団法人埼玉県芸術文化振興財団

彩の国さいたま芸術劇場



 ミュージシャンやダンサーと共同して音楽と身体の関係性を探る女屋理音の新しいダンスシリーズ「身体と音を探る」の初回が、彩の国さいたま芸術劇場の大稽古場という、天井が高く、踊るにもじゅうぶんの広さがある倉庫のようなスタジオに観客を入れておこなわれた。縦長のスペースにリノリウムを敷き、片方の壁前にドラムセットを配置、対面となる反対側の壁前に通常は観客席背後に置かれる音響ブースを向かいあわせに設置、その間を細かい砂のような粒子からなる白線がつないでいる。ドラムセットに立てられた数本の録音用マイクも、通常はシールドを床に這わせて観客の目から隠すものだが、天井のバトンにたるみをつけながら絡めて音響ブースまでつなげてある。本公演の音響は、裏方ではなく、サウンドアーチストとして扱われたといっていいだろう。中村嘉宏の演奏は、家坂清太郎ドラミングのうえに、勇壮なオルガンサウンドや軽快なマリンバの演奏、低音ドローンなどの他、水をかき回す音や紙をクシャクシャする音など、言葉のイメージに触発されたらしい環境音を重ね書きするものだった。音と身体の境界域には、ダンサー側からもアプローチがあり、特にパフォーマンス後半では、女屋が声を出しながら動いたり、大きな足音を立ててリズムを出しながらステージを回遊したりした。その場で立ちあがってくる即興パフォーマンスに、どこで音と身体を重ね合わせるかという問いが先行しており、公演全体は、身体と音の境界域を皮膚感覚をもってまさぐり探究していく感覚の試みになっていた。パフォーマンスごとの成果の相違は、プロジェクトがこれから体験を重ねることでブラッシュアップしていく段階にあることを示唆している。

 ふたりの音楽/音響プレイヤーを結ぶ白線は、舞台をステージと裏方に分けるヒエラルキーの回避であるとともに、次第に動きを大きくしながらダイナミックに踊っていく女屋にとっては、床上を横転したり這ったりすることでかき乱され、ラインが形を失い、砂を掃いたような白い面へと変化していくことで、ダンスの時間経過を痕跡として残していくものになっていた。詩行の言葉のひとつひとつは、作品にインスピレーションを与えただけでなく、舞踊譜のようなものとして具体的な動きに反映されていたが、そのなかでも特にダンサーの激しい動きに白いパウダーが舞いあがるイメージは、タイトルにある「朝ぎり」、あるいは詩に詠まれた「水の粒子で真っ白に」「白いもやの中で」などの情景断片に直結して、言葉の向こうにある世界の感受を<いま・ここ>で踊ってみせる道具立てとなっていた。それと同時に、空間的なイメージから見ると、白線は詩人(女屋の祖母だそうである)が「草のなかに隠れている川流れ」と呼んだものにも姿を変え、左右に分節されるステージ空間を、そこがまるで谷底であるような空間イメージで支えていた。公演前半のダンサーは白線を越えて、右の床へ、左の床へと身体を伏せ、白線をまたぎ越してはすばやい動きで上手と下手を往復した。詩が封じこめている時間は「朝」である。陽の光に「体温の上昇」を感じ、おそらくは夏日なのだろう、これから訪れる「暑い一日」を予感しつつも、朝霧に包まれて身体はまだ半分眠っているような状態、ダンサーはそんな身体時間を感じながら踊っていく。まっさらの時間から白昼へという時間経過は、即興の要素を取り入れたこのパフォーマンスの、取り返し不可能の一回性にも通じているようだった。

 パンフレットに挨拶文を寄せた女屋は、「作り話を創作する『振付』の作業と、嘘をつかずに踊っていたい『身体』の矛盾」について触れている。新シリーズをスタートした意味について語った部分からのものだが、憶測をたくましくするなら、これは新進振付家として注目される自身の現在について、内省を加えたものでもあるように思う。繊細な振付家であれば、誰しもが襲われる悩みであろう。若くして自身のカンパニー「room.Onaya Rion」を結成し、すでに旗揚げ公演『Pupa』(2023年12月、三軒茶屋シアタートラム)もすませている彼女だが、心血を注いだ旗揚げ公演の作品と対照的な、自然でのびのびとした本公演のダンスは、このシリーズが彼女にとって等身大のパフォーマンスであることを雄弁に語っている。ひとりでいるときよりもふたりでいるときのほうが自由になれる、作品を閉じるよりも作品を開くときのほうが自由になれるというような。まるまるの即興でもなくまるまるのダンス作品でもない独自の作風は、踊ることそのものよりも、身体の感覚を前面に押し出しながら作品性を踊るにはどうしたらいいのか、そうした問いにこたえるオリジナルなスタイルとなっている。これまでの公演では、作品が邪魔をして、彼女がなにをしたいのか感覚的につかまえることがむずかしかったのだが、等身大の本公演で初めて彼女のダンスと出会ったように感じた。

(北里義之)

 

2025年1月4日土曜日

現代の前衛ダンス──2024年度ダンス界「回顧と展望」

 


2024年度ダンス界

回顧と展望



【ダンス公演ベスト10】


(1)三東瑠璃

TOUCH -ふれる-#2

3月9日10日、三軒茶屋シアタートラム


(2)ブッシュマン

2024÷1984

3月13日15日、座・高円寺2


(3)asamicro

Like throwing a pass

3月19日20日、横浜STスポット「[ラボ20 # 23]ラボ・アワード受賞者公演」


(4)神奈川フィルハーモニー森下真樹

ベートーヴェン交響曲第九番」』

6月15日、神奈川県民ホール「県民名曲シリーズ第21回」


(5)辻󠄀たくや

毎日のように生起しては回帰する

平凡で普通で日常的で明白で背景雑音であたりまえで

習慣的でありふれた地衣のような何か

7月12日13日、中野テルプシコール


(6)上杉満代

メランコリアMの肖像

7月27日28日、両国シアターX


(7)マドモワゼル・シネマ その他

トーキョーミコシ

7月28日、神楽坂セッションハウス


(8)小山柚香

Soggy Sole

10月26日、中野テルプシコール

Center line art festival Tokyo 2024


(9)我妻恵美子

そぞろ

11月8日10日、墨田区北條工務店となり


(10)横田 恵

蠢 UGO

11月24日、多摩特別緑地保全地区 竹林



【新人賞】


徳安慶子

暗黒と声

1月28日~2月2日、東京芸術大学・上野校「卒業・修了作品展」


遊舞舎徳安優子、徳安慶子×アーサー・デ・オリベイラ

山姥の誕生

2月25日、祖師ヶ谷大蔵カフェ・ムリウイ



【特別賞】


深谷正子

動体観察 2daysシリーズ

5月~12月、六本木ストライプハウス・スペースD


崟利子新作ドキュメンタリー

ゆっくりあるく

2月16日/17日、東京都写真美術館 1F ホール「恵比寿映像祭2024」



 個人的に、これまで音楽とダンスの別なく「年間ベスト〇〇」といった類のアンケートに投稿することがなかった。それは実際におこなわれた公演数に比較して(特に主催者側が招待しなければ観ないという)評論家たちの観劇数が少ないこと、嗜好の多様化が半端なく拡大していること、一年の動向を数件でまとめるという企画の無謀性など、あげられたダンサーの情宣になるということはあるにしても、ダンスの内容を基にした客観性がまったく担保できないという判断からだった。批評家にとっては交流の場となるような論壇が形成されないのも、観るものにも好みにもあまりに違いがあり過ぎるということが、確実にその理由のひとつとなっている。最近では、フェスや公演の主催者が批評ページをネット上に構築することが一般化しており、主催者側から指名された書き手がテクスト提供する流れができはじめている。批評に特化した舞踊メディアが少ないところから、いたしかたないと思える傾向だが、批評が公演の一環を形作り内部に取りこまれた形だ。本当にこの公演を評価したいのかという、批評の自主性がどの程度のものなのかは不鮮明なままだ。偶然ある作品を観たダンスファンがSNSに投稿する感想やつぶやきを集めたほうが、まだ平仄があっている。従って、ここにピックアップされたダンス作品も、個人的な見聞の範囲で選ばれたものにすぎない。選択数もこれと思った作品をあげていった結果、偶然に10という数字になったものである。長期にわたって魅力的な活動をしているダンサーは多いが、本リストはそうしたダンサーを主体にしたものではなく、あくまで作品性を対象に選択されている。

 10作品から年間ベストを選ぶなら、ブッシュマン『2024÷1984』振付・構成・演出:黒須育海)を選出したい。ジョージ・オーウェルの小説を舞台化した管理社会批判の作品で、テーマ自体はコンテンポラリーダンスでしばしば取りあげられるものだが、ブッシュマン版「1984」が傑出しているのは、ダンスの常套的な方法であるユニゾン、常用されるミニマル・ミュージック、群舞などが、ブッシュマンならではの動物的動きも含めて本作品で悪夢化しているのは、ある意味、ブッシュマンのダンスを通して、作品がモダン~コンテと移ってきた現代ダンス批判へと突き抜けていることを示唆している」と思えるからである。作品には詳細に論ずべきポイントが多数盛りこまれている。モダンダンスを切り捨てることなく、問いの形を取ってでも現代ダンスへと総合する可能性、これはときに政治的・思想的なテーマも取りこみながら、戦後日本(のダンス)を総括しようとする笠井 の活動にもいえるだろう。笠井の場合、芸術一家というファミリーの共同性を通して戦後的テーマが表現されることが、他のカンパニーにない大きな特徴となっている。

 ジャンル分けの下駄をはかせることなく、上杉満代辻たくや我妻恵美子など、自然に舞踏家の作品があがってきたのも重要な変化だろう。舞踏がどのように現代的テーマに応答するのかという一般的な問いにこたえる公演があってこそ、私たちは舞踏の今を知ることができる。なかでも遊舞舎[徳安慶子、徳安慶子]のデュオは、実地研修を含む学問的素養を堅実に蓄積するとともに、双子という稀有な身体的条件で創作に取り組んでおり、白塗り・禿頭といった舞踏の固定的なイメージを刷新する身体表現で、新たなダンスの可能性を切り開きつつある。身体表現において舞踏を中軸に置きながら、同時に、コラボやネットワークを通してダンスの周辺領域を視野に収めている点でも可能性を感じさせ、真の意味の「新人賞」に値すると思う。注目度でいうなら、asamicro辻たくやなども、まだ「新人」の部類に入るかもしれない。

 公演単位ではなく、継続して評価すべきダンス関連のプロジェクトとして、八丁堀七針の「カサブタ」から六本木ストライプハウスへと移行しながら月例公演をつづけた深谷正子「動体観察2days」の達成と、川村浪子の全裸歩行をテーマにした崟利子新作ドキュメンタリー『ゆっくりあるく』上映が忘れがたい。いずれも長い時間をかけたダンス/身体表現の姿が、時代を超えるような欠くべからざる存在を立たせたという意味で、わたしたちに行くべき道を示してくれたといっていいだろう。こんなふうにしてみていくと、私たちの時代の「前衛」は、ジャンル分けされた領域の最先端を走るという意味での前衛ではなく、ジャンル分けそのものをはみ出したり、ゆさぶったり、越境したりしながら、ダンスを分断している目に見えない境界線を打ち壊していくところに発生するものであるらしい。

(北里義之)