2025年3月19日水曜日

舞踏を開く──ダンスの犬 ALL IS FULL: 深谷正子 演出・振付『ブレイン・ロット うすい風 脳の腐敗からの』その1、その2

 


ダンスの犬 ALL IS FULL: 

佐藤ペチカ×小松 亨

筆宝ふみえ×みのとう爾径

作・演出: 深谷正子

ブレイン・ロット うすい風 脳の腐敗からの

その1、その2

六本木ストライプハウスギャラリー・スペースD



日時:2025年3月17日

開場: 6:30p.m.、開演: 7:00p.m.

出演: 佐藤ペチカ、小松 亨

日時:2025年3月18日(火)

開場: 6:30p.m.、開演: 7:00p.m.

出演: 筆宝ふみえ、みのとう爾径


会場: 六本木ストライプハウスギャラリー・スペースD

(東京都港区六本木5-10-33)

料金1回: ¥3,000、2回: ¥5,000

3回: ¥7,000、4回: ¥8,500

照明: 玉内公一

音響: サエグサユキオ

舞台監督: 津田犬太郎

写真提供: 平尾秀明

主催: ダンスの犬 ALL IS FULL

問合せ: 090-1661-8045



 ネット・スラングとしての「ブレイン・ロット」は、ネット情報への過度の依存によって引き起こされる思考停止状態をさすもので、「頭わいてんのか」という罵倒の文句、「熱で沸騰したようになって気が確かでない様子とか、脳みそに虫が涌いているのかと思われるさま」を意味するテン年代に登場した言葉にどこか通じている。すっかり依存状態であるにも関わらず、本体がすでに根腐れを起こしているため(あるいは人々が集団でそうした状態に陥っているため)それに気づくことができず、日常化した生活態度などをあらためようとしない病的状態といったらいいだろうか。ネットで拡散される膨大な情報は、選択の自由の拡大という身体拡張の原理(マクルーハン)であったはずだが、身体感覚そのものの空無化という予想外の事態が引き起こされ、身体をネット空間に組みこみオートマトン化する言語のエコーチェンバー化閉じた小部屋で音が反響する物理現象──すなわちブレイン・ロット状態──へとたやすく進行していった。身体変容の速度は、私たちが想像するよりはるかに急激なものだった。深谷正子の新シリーズに選ばれたこの言葉には、彼女が指向してきた日常性の豊かさそのものを奪い、腐らせるものに対して、<極私的ダンス>によって培われてきた《極私的身体》を対置する意思がこめられている。ここでの身体は明確に抵抗の拠点として示されたといえるだろう。深谷が共通の要素を提供して作品の大枠を提供し、領域を異にするダンサーたちがダンス/身体表現によって肉づけしていくスタイルは、同じ会場で公演された昨年のシリーズ「動体観察2Days」を発展的に継承するものであるとともに、個性的な身体の出会いによって新たな共闘関係を開くネットワークの試みにもなっている。


佐藤ペチカ×小松 亨(Photo: 平尾秀明)

 2日間連続公演の初日には、佐藤ペチカ、小松 亨のデュオが、2日目には筆宝ふみえ(舞踏派ZERO↗)、みのとう爾径(にけ)のデュオが登場した。佐藤ペチカと深谷正子は共演歴が長いが、後の3人は舞踏関係という以外さしたる共通点もなく、共演機会も持ってこなかった。現在の舞踏界は、有名カンパニーに所属したり先達に師事したりして集団的に活動するスタイルと、舞踏に触れる機会を持ちながらどこにも所属せず、本来的には独学で固有の身体性を探究していくスタイルに大別される。それぞれのグループで営まれている社会性には大きな相違があり、それが踊りの世界観や評価にも関わってくるが、そうした局面がこれまでまともに論じられたことはなく、それが舞踏の今日的な評価をむずかしくしている側面もあるようだ。後者のケースにあっては、踊り手どうしが観客席を埋めるなどして交流はあるものの、公演に際してモダンやコンテのようにひとつの作品のなかで身体をぶつけあうという意識がない。舞踏を定義する「一人一流派」という言い方は、身体のありようやめざす方向の多様性ばかりでなく、そうした特徴も指し示しているといえるだろう。その結果、作品を現実化していく際に身体のチューニングを経由するのではなく、内面の対話を通じて深めていった固有な身体をインスタレーションする方法を選択することが圧倒的に多い。舞踏との関わりには深浅あっても、こうした共演スタイルは定番といえるだろう。本シリーズの深谷正子は、舞踏であると否とを問わず、さまざまなダンサー/パフォーマーを他者として迎え入れながら、パフォーマンスのディレクションやデザインによってこれら身体表現者の単独性に働きかけ、これまで実践してきた彼女の<極私的ダンス>を原イメージとする《極私的身体》のヴィジョンがどこまで普遍性を持ちうるのか、果たして普遍性に橋をかけることは可能なのか、実地検証したいと思っているのではなかろうか。その意味では、いままさに<極私的ダンス>の多様性が私たちの前にあらわれ出ようとしている。


筆宝ふみえ×みのとう爾径(Photo: 平尾秀明)

 こうしたこととは別にもうひとつ、新版2Daysの初回公演における舞踏家の参加には特別な要素があった。それは内面の作業を第一とする舞踏の身体行為の半分が、初共演する共演者の存在によって外面に向かわざるをえないという条件のためである。振付家によって大枠を決定されている時間・空間によって、ステージに置かれる身体の内面的な作業はいたるところで寸断される。特に、中間部のコンタクト場面では、四つん這いになった佐藤の背中に身を投げ出すように小松がおおいかぶさったり、筆宝の背後に立ったみのとうが頭や手を筆宝の肩にかけて重なって歩くなど、意識的な行為にならない、まるで荷物を渡すようにして共演者に触れていくコンタクトが連続していった。動いている物体が衝突してしまったというような、不可抗力の出来事さながらのコンタクトダンスにおいて、身体の内側と外側に対する意識はともに消されることなく、触れるもの/触れられるものは物体の堅固さを保ったままであった。触れてくる手を無視するというのではなく、双方の身体が物体の接触面を観察しているような、そんな不思議なコンタクトダンスが展開したのである。身体インスタレーションによる共演から一歩その先へ。ここには舞踏を開くという、そのことを目的とはしないまでも、結果として生じざるをえない出来事の効果があるように思う。舞踏家たちがそうした機会をとらえて本プロジェクトに飛びこんだところに、現在の地点からその先を照らし出すような光が生まれている。
(北里義之)

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