2013年4月6日土曜日

三ツ井嘉子: Experiment vol.1



三ツ井嘉子: Experiment vol.1
日時: 2013年4月5日(金)
会場: 東京/江古田「フライング・ティーポット」
(東京都練馬区栄町27-7 榎本ビル B1F)
開場: 7:30p.m.、開演: 8:00p.m.
料金: 投げ銭+1drink order
出演: 三ツ井嘉子(flute, field recording)
問合せ: TEL.03-5999-7971(フライング・ティーポット)



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 「実験音楽」というのは、ジョン・ケージにはじまる現代音楽の一ジャンルとして、あるいはいまだ分類を許容しない同時代音楽・雑種音楽の総称(フィリップ・ロベール)として知られているが、フルート奏者の三ツ井嘉子が自身のソロ演奏に採用したタイトル「Experiment」は、言葉の原義に戻り、(言葉による)あらかじめの問いかけを通して一連の作業仮説を構築し、実際に試みてみるというパフォーマンスで、問いかけは音楽をめぐるさまざまな要素にわたっている。事前に発表された6項目のテーマを、私なりの言葉で要約してみる。(1)即興演奏と作品概念の関係。(2)即興演奏への物語性の導入。(3)フィールド・レコーディングの存在意味。(4)事前に公演のテーマを公表することの可否。(5)投げ銭システムの考察。音楽の値段とは?(6)演奏の空間性・場所性。実際の公演は、三ツ井自身がさまざまな場所で録音した環境音(というより生活音というべきか)を、ほとんど加工することなく、映画的なモンタージュをほどこして再構成したものを流しながら、会場内を歩きまわる三ツ井が、フルートの即興演奏をするというものだった。ステージからもっとも遠いトイレのスペースにまで入りこみ、ひときわ高くフルートを吹き鳴らすこともあった。場所による響きの変化はつねに意識されていて、用意された脚立に昇って天井に音を反響させたり、ステージに立てられた一本のマイクに近づいたり遠ざかったりすることで、生音とスピーカー音のアンサンブルを変化させたりした。

 作業仮説としてのテーマ → 音楽パフォーマンスによる実験 → 結果の検証と考察、という一連の過程のなかに、聴き手や観客を巻きこむ公開のコンサート形式がビルトインされている。作業仮説が理論となるまでには、実験がくりかえされなくてはならない。即興演奏のような音楽の場合は、科学的な実験と違って、データがすべてというわけではなく、聴き手ひとりひとりの心のなかで起こること、演奏に対する嗜好や解釈の多様性が、音楽そのものの豊かさを “実証” することになるという点にある。これがやっかいなのは、この多様性を簡単に知ることのできる手段が存在しないからだ。かつて千駄ヶ谷にあったループラインでは、「Experiment」のような数々の「実験音楽」が公演されていたが、そこではしばしばミュージシャン=パフォーマーが、公演後に聴き手に感想を求めた。当時はその意味をつかみかねていたのだが、いまにして思えば、この感想聴取会は、パフォーマンスの一環というべきもので、解釈の正しさを議論するためのものなどではなく、(もし体験者の心のなかでなにがしかの出来事が起こっていたとすれば、その)出来事をめぐる解釈の多様性を確認し、共有するための対話をしていたのだとわかる。このときのライヴは、表現者の表現を、聴き手や観客が一方的に見たり聴いたりする場ではなく、すべての参加者にとって多様でしかない出来事そのものを主人公にする場へと変化している。ミュージシャンの意味も、即興演奏の意味も、別のものに変わっているのである。

 スピーカーから流れるフィールド・レコーディングを使った音風景が、フルート演奏がされるライヴ空間に、ヴァーチャルな空間を折り重ねる。多重化される空間性。あるいは空間のパリンプセスト。潮騒の響きと思ったものは、後で確認すると、交通量の多い往来に立っての録音とのことで、サウンドスケープから聴き手がなにを連想するかはあまりあてにならないが、短い周期で次々に移り変わっていく音風景は、電車のなかの会話、駅ホームのアナウンス(「原宿、原宿です。ご乗車ありがとうございます」等)、カラスの鳴き声、小鳥の鳴き声、人々の雑踏、ゲームセンターの音楽、フライパンで料理をする音、チョロチョロと水のしたたる音、集団で打たれる団扇太鼓の響きなど、彼女の住む、また私たちの住む東京という都市の生活音から構成されていた。ケースによっては、いくつかの音源を重ねる場合もあるとのこと。三ツ井は「演劇などのように物語を音で表現してみたい」「あらゆる感情を表現したい」という表現欲求ものぞかせているが、ここでいわれている「演劇のような物語」も「あらゆる感情」も、大きくいえば、出来事への感応性に支えられたものではないかと思われる。音風景が途切れてから、少しだけフルートの演奏がつづいてワンセットが終わる。前後半ともに30分強の演奏だった。

 三ツ井嘉子のフルート演奏は、即興という点では、加藤崇之からの強い影響を受け、フリージャズを演奏していた時期もあるというところから、基本的には、感情表現と強く結びついたジャズ的強度を備えたものということができるのだろう。この日の演奏は、フィールド・レコーディングの音風景が描き出すヴァーチャル空間の平面性に対して、リアルタイム空間の立体性を強調するように、一枚のガラスでできている入口の扉前に立って演奏したり、脚立に昇り、反響を使って天井から音を降らせたり、鰻の寝床のようにまっすぐに伸びた通路を往復して演奏したり、会場から死角になったトイレの手洗い場にはいりこんで演奏したり、ステージの立ち位置を変えながら、マイクが拾うスピーカー音と生音とを配分しながら演奏したりと、フルートという楽器を、まるでものに触れまわる指のように使って、フライング・ティーポットの空間を隅々まで探索していくようなパフォーマンスをおこなった。フルートの響きは、演奏者の感情を乗せるだけではなく、ときに語りのようであり、ときに情景描写的であり、きれいな響きだけにならないよう声をまじえて演奏したり、息だけになったり、第二部では、「星めぐりのうた」を変奏したようなメロディーまで奏でるなど、演奏経験の豊富なところをのぞかせながら、けっして一本調子にならない多彩さでソロ演奏を構成していた。こうしたフルート演奏に体現されているのは、三ツ井自身が多様な欲求を持ったデキゴトロジストだということであろう。■





  【関連記事|三ツ井嘉子】
   「長沢 哲: Fragments vol.12 with zma」(2012-09-30)

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2013年3月29日金曜日

毒食 Dokujiki 8



中空のデッサン Un croquis dans le ciel Vol.38
毒食8
Dokujiki 8
日時: 2013年3月28日(木)
会場: 吉祥寺「サウンド・カフェ・ズミ」
(東京都武蔵野市御殿山 1-2-3 キヨノビル7F)
開場: 6:30p.m.、開演: 7:00p.m.~
料金: 投げ銭+drink order
出演: 森 順治(alto sax, bass clarinet) 林谷祥宏(guitar)
田井中圭(guitar) 金子泰子(trombone) 
多田葉子(sax) 岡本希輔(contrabass)
問合せ: TEL.0422-72-7822(サウンド・カフェ・ズミ)


【毒食8 演奏順】
第一部
森 順治 → 林谷祥宏 → 田井中圭 → 金子泰子 → 
多田葉子 → 岡本希輔
第二部
森 順治 → 多田葉子 → 金子泰子 → 田井中圭 → 
岡本希輔 → 林谷祥宏



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 昨年の夏、コントラバスの岡本希輔が吉祥寺ズミで主催する音楽シリーズ「中空のデッサン」の枠内で、サックスの森順治、トランペットの橋本英樹、ギターの林谷祥宏からなる「毒食」(どくじき)セッションがスタートした。しばらくの間は、この四頭体勢のままシリーズが進められていったのだが、毒食5(12月25日)と毒食6(1月30日)の二回を林谷がインド旅行で欠場したのをきっかけにメンバー枠を拡大、毒食4(11月29日)から毒食6(1月30日)まで、ピアニカを演奏する蒔田かな子の参加をみただけでなく、毒食5には、折よく来日中だったチェロのユーグ・ヴァンサンも特別参加した。ひとりの演奏家のソロを継続して聴くという会の趣旨を生かすため、参加者には、三回をワンクールとして演奏することが、基本条件として課されている。個々に生活の事情を抱えているという点では、演奏者はもちろんのこと、聴き手にも、シリーズを継続して聴くというのが、意外なことに、ソロ演奏というスタイルをうわまわる過酷な条件となるかもしれない。今年になって、毒食6から毒食8(3月28日)までは、サックスの多田葉子とトロンボーンの金子泰子が参加、偶然からか女性の参加がつづいている。また毒食7からは、スタートメンバーの橋本が諸事情で欠場中であり、毒食8からは、ギターの田井中圭が新たに参加した。

 三ヶ月の継続性を確保しながら、ホストとゲストの演奏家が、少しずつずれつつメンバー構成をし、ひとつのコンサート内でソロ演奏をバトンしていくというのは、思いつきからスタートしたものであれ、演奏の緊張感や新鮮さを保つ最適のスタイルとなっている。こうした<毒食>には、聴き手もおなじように参加すればいい。すなわち、聴き手の参加もまた、必然でも義務でもないけれども、だからといって、その場かぎりの気ままな娯楽というわけでもなく、できれば意識して継続的な聴取をすることが望ましい──<毒食>をそんな聴き方の提案として受け取ることができるだろう。このことは即興演奏を「自由な音楽」というときの「自由」のあり方を、異質なミュージシャンの共演によってではなく、現実的な公演スタイルそのものから規定するやり方になっていて興味深い。というのも、現代のような情報資本主義の時代には、良質な情報の獲得や、最適な情報の組合わせといった “合理性” が「自由」の前面に押し出されてくるため、教養であれ娯楽であれ、自己を離れてなされる聴取や継続した思考といったものが、成立しにくくなっているからだ。本来的にそれらは「自由」と無関係ではなく、むしろ「自由」のベースとなるものであるにもかかわらずである。

 毒食8の参加者は、森順治、林谷祥宏、田井中圭、金子泰子、多田葉子、岡本希輔で、この日は、森順治の司会で、第一部では、ミュージシャンが会場に到着した順が、そのまま演奏順になった。各自が10分~15分ほどでおこなうソロ演奏を二巡させたので、休憩時間も含めると、全体で三時間を越えるような長いコンサートとなった。二度のソロ演奏に変化を持たせるため、田井中は金属ボウルとおはじきを用意し、金子は元素周期表をボードに書きながら演奏し、多田はズミの書棚から故・大里俊晴の『ガセネタの荒野』を取り出して朗読しながら演奏するなどの工夫をしたが、そのなかでもっとも効果をあげたのが、窓の外にきれいな月が出ているからと、会場照明をできるだけ落として演奏した多田のアイディアだった。多田にならって、その次の岡本も薄暗闇のなかで演奏したのだが、そこからさらに、第二部は明るい照明を次第に暗くしていくという趣向が採用され、第二部のラストを務めた林谷のギターソロは、演奏者の顔も見えない真暗闇のなかでおこなわれることとなった。見ることは、感じることに直結しているため、聴くことも大きく左右せずにはおかない。ミュージシャンが考案したさまざまな工夫が、あくまでも知的なもの、意識的なものである一方、光の明暗はたんに感覚的なものでしかなく、しかしそうであるがゆえに、ダイレクトに身体に働きかけることになったと思われる。

 こうしたゲスト奏者たちとは対照的に、森順治、林谷祥宏、岡本希輔ら、毒食のホスト奏者たちは、二度のソロ演奏を楽器一本に集中して演奏した。これは演奏のなかに作曲的な要素を持ちこまなかったということである。両者の間にある(方法論上の)この相違は、おそらく重要な意味を持っているに違いない。森順治と岡本希輔の演奏は、いずれも無限のヴァリエーションを持つ日々の即興の今日の姿というようなものだった。<毒食>シリーズで積み重ねられてきたソロ演奏に、意識の「進化」を見たり、演奏の「戦略」を読んだり、あるいは世界の「豊かさ」を感じたりするのは、いずれも解釈の多様性であるわけだが、彼らがそうした解釈以前に示しているのは、即興がもはや特別なものとしては存在しない、生活と一体化した現実を生きている姿に他ならないだろう。そのなかにあって、通販で入手したというハーモニーのアコギを弾いた林谷祥宏は、少し前に杉本拓がしていたような「沈黙」の演奏を聴かせて異彩を放った。毒食の最初から、林谷は「実験音楽」と呼ばれるような性格の即興演奏をしていた。いうまでもなく、杉本の演奏は、即興批判を裏面に(隠し)持ったコンポジションの試みであるが、林谷の場合は、そうした「実験音楽」のアイディアを即興に応用してみているようである。聴取概念の変更をともなう音楽的試行が、ここでは一種の引用に様変わりしているというわけだ。判断の性急さをおそれず、林谷の演奏を現代即興地図のなかに位置づけるなら、おそらくカセットレコーダーの河野円や、ギターの(「演奏家・音楽家」ではない)康勝栄などと近い場所で、新たなサウンドの領域を開拓しようとしているのではないかと思われる。■





※毒食(どくじき):1900(明治33)年2月17日、衆議院で演説した
田中正造が、「目に見えない毒」に汚染された水や作物を飲み食い
することをいいあらわしたもの。[フライヤー文面から]



【関連記事|毒食】
「毒食 Dokujiki」(2012-08-30)
「毒食 Dokujiki 2」(2012-10-02)

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2013年3月27日水曜日

【CD】ヒグチケイコ: 花弁のように儚い



ヒグチケイコ
『花弁のように儚い』
Keiko Higuchi: Ephemeral as Petals
Utech Records|URCD-035|CD
曲目: 1. Sister (5:35)、2. Another Man / ただの男 (4:32)
3. How Deep is The Ocean (8:01)、4. The Impossible (4:44)
5. My Funny Valentine (4:25)、6. みだれ髪 (6:27)
7. 窒息しそうな夜 / Too Much to Say Goodbye (2:46)
演奏: ヒグチケイコ(piano, vocals)
Cristiano Luciani(drums, cymbals, synthesizer on track 1)
川口雅巳(guitar on tracks 2 and 6)HIKO(drums on tracks 2 and 4)
録音: 2012年(「Sister」のみ 2010年/2011年)
絵画: 宮西計三 写真: 森重靖宗
デザイン: Keith Utech
発売: 2013年3月23日



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不可能性に手をさしのべる、愛が
下のほうを走りまわるとき、私たちの皮膚のした、
いたるところを、根茎のように。
ふたりは影のようなものかもしれない。
感じてほしい。
彼らはすでにそこにいる。
それこそが儚くも忘れさられる理由なのだ。


 『ラブホテル』(2008年)以来5年ぶりとなるヒグチケイコのソロアルバム第二弾『花弁のように儚い』が、アメリカのユーテック・レコードからリリースされた。ほとんどが東京で録音されたものだが、冒頭の「Sister」のみ、欧州ツアーの際にローマで収録(2010年10月29日「La Jetee」でのライヴ)された演奏に、共演者であるクリスチアーノ・ルツィアーニがポストプロダクトを加えた楽曲となっている。この他にも、『ラブホテル』発売の年の暮れに荻窪ベルベットサンでおこなわれた発売記念ライヴが、DVD-R『(the second) LOVE HOTEL』としてリリースされており、ヒグチのこの時期のパフォーマンスを映像によって知ることができるが、こちらが内容的にCDと近似していることをふまえると、新曲を揃えた新譜『花弁のように儚い』こそが「第二弾」と呼ぶにふさわしいアルバムといえるだろう。新作では、ギターの川口雅巳やドラムのHIKOが楽曲に参加して花を添えている。みずからの声をループしながら歌うヒグチのスタイルはいまも変わっていないが、さらに多彩なゲスト奏者を迎えた本盤では、ループの使用がみずからの内面を深くえぐっていた前作とは、また違った側面にスポットをあてる作品集になった。

 楽曲によってはかろうじてという場合もあるが、それでも原曲の形をなにがしかとどめながら、そこにまったく別の感情を乗せていくヒグチケイコの歌とピアノが、ライヴごと即興的に演奏されていくように、川口雅巳やHIKOの演奏もまた、楽曲の味つけのようなものとしてではなく、即興的に、いわばもうひとつのヴォイスとして演奏に参加している。原曲を彩っていた感情は、ヒグチの声によって新たな色と形を与えられることで、「My Funny Valentine」のようなスタンダード曲や「みだれ髪」のような歌謡曲が、それまで予想すらしていなかったもうひとつの感情を宿しはじめる。その声のさまは、パセティックでありながらどこかデモーニッシュ、泣きながら歌っている魔女のようで、その歌を聴いた誰もがディアマンダ・ガラスを連想するように、呪術的な色彩にあふれたものとなっている。「呪術的」というのはおだやかではないが、もちろんこれは、誰彼を呪うという意味ではない。周知のように、通常の歌では、声は歌詞やメロディーを正確にトレースしていく(解釈していく)が、ヒグチの声は、それらをはみ出してしまうような(圧倒的な)身体性を獲得しようとしているということなのである。その結果、彼女ならではの声の身体性が言葉に働きかけて、まるで歌のなかから内臓をつかみ出してくるかのように、新たな感情を呼び起こすこととなる。本盤に収められているのは、歌という収まりのいいものではなく、「花弁のように儚い」ものをめぐる、声と言葉の闘争というべきものである。■



※冒頭の詩文は、ジャケット内にある英語詩の拙訳です。   
本盤は、ヒグチケイコのライヴでの手売りや    
下記のレーベルサイトの通販などで入手可能。   

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2013年3月26日火曜日

【CD】藤井郷子MA-DO: Time Stands Still



藤井郷子MA-DO
SATOKO FUJII MA-DO
『Time Stands Still』
Not Two|MW897-2|CD
曲目: 1. Fortitude (9:30)、2. North Wind And The Sun (10:32)
3. Time Flies (6:58)、4. Rolling Around (2:55)
5. Set The Clock Back (5:21)、6. Broken Time (9:41)
7. Time Stands Still (7:31)
演奏: 田村夏樹(trumpet)、藤井郷子(piano, composition)
是安則克(bass)、堀越 彰(drums)
録音: 2011年6月22日
場所: ニューヨーク
発売: 2013年3月31日



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 一昨年、ベーシスト是安則克(1954年12月6日-2011年9月23日)が56歳の若さで他界した。多くの音楽仲間がその死を惜しみ、彼を追悼するアルバムがすでに何枚もリリースされているが、先に個人レーベル<Libra>から、田村夏樹の率いる “ガトーリブレ” 第5弾『Forever』(2011年9月14日録音)がリリースされたのに引きつづき、今度は、藤井郷子がリーダーを務める “Ma-Do” の第3弾『Time Stands Still』(2011年6月22日録音)が、ポーランドのレーベル<Not Two>からリリースされる運びとなった。コンビを組んで活動している田村夏樹と藤井郷子であるが、リーダーを交代してそれぞれの音楽性を前面に出したグループのどちらにも参加していた是安則克が、彼らとどれほど深い音楽的な関わりを持っていたかは想像にかたくない。ふたりはいま東京とベルリンの双方に拠点を持ち、日本とドイツを往復しながら演奏活動をしているが、日本よりもヨーロッパのほうが仕事が多いという事情から、現在では、ベルリン滞在が長くなっているとのことであった。早くには高瀬アキが、引きつづいては千野秀一が、そして最近ではリブラ・コンビがベルリンに拠点を移しつつあるところから、彼の地が国際的にミュージシャンの集まる都市であることや、日本では一過性のブームだった感のある音響的試行が、いまも持続しているといったニュースも飛びこんできている。

 田村夏樹の “ガトーリブレ” が、「淡々と。盛り上がらなくていい。切ない。少し不思議」という音楽コンセプトでメンバーを人選し、アコーディオンなどの構成楽器を選択しているのにくらべ、藤井郷子の “Ma-Do” は、彼女がリーダーとなった他のグループ同様、そこに集まる個性的な演奏家たちが、複雑に書かれた彼女の作品を、作曲家の予想を越えて(裏切って)どんなふうに音楽化してみせるのかという点に、想像力のすべてがかけられている。グループに作品を提供する藤井には、そこでおこなわれた即興演奏を全面的に受け入れる用意があるようだが、即興演奏の背景をなしている音楽性についていうなら、“ガトーリブレ” の目指しているのがオーラルな音楽(あるいは音楽のアウラの追究)であるのと対照的に、“Ma-Do” が目指しているのはエクリチュールの音楽(あるいは、最終的に楽譜や音盤に書きこまれる書記音楽)ではないかと思う。こうしてみると、本盤でも聴くことのできる息や声を多用する田村の演奏スタイルは、保守的なジャズファンの予想を裏切るための戦略というよりは、オーラル性を全身に帯びたサウンドだからだということがわかる。前衛と伝統を架橋した20世紀ジャズは、おそらくこの両方の要素があって世界的に広がり、発展していったものといえるのだろうが、それがリブラ・コンビにそのまま体現されているのを聴くのは、いまさらながらではあるが、とても興味深い。

 カルテット “Ma-Do” は、2007年10月に結成されて以来、何度となく海外公演をおこなっているが、本盤に収録されたのは、2011年6月に組まれた合衆国ツアーの最中におこなわれたニューヨーク録音で、是安にとっては、最晩年の演奏のひとつということになる。追悼文として書かれた藤井のライナーには、録音当時の “Ma-Do” 事情やレコーディングのエピソードなどが記されている。グループの屋台骨をがっちりと支える是安の演奏は、各所でフィーチャーされるソロ演奏で、サウンドに対する神経の細やかさや、音に深く沈みこんでいくときの哀しげな(あるいはセンチメンタルな)表情をのぞかせている。アルバムの冒頭に、アグレッシヴな是安のソロからスタートする「Fortitude」を置く一方、末尾には、情感にあふれたアルコ伴奏が藤井のソロにぴったりと寄り添う印象的なタイトル曲「Time Stands Still」を配した本盤は、ベーシストを追悼する構成をとりながら、演奏がたるんだり停滞したりする部分のない、まさに上り調子にあったカルテットの演奏を収めたものである。音楽的な意味でも、人生の一時期をともに過ごした友の記憶を刻みつけるという意味でも、まさしく、「時間よとまれ」と呼びかけたくなる白熱した瞬間を、永遠にとどめた作品といえるだろう。■

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2013年3月24日日曜日

【CD】康 勝栄+弘中 聡: state, state, state



康 勝栄 弘中 聡
Katsuyoshi Kou / Satoshi Hironaka
『state, state, state』
Ftarri|ftarri-995|CD
曲目: 1. State (15:24)、2. sTate (27:25)
3. stAte (4:23)、4. staTe (9:55)
演奏: 康 勝栄(guitar)、弘中 聡(drums)
録音: 2012年7月9日
場所: 東京/八丁堀「七針」
発売: 2012年12月9日



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 ギタリストの(あるいは「演奏家・音楽家」ではない)康勝栄とドラマーの弘中聡が、東京八丁堀にある古びた雑居ビルの地階にある小スポット “七針”(ななはり)で収録したソロとデュオの即興演奏。七針の公演データに記載がないので、おそらく非公開でおこなわれたものと思われる。その場か後日かは不明ながら、オーバーダビングや録音機器の操作によって、四曲のうちの三曲にポストプロダクトが加えられており、編集作業の内容や編集意図などが、アルバムに同封された康勝栄のライナーに簡潔に記されている。一定のテンポを変えることなく、ドンドコドンドコと鳴りつづけるドラムと、楽器のハウリングや、接触不良になったつまみをゴソゴソといじっているような電気的なノイズを出すギターのコンビネーションが、強烈な違和感を感じさせることなく、むしろ親和的なありようで、それぞれのレイヤー内を動いていく演奏は、音響以降の即興シーンにおけるプレイヤーの関係性においては、すでに典型的といえるようなものになっている。本盤においては、すべてがノイズに還元されてしまうのではなく、ドラムはドラムとして演奏されているので、デュオが共有している場所は、空間的なものではなく時間的なもの──すなわち、音楽的なもの──になっている。

 フリージャズ華やかなりしころ、即興演奏がシュルレアリスムの自動筆記にたとえられたことがあった。即興演奏は、意識の底に隠された(あるいは「抑圧された」)広大な無意識の領域に身体を解き放つものといわれたのだが、現在の地点から考えれば、これは形を変えた、現代の「自然に還れ」宣言だったのではないかと思われる。おそらくはそうした発想が根底にあって、即興演奏の録音には、できるだけ人工的な手を加えないことがよしとされた。作曲(家)のヒエラルキーに異議申し立てする即興が、演奏の過程を生きることに存在意味を見いだしていたという点で、この主張は、あながち的外れでもなかったように思われるが、そうした演奏の記録自体が、LPの両面を使って長時間の録音を可能にした音響技術の発展に負っていたことを考えれば、そこに出現する自然(無意識的なもの)は、つねにすでに人工(意識的なもの)にまみれていたといえるのではないかと思う。重層的なメディア環境の時代に、それらを衣装のように脱ぎ捨ててみせる “純粋な” 身体がありうるのかという問題は、もはや一種のロマンティシズムと思われているかもしれない。少なくとも、本盤の即興演奏は、そうした “自然さ” に待ったをかけている。

 アルバムの冒頭に収録された「State」で、オーバーダビングを使ったり、ドラミングに機械的な心不全を起こさせたりしながら、ノイズであれ楽音であれ、音をどこまでも “自然に” 聴きたいと欲求する私たちの身体に、これが録音媒体であることを意識させつづけるしかけをほどこしたデュオは、それぞれのソロ演奏をはさみ、アルバムの末尾には、なにも手を加えないデュオの即興演奏を置いている。一曲をダウンロードで聴く現代の聴き手が、この順番でアルバムを聴くかどうかは保証のかぎりではないが、『state, state, state』のこの曲順は、本盤の要になっているといえるだろう。というのも、この順番で聴くことによって、私たちは通常の即興演奏を、いつもとは別の意識状態(state)のなかで聴くことになるからである。「手を加えていない」ということがどういうことかを、手を加えた演奏を聴くことによって、初めて知ることになるからである。意識されているか否かはともかく、おそらくはすべての即興演奏が、もともとはこうした(メディア体験の)側面を持っている。さらにいうなら、即興演奏とは、こうしたメディア体験とともに誕生した音楽だということにすらなるかもしれない。こうして本盤は、いくつかの「state」を発見の装置にしているが、それだけにとどまらず、出来事の一回性を生きる即興演奏のCD化は、演奏そのものを反復的聴取にもたらす。認識の構図の変換のあと、この反復聴取から、康勝栄と弘中聡の演奏があらためて姿をあらわすことになるだろう。■

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2013年3月23日土曜日

【CD】Filip - Nakamura - Neumann - Palacky: messier objects



Klaus Filip / 中村としまる
Andrea Neumann / Ivan Palacky
『messier objects』
Ftarri|meenna-999|CD
曲目: 1. M1 Crab Nebula (40:06)、2. M20 Trifid Nebula (16:39)
演奏: クラウス・フィリップ (ppooll)
中村としまる (no-input mixing board)
アンドレア・ノイマン (inside piano, mixing board)
イヴァン・パラツキー
 (amplified Dopleta 180 knitting machine, photovoltaic panels)
録音: 2011年10月4日、5日
場所: チェコ/プラハ「Babel Festival」
オーストリア/ウィーン「Amann Studios」
デザイン: tanabemse
発売: 2012年12月9日



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 『メシエ天体』という風変わりなタイトルを持つ本盤は、オリジナルの音楽ソフト「ppooll」(アナグラムされているが、かつて「lloopp」という表記がされていたことから、もともとはループをもじった名前であることがわかる)を使ってラップトップ演奏するオーストリアのクラウス・フィリップ、ピアノを解体して内枠を取り出した「インサイドピアノ」を演奏するドイツのアンドレア・ノイマン、「Dopleta 180」という手編み機をアンプ接続して演奏するチェコのイヴァン・パラツキー、そして外部入力のないエレクトロニクス回路「ノーインプット・ミキシングボード」を演奏する日本の中村としまるによるカルテットが、2011年10月にヨーロッパ公演した際の演奏を収録したものである。サウンド・インプロヴィゼーションでは、サックスのような伝統的な楽器を伝統的に演奏しながら、耳になじんだ即興演奏の方法を逸脱していくアプローチや、それとは逆に、伝統的な演奏方法を意識的に迂回するアプローチ、さらには楽器を創作したり楽器でないものを演奏に用いたりすることも非常にしばしばなされている。ここに集まった即興演奏の辺境を生きるプレイヤーたちに共通するのは、しかしながら、現在の演奏へといたるそうした “出自” ではなく、サウンドを空間的に配置する際のローテク度ではないかと思われる。

 メシエ天体とは、天文学者シャルル・メシエが作成した星雲・星団・銀河のカタログに掲載されている天体のことをいい、個々の天体は、作成者の頭文字をとって、「M1」(かに星雲)「M20」(三裂星雲)というように表記される。本盤でも、40分のライヴ演奏に「M1」のタイトルが、16分のスタジオ演奏に「M20」のタイトルがつけられている。即興的な対話のないカルテットの演奏は、サウンドに流動性をもたらすリズムの河も、ループのような自動反復も採用することなく、まさにひとつひとつ孤独に輝くノイズの星々が、宇宙に星雲や星団を形作るようなあり方で、この時間、この場所で鳴らされただけの関係性を結んだものである。それでも多種多様なノイズ=サウンドの密集は、星々の配置が(地球上に縛られた私たちの目に)ひとつの星座を描き出すように、意図されたものではない天体のハーモニーを奏でているように聴こえる。アンドレア・ノイマンが弾いている(らしい)リズミカルな鉄弦の響きや、中村としまるが放出する(らしい)ホワイトノイズの電子流などが、ときおり音楽的な記憶をかきたてるが、それも長続きすることはない。曲想もここではサウンドの一側面になっているとみるべきだろう。

 音が突然に途切れ、演奏に空白状態が訪れることがあっても、「messier objects」の世界が自壊することはない。彼らの演奏に「楽曲」の終わりはなく、もはや「沈黙」を提示する必要もなく、空間的に構成されていく世界を自然に生きていればいいからである。その意味では、タイトルに宇宙的なイメージがあっても、実のところ、それは街角の交差点で私たちが体験するような、ごく日常的なサウンドのありようなのかもしれない。フェスティバル会場になったプラハのアルカ劇場が大きかったためだろう、宇宙的な広がりを持つ演奏となった「M1」に対して、ウィーンでスタジオ録音された「M20」では、スタジオの密閉性のせいか、あるいは観客がいなかったせいか、より肌理のつまった狭いスペースに、ライヴより一段と克明な音像を注意深くはめこんでいくような演奏となっている。「M20」の演奏は、静寂に彩られたというより、むしろ低体温の音楽と呼ぶべきものだろう。演奏が終わるころ、辛抱しかねたように、なにか金属的なものを引っ掻くような大きな物音が発せられるが、それがクライマックスを構成するというわけでもなく、体温の低さは最初と変わらないまま、セッションは終演を迎える。■

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2013年3月22日金曜日

【CD】山内 桂+中村としまる: 浴湯人



山内 桂 中村としまる
Katsura Yamauchi/Toshimaru Nakamura
『浴湯人 Yokutojin』
Ftarri|ftarri-994|CD
曲目: 1. (30:21)
演奏: 山内 桂(alto saxophone)
中村としまる(no-input mixing board)
録音: 2012年4月7日
場所: 大分県別府「プラットホーム01」でのライヴ録音
アートワーク: 杉本 拓
デザイン: 杉本 拓、八木菜々子
発売: 2012年12月9日



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 南仏に住むミシェル・ドネダが、ソプラノ・サックスを片手に、ひとり自宅の裏山を散策し、文字通り、自然と語らうなかからつかみだしてきた気息の演奏のひそみに倣うようにして、“サルモサックス” こと山内桂は、自然のなかで川釣りを楽しむ環境に故郷の原風景を見いだし、まるでサケが急流をさかのぼっていくような、静かで強靭なサックスのラインを独自に編み出すとともに、彼自身の即興演奏を、フレージングによる対話から音響をインスタレーションするようなスタイルへと移行させた。音響的なアプローチを一過性のブームとするのではなく、いわば自身の背中に刺青するようにして背負い、共演者が誰であれ、頑固なまでにその方法論とスタイルを貫くことで、孤高の歩みをたどることになった。これは音楽である以上に思想というべきものであろう。おなじサックス奏者である広瀬淳二の音響アプローチが、凝縮され、白熱化した瞬間的なサウンドのありようを生命とするのとは対照的に、静かに息づくバイオリズムのなかのホバーリングをめざす山内の演奏は、本質的には、生態系のなかに置くことのできるようなクールな音楽になっている。山内の地域主義は、大分県別府での共演にちなんだ「浴湯人」という本盤のタイトルにも、さりげなく示されているだろう。

 本盤の共演者である中村としまるは、周知のように、数多いるエレクトロニクス奏者のひとりというにとどまらず、サイン波の Sachiko M ともども、20世紀末に音響的試行からサウンド・インプロヴィゼーションへと向かった「即興演奏のパラダイムシフト」において、国際的なインパクトを与えることになった演奏者である。中村の演奏に対する海外の高い評価を、日本にいて想像することはむずかしいかもしれないが、彼も Sachiko M も、ヨーロッパでは音響的アポリア(問題)の中心において論じられている。外部入力を使わないという意味の「ノーインプット・ミキシングボード」の電子回路を構築する際、中村は演奏に習熟してしまうことで、電子回路が容易にコントロール可能になってしまわないよう、演奏のたびに、新たな要素を加えるなどの工夫をしているという。電子回路の他者性を確保することで、サウンドの他者性を担保し、あわせて予想のつかない出来事の到来に演奏を開くという態度の徹底が目指されているのであろう。本盤に収録された、水しぶきをあげて滝壺にたたきつけられる大量の水のようなホワイトノイズの奔流が、はたしてこうした予測不能性が生んだものかどうか詳らかにはしないが、泰然自若として静態的な山内の演奏を、大きく破るものだったことはたしかである。

 デュオの演奏は、二部構成のライヴの第二部を収録したものとなっている。山内の静かな気息の演奏(楽器が鳴らないようにしながら、サックス管に吹きこまれる息を強調する特殊奏法)からスタートし、後発した中村の電子音との間で干渉波を生みながら、高次倍音を生むサックスの単線ラインを経由し、やがてすべてを押し流すホワイトノイズの奔流がふたりを襲う場面へといたる。マイクで音量増幅された山内のサルモサックスは、まさしく激流をさかのぼるサケのように、全身をふりしぼってきりもみ状態になりながら、音響アプローチの看板をかなぐり捨て、エヴァン・パーカーや阿部薫を連想させるハイテンション・サウンドにまで、一気にサックス演奏の記憶を遡行していく。その後、演奏は凪の状態に入り、山内の静態的な演奏に寄り添う形でサウンドの交換がされていく。高次倍音を火花のように飛び散らせながら、金属を溶接するようなリズムで演奏されるエレクトロニクスノイズが印象的だ。演奏の後半、再びホワイトノイズの奔流による第二ラウンドがスタートするのだが、ふたりはふたりともに第一ラウンドと同じことをしようとはしない。緊迫感あふれる30分のデュオ・インプロヴィゼーションが、まるで途切れたように終わる最後の瞬間まで、聴き手の耳は釘づけになることだろう。■

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