2025年2月24日月曜日

感覚に満ちた深い海の底から──浅川奏瑛“四季シリーズvol.3 冬”『ウルトラマリンブルー』@横浜DaBY

 


浅川奏瑛

四季シリーズvol.3 冬

Ultramarine Blue

ダンス×異なる領域のアート

新たな表現を探求するコラボレーション企画

Dance Base Yokohama



涙泡(なみだあぶく)

波屑(なみくず)

水鏡(すいきょう)

潮目(しおめ)

降海(こうかい)



企画・演出: 浅川奏瑛

出演: 小川未祐(役者、ミュージシャン、ダンサー)

陶山ゆつき(空間美術家、グラフィックデザイナー)

浅川奏瑛(ダンサー、振付家)


日時:2025年2月23日(日)15:00~18:00~(開場30分前)

料金前売: 2,500円、当日: 3,000円(全席自由)

会場: Dance Base Yokohama

神奈川県横浜市中区北仲通5-57-2 北仲ブリック&ホワイト北棟3階

記録: アラキミユ

映像映像・写真: manimanium

宣伝美術: 陶山ゆつき

イラスト: 浅川奏瑛

レジデンス協力: Dance Base Yokohama



 浅川奏瑛を最初に目撃したのは、ヨコハマダンスコレクションのコンペティション II にエントリーされた作品で、第二次世界大戦における特攻作戦をテーマにした『O ku』(2021年12月、横浜にぎわい座 のげシャーレ|最優秀新人賞、アーキタンツ・アーティスト・サポート賞受賞)や、ゼロ年代、テン年代には多くの新人ダンサーに意欲的な公演の機会を作っていた東中野RAFTで開催された企画「オドリバ focus01」に参加した『人間っていいな-生前葬を踊る-(2022年8月)などで、最近でも、介護施設でのケア体験を形にした『いたような、いなかったような』(2024年7月、カフェムリウイ)や、北尾 (baobab)が監修にあたっている「吉祥寺ダンスリライトvol.4」でフィーチャーされた『煙は宇宙(そら)に昇って』(2025年1-2月)などがある。特に高齢者施設でのケア体験から作りあげた『いたような、いなかったような』では、レジデンス期間中に記された日記が製本され、公演パンフレットのようにして観客に配布された(ネット上でも日々のnote日記として公開されている)。介護施設で作られていく人間関係やそこでのやりとりから生まれた言葉をモチーフに踊られた作品は、クリエーションに対する彼女の真摯さと徹底さを印象づけるもので、ダンス作品を世界理解の通路にしていく彼女のスタイルを雄弁に語るものだった。

 年ごとに新しく登場してくる若いダンサーを見ていると、持ち前の個性はもちろん、小屋の主宰者によって雰囲気がガラリと違ってくる公演会場の消長という環境の変化にも影響されて、「世代」という大枠では括れないまでも、以前とはどこか違っているといった印象がある。1998年生まれの浅川奏瑛を誰とくらべるのがいいのだろう。テン年代に旧d-倉庫の新人賞に名を連ねたダンサーたちを、コロナ禍以前に登場した作家として一括りにしてみると、水中めがね∞の中川絢音(b.1991年、桜美林大学)、ケダゴロの下島礼紗(b.1992年、桜美林大学)、印象的なソロ作品を作っていた住玲衣奈(b.1992年、桜美林大学)、tantanの亀頭可奈恵(b.1995年、日本女子体育大学)らが特に記憶に残っているが、彼女たちより数年あとに生まれた浅川を、出身地は違っても大学を出て東京を活動拠点にしている点からくらべてみると、ダンス作品を「世界理解の通路にしていく」点では共通していることがわかる。「世界性」と「多様化」しかいわれていなかった概念としてのコンテンポラリーダンスと唯一無二のこの身体をつなげるため、体あたり的に社会のありようを探究していったのが彼女たちのダンスだった。とりあえず遠くに見えるダンスの灯台をめざし、そこへと通じる「社会」の道を発見したり、場合によっては自身で創造したりすること。その結果、多くのダンサーたちはダンス史が共有している記憶よりも、日常生活という手の届く範囲にある身辺雑記的なテーマ、あるいは社会的事件そのものをテーマとして選択している。

 浅川奏瑛の場合、前記タイトルを一覧しただけでも、個性的な視点の持ち方は顕著だが、「身体が語る存在の有限性と独自の死生観」といわれるような身体の際(境界)を意識した作風は、より内面的、演劇的なものに傾いていて、テーマを言葉のないダンス形式に落としこもうとするとき、動きを作る際のモチーフにはしても、わざわざ観客に説明するような作り方はしないので、内容と形式がどこかずれたように感じられる。多形式をコンセプトにしているのではなく、一作ごとにアプローチの違いを見せるスタイルは、それぞれがひとつの試みといえるようなもので、浅川にいつもなにかを探しているような印象を与えている。身体の必然性とダンスの間を社会的なもので満たしていくかわりに、一気にジャンプで超えようとする(あるいは両者を衝突させてショックを与える)のが浅川式といえるだろうか。そこにはアニメなどで「セカイ系」(東 浩紀)と呼ばれた世界感受のスタイル──「主人公(ぼく)とヒロイン(きみ)を中心とした小さな関係性(「きみとぼく」)の問題が、具体的な中間項を挟むことなく、「世界の危機」「この世の終わり」などといった抽象的な大問題に直結する作品群のこと」『波状言論 美少女ゲームの臨界点』編集部注──に通じるものがある。いささか大上段に構えた言い方になるが、こうした齟齬が生じるのは、ダンスの本質が、浅川の死生観を裏切るような、身体の絶対的な肯定からスタートする身体芸術だからだと思われる。そのことを踏まえていえば、このジャンプを控えて、具体的に他者の身体に触れ、言葉の橋を架けた作品が『いたような、いなかったような』のアプローチだったといえるだろう。

 DaBYで開催された「四季シリーズ」の第3回「冬」の『ウルトラマリンブルー』は、声とギターの小川未祐や、映像の陶山ゆつきと共同で創りあげたコラボレーション作品である。タイトルは作品の雰囲気を象徴的に語っていて、会場はつねに薄暗く、実際の水槽を使って揺れ動く水の影をホリゾントに投影した陶山のライティングは、空間を不安定に揺り動かし、かならずしもスポットを浴びて踊られるわけではないダンスを、深い海の底で蠢くもののように見せていた。もうひとりの共演者である小川は、サンプリングによって声を多重化する音響機器や、後半で爪弾かれるギターを傍にして白い布のかかった上手の雛壇に腰をおろし、中間部分で「生まれかえる。」「君はそこにいるか?」「友だちになれた。」などの言葉を発する場面も作っていたが、作品空間を、ハッという呼吸音をともないつつ言葉のないヴォーカリーズを歌って繊細な感覚で満たすようにした。あたり一面に漂っているような光の破片と大気の動きのような声は、微細な感覚の粒が結晶しては溶けていくようで、これまでの浅川の作品からは想像のつかない別世界を作っていた。こうした繊細なうえにも繊細な環境のなかで、浅川のダンスはもっとも大きな形をとって動いていった。公演冒頭では、ステージに斜めに伸びた布の道のうえを横転して身体に巻きつけていったり、ダンサーでもある小川とデュオを踊って、一面に広がる感覚の大海をダンスの船が航跡を描いて進んでいくような太いラインを作っていった。動きが一本の背骨であり、ひとつの語りであるような本作品でのダンスのありようもまた、対立的な関係にあるものを融和させる演出をするのではなく、それぞれが際立つようにダイレクトにぶつける浅川の創作スタイルに通じているだろう。本作品『ウルトラマリンブルー』では、この方法がとてもうまく働いていた。

(北里義之)

2025年2月18日火曜日

モダンダンスの巨人、大野一雄──アンサンブル・ゾネ+中村恩恵『無垢なるうた』@横浜DaBY


 アンサンブル・ゾネ中村恩恵

無垢なるうた

Dance Base Yokohama



作品について:

 「無垢である」ということとはどういうことなのか、

「無垢」ということから

舞踏家 大野一雄氏、大野慶人氏原作『睡蓮』を

連想し創作された振付作品。

2020年神戸で初演、2021年に京都で再演。

『睡蓮』(1994年)の記録映像とオリジナルの衣装が残されている。

かつて舞台で踊り手と一緒に踊った衣装は、

中身を失った抜け殻のようです。

その衣装と映像に今の踊りをコラージュさせ

「無垢である存在」をテーマに

ダンスの本質と過去の映像、

衣装の力が一つとなるダンス作品。

(チラシ解説文から)



構成・演出・振付: 岡登志子

出演: 生駒里奈、岡登志子

ゲスト出演: 垣尾 優(芦屋公演)

加藤由美(山形公演)、中村恩恵(横浜・芦屋公演)

日時:2025年2月17日(月)16:30~20:00~

料金: 3,000円、U25: 2,000円、当日券: 3,500円(全席自由)

会場: Dance Base Yokohama

神奈川県横浜市中区北仲通5-57-2 北仲ブリック&ホワイト北棟3階


衣装: 牧 和美

衣装・映像協力: 大野一雄舞踏研究所

映像操作: 桑野聖子

美術監修: 梶 なゝ

照明協力: 岩村原太

美術協力: 一般財団法人梶尾貞治記念会

主催: Ensemble Sonne

共催・レジデンス協力: NPO法人ダンスアーカイブ構想、

大野一雄舞踏研究所

助成: 芸術文化振興基金

制作: ゾネオフィス、川崎萌々子

Special Thanks: 斉藤成美、古川友紀、ヤング荘



 兵庫県芦屋市にスタジオを構える岡登志子主宰のアンサンブル・ゾネが2020年に初演した『無垢なるうた』は、ともに舞踏の創始者として名を残す盟友・土方巽の逝去後、1987年に大野慶人が初めて演出した大野一雄、大野慶人の『睡蓮』(初演:1987年)をもとにしたダンス・アーカイヴ作品である。一口に舞踏といっても、強力な(言語的なというべき)エネルギーによってダンサーたちを呪縛した(あるいはいまなお呪縛しつづけている)土方舞踏の磁場を離れてからのそれは、大野慶人という演出家の寛容な性格もあってだろう、それまでにない解放感にあふれた作品に生まれ変わっている。一般には気づかれにくいこの時点における舞踏の変質は、「<外>の舞踏」を語ることで逆説的に舞踏の延命を図った室伏鴻(故人)などによって、舞踏の危機として認識されていたものだが、これらのことが意味するのは、外側からみているかぎり舞踏の変質は認識できないが、内側から見ていた人間には、危機的と感じられるほどに大きなものだったということである。室伏鴻研究をみる限り、このあたりの事情は、哲学的な思弁として語られることはあっても、舞踊史上にどのような意味を持つかという歴史的な観点から語られることはないようである。

 21世紀に入ってダンスを観るようになった私の場合、舞踏の創始者たちの公演に触れる機会はほとんどなかった。そのため舞踏の危機を危機として感じる切迫感を持ったことはない。そんな私が、ジャンルとしての舞踏を離れたところで、大野慶人の作品のオリジナリティに触れ、驚かされたことがある。それは伊藤千枝らが結成した“珍しいキノコ舞踊団”が異色振付家の作品を踊った公演「珍しいキノコ御膳 美味しゅうございます。」(2014年3月、東京芸術劇場シアターイースト)で大野慶人が演出した『霧笛』という短い作品だった。女性ダンサーを祈る花に見立てた(大野自身は「生花の世界」といっていた)『霧笛』は、余分なものをすべて排し、大野舞踏の核心部分を祈りとしてステージ上に花咲かせた静かなダンスだった。自由な創作スタイルが可能になって、雑多な要素が混淆するようになったコンテンポラリーの騒々しさから身を引いた場所、まさにいまここのステージ上にあらわれる身体の切実さが観客を打つといった公演。アンサンブル・ゾネの『無垢なるうた』は、「無垢」のヴィジョンを介して大野慶人の世界に接続しながら、『睡蓮』で踊る大野一雄のダンス映像や残された衣裳などを舞踊譜に見立て、新たにダンスの動きをふり起こしたものである。

 我ながらショックだったことがひとつある。それは場面の随所随所で、ゾネのパフォーマンスに対応するようにして流れる『睡蓮』映像中の大野一雄を観ても、また会場内のテーブルに並べられた舞踏家・大野一雄関連の書籍・写真集を見ても、「舞踏」という言葉がまったく浮かんでこなかったことである。よく考えれば、これは当然のことでもあった。一般的にいって、舞踏的緊張感(これ自体きちんとした説明が求められる言い方だが)が喪失されたところでは、ダンスの訓練を受けている身体はそれがやってきた場所、すなわちモダンダンスへと回帰(解消)していく傾向にあり、ダンスの訓練を受けていない身体では、ダンスを踊ることの意味そのものを失うという傾向にある。大野一雄に対するアンサンブル・ゾネのアプローチは、身体ではなく作品に集中することで、ある意味もっと積極的に、舞踏以前にモダンダンスのダンサーとして活動した大野一雄を再評価する試みになっている。土方巽と舞踏草創期を担った大野の業績が高く評価されているところから、この観点自体が見逃されがちで、彼がこの国におけるモダンの定着に欠くことのできない大きな役割を担ったという側面、すなわち大野一雄がモダンダンスの巨人であったということが、議論からすっぽりと抜け落ちてしまう不備を生んでいる。土方巽から大野慶人の演出にバトンタッチした直後の作品をダンス・アーカイヴ公演することで、アンサンブル・ゾネは、議論を本筋に戻し、総体として大野一雄の本質に迫ろうとしているといえるだろう。

 『無垢なるうた』に登場する小道具は、白いパラソルにしてもオレンジの帽子にしても、いびつな卵型のオブジェにしても薄い布で作った大輪の花にしても、さらには踊り手が床についてまわる杖や全身を包みこむ薄衣なども、大野が実際に公演で使用した小道具を使っていた。なかには暗闇のなかで足音だけバタバタさせるといった意想外の場面採用(『睡蓮』では大野慶人がステージを走り抜けている)もあったが、採用された衣装の数々は、基本的に、舞台上にインスタレーションするようして頻繁に替えられていき、ときどき置き換えられるオブジェの位置などとあいまって、ただ歩くような短いシークエンスにおいても場面ごとの独立性を視覚化するものとして働いた。ダンサーたちの動きは、映像に見られる大野の動きを部分的にトレースするようにして踊られ、ときに執拗な反復から新たなシークエンスを生んでいたが、おそらく再演に再演を重ねてきているからだろう、毛細血管にまでいきわたった意識を全身に及ぼし、指先までをも繊細に波打たせるというもので、入念なリハーサルの存在を感じさせ、大野のざっくりとした感情移入のダンスのかわりに、作品の美学を浮きあがらせることに献身していた。『睡蓮』公演は未見なのだが、冒頭と末尾に置かれた朝の起床と夜の就床の場面は、各章に詰めこまれた独立性の高いいくつもの場面を、一夜の夢と感じさせるような物語の枠構造をなしていた。けだし日常性と非日常性の自在な往還というのも、大野慶人が切り開いた舞踏世界の大きな特徴といえるかもしれない。

 最後にもう一点、ダンス・アーカイヴ公演というスタイルに関して触れておくべきは、本作品に先行する川口隆夫の『大野一雄について』(2013年~)の方法が、やはり記録映像を舞踊譜に見立て、公演で使用された衣裳を場面ごとに交換するという同様のスタイルをとって構成されていることであろう。発想は同じでも、川口の場合、舞台上で裸になって衣裳ラックを漁り、観客席前にすわると鏡に向かってケバケバしい化粧を施すというような演劇的シーンを挟みながら、自身いうところの「完全コピー」を踊るところに大きな違いがあり、最終的に舞台上にあらわれる身体や作品は、モダンダンスではなく「パフォーマンス」と呼ばれるようなものになっている。しかしこの場合の「モダンダンス」も「パフォーマンス」も、内容的な定義がされているわけではないので、形式的な差異の指摘はできても、そこでいったいなにがおこなわれているのかは相変わらず意味不明なままである。さらなる分析のため、『大野一雄について』における身体と『無垢なるうた』における身体を比較してみるのが有効だ。両者をくらべてみると、川口の場合、そこではいまはなき大野一雄が憑依してくる依代としての身体が供されているといえるが、かたやアンサンブル・ゾネの身体群には、そうした出来事はまったく起こらないという決定的な相違が見えてくる。「憑依」というといかにも胡散臭く思われるかもしれないが、もっと平たくいえば、それはモダンな合理性をはみ出すものが感受できるという点で、これは振り移しの対象となる身体との絶対的な距離感の相違(他者感覚の相違)をいったものなのである。記録映像のなかの大野一雄の身体をまなざすとき、アンサンブル・ゾネはそれを振り移す自身の身体を消すことなく、むしろそこにモダンダンサーの姿を読む批評性を発揮しているのだが、川口隆夫の完全コピーは、大野一雄を呼びこむために、自身の身体を消してしまうということをするのだ。もちろん川口の身体が実際に消えることはなく、そこでは一つの身体上で二つの異質な身体が抗争をはじめることになる。「私の身体」という堅固な意識の消滅において呼びこまれる闘争というようなもの。『無垢なるうた』で大野がモダンダンスの巨人であった側面が前面に出てきたのは、アンサンブル・ゾネの作品が持っているダンスの批評性によっている。見過ごされてしまわないためにあえて加えれば、川口にあってはまさしく愛がテーマになっているといえるだろう。

(北里義之)

2025年2月16日日曜日

バックルームからやってきたダンス──藤村港平『Nooooclip』トライアウト@横浜DaBY

 

藤村港平

Nooooclip

トライアウトDance Base Yokohama



今回創作する作品では、

バックルームやリミナルスペースのカルチャーを手掛かりに、

振付概念を再解釈することでダンスの発生を探ります。

石川朝日、藤村港平、岡直人、福永将也のそれぞれに

領域横断的なバックグラウンドを持つ4人が

コンティンジェントな創造性を交錯させる作品を作ります。


いま僕が予感しているのは、暗闇の中をジャンプしていくような踊りだ。 

例えばそれは、慣れ親しんだ街の風景や使い古した散歩道が、

不意に疎遠なものとして立ち上がってきた時の

不自然で不気味な感覚がはじめにあって、

そういう内部に折り畳まれていた辺境へ滑り落ちてしまうところから

始まるものだ。

何かに突き飛ばされ、壁の裏側にノークリップすること。 

僕にとってそれは、何の保証も条件もなしの

「よし、踊ろう」をキャッチする瞬間で、

踊りはいつもそこからやってくる。

バラバラの手足は何かを直感し、

まるで子供が車窓を流れる風景の何もかもを口にするように、

四方八方へ着地点を見据えないジャンプを始める。

何か少しだけ違うことを始めたい気持ち。

私的なファンタジーが身体を引っ張り、

自由な線を引き始めた先に何があるのか見てみたい。



コンセプト・ディレクション: 藤村港平

(DaBYレジデンス・アーチスト)

出演: 藤村港平、石川朝日(Dr.Holiday Laboratory)

サウンドグラミスト: 岡 直人

リサーチ協力: 福永将也

アフタートーク: 秋山きらら

(コーディネーター/「身体企画ユニット ヨハク」共同代表)


日時:2025年2月15日(土)18:00

料金スタンダード: ¥2,500、

料金オプション: ¥1,500¥5,000

(DaBYでは任意料金制[Pay What You Can制]を導入しています)

会場: Dance Base Yokohama

神奈川県横浜市中区北仲通5-57-2 北仲ブリック&ホワイト北棟3

主催・共同製作: 藤村港平、Dance Base Yokohama

[問合せ: contact[at]dancebase.yokohama



 「バックルーム」や「リミナルスペース」は、その出現から数年しか経っていないにもかかわらず、すでに「カルチャー」と呼ばれるような共通感覚を育てるまでになっているらしい。「The Backrooms(バックルーム)とは、2019年の超常現象をテーマにした4chan内のスレッドに、匿名の人物が投稿したクリーピーパスタ(恐怖を催させる説話や画像のこと)に由来するインターネット都市伝説である。The Backroomsは、普通は群衆で混雑している空間が不自然に閑散している様子を描写するリミナルスペースと呼ばれるインターネット美学の最も有名な例」(ウィキペディア)とある。私の場合、現代怪談の領域に出現したネット怪談への興味から知ることになったが、それはまるでテナント入居前のビルのワンフロア全域を、どこにも影ができないように間接照明の黄色い光で満たしたヴァーチャルな無人空間のように見える。もともとSF映画の分野では、『地球最後の男』(1964年)をウィル・スミスの主演でリメイクした映画『アイ・アム・レジェンド』(2007年)や、大陸がゾンビで覆われる人気ドラマシリーズ『ウォーキング・デッド』(2010年~)の冒頭場面など、大都市の中心部から人影が消えるいう反現実のモチーフは枚挙にいとまがない。そうした無人空間に感じるものを、藤村は「慣れ親しんだ街の風景や使い古した散歩道が、不意に疎遠なものとして立ち上がってきた時の不自然で不気味な感覚」と書いている。この日トライアウト公演されたDaBYのフロアには、一定数の観客が詰めかけたが、公演中のぼんやりとした照明は、まさにいかなる記憶も持たないこのバックルームの無性格さをヒントに、どこか現実感の希薄な(まるでヴァーチャルな)空間を演出していた。そのようにしてダンスの記憶(歴史)から身体を引き剥がすことが、作り手のなかでは、「振付概念を再解釈」することや「ダンスの発生」と結びついている。ダンス創作において、情報過多によって身動きできなくなっている身体を、どこにも属さない余白のような空間、ある種のメタ空間において解放しようというプロジェクト。

 当日の観客には、トライアウト公演を準備するにあたって藤村がしたためたリサーチノートが配布された。それは「踊りはどこからくるのだろう」「作品対象aの製作後」「ドローイング」「戯曲とか振付とか 俳優、石川朝日とのリサーチから」「オブジェクトとして眺めるような振付、身体」「散歩、空隙、暗闇の中の跳躍」「Backrooms」「パフォーミングアーツの再現性と一回性」などのテクストからなる8頁の断片的考察で、なかでも「Backrooms」の項目では、「ほとんどなんの物語もない画像に、人々が物語をいわば勝手に見出していくという点」に特定の作家(振付家・舞踊家)のナラティヴに先行する「遡行的な創造性」が発見できるとして、ここではそれをこそ「ダンス」と呼びたいという方法論が、より具体的に語られている。ダンスが個人技の集積のようなものではなく、群舞だけにとどまらない集団創作の側面を持つとしたら、それを演劇や音楽、映像などの隣接領域に広げたり、公演における観客との共同性に広げたりして再定義を試みるといったようなこと。ここでは二次創作を介して限りなく集団的なものへと拡大していく物語の散種が語られているが、おそらくダンス公演そのものが参加を前提としたゲーム空間と想定されているのだろう、人々がなぜ物語に駆り立てられるのかは語られていない。「Backrooms」をめぐる先の解説に「インターネット都市伝説」とあったが、人々がそれをするのは、「不自然で不気味な感覚」から解き放れたい恐怖の感情があるから(物語によって恐怖を懐柔する)と思われるのだが、身ぶりから物語その他の意味をあらかじめ剥ぎ取っていく振付の再構築作業に集中する藤村にとって、それはひとつの解放空間と感じられているらしく、恐怖としてはあらわれないようなのだ。断片的な身ぶりの不均衡な連続を踊る本公演のダンスにも、そうした感情的なものは見いだせなかった。

 公演冒頭、ホリゾントに開いた窓を閉ざす正方形の白いボードにマジックで線画を描いていく2人は、1人ずつ交代で下手から出ては上手へとはけていく。出入りの間隔は次第に短かくなっていき、やがてふたりならんで落書きのような絵の前に立つと、少し離れて鑑賞しながら絵の感想を言いあったり、壁に片手をつけてポーズする相方を離れて遠見に眺めたりする。2人してステージ中央に踊ってくる場面では、手指や肩を痙攣するようにふるわせたり、出した手を引きあうなど断片的な動きが連続するが、行為の意味は不明のままに、(息の合った)対話的な身ぶりがつづいていく。コンタクトダンスは相方の動きや身体に深く入りこまず、身体に触れては通り過ぎていくような感覚。石川が円柱に身体をつけて動く場面があったが、上手の円柱に頭をつけたときゴツンと音がしたのは、コンタクトマイクが仕込んであったらしい。そのあとの藤村のソロの前半で、石川は上手下手に配置された縦型スピーカー(一対の棒のようなスピーカーが2本台上にならんで据えられている)を台から引き抜いては、下手のものを上手に、上手のものを下手に移すという行為をした。文脈逸脱的だったこの行為もまた、音楽を支えるシステムそのものの露出だったのかもしれない。正確無比の形を描き出す藤原のダンスに対して、石川のパフォーマンスという対照性が際立った場面だった。そのあと一度ステージをはけて衣装替えしてから再登場した石川と藤原が踊った後半のデュオは、横並びの位置関係を維持しながら、ユニゾンすることのない同じ動きをくりだし、2つの並行世界を並べたような独立性があった。藤村が先にはけ、あとは最後まで石川のソロとなる。ステージ全面を使ってさかんに移動しながら手の動きで踊る石川。先のパフォーマンスもそうだが、横寝の姿勢になって両手足をゆっくり開閉するなど、ここでの石川のダンスもまた、藤原のように不均衡な身ぶりの断片をつないでいくのではなく、一連の動きが場面を作るダンスを踊っていた。

 トライアウト公演を介して私のなかに物語が散種されたかといえば、私が受け取ったものは、配布されたプリントを読みこんでの振付の目的と方法論の確認というようなものだった。それは踊る身体との出会いというより読書に近いものだったといえるだろう。藤村港平が持っている動きの形の精度の高さ、スピード感、瞬発力といったものは当第一である。管見の範囲では、髙 瑞貴のそれしか思い至らない。ダンスが正確に振付を踊っていたにもかかわらず、排除された物語は排除されたまま、どこにも発生してこなかった。振付のあるなしにかかわらず、私たちは問うことができる。「踊りはどこからくるのだろう」。ダンスがダンスになるのはどこからだろう。じつはこれは、黒沢美香がよく発していた根源的といってもいいダンスの問いであった。同時に、振付家がバックルームからインスパイアされて試みている方法は、ポストモダンダンス以降、多くのダンサーがすでに実践しているばかりか、即興ダンスではごく普通に見られるスタイルにもなっている。端的にいって珍しいものではない。そこにはやはり、観たものが物語なしではいられなくなるような激しい感情──例えば、恐怖の──が必要なのではないだろうか。バックルームからダンスを引き出してくるのではなく、ダンスからバックルームを引き出してくる離れ業が求められているように思う。


■ YouTube動画(投稿: 2025年2月10日)

KOHEI FUJIMURA "Nooooclip” / Dance Base Yokohama

 ☞ https://www.youtube.com/watch?v=N2vKrglE72A