宮川麻理子
『振り付けられていない身体はどこにあるのか?』
髙橋春香『正しい箸の使い方(あるいは拡張するマインドマップ)』レビュー
横浜ダンス・コレクション内|批評頁「おどりよむ」
https://yokohama-dance-collection.jp/magazine/4903/
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髙橋春香『正しい箸の使い方(あるいは拡張するマインドマップ)』
2023年にソロ『EAT』で YDCコンペティションII の最優秀新人賞を受賞した髙橋春香は、
現在も大学文学部に在籍する若いダンサー/振付家。今回の新作では、
「振付とは何か」を考え、その概念を解体・再構築することを目指す。
髙橋は、振付をダンスのためのものに限らず、アフォーダンス(環境が私たちに与える価値)や
あらゆる場面での指示、それを可能にする権力装置だと仮定する。
意識せずとも自身の行動が環境やモノから影響を受けていないか。
「国家予算は振付か?」「マナーは振付か?」など、
身体をもって観客に問いかける。
(横浜ダンス・コレクション|プログラムから)
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大野一雄を中心にした舞踏研究やフランスのダンス事情などに新しい切り口で挑んでいる若手のダンス研究者・宮川麻理子氏が、横浜ダンス・コレクションのWeb内に開設された批評頁「おどりよむ」(責任編集:呉宮百合香)に、昨年末に開催された「横浜ダンス・コレクション:ダンスコネクション」にエントリーされた髙橋春香の作品『正しい箸の使い方(あるいは拡張するマインドマップ)』(2024年12月6-7日、横浜にぎわい座 のげシャーレ|未見)のレヴューを執筆した。当該作品は未見なので、レヴューに格別の異見があるというわけではなく、公演の詳細も宮川氏のテクストで確認していただきたいのだが、作品の内容は、下島礼紗ケダゴロや北尾 亘baobabの作品がそうであるように、ダンス・クリエーションにおける振付家の権力的位置にこだわる姿勢を敷衍し、ダンス固有の問題から創作の環境をなす現代管理社会批判へと視線を拡大していこうとする“気づき”の作品であることは一目瞭然である。宮川氏のレヴューもその点を集中的に論じている。至極妥当な批評を加えているテクストにおいて、しかしどことなくはぐらかされたような気になるのは、むしろそこに書かれていないことによるもののようだ。たとえばダンスの非日常性について触れたレヴュー冒頭の一節。
「たとえば電車の中で急になんの脈絡もなく即興的に踊り出したら、完全に不審者である。だから私たちは電車の中では踊らずに、席に座るか吊り革につかまり、揺れに身を任せて立っている。つまり、私たちは日常の中である種の決まった振る舞いをするように暗に求められ、意図せずともそれに従っているのである。」
たしかにそうなのだが、私が電車のなかで見ることを“強制”されているのは、まずもって乗客のほぼ全員が携帯を操作している光景である。どんな満員電車のなかでも、99対1の割合で乗客のほぼ全員が乗車すると同時に鞄から黙って携帯を引っ張り出し、画面に視線をさらしつづけるというこの光景は、携帯を持たない私には、不思議さを通り越して恐怖でしかない。論者がそのことに触れないでいるのは、「席に座るか吊り革につかまり、揺れに身を任せて立っている」のが無意識の動作であり、携帯の操作は意識的な動作になるからという相違からだろうか。私にはとてもそんなふうには思えない。人々はむしろなにも考えないですむように、携帯に視線をさらしつづけているように感じられる。ひとつ考えられるのは、テキスト後半、論者が「観客」を演じる私たちの身体には劇場の制度性が自然化されているという点に触れている点で、そういえばそうだ、観劇の際に私たちは、携帯を閉じるよう、公演中にけっして着信音が鳴らないよう電源を元から切るようアナウンスされるのである。こうした劇場しぐさが電車のなかのしぐさの描写に反映しているという可能性はじゅうぶんに考えられる。この意味では、劇場における携帯の禁止は、観劇において古い身体モデルに立った鑑賞法を採用しているわけだが、社会的に強制されている“携帯からの解放”という側面があるかもしれない。
はぐらされ感はもうひとつあって、それは「振り付けられていない身体はどこにあるのか?」というタイトルである。「『振付とは何か』を考え、その概念を解体・再構築することを目指す」髙橋春香氏の狙いを一言でいえば、振付概念の脱構築ということになるだろう。簡潔にふりかえれば、脱構築の言語戦略とは、一時期「内破」という言葉が使われたように、言語の外部を措定しない(そこには「痕跡」としての言語があるだけだ)という批評方法であった。このことを作品テーマになっている「振付」の文脈に置きなおしていうなら、振付以前に「振り付けられていない身体」を措定しない、実体としての身体を措定することは誤っているということになるだろう。髙橋氏が照準している振付は、その外部に出ることができず──たとえば、舞踏のように振付をはみ出す存在そのものに依拠することができず──、「振付」が意味する概念の「散種」や「拡張」によって乗り越えが試みられる他ないという認識を語っている。ただしこれは語られた作品の意図であって、実際の公演でなにが踊られたのか、身体がどうふるまったのか、あるいは評者である宮川氏がどんな身体を観たのかという点とは別次元にある問題で、もし「振り付けられていない身体」について回答がありうるとしたら、それを与えるのは踊り手の髙橋氏ではなく宮川氏自身ということになるだろう。あるいはこうも考えることができる。「振り付けられていない身体はどこにあるのか?」はタイトルではなく、論者から作者に宛てられたダイレクトメッセージだと。後発の批評もまた閉じられたものではない。過去に遡って未来を開くといったネットワークのなかで、誰か他のものの手に受け取られる創造的瞬間をつねに待っている。■
(北里義之)
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