2025年2月18日火曜日

モダンダンスの巨人、大野一雄──アンサンブル・ゾネ+中村恩恵『無垢なるうた』@横浜DaBY


 アンサンブル・ゾネ中村恩恵

無垢なるうた

Dance Base Yokohama



作品について:

 「無垢である」ということとはどういうことなのか、

「無垢」ということから

舞踏家 大野一雄氏、大野慶人氏原作『睡蓮』を

連想し創作された振付作品。

2020年神戸で初演、2021年に京都で再演。

『睡蓮』(1994年)の記録映像とオリジナルの衣装が残されている。

かつて舞台で踊り手と一緒に踊った衣装は、

中身を失った抜け殻のようです。

その衣装と映像に今の踊りをコラージュさせ

「無垢である存在」をテーマに

ダンスの本質と過去の映像、

衣装の力が一つとなるダンス作品。

(チラシ解説文から)



構成・演出・振付: 岡登志子

出演: 生駒里奈、岡登志子

ゲスト出演: 垣尾 優(芦屋公演)

加藤由美(山形公演)、中村恩恵(横浜・芦屋公演)

日時:2025年2月17日(月)16:30~20:00~

料金: 3,000円、U25: 2,000円、当日券: 3,500円(全席自由)

会場: Dance Base Yokohama

神奈川県横浜市中区北仲通5-57-2 北仲ブリック&ホワイト北棟3階


衣装: 牧 和美

衣装・映像協力: 大野一雄舞踏研究所

映像操作: 桑野聖子

美術監修: 梶 なゝ

照明協力: 岩村原太

美術協力: 一般財団法人梶尾貞治記念会

主催: Ensemble Sonne

共催・レジデンス協力: NPO法人ダンスアーカイブ構想、

大野一雄舞踏研究所

助成: 芸術文化振興基金

制作: ゾネオフィス、川崎萌々子

Special Thanks: 斉藤成美、古川友紀、ヤング荘



 兵庫県芦屋市にスタジオを構える岡登志子主宰のアンサンブル・ゾネが2020年に初演した『無垢なるうた』は、ともに舞踏の創始者として名を残す盟友・土方巽の逝去後、1987年に大野慶人が初めて演出した大野一雄、大野慶人の『睡蓮』(初演:1987年)をもとにしたダンス・アーカイヴ作品である。一口に舞踏といっても、強力な(言語的なというべき)エネルギーによってダンサーたちを呪縛した(あるいはいまなお呪縛しつづけている)土方舞踏の磁場を離れてからのそれは、大野慶人という演出家の寛容な性格もあってだろう、それまでにない解放感にあふれた作品に生まれ変わっている。一般には気づかれにくいこの時点における舞踏の変質は、「<外>の舞踏」を語ることで逆説的に舞踏の延命を図った室伏鴻(故人)などによって、舞踏の危機として認識されていたものだが、これらのことが意味するのは、外側からみているかぎり舞踏の変質は認識できないが、内側から見ていた人間には、危機的と感じられるほどに大きなものだったということである。室伏鴻研究をみる限り、このあたりの事情は、哲学的な思弁として語られることはあっても、舞踊史上にどのような意味を持つかという歴史的な観点から語られることはないようである。

 21世紀に入ってダンスを観るようになった私の場合、舞踏の創始者たちの公演に触れる機会はほとんどなかった。そのため舞踏の危機を危機として感じる切迫感を持ったことはない。そんな私が、ジャンルとしての舞踏を離れたところで、大野慶人の作品のオリジナリティに触れ、驚かされたことがある。それは伊藤千枝らが結成した“珍しいキノコ舞踊団”が異色振付家の作品を踊った公演「珍しいキノコ御膳 美味しゅうございます。」(2014年3月、東京芸術劇場シアターイースト)で大野慶人が演出した『霧笛』という短い作品だった。女性ダンサーを祈る花に見立てた(大野自身は「生花の世界」といっていた)『霧笛』は、余分なものをすべて排し、大野舞踏の核心部分を祈りとしてステージ上に花咲かせた静かなダンスだった。自由な創作スタイルが可能になって、雑多な要素が混淆するようになったコンテンポラリーの騒々しさから身を引いた場所、まさにいまここのステージ上にあらわれる身体の切実さが観客を打つといった公演。アンサンブル・ゾネの『無垢なるうた』は、「無垢」のヴィジョンを介して大野慶人の世界に接続しながら、『睡蓮』で踊る大野一雄のダンス映像や残された衣裳などを舞踊譜に見立て、新たにダンスの動きをふり起こしたものである。

 我ながらショックだったことがひとつある。それは場面の随所随所で、ゾネのパフォーマンスに対応するようにして流れる『睡蓮』映像中の大野一雄を観ても、また会場内のテーブルに並べられた舞踏家・大野一雄関連の書籍・写真集を見ても、「舞踏」という言葉がまったく浮かんでこなかったことである。よく考えれば、これは当然のことでもあった。一般的にいって、舞踏的緊張感(これ自体きちんとした説明が求められる言い方だが)が喪失されたところでは、ダンスの訓練を受けている身体はそれがやってきた場所、すなわちモダンダンスへと回帰(解消)していく傾向にあり、ダンスの訓練を受けていない身体では、ダンスを踊ることの意味そのものを失うという傾向にある。大野一雄に対するアンサンブル・ゾネのアプローチは、身体ではなく作品に集中することで、ある意味もっと積極的に、舞踏以前にモダンダンスのダンサーとして活動した大野一雄を再評価する試みになっている。土方巽と舞踏草創期を担った大野の業績が高く評価されているところから、この観点自体が見逃されがちで、彼がこの国におけるモダンの定着に欠くことのできない大きな役割を担ったという側面、すなわち大野一雄がモダンダンスの巨人であったということが、議論からすっぽりと抜け落ちてしまう不備を生んでいる。土方巽から大野慶人の演出にバトンタッチした直後の作品をダンス・アーカイヴ公演することで、アンサンブル・ゾネは、議論を本筋に戻し、総体として大野一雄の本質に迫ろうとしているといえるだろう。

 『無垢なるうた』に登場する小道具は、白いパラソルにしてもオレンジの帽子にしても、いびつな卵型のオブジェにしても薄い布で作った大輪の花にしても、さらには踊り手が床についてまわる杖や全身を包みこむ薄衣なども、大野が実際に公演で使用した小道具を使っていた。なかには暗闇のなかで足音だけバタバタさせるといった意想外の場面採用(『睡蓮』では大野慶人がステージを走り抜けている)もあったが、採用された衣装の数々は、基本的に、舞台上にインスタレーションするようして頻繁に替えられていき、ときどき置き換えられるオブジェの位置などとあいまって、ただ歩くような短いシークエンスにおいても場面ごとの独立性を視覚化するものとして働いた。ダンサーたちの動きは、映像に見られる大野の動きを部分的にトレースするようにして踊られ、ときに執拗な反復から新たなシークエンスを生んでいたが、おそらく再演に再演を重ねてきているからだろう、毛細血管にまでいきわたった意識を全身に及ぼし、指先までをも繊細に波打たせるというもので、入念なリハーサルの存在を感じさせ、大野のざっくりとした感情移入のダンスのかわりに、作品の美学を浮きあがらせることに献身していた。『睡蓮』公演は未見なのだが、冒頭と末尾に置かれた朝の起床と夜の就床の場面は、各章に詰めこまれた独立性の高いいくつもの場面を、一夜の夢と感じさせるような物語の枠構造をなしていた。けだし日常性と非日常性の自在な往還というのも、大野慶人が切り開いた舞踏世界の大きな特徴といえるかもしれない。

 最後にもう一点、ダンス・アーカイヴ公演というスタイルに関して触れておくべきは、本作品に先行する川口隆夫の『大野一雄について』(2013年~)の方法が、やはり記録映像を舞踊譜に見立て、公演で使用された衣裳を場面ごとに交換するという同様のスタイルをとって構成されていることであろう。発想は同じでも、川口の場合、舞台上で裸になって衣裳ラックを漁り、観客席前にすわると鏡に向かってケバケバしい化粧を施すというような演劇的シーンを挟みながら、自身いうところの「完全コピー」を踊るところに大きな違いがあり、最終的に舞台上にあらわれる身体や作品は、モダンダンスではなく「パフォーマンス」と呼ばれるようなものになっている。しかしこの場合の「モダンダンス」も「パフォーマンス」も、内容的な定義がされているわけではないので、形式的な差異の指摘はできても、そこでいったいなにがおこなわれているのかは相変わらず意味不明なままである。さらなる分析のため、『大野一雄について』における身体と『無垢なるうた』における身体を比較してみるのが有効だ。両者をくらべてみると、川口の場合、そこではいまはなき大野一雄が憑依してくる依代としての身体が供されているといえるが、かたやアンサンブル・ゾネの身体群には、そうした出来事はまったく起こらないという決定的な相違が見えてくる。「憑依」というといかにも胡散臭く思われるかもしれないが、もっと平たくいえば、それはモダンな合理性をはみ出すものが感受できるという点で、これは振り移しの対象となる身体との絶対的な距離感の相違(他者感覚の相違)をいったものなのである。記録映像のなかの大野一雄の身体をまなざすとき、アンサンブル・ゾネはそれを振り移す自身の身体を消すことなく、むしろそこにモダンダンサーの姿を読む批評性を発揮しているのだが、川口隆夫の完全コピーは、大野一雄を呼びこむために、自身の身体を消してしまうということをするのだ。もちろん川口の身体が実際に消えることはなく、そこでは一つの身体上で二つの異質な身体が抗争をはじめることになる。「私の身体」という堅固な意識の消滅において呼びこまれる闘争というようなもの。『無垢なるうた』で大野がモダンダンスの巨人であった側面が前面に出てきたのは、アンサンブル・ゾネの作品が持っているダンスの批評性によっている。見過ごされてしまわないためにあえて加えれば、川口にあってはまさしく愛がテーマになっているといえるだろう。

(北里義之)

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