2013年1月15日火曜日

風巻 隆: インプロヴァイザーズ ネットワーク



インプロヴァイザーズ ネットワーク
それぞれが指名したデュオ・トリオによる即興演奏
日時: 2013年1月14日(月・祝)
会場: 東京/二子玉川「KIWA」
(東京都世田谷区玉川3-20-11-B1F)
開場: 5:00p.m.,開演: 5:30p.m.
料金/前売: ¥2,500、当日: ¥3,000+drink order
出演: 千野秀一(piano, laptop)大熊ワタル(cl, vo, etc.)
クリストフ・シャルル(electronics, laptop, guitar) 
永田砂知子(波紋音, piano)
入間川正美(cello) 吉本裕美子(guitar)
風巻 隆(percussion)
予約・問合せ: TEL.03-6805-7948(KIWA)


【プログラム】
(1)千野秀一+大熊ワタル+風巻 隆
(2)シャルル+永田砂知子
(3)入間川正美+吉本裕美子+風巻 隆
── 休憩 ──
(4)千野秀一+永田砂知子
(5)大熊ワタル+入間川正美+風巻 隆
(6)シャルル+吉本裕美子+永田砂知子
── 休憩 ──
(7)千野秀一+シャルル+吉本裕美子
(8)シャルル+大熊ワタル+入間川正美
(9)永田砂知子+風巻 隆



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 記録的な大雪のため、交通機関に大きな影響の出た日、パカッションの風巻隆が、過去に共演経験のあるインプロヴァイザーに声をかけ、バラエティを持たせた少人数の組合わせで即興セッションを構成する「インプロヴァイザーズ・ネットワーク」が、二子玉川の「KIWA」で開催された。即興のネットワークは、風巻によって不定期におこなわれてきた音楽シリーズのひとつである。周知のように、こうした演奏スタイルは、いまでこそ即興演奏の常套手段となり、クリシェ化してしまったものだが、原点にこだわっていうなら、共演にいたるきっかけはさまざまでありながら、そのときどきのメンバーを集めることによって人々の関係性を浮き彫りにしつつ、即興演奏をなかだちに社会性を結びなおし、また解きほぐしするなかで、ネットワークが照らし出す個のありようを再確認していくという作業だったように思われる。即興演奏が実験的にスタートした当初から活動に関わってきた風巻のような演奏家が声をかけたからといって、様変わりしたいまの時代に、その精神が受け継がれるかどうかは保証のかぎりではないが、時代を生き抜いてきた演奏家を通して、身体化された音楽のヴィジョンや歴史や記憶に触れるということは、情報の海を泳いでいる私たちが、忘れがちになっていることではないだろうか。

 2013年度版「インプロヴァイザーズ・ネットワーク」は、千野秀一、大熊ワタル、クリストフ・シャルル、永田砂知子、入間川正美、吉本裕美子、そして呼びかけ人となった風巻隆の7人が、それぞれ事前に出した共演希望を、人によって偏りのでないようバランスに配慮しながら、最終的に、風巻がデュオとトリオの編成に調整するという形でおこなわれた。事前に公表されたプログラムは別記の通り。壊れやすく、繊細なサウンドを発する鉄製の創作楽器、「波紋音」をあつかう永田砂知子が、千野、シャルル、風巻のそれぞれとデュオ演奏するのが特徴となっている。3セットを終えた時点で休憩が入り、全体では9つの即興セッションがおこなわれた。即興演奏では例外的な、三時間を越える長丁場のコンサートだった。ステージの立ち位置は、下手から上手に向かって、波紋音を前にして敷物のうえに座った永田砂知子、椅子に座ったり立ったりしながらヴォイスやクラリネットを演奏した大熊ワタル、その横の奥まった位置に座ってチェロ演奏した入間川正美、ステージ中央に楽器を広げた風巻隆、エフェクター類を前にギターを立って演奏した吉本裕美子、上手最奥に位置するグランドピアノの前に座り、かたわらの机に置いたコンピュータも操作した千野秀一、そしてエレクトロニクスのクリストフ・シャルルは、昨年おこなわれた「音の交差点 2012」公演同様、ステージの下に降り、共演者と向かいあう位置に機材をセッティングした。聴き手には背中を向ける格好になる。演奏家は、自分の順番が来ると定位置について演奏する。

 <Session 1: 千野秀一+大熊ワタル+風巻隆>(14分)。ベルリンから一時帰国して三日目という千野を迎えた最初のトリオは、前世紀から活動してきた演奏家たちの集まりということもあるのだろう、私のような古くからの聴き手には、心の奥のどこかにある懐かしさをかき立てるような演奏だった。ソロ演奏において、不均衡なリズムと音色をアンサンブルさせていく風巻が、音色を変えながら、珍しくリズムセクション役を引き受けていたのが印象に残る。がらりと雰囲気を変えた<Session 2: シャルル+永田砂知子>(18分)では、ミクロな波紋音の響きが巻き起こす干渉波のうねりと、細かな電子ノイズはもとより、大気の厚みそのもののような空気感のあるエレクトロニクスの響きが層のように積み重ねられ、夢幻的な音風景が生み出されていくという、秀逸な演奏が展開された。永田の世界のなかに入ったシャルルが、少し色を足したような感じといったらいいだろうか。<Session 3: 入間川正美+吉本裕美子+風巻隆>(19分)。第一部の最後には、アコースティック楽器が多いなか、エレキギターという唯一の電気楽器を演奏する吉本裕美子が登場した。最初、やや引きがちの吉本と、まるで会話するような打楽をする風巻パカッションとがデュオ対決の様相を呈したため、ふたりの間にはさまった入間川の演奏に、少し出遅れた印象があった。ちなみに、この公演のあと、入間川と吉本は、あらためてデュオ・セッションを持つこととなる。

 第二部の冒頭は、ふたたびデュオ演奏。<Session 4: 千野秀一+永田砂知子>(14分)。音程が不安定な波紋音と平均律のピアノの組合わせながら、不協和音も音楽にしてしまう耳のよさで、薄氷を踏むような緊張感にあふれた音楽がくりひろげられる。波紋音が生み出すミステリアスな雰囲気は、第一部のシャルルとのデュオともまた違ったもの。響きが触発するイマジネーションの世界に驚かされる。ピアノの千野をチェロの入間川に代える形の<Session 5: 大熊ワタル+入間川正美+風巻隆>(17分)では、懐かしさがふたたび戻ってくる。この懐かしさは、おそらくトリオの音と音がぶつかりあい対話するところに、ジャズセッションのホットさを感じるからだろう。演奏の後半に登場した、バケツの底をかきむしる風巻のノイズ演奏が圧巻だった。そして第二部の最後は、<Session 6: シャルル+吉本裕美子+永田砂知子>(17分)という異色のセッションで、<Session 2>のデュオ+吉本と考えれば、一種の発展形の演奏ということもできるだろう。吉本は波紋音の繊細さを破壊しないように、サウンドを選び、注意深くフレーズを散りばめながら、なおかつ彼女ならではのアグレッシヴさを失わないベストプレイをしたと思う。あちらこちらにサウンドが浮遊しているだけの不思議な演奏だった。

 第三部冒頭の<Session 7: 千野秀一+シャルル+吉本裕美子>(20分)は、<Session 6>の永田が千野に交代した形。サウンドチェックはあったものの、実践的なコンサートの進行とともに、その場で経験が積み重ねられ、演奏はすぐにでも応用編の様相を呈してくる。これが即興演奏(家)のすごいところだろう。シャルルがギターを手にすると、千野はラップトップを広げた。これは期せずしての吉本シフトだったと思われる。吉本のギター演奏の構造に沿うようにして、浮遊感に彩られたノイジーなサウンド環境が形作られるというセッションを、私は初めて聴いた。千野がピアノに転じたところで演奏は終了したが、本コンサートのなかで最長の演奏になった。つづく<Session 8: シャルル+大熊ワタル+入間川正美>(17分)では、大熊が木製の箱をたたき、カズーのようなものを鳴らし、ヴォイスを使うパフォーマティヴなプレイに出た。大熊と対照的に、入間川は細かい急速調のフレーズで独走態勢に入る。途中からギターにスイッチしたシャルルにより、演奏にジャズ的なフレイヴァーが加わると、入間川がベースラインをとりはじめ、最後にはフォービートのジャズになった。これは想定外の展開だった。コンサートのラストを飾ったのは<Session 9: 永田砂知子+風巻隆>(16分)。なぜか永田はピアノを弾いた。打楽器のパターンを出すように、間歇的に弾かれるピアノに対して、木製のカウベルを両手に持った風巻は、立ったままリズミカルにコギリをヒットしつづけた。最終セットは、実質的には風巻のソロだったように思われる。■





【風巻 隆:ソロ・パカッション】   
日時: 2013年3月19日(火)    
開場: 7:30p.m.、開演: 8:00p.m.      
会場: 銀座「Steps Gallery」    
料金/前売: ¥2,500、当日: ¥3,000(飲物付)    

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2013年1月14日月曜日

真砂ノ触角──其ノ参@喫茶茶会記



吉本裕美子 meets 木村 由
真砂ノ触角
── 其ノ参 ──
日時: 2013年1月13日(日)
会場: 東京/新宿「喫茶茶会記」
(東京都新宿区大京町2-4 1F)
開演: 8:00p.m.、料金: ¥2,000(飲物付)
出演: 吉本裕美子(guitar) 木村 由(dance)
予約・問合せ: TEL.03-3351-7904(喫茶茶会記)



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 「真砂ノ触角」と命名された、針の先のようにとがった場所で、ギタリスト吉本裕美子とダンサー木村由という超個性派のふたりが、三度目の出会いを果たした。とはいえ、何度回数を重ねても、ふたりの出会いの危うさは解消されることがない。前回の公演で、肩にかけた細紐で一升瓶を引きずりながら楽屋口から登場した木村由は、ステージ下手の奥に立って演奏する吉本の前を斜めに通過する対角線上を動き、ギタリストのテリトリーを侵犯しないようにしながら、その境界線に触れていくダンスによって空間の構造化をおこなった。細紐につながれた一升瓶は、木村にとってダンスの性格を決定づけるような、心躍らせる面白い思いつきだったと思われるが、それを喫茶茶会記で引きずっていくとなると、おそらくこの対角線のラインしかありえなかっただろう。備えつけの照明が極力落とされたのは、闇が必要だったからというより、むしろ照明の光が(多少なりとも)場所を性格づけてしまうことで、ふたりの間の境界線をなす斜めのラインをぼかしてしまうことのないようにという配慮からだったと思われる。「真砂ノ触角」においては、ふたりが(ある意味では悪夢のように)くりかえし出会いつづけること、いいかえるなら、出会いの位相に踏みとどまりつづけることが、針の先のようにとがった場所で、誰かの皮膚に触れようとする「触角」の存在を現実のものとするのである。

 およそ半年後に開かれた今回の公演では、机の高さに取りつけられたクリップライトが、上手下手の客席側から、ふたりのパフォーマーを照らし出していた。前回とおなじ位置に立ったギタリストは、下手側のライトに照らされて、木調の縦格子が貼られた背後の壁に長い影を落とす。かたや頑丈な椅子ではなく、花瓶を乗せるような華奢な台座に腰かけたダンサーは、上手側のライトに照らされて、彼女自身の影をギタリストの足もとまでのばしている。シンプルな演出だが、これが前回と対照的なパフォーマンス空間の構築になっていることは、すぐに見て取れるのではないだろうか。下手のライトに消されて見えなくなっているが、上手のライトが投影するダンサーの影は、床をはった先でギタリストの吉本に重なり、あなたと私の境界線を突き破って曖昧にしている。その場で構築するパフォーマンス空間を、音楽から切り離されたダンスだけのものにすることもできるが、そこにギタリストの存在を巻きこむことで、出会いの化学変化を期待させるようなものにすることもできるということだろう。あらかじめクリップライトの光が素描する動線に沿って木村のダンスはおこなわれ、ギタリストに接近したり遠ざかったりしながら、あたかもデュエットで一枚の絵を描くように、ひとつひとつのダンスの身ぶりを意味づけていくことになる。

 そのなかでも、木村が吉本に急接近してのダンスは、一瞬一瞬をつなげてアンチ・クライマックスの演奏をするギターサウンドのたゆたいはそのままに、前回の共演になかった劇的な要素を「真砂ノ触角」に加えることとなった。すでに出会っているふたりによるさらなる即物的な出会いは、出会いの常識的な距離感を撹乱させるところに、新たな出来事を起こすものということができるだろう。前回のレポートで、このふたりでなくては生まれない「真砂ノ触角」らしさについて、以下のように書いた。「『真砂ノ触角』が扱っているのは、音楽とダンスというように、はっきりとした領域や形をもたないサウンドと動きの接触によってあらわれる、すぐれて身体的な出来事なのではないかと思われる。それは始まりもなく終わりもなく、ずれるという意識もないままに、ひたすら横へ横へとずれていくようなもの。おたがいに触れあうような場所がどこかにできたら、それがパフォーマンスのどの時点でも出発点となるような、出来事の場だったのではないかと思われる。拡張された即興演奏としての出来事の場、あるいは拡張されたダンス・パフォーマンスとしての出来事の場(以下略)」。木村が吉本に急接近した場面は、リング中央で殴りあうボクシングを見るようにスリリングだったが、それは実のところ、こうした身体的交感のヴァリエーションのひとつなのだと思う。

 木村が吉本に接近していったとき、縦格子に投影される木村の影は、上手下手のライトから同時に照らされることでふたつになった。右手にできた影は、吉本のそれと同じ方向にゆがみながら並んでダンスし、左手にできたもっと小さな影は、大きな吉本の影のなかに出入りしながらダンスしていた。即興セッションのなかで演奏するミュージシャンに接近し、楽器や身体に触れるダンサーは多い。ミュージシャンの身体そのものに働きかけて、ダイレクトに触発しようとするこうしたやり方については意見のわかれるところだろうが、「真砂ノ触角」のふたりに関するかぎり、そもそもそのような場面を想像することができない。かっちりとした木村のダンススタイルによるものだろうか、あるいは直立不動の姿勢を保ったまま、ほとんど動くことのない吉本の演奏スタイルによるものだろうか。演奏する身体に余白や隙間、あるいは激しく動く部分などがなければ、いくらダンサーといえども、必然性をもってミュージシャンの身体とクロスすることなどできないような気がする。目の前でダンスする木村に吉本はわずかに身体を向けたが、ふたりの背後では、いくつもの影が身体を自由に交錯させながら踊っていた。私はそれをふたりの思いの影のようにしてながめていた。■






  【関連記事|真砂ノ触角】
   「真砂ノ触角──其ノ弐@喫茶茶会記」(2012-08-27)

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2013年1月11日金曜日

風巻 隆: 音の交差点 2012



音の交差点 2012
二つのデュオによる、インプロヴィゼーション
日時: 2012年9月17日(月・祝)
会場: 東京/二子玉川「KIWA」
(東京都世田谷区玉川3-20-11-B1F)
開場: 5:30p.m.,開演: 6:00p.m.
料金/前売: ¥2,500、当日: ¥3,000+drink order
出演: 風巻 隆(percussion)
クリストフ・シャルル(electronics, computer)
中山信彦(modular synthesizer)
予約・問合せ: TEL.03-6805-7948(KIWA)



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 2012年9月、エレクトロニクスとの共演をテーマに、古巣の明大前キッド・アイラック・アート・ホールを離れ、高いステージが組まれ、音響設備も整った二子玉川のライヴハウス “KIWA” に会場を移して、風巻隆の「音の交差点 2012」が開催された。中山信彦との共同制作で進められたコンサートには、はるか昔、横浜の大桟橋ホールで開かれた「デュオ・イムプロヴィゼーション・ワークショップ」(1988年3月)のときに声をかけて以来というサウンドアートのクリストフ・シャルルが、ほぼ四半世紀ぶりに参加することとなり、第一部をシャルルと風巻のデュオで、第二部を中山と風巻のデュオで構成するふたつの即興セッションがおこなわれた。打楽器のひとつひとつと対話を交わしながら、そこからオリジナルなヴォイスを引き出してくる風巻隆の打楽にとって、エレクトロニクス奏者との共演というのは、これまで例外的なものだったように思う。ともに音色を生命とする音楽に変わりはないものの、風巻のパカッションにおいて、楽器と格闘する演奏者の身体感覚が前面化することを考えれば、彼にとっての即興セッションとは、耳だけに限定されない全身的な交感でもあり、演奏性よりも操作性が際立つエレクトロニクスの抽象性には、あまりそぐわないように感じられるからである。その意味で、このプログラムは、風巻にとってひとつの挑戦だったのではないだろうか。

 コンピュータ内臓のサウンドファイルを使ったクリストフ・シャルルのエレクトロニクス演奏は、選び抜かれた硬質なサウンドを音質変換しながら配置していくコンポジション的なもので、演奏の全体が知的なクールネスに彩られていたところが、いたるところに指紋や汗が染みついた風巻パカッションのノイジーな身体性と好対照をなしていた。意識的にずれを重ねていく非対称のリズムのなかで、楽器を変えながら音色をまるごとチェンジし、ひとつのシークエンスから次のシークエンスへとジャンプしていく風巻隆の演奏と、なにも描かれていない(沈黙の)白紙のうえに、次々と色を流したり重ねたりしていくシャルルのサウンドアートとは、音楽構造においても水と油で、まるで違う惑星群を抱えるふたつの天体が並び立つようだった。それぞれに形のある音、ない音を扱うという点でも、ふたりは大きく違っていた。そこには、もし一方が他方に合わせようとするなら、一種の天体衝突のようなものが起こり、デュオ演奏はたちまちカオス状態におちいってしまうのではないかという緊張感があった。こうした印象は、シャルルがステージ下のアリーナに音響機材をセッティングしたことによって、倍加されていたかもしれない。セッションの前半は、交互にソロをフィーチャーする形で、また後半では、シャルルが風巻の演奏の背景を大きく描き出す形で、共演を成立させていた。

 モジュラーシンセをステージ上にセッティングした中山信彦の演奏は、シャルルのサウンドが持っていた抽象絵画の硬質さとは対照的なもので、アグレッシヴなサウンドをドラマチックに構成しながら、風巻の演奏と丁々発止のやりとりを展開することになった。中山には、シャルルとの違いを際立たせようとする意図もあったらしい。その結果、セッションの第二部では、第一部にみなぎっていた緊張感やクールネスとはうってかわったホットな演奏がくりひろげられた。この日、中山信彦が演奏した音楽は、エレクトロニクスで描き出す一種のスペースミュージックで、喜太郎やヴァンゲリスのそれを思わせるキッチュなまでの壮大さを、中間部に静かな演奏を置きつつ、最後にアグレッシヴなサウンドが回帰してくるソナタ形式で支えるものだったといえるだろう。シャルルとのセッションで多種多様な音色を使った風巻は、ストレートな太鼓の打ちこみを中心にした演奏で、中山のスペースミュージックの壮大さにこたえていた。私個人は、こういう風巻の演奏を、これまであまり聴いたことがなかった。シャルルのサウンド・コンポジションが、それでもその場で構築されるインスタント・コンポージングだったのにくらべ、中山の演奏は、ひとつのパターンにのっとったもので、ある種のフリージャズがそうであるように、予定調和のなかで演奏されていたことは否めない。そのぶんデュオの間で構築されるべき即興性は、演奏の前面から退いていた。

 クリストフ・シャルルと中山信彦、それぞれの音楽性を背景にしたエレクトロニクスとのセッションは、音楽的な意味でいうなら、風巻隆にとって他流試合と呼ぶべきものだろう。新たな環境のなかで、彼はみずからの演奏スタイルを堅持しながら、その対応力をじゅうぶんに発揮してみせた。風巻本来の打楽は、どちらかといえば、ソロとソロが並び立つ結果となったシャルルとの共演により多くあらわれていたとしても。特筆すべきは、音楽家として、あるいはアーチストとして、異質というべき資質の持ち主であるクリストフ・シャルルを、四半世紀のときを越えて呼び出したことである。風巻の呼びかけにこたえたシャルルもまた、なにか感じるところがあって参加を決断したものと思われる。ステージ下のアリーナに陣取るという異例のセッティングが、スピーカーから流れる自分の音を聴くためという、小屋の条件に縛られてのものだったとしても、それと同時に、トリオの関係性を象徴することにもなっていた。はるか昔の出会いが、現在の時点においてふたたび出会いなおされ、その都度ごとに、まったく別の関係性へと組み替えられていく。風巻隆が開いてきた「音の交差点」は、出会われるたびごとに場所を変え、人を変えながら、いたるところに予期せず出現する即興のクロスロードとなっている。■




日時: 2013年1月14日(月)、開演: 17:30~
会場: 二子玉川 KIWA
料金/前売: ¥2,500、当日: ¥3,000+drink order
出演: 千野秀一、大熊ワタル、クリストフ・シャルル、入間川正美、
吉本裕美子、永田砂知子、風巻 隆


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2013年1月10日木曜日

喜多尾 浩代: 身体の知覚



喜多尾 浩代 ── 菊地びよ
身体の知覚 カラダノチカク

2013年1月5日(土)
喜多尾 浩代「Edge of Nougat」(new creation)
演出: 与野ヒロ

2013年1月6日(日)
菊地びよ「Pan-barabara 2013」
演出: 菊地びよ

2013年1月7日(月)
喜多尾 浩代 × 菊地びよ コラボレーション

会場: 東京/中野「RAFT」
(東京都中野区中野1-4-4-1F)
開場: 6:30p.m.、開演: 7:00p.m.(5日、7日)
開場: 5:00p.m.、開演: 5:30p.m.(6日)
料金: ¥2,000(各日)
[予約のみ]¥3,500(2公演)、¥5,000(3公演)
出演: 喜多尾 浩代(dance) 菊地びよ(dance)
問合せ: TEL.&FAX.03-3365-0307(RAFT)


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 中野にあるオルタナティヴ・スペース「RAFT」(「いかだ」の意味)が企画したダンス公演「身体の知覚(カラダノチカク)」に喜多尾浩代と菊地びよが参加、それぞれのソロ作品とコラボレーションで構成した3デイズ公演が開催された。このうち初日と最終日を観ることができたので、喜多尾のパフォーマンスを中心に、昨年もこの場所で公演され、その後ヨーロッパを巡演してブラッシュアップされた『Edge of Nougat』と、立ち位置を入れ替えながらダンサーふたりが即興的にパフォーマンスした最終日の共演を簡単に報告しておきたい。演出を担当した与野ヒロと組み立てた喜多尾の『Edge of Nougat』は、よどみなく連結されたミニマルな身ぶりの背後に、澄んだ水の流れのようにきれいで気持ちのよいバイオリズムが流れているような作品だった。かたや、即興的におこなわれた菊地びよとのコラボレーションは、これと対照的に、ひとつの場をふたつのテリトリーにわけて踊ったダンサーふたりが、おたがいに接触したり接近したりすることなく、次第に滞留していくエネルギーを、それぞれがみずからの身体にかかる負荷へと変換していくようなありかたで、「了解のない世界」をつくりあげるものだった。「身体の知覚」を切り口に、ソロとデュエットのそれぞれで、こうした対照的なパフォーマンスが踊られたのは、深く印象に残った。

 スポット照明によるモノクロームのステージ、ミモレ丈のロングドレス(藍色なのだが、光線のかげんで深緑に見えることもあった)、赤毛のカーリーヘアにつけられた赤い髪飾り──『Edge of Nougat』のステージを飾る色彩の美しさは、無駄をはぶいたダンスの動きがかもし出す美的なシンプルネスと、絶妙のアンサンブルをみせていた。重心を落とし、へっぴり腰のような格好でたどられる歩行と、胸の前でお盆を持つようにして広げられた両手の指を、親指と小指を軸にして細かく動かしつづける奇妙な動作が、『Edge of Nougat』の基調音をなしている。特に、くねくねとうごめく指は、それがないと前進できないという具合で、宮崎駿のアニメ『風邪の谷のナウシカ』(1984年)に登場する腐海の主、玉蟲(オーム)の頭の部分から出ている無数の触手を思わせた。ステージに円を描いてたどられる歩行は、ときどき停止して、足の動きを隠すロングドレスのなかで上下動のダンスを踊るものの、飛躍のない、ほぼ一定した等速のテンポを保っており、それがミニマルな指の動きとあいまって固有のバイオリズムを生んでいた。無伴奏ソロ・パフォーマンスに感じられる、音にならない音楽的なるものの波動。後半の場面で、観客席のすぐ前に立った喜多尾の姿が、不思議なほど克明なエッジを持って見えたのは、身体知覚のレベルにフォーカスしたダンスが、物語やイメージの類いを排除していることで、観客である私の知覚にも、なにがしかの変化がもたらされた結果なのかもしれない。

 動くため身体にかけられる負荷は、低く重心を落とした姿勢に明らかだ。この身体への負荷は、池がなんであるかを知るため、ためしに小石を投げこんでみるような行為となっている。池があることを知っていることと、池に応答してもらうこととは、別の出来事だからである。身体そのものがおこなう了解の形。もうひとつ、「前進」に対する「後退」もまた、意識を背後に飛ばすという意味で、身体に別の負荷をかける動きだったと思われる。それと察知されないくらい、ほんの少しだけ変化をつけられた動きのなかで、身体にどのような変化が生じるかを身体そのものに観察させるという行為が、『Edge of Nougat』での身体事となっていた。公演の冒頭、喜多尾はうしろむきのままステージに入ってくると、円を描きながら長いこと後進をつづけた。また最後の場面で、観客席前とステージ奥を結ぶ直線ラインを後ずさりしていった彼女は、ステージ奥で立ち止まると、いったん指の動きも止め、その場所で身体を横向きに変えてから、ふたたび指を動かしながら下手に退場していくという、なんとはなしにユーモラスな幕切れを用意していた。その姿が巣穴に戻る小動物を思わせたのも、おそらくは偶然でなく、これは『Edge of Nougat』が、そもそもなにかを表現するダンスアートというより、むしろ(動物のように)ただ生きる身体をそこに立たせることをめざすものだからではないかと思われる。

 菊地びよとのコラボレーションで、ともに片手を高くさしあげるポーズからスタートした喜多尾は、狭いスペースを共演者とわかちあいながら、膝を中途半端に折り曲げて、立つでもなく座るでもなくされた不安定な姿勢のまま、膝がガクガクいうようになるまで長時間持続する場面を作って、見るものをハラハラさせた。ダンサーの身体への過重な負荷に、観客の身体までもが巻きこまれていく。これは殴られている人を見たり、転んだ子どもを見たりしたときに、他人事であるにもかかわらず思わず「痛い」といってしまうような、絶対的な速度を持ったダイレクトな感覚の巻きこみかたといえるだろう。安定したバイオリズムがかもしだす音楽的な心地よさによって、ふんわりと観客の感覚を巻きこんでいくという、ソロ公演で見せた身体のありようとは極めて対照的な、いってみるならば暴力的な開けと呼べるようなものである。自分の身体を痛めつけるこうしたパフォーマンスの酷薄さには、歩きながら指を触手のようにうごめかす『Edge of Nougat』の仕草ともども、遠くピナ・バウシュのこだまを聴くことができるだろうか。喜多尾の出発点になったというドイツ・モダンダンスの系譜は、いまも彼女の方法論のなかに脈々と息づいている。■



※文中の写真は、RAFTの来住真太さんからご提供いただいたもの、   
喜多尾さんがビデオから作られた静止画などを使用しております。      
ご協力ありがとうございました。                  


  【関連記事|喜多尾 浩代】
   「並行四辺系」(2012-09-10)

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2013年1月7日月曜日

Hugues Vincent+岩瀬久美+新井陽子@喫茶茶会記



Trio Improvisation
Hugues Vincent+岩瀬久美+新井陽子
日時: 2013年1月6日(日)
会場: 東京/新宿「喫茶茶会記」
(東京都新宿区大京町2-4 1F)
開場: 2:30p.m.、開演: 3:00p.m.
料金: ¥2,000(飲物付)
出演: ユーグ・ヴァンサン(cello)
岩瀬久美(alto sax, clarinet)
新井陽子(piano)
予約・問合せ: TEL.03-3351-7904(喫茶茶会記)



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 昨年度は、隔月のシリーズ公演「焙煎bar ようこ」を5回にわたって開いたピアニスト新井陽子が、おなじ喫茶茶会記に場所を借り、ユーグ・ヴァンサン、岩瀬久美による “TabunDaijyobu” デュオを迎えたトリオ編成で、シリーズ枠をはずれたプログラムを組んだ。ユーグ・ヴァンサン来日ツアー10番目のコンサートである。ヴァンサン+岩瀬、岩瀬+新井、新井+ヴァンサンという3つのデュオ演奏を第一部で、また第二部をトリオ演奏で通すという構成だった。これが即興セッションの常套手段であるのは周知の通りだが、新井に引きつけていえば、「焙煎bar ようこ」の2回目に登場した「跋扈トリオ」(2012年5月18日)の公演スタイルに準ずるものとなっている。組合せを変える即興セッションは、特色ある個人の演奏を単位にしたアンサンブルのバラエティーを聴かせるものだろうが、この日の流れからいうなら、コンサートの冒頭で、来日組のデュオ演奏があり、その後で新井が(デュオの間に入って)メンバーのそれぞれと個別にセッションし、最後は、ヴァンサンが女性ふたりの間を仲介するトリオ演奏で締めくくる形になったため、おそらく最後まで “TabunDaijyobu” デュオ+新井陽子という枠を崩せなかったのではないかと思われる。

 今回のツアーでヴァンサンといっしょに動いている岩瀬久美は、フランスの音楽学校に留学して10年以上になる真摯な音楽家で、現代音楽やジャズ、即興音楽やエレクトロニクス音楽などを学びながら、ヨーロッパの音楽コンクールに挑戦してすでに高い評価を受けている逸材だ。プレイヤーとしては、アルトサックスとクラリネットを演奏する。ゆがみのない澄んだ楽器の音色は、クラシック仕込みの硬質さを備えたものであり、即興演奏のセッションでも構造的なアプローチを忘れることがないため、インスタント・コンポージング(その場でただちにおこなう作曲行為)による現代音楽とでもいうような、明快な形式性にのっとった演奏が持ち味になっているようだ。この日のセッションは、そうした岩瀬の資質をわきまえたヴァンサンのフォローも手伝って、岡本希輔が主催した「中空のデッサン vol.36」(1月4日)での演奏とはくらべものにならないくらい、岩瀬久美の音楽が全面的にフィーチャーされる展開となった。二つのライヴを聴いたかぎりの話としていえば、岩瀬の即興演奏は、内面から沸き起こってくる感情や衝動のような身体的なものより、普遍的な音楽形式によって意味づけられているのではないかと思われる。彼女の存在が、森重靖宗とのデュオからはうかがえないヴァンサンの音楽性を、別角度から照らし出していたのも興味深かった。

 ヴァンサン/岩瀬久美のセットは、ふたりで短い音のラインを引きあうような出だしから、たくさんの細かいドットを散らしていくような演奏に移行、最後は低音のロングトーンで演奏を締めた。図形楽譜を思わせるアブストラクトなこの演奏で、岩瀬はクラリネットを吹いた。これを受けた岩瀬久美/新井陽子のセットは、その場にかもしだされた静謐な空気を壊すことのないよう、細かな音を出しあって相手の出方をうかがう点描的な演奏からスタート、次第に音数を多くしておたがいの間を詰めながら、最後は、ピアノが低音部でモアレ状のサウンドを敷き詰める幕切れを作った。前半の最後となった新井陽子/ヴァンサンのセットは、堆積したエネルギーが一気に爆発するのではないかと思われたが、ふたりはこの日のライヴを支配することになった静謐な空気感を守りながら、共演者の演奏に注意深く耳を傾け、音楽の芯にむかってコントロールの利いた豪速球を投げこむような、驚くほど精度が高く緻密な演奏を展開した。変則的なチェロ演奏でふんだんにノイズを出すヴァンサンも、加速度を増していく新井のピアノ演奏も、爆発しようとするエネルギーをその直前で巧みにコントロールしながらの名演奏だったと思う。

 高密度の即興演奏が展開した前半の雰囲気を払拭しようとしたのか、第二部の冒頭、椅子から立ちあがった新井陽子は、ピアノ線をはじき、ホイッスルやオルゴールを鳴らし、さらにリコーダーを吹いて場面の転換を図った。岩瀬がサックスのキーをパタパタいわせはじめると、飛び道具では負けてはいないヴァンサンも、チェロを膝のうえに乗せ、楽器からさまざまなノイズを出して応戦する。ピアノの低音部にリズムパターンを出しながらも、こうしたシチュエーションを10分ほどもつづけた後、トリオはようやく本筋の器楽演奏に移っていった。転換場面を情感あふれるメロディーでリードしたのはヴァンサンだった。演奏はそこからゆっくりとクライマックスに向けて登りつめていったのだが、岩瀬のサックスが、フリーキートーンを連発するようなフリージャズ的なものでなく、サックス本来の音色を生かすクラシカルな洗練度をたたえていたのが、演奏の盛りあがりに独特の色彩感を与えていた。最初の演奏が20分ばかりで終わってしまったので、コンサートをしめようとした新井をさえぎってヴァンサンがもう一セットを提案、アンコールがわりの最終演奏がおこなわれた。最後は前半の雰囲気に戻った現代音楽風の演奏となった。第二部のセッションは、冒頭の奇襲攻撃をのぞくと、ツーセットともに、明確なメロディーを出して場をリードするヴァンサンが軸になった演奏となった。■




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2013年1月4日金曜日

Hugues Vincent+森重靖宗@祖師ケ谷大蔵カフェ・ムリウイ



Hugues Vincent+森重靖宗
日時: 2012年12月26日(水)
会場: 東京/祖師ケ谷大蔵「カフェ・ムリウイ Cafe Muriwui」
(東京都世田谷区祖師谷4-1-22-3F)
開場: 6:30p.m.、開演: 7:00p.m.
料金: 投げ銭
出演: ユーグ・ヴァンサン(cello) 森重靖宗(cello)
問合せ: TEL.03-5429-2033(カフェ・ムリウイ)



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 シチリア島パレルモ在住のサックス奏者ジャンニ・ジェッビアともども、このところ毎年のように来日、来るたびごとに長期滞在して、多くのコンサートをこなすフランスのチェロ奏者ユーグ・ヴァンサンであるが、昨年末に来日し、日本で年越しをした今回のアジア・ツアーでは、北は北海道から南は沖縄まで足をのばすだけでなく、滞在の後半では、新たに広がりつつある国際的なミュージシャン・ネットワークを生かし、台湾の出身で、現在はヨーロッパに拠点を置いて活躍する話題の女性チェロ奏者ヒュイチュン・リン Hui-Chun Lin との台湾ツアーにのぞむそうである。台湾の即興事情など聞いたこともなく、いまのところ想像もつかない状態だが、先ごろフルート奏者の Miya を仲介して来日公演したインドの KENDRAKA であるとか、韓国の即興シーンをもり立てている朴在千(パク・ジェチュン)の存在など、近年の傾向として、即興演奏を含むアジアの音楽シーンが、少しずつ活性化しつつある現状をうかがわせるような徴候が、いたるところに露出しているのは間違いない。歴史的・文化的なありようが多様なアジアは、音楽のあらわれも地域ごとに多様で、ひとつのテーマを追って展開しているとはいいがたいが、そのようななか、「多様性の海」を縫って広がっていく即興演奏家のネットワークが、そのたしかな存在を照らし出すことになっているようである。

 ユーグ・ヴァンサンと森重靖宗の弦楽デュオは、数ある日本公演のなかでも、その相性のよさにおいて群を抜いたものだろう。長い共演経験の積み重ねから、おたがいの手の内を知りつくしながら、なおもデュオの音楽の発展に寄与できるものを探し出そうとする。日本ツアーの二日目にブッキングされた会場、祖師ケ谷大蔵のカフェ・ムリウイは、「mori-shige」のミュージシャンネームを使用していた森重が、一昨年、活動休止宣言をした場所であり、ヴァンサンはそのときも共演者としてそこに居あわせていた。デュオにとっておなじみのスペースが、特別な記憶を刻んだ場所にもなっているのである。この晩は、防寒からだろうか、商店街側に大きく開けた窓に木製の戸が立てまわされ、会場に何台かのストーブが置かれていた。当意即妙の弦楽デュオにあって、ふたりはそれぞれに自身の資質を裏切ることのない役どころを引き受けている。すなわち、直観的な演奏、あるいは直情的な演奏が、深々とした身体的快楽を招き寄せるような場所まで、何度でも下降していこうとする森重の垂直の演奏と、そのような井戸の深みから身をもぎ離すようにして、ひたすら多様な楽想に横滑りしていこうとするヴァンサンの水平的な演奏との対称性である。

 デュオは共演者の欲求に途中までつきしたがいながら、あるところで身をひるがえす。その瞬間、音楽も裏返るのだが、この目に見えない綱引き、駆け引きが、共演者にソロを渡して安心してしまうことのないインプロヴィゼーションの緊張感を、演奏の最後まで持続させていく。他の即興セッションではまず聴くことのない力学といえるだろう。演奏のメルクマールとなるのは、形のあるサウンドと形のないサウンドだ。後者は、森重の演奏に顕著にあらわれるノイズ(なにかを「表現」するのではない純粋音色というべきもの)であり、演奏者の身体感覚を濃密に巻きこんだエロス的サウンドである。弦へのアプローチは皮膚の接触と見分けがたく、最終的には、快楽の解放としての沈黙に帰するものといえるだろう。実際のところ、デュオの演奏には、こうした沈黙の瞬間がよく訪れる。かたや前者は、ヴァンサンの演奏にあらわれるパストラルだったりフォークロリックだったりする楽想であり、その延長線上で、電気ドリルやグラインダーを使う坂本弘道のように、チェロを横抱えにしたままアルペジオを爪弾いたり、弦をストロークしたり、果ては小道具を使ってプリペアドしたりするパフォーマティヴな演奏である。一口にノイズといっても、ヴァンサンの場合は、演奏が横滑りしていくなかにそれが出現してくる。

 ヴァンサンにも直情的なところがあり、それが両者を結びつける要素のひとつでもあるので、ふたつの感情がぶつかりあう場面も、デュオ演奏の聴きどころといえるだろう。しかしながら、この感情がむかうベクトルもまた対照的なもので、前述したように、森重のそれが、みずからの内面を深く掘り進んでいく(impressive なものである)のに対して、ヴァンサンのそれは(expressive といえるような)外部へとむかう表現的なものであり、森重のように、水底へ水底へと下降するのではなく、高揚しながら上昇していく性格を持っている。こうしたいたるところに見られるデュオの対称性は、弦楽の響きによって緊密に結びあわされながら、ふたりの間で展開する音楽世界が広々としたものになるための、欠くべからざる要件なのではないかと思う。即興演奏というのは、もしそれがスタイル化していなければ、あえて不安定な状態を選んで生きていくような頼りないものだが、そうしたなかで出会う音楽の友というのは、その出会いがきわめてまれな出来事であるだけに、とても貴重なものである。不安定さのなかでも、友の肩を借りて、より高くジャンプすることさえできるだろう。ユーグ・ヴァンサンと森重靖宗の出会いは、現代の即興シーンにおけるそうした希有な出来事のひとつとなっている。■




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2013年1月1日火曜日

謹賀新年 2013



謹賀新年
2013年 元旦

昨年中はご愛読ありがとうございました。
新年を迎え、みなさまのご多幸をお祈りもうしあげます。

本年もよろしくお願いいたします。



北里義之/音場舎