新井陽子 森重靖宗 デュオ
Yoko Arai & Morishige Yasumune DUO
日時: 2013年3月5日(火)
会場: 東京/新宿「喫茶茶会記」
(東京都新宿区大京町2-4 1F)
開場: 7:00p.m.、開演: 7:30p.m.
料金: ¥2,000(飲物付)
出演: 新井陽子(piano) 森重靖宗(cello)
予約・問合せ: TEL.03-3351-7904(喫茶茶会記)
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喫茶茶会記でおこなわれたデュオ公演が、10年ほどの期間を隔てた二度目のセッションとなったピアノの新井陽子とチェロの森重靖宗は、独立独歩で活動の領域を広げていくことが運命づけられているインプロヴァイザーのなかでも、自己に向きあい、その内面を深く掘り下げていくという意味で、ともに単独者の顔を持った演奏家といえるだろう。ふたりの──けっしてふたりだけというわけではないが──愚直なまでの生真面目さは、こうしたところから出てくるように思われる。あまりに基本的なことなので、おもてだって触れられることはないが、どんなことにも揺るがされることのない個人(あるいは個人の価値)を、ほんとうにこの国に根づかせることができるのかという一種の文化実験が、街場のセッションを日常的に生きる即興演奏家が、その実践を通して問うていることのひとつである。そんなふたりが、老舗ライヴハウス “グッドマン”(2006年6月に荻窪から高円寺に移転)の出演者だったことは、けっして偶然ではない。というのも、ライヴの林立による集客のむずかしさという別の問題が発生してはいるが、即興演奏のできる場所がたくさんあるというのは、ごく最近の現象で、かつてはこんなこと考えられなかったからである。雑多なものが「前衛ジャズ」としていっしょくたにされ、自由に演奏ができる場所も、理解のあるジャズクラブと相場が決まっていた。
条件の整わない不利な音楽環境を、彼らのような単独者たちは、孤立無援でなんとか生き抜いて、いまここに演奏家として立っているというわけである。実際に音楽をやめてしまったプレイヤーも多いなか、演奏することに対する欲求がどれほど強ければ、ここまでの持続が可能になるのだろうか。生き残っている演奏家たちは、エリート主義的にではなく、やはり選ばれた人たちといえるだろう。このことと対照的に、新井も森重も、じゅうぶんにオリジナルでありながら、内側に閉じこもって自己模倣をくりかえすのではなく、タイプが異なる演奏家とも積極的に共演することで、音楽をさらに外側へ、外側へと開いていこうとする態度を、それぞれのしかたで持っている点でも共通している。ふたりの再会は、こうした諸事情の交点に成立したものといえるだろう。ときどきの演奏の成否とは無関係に、次の共演予定も覚束ないインプロヴァイザーたちの出会いの一期一会は、そうであるにもかかわらず、あるいはそうであるがゆえになおいっそう、なんの保証もない共同性がそこに結ばれていることを感じさせる。まさしく明かしえぬ共同体。即興演奏というのは、狭義には、演奏の過程を生きるプロセスの音楽を意味するが、広義には、おそらくこうした生き方の総体を指し示しているのだろう。
新井陽子と森重靖宗のデュオは、ピアノとチェロの共演という点で、昨年度の「焙煎bar ようこ」に登場した新井陽子と入間川正美のデュオを想起させる。これまで二度ほど聴くことのできた入間川と新井のデュオ演奏が、ある基調のうえに長い展開をするものであり、硬質で、抽象度の高いサウンドの応酬になる(そのぶん現代音楽的に響く)のに対して、森重とのデュオ演奏は、大河の流れのような無窮動の動きから断片的なノイズの点描までを自由に構成しながら、おたがいがおたがいに対して触発的・対話的であり、その場でアイディアを出しあいながら、共演者と追いつ追われつして、ソロを交換していくというものだった。注目されたのは、濁った音色で垂直に切りこんでくる森重のエロティシズムに、知性派の新井がはたしてどう対応するのかということだった。結果から言うなら、森重のサウンドに新井は彼女自身の身体的なエロスを触発することなく、内部奏法を駆使したサウンド・インプロヴィゼーションが生み出す砕片化した響きを対応させ、いうならば機械仕掛けのエロス(サウンドを内臓に見立てたピアノの解剖とでもいったもの)で場面を構成して乗り切った。この攻防はなかなかの見もの、聴きものだった。
第一部が感触を確かめるような演奏だったのと対照的に、第二部の前半が一気にふたりの攻防の場となったのは、共演者の別なく、ここがしばしば彼女の内部奏法コーナーになるからである。鍵盤を(部分的にでも)離れた演奏をするため、彼女は椅子から立ちあがり、アップライトのピアノ板をはずしてむき出しにされた機構の内部に直接アプローチして、ノイズだらけの特殊奏法をくりひろげた。特に印象的だったのはその出だしで、新井は楽器に挨拶するかのように、歯が並ぶようにそそり立った白鍵の前面に爪をあて、かすかな音を出しながらスライドさせていったのである。まだそこが演奏する場所だとは感じられていない楽器の(あるいは音楽の)余白の場所。私がこの特殊奏法を知ったのは、昨年来日したスイスのジャック・ドゥミエールのコンサートが最初だった。あるいはよく知られた演奏法なのかもしれない。いずれにせよ、研究熱心でお茶目な新井の一面がよくあらわれた場面だったと思う。ひとつの基調のうえで交わされる新井と入間川の対話の対称性と、そうした基調を持たないふたつの異質な感性が突出させる、身体と身体のダイレクトな衝突──同じ楽器構成の即興演奏が、まったく別の音楽を生み出した晩であった。■
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