2024年12月31日火曜日

古木と根っこと白い小径──ケイタケイ: LIGHT, Part 52-56|39本の小径|集成『樹影』@両国シアターX

 


ケイタケイ・ソロ・ダンス

樹影

LIGHT, Part 52-56|39本の小径|集成


LIGHT, Part 5239本の小径 II樹影

LIGHT, Part 5439本の小径 III樹影・根っこ

LIGHT, Part 5539本の小径 IV樹影・小石

LIGHT, Part 5639本の小径 V樹影・小径の先



1969年から人と自然のドラマ

踊ってきた「LIGHT」シリーズ。

自然物と樹影に導かれた身体。

創作の小径の行く手にあるものは?



振付・構成・出演: ケイタケイ

コラボレーター: 林 昭男(建築家)

中村桂子(JT生命誌研究館名誉館長)

日時:2024年12月29日(日)

開場: 13:30.、開演: 14:00

会場: 東京・両国 シアターX

(東京都墨田区両国2-10-14 両国シティコア1階)

料金前売: ¥3,000、当日: ¥3,500

学生前売: ¥1,500、当日: ¥2,000


舞台監督・美術・衣装: 河内連太

照明: 清水義幸(カフンタ)

音楽: 宗誠一郎、佐藤聰明太陽讃歌

音響操作: 鳥居慎吾

衣装: ケイタケイ

宣伝美術: 松本利洋

制作: 斎藤 朋(マルメロ)

主催: ケイ・タケイ's ムービングアース・オリエントスフィア

提携: シアターX

協力: アース友の会

助成: 公益財団法人東京都歴史文化財団

アーツカウンシル東京

「東京ライブ・ステージ応援助成



 ケイタケイのソロダンスは、そこでひとつのテーマを発展させていく場というより、自身のダンスがブレていないかを再確認するため、何度も何度もそこに帰ってくる定点観測の場としてある。年末にシアターXでおこなわれる公演は、回数を重ね、寒くなり雪が降ってくるようにして踊られ、すでに風物詩のような趣きさえ呈している。実際のところ、本公演をもって一年の締め括りとしている観客は多いのではないだろうか。このところ集中して踊られてきた「39本の小径」シリーズは、長らく人と自然をテーマにしてきたケイタケイが、森の生態系に溶けこむようにして、実際の木石と舞台上で身体的関係を取り結んでみせるパフォーマンスとなっている。いつものように天井に吊られる巨大な円形の天蓋は、照明の光に色を変えときに点滅したりするのだが、太陽や月に見立てたものという以上に、舞台がひとつの宇宙的なスフィア(英語で球、球体、球面、天体、星、月、範囲などの意味)であることを告げるものとなっており、この踊り場が象徴空間であることを示している。『樹影・根っこ』にゲスト出演した中村桂子が朗読で語ったように、そこには自然や生命に対する神秘的な感覚が満ちているのだが、ケイタケイのダンスを象徴主義のダンスといえるかと問うなら、そのダンスは、むしろ日常的な、即物的な動きを導き出すようなタスクというポストモダンダンスの方法論を採用し、象徴的な意味を孕むことのない(ダンスというより)作業のようにして、動きのヴァリエーションをミニマルに踊っていくものとなっており、ありようはむしろ真逆のものとなっている。意図したものかどうかはわからないが、結果的に両面作戦が採られているといっていいだろう。人間的身体を自然へと帰す象徴性、あるいは長く曲がりくねったダンスの道を一直線に歩いた自身の人生の象徴性と、古木をステージに立て、とぐろを巻いた縄の束と格闘する動きの即物性。

 『樹影』は「39本の小径」シリーズを集大成した作品である。三部構成になった踊りは、ひとつの森の物語を描き出すものではない。第一部『樹影』は、ステージを歩きまわりながら、床に横たえられた長短、大小の古木(舞台装置:林 昭男を、両手で抱えたり、斜めにしたり、抱きついたりと、さまざまな動きで一本また一本と立てていくパフォーマンスであり、第二部『樹影・根っこ』は、木の根に見立てられた(らしい)一抱えもあるとぐろを巻いた縄の束を2つ用意、観客席前に出ると、両手で天井に突きあげたり、頭にかぶったり、片手から片手へ繰っていくなど、縄をさばく動作を踊りにしていく。10分の休憩をはさんでの第三部『樹影・小石』=『樹影・小径の先』は、白い小石の道をステージを二分するようにしてホリゾントから観客席前まで一直線に伸ばし、その最先端に立って未来を見つめながら踊るというもので、「小径の先」に立っていまを生きるという決意を感じさせ、長くケイタケイを観てきた観客からあたたかい拍手を浴びていた。初演のときには、小石の道をホリゾントから一直線に歩いてくる前に、道をはずれてステージをランダムに歩きまわる場面があり、象徴的に示されたダンスの道が、けっして平坦なものでなかったことが暗示されていた。『樹影・小石』は、人生という奥行きを持った時間的な経過を捨てることで、あえて<いま・ここ>の一点に立つ決意表明の場になったといえるだろう。

 第二部の『樹影・根っこ』では、縄をさばくケイタケイの傍に並び立った中村桂子が二度朗読した。その最初のテクストは詩的なもので、「根源。根幹。根底。根拠。根性。根気。根治。根絶。大根。六根清浄。」、あるいは(身体の部位に手を置きながら)「眼根。耳根。鼻根。舌根。心根。胃根。」と「根」のつく漢語をならべていくことで、それが地下にあって生命の樹を栄えさせる重要な働きをなすものであること──「美しい樹があるのは、土のなかに根っこがあるからなのです。」──を瞬時にして理解させた。こうした言葉による生命賛歌の傍に立って、縄の束を繰るケイタケイのダンスは、ある意味で、リアリズムの行使という側面を帯びていたように思われる。あらためて断るまでもなく、自然の生態系そのものをステージに再現することは不可能である。この言葉にもならず、ダンスにもならず、永遠に潜在性としてのみとどまる自然そのものの表現に対する絶望こそが、ケイタケイのダンスを支えているのではないだろうか。

(北里義之)

【書籍・定期刊行物】『テルプシコール通信 No.203』

 

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『テルプシコール通信 No.203

2024年12月25日号

発行:テルプシコール編集室

編集: 宜子


【Terpsichore 1月-2月 Schedule】

呼応計画2025

『日の底の野営地』

(作・演出:池内文平)


窓の階

ここはどこかの窓のそと2

(脚本・演出:久野那美)


竹本晴登・田中汰樹 共同プロデュース公演

いま!ここ!

(脚本・演出・作曲:天野雄貳、振付・演出:田中汰樹)


エンギシャ東京公演 新作舞台

ワンダフル・エナジー

(作・演出:金星 辰)


鯨井謙太郒

舞踏計画:剥製の光へ Vol.1

『UBUSUNA異聞』

(構成・振付・演出:鯨井謙太郒)


【ダンス演劇ワークショップ】

鯨井謙太&大倉摩矢子

ユリイカ!! ワークショップ(毎月開催)


【公演評】

竹重伸一

自分の身体の輪郭に情動を封じ込める

中央線芸術祭2024パフォーマンスプログラム

動物 -Moving object-

阿目虎南Multi Layerd Body≪Animal≫


北里義之

しあわせの人形たち

千野秀一・杉田丈作・加藤 啓

鳥の囀る朝に立つサーカス、と…

クレプスキュール、物売りの白い紙の鳥

歩行と幾何学的世界

藤井マリ企画崩壊、あるいは異邦人

鈍色の光の彼方へダンスする


國吉和子

G氏を探して──1950年代篇その3


【新刊本】

南椌椌 詩集

ソノヒトカヘラズ

笠井 叡

舞踏をはじめて

(聞き手:小野寺悦子、操觚社)

玉内公一編

深谷正子の仕事2

後藤由紀編

句集一人百句 谷村しげを

(多摩退屈庵)


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LUNACY

るなしい人々


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2024年12月24日火曜日

素体の人──深谷正子: 動体観察 2daysシリーズ[第8回・最終回]2日目: 伊藤壮太郎『境界点のブイ』

 

深谷正子 ダンスの犬 ALL IS FULL: 

動体観察 2daysシリーズ[第8回・最終回]



動体G

それぞれの時間×11

作・演出: 深谷正子

出演: 梅澤仁美、小檜朱実、斉藤直子、 

玉内集子、津田犬太郎、秦真紀子、

富士栄秀也、宮保 恵、三浦宏予、

吉村政信(欠席)、やましん

日時:2024年12月22日(日)

開場: 6:30p.m.、開演: 7:00p.m.


ゲストダンサーシリーズ

伊藤壮太郎

境界点のブイ

出演: 伊藤壮太郎

音楽: salta

美術: 柴田勇紀

日時:2024年12月23日(月)

開場: 6:30p.m.、開演: 7:00p.m.


会場: 六本木ストライプハウスギャラリー・スペースD

(東京都港区六本木5-10-33)

料金各日: ¥3,500、両日: ¥5,000

照明: 玉内公一

音響: サエグサユキオ

舞台監督: 津田犬太郎

会場受付: 深谷正子、玉内集子、曽我類子、友井川由衣

写真提供: 平尾秀明

問合せ: 090-1661-8045



 前日の「動体G」公演に引きつづき、「動体観察 2daysシリーズ」のトリを飾ることになったのは、伊藤壮太郎のソロダンスだった。ステージ上手には天井からハンガーに掛かったワイシャツが吊られ、下手には画布にシャツの現物を貼りつけ、顔の表情が霧に包まれたようにぼんやりと描かれた等身大の絵画が吊られ、上手下手のコーナーには、パフォーマンス中に稲妻のような鋭い閃光を放つことになるカメラのフラッシュを準備、上手のフラッシュには写真撮影用のパラソルまでつけられていた。柴田勇紀によって描かれた絵画は丸めてタテに吊るされた状態で吊られ、ここ一番の勘所にきたところで、フラッシュする閃光とともにバサッと音をたてて開き観客を驚かせた。白と黒からなるモノトーンな雰囲気で包まれたステージに、赤銅色の肌をした伊藤がパンツ一枚で立つ。ステージ全体のモノクロームな印象がダンサーの存在によって消えるようなことはなく、ワイシャツを気にしてふりかえったり、ワイシャツの袖に腕を通したりする日常的な動き、演技的な動き、即物的な動きなどからなるドキュメンタリータッチ──すなわち、どんな物語もイメージさせることのない、動きの意味を一挙に空欄にしてしまう裸形性を与えていた。印象的な色彩はもうひとつあった。それは下手の絵画が閃光とともに開いてから、ブルーグリーンの照明が画布の裏側から一定時間あてられることがくりかえされた点である。タイトルの「境界点のブイ」のイメージと関係するような色彩、海底のたゆたいを思わせるブルーグリーンは、物語のないパフォーマンスに深度のある幻想的な雰囲気を加えていた。

 ステージがあれこれと小道具を配した饒舌さにあふれているのに反比例して、伊藤壮太郎の踊りはどこまでも寡黙だ。ダンスらしい語法はひとつも使われず、日比谷線の車内録音らしき環境音が流れ、車内アナウンスが恵比寿、広尾、六本木と到着駅を告げていくライヴな時間を編集なしでまるごと流すなか、ただじっとステージに佇立しつづけるような様子。上手に吊られたワイシャツが気になってしかたないというように視線を何度もそちらに送り、シャツの周囲をまわっては、ようやく意を決したように袖に腕を通す、ボタンをとめる。アフリカンビートが聞こえてくると、人が乗れるくらい幅広のホリゾント棚に昇り、下手に吊るされた絵画の裏に這いこむ。波音のような、あるいは水をかき回すような音が聞こえてくる。いったいどうするのかと固唾を飲んでいると、頭からワイシャツを脱ぎながら上手へと後ずさり、棚の中央部分まで戻ると、両手をついて逆さになりながら床に降りてきた。生肉が落ちるように床上に横になるとぬめぬめと蠢き、背中向きで立膝にすわる。血液を一気に沸騰させるようにストロボの閃光が連続してから暗転。暗いなか、ステージから男の影がゆっくりと歩き去って終演した。特別なところのなにもない、むしろなにもしないぞという決意のようなものすら感じさせるパフォーマンス。そのようなものが、どこまでも誠実に踊られていたのである。その身体のあり方は、ステージに存在を立たせるといった性格のものではなく、舞踏がいうところのなにもないからだであり、すべての解釈を拒絶するものでもあれば、すべての解釈を受け容れようとするものでもあった。

 舞踏ならば、空白になった身体に何者かがやってきて場所を占めるところまでいくのだが、伊藤壮太郎の身体にはなにもやってこなかった。自己表現でもなく、自己を明け渡すのでもなく、おそらくその身体に決定的なものはなにも書きこまれていないと考えるべきなのだろう。換言すれば、すべての可能性に開かれたiPS細胞のような身体。しかしながら、伊藤の身体の寡黙さは、若いダンサーが囲まれている現代ダンスの情報環境をも照り返している。公演後のMCで、このダンサーに最終ランナーとして白羽の矢を立てた深谷正子は、「20年後にダンス界を支える大きな力」というような紹介の仕方をした。この「20年」という何世代か先の未来世界の提示が、どのようなダンサーになるのかまったくわからない、未知の可能性にあふれた才能への希望の大きさであり賛辞だったことはたしかだろう。それは同時に、深谷がどのようなダンサーに惹かれるかということも物語っている。手近にいくらでもある成功に手を伸ばすのか、はるか未来の世界で描くことのできる壮大なヴィジョンに賭けるのか、伊藤壮太郎はどちらの可能性にも開かれている。

(北里義之)


2024年12月23日月曜日

「あらゆることは今起こる」ということ──深谷正子: 動体観察 2daysシリーズ[第8回・最終回]動体G『それぞれの時間×11』

 

深谷正子 ダンスの犬 ALL IS FULL: 

動体観察 2daysシリーズ[第8回・最終回]



動体G

それぞれの時間×11

作・演出: 深谷正子

出演: 梅澤仁美、小檜朱実、斉藤直子、 

玉内集子、津田犬太郎、秦真紀子、

富士栄秀也、宮保 恵、三浦宏予、

吉村政信(欠席)、やましん

日時:2024年12月22日(日)

開場: 6:30p.m.、開演: 7:00p.m.


ゲストダンサーシリーズ

伊藤壮太郎

境界点のブイ

出演: 伊藤壮太郎

音楽: salta

美術: 柴田勇紀

日時:2024年12月23日(月)

開場: 6:30p.m.、開演: 7:00p.m.


会場: 六本木ストライプハウスギャラリー・スペースD

(東京都港区六本木5-10-33)

料金各日: ¥3,500、両日: ¥5,000

照明: 玉内公一

音響: サエグサユキオ

舞台監督: 津田犬太郎

会場受付: 深谷正子、玉内集子、曽我類子、友井川由衣

写真提供: 平尾秀明

問合せ: 090-1661-8045



 八丁堀「七針」を会場にして毎月22日に定期公演された深谷正子の極私的ダンスシリーズ「カサブタ」(2023年11月-2024年4月)──全6回をタイトルだけあげれば、『偶然と必然の間にいる』『記憶の細部が揮発してゆく』『からだにメスを入れる日の前夜』『今、異常な多幸感へ』『残される、そして残して行く』『滲み込む、そして今』となる──を引き継ぎつつ、数多のダンス企画の会場になったことで舞踊評論家・長谷川六(故人)の記憶が残る六本木ストライプハウスギャラリーのスペースDに会場を移し、継続開催されてきたシリーズ公演「動体観察2 days」(2024年5月-12月)──これも全7回おこなわれたソロ公演のタイトルをあげれば、『時間のリアルがズレて行く『エゴという名の表出』庭で穴を掘る『自然は実に浅く埋葬する その2』『自我、溝にハマリ込む『入射角がずれる その2』『陰謀のように打った寝返りを その2』となる──は、ダンスだけではない多彩な領域からゲストを迎えた公演を2日目に配した2デイズ方式で開催され、他者の身体にタスクを振付ける深谷作品ばかりでなく、ゲストの自主性を尊重して出演者にすべてをまかせる即興的なパフォーマンスもあった。複数回出演するゲストは、過去の深谷作品に参加してきたおなじみの面々を中心に人選され、極私的ソロダンスの周囲に張りめぐらされた極私的ネットワークといった印象。ソロダンスも後半になってくると、公演が終わるたびごと、一年に及ぶダンスの長距離マラソンでは、わかってはいたものの「ネタ切れ」に苦しめられていることが語られ、実際のパフォーマンスでも、過去作品をリクリエーションする公演が多くなった。これはダンスを踊ることのリアルを獲得するため、クリシェの回避が要求されるという創作の苦しみであったろう。シリーズ最終公演は、深谷にとって解放の時間となり、11人編成という最大規模の群舞作品によるゲスト企画の集大成と、新たに知りあった20代のパフォーマー伊藤壮太郎のソロというプログラムを立てて、若い世代に希望を託しつつシリーズの最終章を飾った。

 11人(実際の参加は10人だった)のパフォーマーが一堂に会した動体G『それぞれの時間×11』は、カンパニー的な色彩を持つ深谷作品であると同時に即興セッションでもあるという2つの性格を持った一連のパフォーマンスを、動きの「タスク」によって場面構成していくもので、参加メンバーの異同はあるが、いまはなき日暮里d-倉庫でコロナ禍以前に開催された『動体G どこにでもあること私小説×12(2019年2月)の再演である。初演においてホリゾント搬入口の屋根に登ったメンバーが散布したステージを埋め尽くす膨大なティッシュの白は、再演版において、人が立つほどには幅広のホリゾント棚に立ち並んだメンバーが散布するピンポン玉の白にとって変わった。集団の行為によって一瞬に様変わりする風景は、不揃いな動きの連続から構成されるパフォーマンスの雑然としたありさまを白の一色で塗りつぶす意味合いがあり、歌舞伎などでおなじみの(笠井 叡がその代表作で多用している革命の風景天井から降り注ぐ白いコンフェッティが作る雪景色や花吹雪を連想させる。初演との相違は、無数のピンポン玉がたてる音のあるなしという点であろうか。過去の群舞作品のなかには、大量のカトラリーがコンクリート床に落ちてたてる凄まじい金属音をメインモチーフにした代表作『宙づりというサスペンス』などがあり、深谷作品においては音も身体的なるものとして考えられ、感じられていて見落とせない。身体風景の激変は、色とともに、また音とともにやってくる。ピンポン玉が降り注ぐクライマックス以前にも、冒頭でひとりずつステージに入ってきたメンバーがビニールバッグにピンポン玉を入れていくプロローグだとか、時折ステージに投げこまれてくるピンポン玉などで、クラマックスへの予兆が提示されるのも、心憎い演出になっていた。



 動体Gの群舞において、音楽の即興セッションなどにない要素は「暗転」である。物語の設定がない動体Gの即興パフォーマンスに挿入される暗転は、場面転換というより、360度の方向に展開するパフォーマーの雑多な動きから生まれる観客の視線の拡散状況を随時リセットする効果をねらったものだろう。演劇やダンスの暗転は、通常照明のあるなしによって示されるが、本公演では、急に音が止まったり、ブザーが鳴ったり、サイレンが鳴ったりすることで全体の動きが停止することもあった。これはメンバーが一列縦隊になるとか、ピンポン玉を持ってホリゾントに立ち並ぶなど、振付家による演出とはっきりわかるような場面の他にも、即興的な場面転換がスタッフサイドの判断でさしはさまれたことを想像させる。深谷作品であると同時に即興セッションでもあるという動体Gの根本性格のうち、後者の即興性は、ひとつの場を往来する11人のソロが並び立つような「それぞれの時間」の実現に関わっている。音楽における11人の集団即興であれば、混沌の様相はもっと過激に、収拾がつかなくなるだろうことが予想される──そのため音楽の完全即興では、演奏中に演奏者が不安な状態に陥らないようにするため、参加人数はあらかじめ少人数に抑えられるのが一般だ──が、「それぞれの時間×11」では、動きを初期化するいくつものリセット時間が用意されていたにも関わらず、参加者たちは相互にセーブしあうようにしてサイズの似通った動きをしながら、他の参加者の邪魔にならないように空間を分けあってパフォーマンスしたのである。そこに実現したのは、行儀のいい動きが機会均等に配分されていく均一空間であった。端的にいうなら、無数のピンポン玉によるクライマックスの演出は存在しても、身体そのものにはクライマックスが訪れないという状態。これは全員ソロという深谷作品のヴィジョンが、モダンダンスのユニゾンを反転しただけのコンセプチュアルなものであることを証言している。


 このことは、ダンスありパフォーマンスあり、演劇的なふるまいがあり名づけようのない動きがありと、ポストモダンダンスの枠すら破っていくような、あらゆる身ぶりが許容される拡張されたダンス空間であることが、かならずしも参加者の「自由」を担保するものではないことを物語っている。ふたたび音楽の即興パフォーマンスとくらべると、音楽のソロがソロと呼ばれるのは、あたかもひとつの身体を構築するような集団即興のなかからそれぞれが道を選び出し、パフォーマンス前には存在しなかったひとつの物語をメンバー全員で編みあげていくところに誕生するものであることがわかる。ダンスでいう「コンタクト」が最初にあり、身体と身体の接触のなかから発見されていく極私的身体性なのだ。換言すれば、群舞の身体性は、極私的ソロからはじまるものではなく、群舞とソロの関係性を逆にすることではじめて成立するということになるのであろう。『それぞれの時間×11』には特別にそこだけコンタクトする場面があった。縦一列に並んだメンバーの先頭に立った人が、うしろをふりかえり、背後に立っていたメンバーを抱きしめてからずり落ちるように床に崩れ落ち、列の後尾にまわるという一連の動きをくりかえしていくミニマルな動きの場面である。身体のコンタクトはあるのだが、ここでも集団的身体は構成されることなく、一対一の関係性が個々の演技力を伴ってくりかえされていく。しぐさを物語に関係づける(=演じる)ことで完成するという、メンバー個々の演劇性が試されるような場面だった。こうしたことから考えられるのは、即興的な展開はありながら、動体Gの群舞において「ソロ」が意味するものは、参加者の身体が起こす自由ではなく、全体性を演出する動きの差異のことなのではないだろうか。


 動きの差異に焦点を絞っていえば、今回のパフォーマンスで特異点をなしていたのは、おそらく玉内集子のダンスであったろう。彼女がソロ・パフォーマンスで見せるようなダンス語法を多彩にくりだしながら、とどまるところなく動きつづけたパフォーマンスは、ダンス語法を場面に応じて切れ切れに並べていくのではなく、周囲の動きに対して緊張感を保ちつつ、なおも連続するひとつのシークエンスを構成したことでダンスらしいダンスとして踊られるものだった。こうしたダンスの語法が、場にあふれる雑色の動きを異化するものとして働く(動体Gをダンスの側からまなざす)という効果も、深谷正子が演出する群舞の特徴となっている。「ダンスの犬 ALL IS FULL」の群舞公演において、ときにユニゾンを振付けたうえで、闇鍋状態となった動きのただなかに投入されるダンス語法の異化効果は驚異的なもので、ダンスのなんたるかを逆照射するような力さえ発揮する。その意味では、拡張されたムーブメントとして構築される動体Gのパフォーマンスも、ダンス作品として創作される側面を持つといえるだろう。もっと積極的にいえば、ダンス作品として創作されたものといえるだろう。参加メンバーの動きが似たり寄ったりの行儀よさを持っていたことも、もしかすると『それぞれの時間×11』がダンス作品であることを直感的に感じ取っていたからなのかもしれない。

(北里義之)


深谷正子 ダンスの犬 ALL IS FULL
動体観察 2days シリーズ