ケイタケイ・ソロ・ダンス
『樹影』
LIGHT, Part 52-56|39本の小径|集成
LIGHT, Part 52「39本の小径 II」『樹影』
LIGHT, Part 54「39本の小径 III」『樹影・根っこ』
LIGHT, Part 55「39本の小径 IV」『樹影・小石』
LIGHT, Part 56「39本の小径 V」『樹影・小径の先』
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1969年から〈人と自然のドラマ〉を
踊ってきた「LIGHT」シリーズ。
自然物と樹影に導かれた身体。
創作の〈小径〉の行く手にあるものは?
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振付・構成・出演: ケイタケイ
コラボレーター: 林 昭男(建築家)
中村桂子(JT生命誌研究館名誉館長)
日時:2024年12月29日(日)
開場: 13:30.、開演: 14:00
会場: 東京・両国 シアターX
(東京都墨田区両国2-10-14 両国シティコア1階)
料金/前売: ¥3,000、当日: ¥3,500
(学生/前売: ¥1,500、当日: ¥2,000)
舞台監督・美術・衣装: 河内連太
照明: 清水義幸(カフンタ)
音楽: 宗誠一郎、佐藤聰明「太陽讃歌」
音響操作: 鳥居慎吾
衣装: ケイタケイ
宣伝美術: 松本利洋
制作: 斎藤 朋(マルメロ)
主催: ケイ・タケイ's ムービングアース・オリエントスフィア
提携: シアターX
協力: アース友の会
助成: 公益財団法人東京都歴史文化財団
アーツカウンシル東京
「東京ライブ・ステージ応援助成」
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ケイタケイのソロダンスは、そこでひとつのテーマを発展させていく場というより、自身のダンスがブレていないかを再確認するため、何度も何度もそこに帰ってくる定点観測の場としてある。年末にシアターXでおこなわれる公演は、回数を重ね、寒くなり雪が降ってくるようにして踊られ、すでに風物詩のような趣きさえ呈している。実際のところ、本公演をもって一年の締め括りとしている観客は多いのではないだろうか。このところ集中して踊られてきた「39本の小径」シリーズは、長らく人と自然をテーマにしてきたケイタケイが、森の生態系に溶けこむようにして、実際の木石と舞台上で身体的関係を取り結んでみせるパフォーマンスとなっている。いつものように天井に吊られる巨大な円形の天蓋は、照明の光に色を変えときに点滅したりするのだが、太陽や月に見立てたものという以上に、舞台がひとつの宇宙的なスフィア(英語で球、球体、球面、天体、星、月、範囲などの意味)であることを告げるものとなっており、この踊り場が象徴空間であることを示している。『樹影・根っこ』にゲスト出演した中村桂子が朗読で語ったように、そこには自然や生命に対する神秘的な感覚が満ちているのだが、ケイタケイのダンスを象徴主義のダンスといえるかと問うなら、そのダンスは、むしろ日常的な、即物的な動きを導き出すようなタスクというポストモダンダンスの方法論を採用し、象徴的な意味を孕むことのない(ダンスというより)作業のようにして、動きのヴァリエーションをミニマルに踊っていくものとなっており、ありようはむしろ真逆のものとなっている。意図したものかどうかはわからないが、結果的に両面作戦が採られているといっていいだろう。人間的身体を自然へと帰す象徴性、あるいは長く曲がりくねったダンスの道を一直線に歩いた自身の人生の象徴性と、古木をステージに立て、とぐろを巻いた縄の束と格闘する動きの即物性。
『樹影』は「39本の小径」シリーズを集大成した作品である。三部構成になった踊りは、ひとつの森の物語を描き出すものではない。第一部『樹影』は、ステージを歩きまわりながら、床に横たえられた長短、大小の古木(舞台装置:林 昭男)を、両手で抱えたり、斜めにしたり、抱きついたりと、さまざまな動きで一本また一本と立てていくパフォーマンスであり、第二部『樹影・根っこ』は、木の根に見立てられた(らしい)一抱えもあるとぐろを巻いた縄の束を2つ用意、観客席前に出ると、両手で天井に突きあげたり、頭にかぶったり、片手から片手へ繰っていくなど、縄をさばく動作を踊りにしていく。10分の休憩をはさんでの第三部『樹影・小石』=『樹影・小径の先』は、白い小石の道をステージを二分するようにしてホリゾントから観客席前まで一直線に伸ばし、その最先端に立って未来を見つめながら踊るというもので、「小径の先」に立っていまを生きるという決意を感じさせ、長くケイタケイを観てきた観客からあたたかい拍手を浴びていた。初演のときには、小石の道をホリゾントから一直線に歩いてくる前に、道をはずれてステージをランダムに歩きまわる場面があり、象徴的に示されたダンスの道が、けっして平坦なものでなかったことが暗示されていた。『樹影・小石』は、人生という奥行きを持った時間的な経過を捨てることで、あえて<いま・ここ>の一点に立つ決意表明の場になったといえるだろう。
第二部の『樹影・根っこ』では、縄をさばくケイタケイの傍に並び立った中村桂子が二度朗読した。その最初のテクストは詩的なもので、「根源。根幹。根底。根拠。根性。根気。根治。根絶。大根。六根清浄。」、あるいは(身体の部位に手を置きながら)「眼根。耳根。鼻根。舌根。心根。胃根。」と「根」のつく漢語をならべていくことで、それが地下にあって生命の樹を栄えさせる重要な働きをなすものであること──「美しい樹があるのは、土のなかに根っこがあるからなのです。」──を瞬時にして理解させた。こうした言葉による生命賛歌の傍に立って、縄の束を繰るケイタケイのダンスは、ある意味で、リアリズムの行使という側面を帯びていたように思われる。あらためて断るまでもなく、自然の生態系そのものをステージに再現することは不可能である。この言葉にもならず、ダンスにもならず、永遠に潜在性としてのみとどまる自然そのものの表現に対する絶望こそが、ケイタケイのダンスを支えているのではないだろうか。■
(北里義之)