OrganWorks
『せかい』
作・演出: 平原慎太郎
第310回 神奈川青少年芸術劇場
YPAMフリンジ2024 登録公演
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この公演は4年ほど続いた神奈川県立青少年センターでのダンスワークショップの集大成という
位置付けで開催いたしました。このダンスワークショップは年に一度数日間、
普段学校の部活や教室で学ぶことと異なった角度でダンスを捉えること、
いつも学生たちがいる場所とは違う場所があるということの気づきをテーマに開催してまいりました。
(中略)
ですので今回の作品も、自分の場所とそれ以外の他者が信じている場所という
両方の場所を信じられる高い場所に立てるかどうかが作品のテーマになっています。
[当日パンフ: 平原慎太郎「ごあいさつ」から抜粋。]
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会場: 神奈川県立青少年センター 紅葉坂ホール
(神奈川県横浜市西区紅葉ヶ丘9-1)
料金(全席指定・税込):
一般/前売: 4,000円、当日: 4,500円
24歳以下/前売: 1,500円、当日: 2,000円
中学生以下/前売: 1,000円、当日: 1,500円
作・演出: 平原慎太郎
音楽: 景井雅之、凛子
出演ダンサー(配役名):
池上たっくん(スペード)、タマラ(ハート)
(以上、OrganWorks)
山本悠貴(カインド)
川添エミリ(水面)、AYUBO(コート)、森 瑞晶(秘密)、
稲田涼香(リス)、今泉かなこ(少年)、 栁澤 杏(親友)
白倉絵蓮(クリーナー)
河村アズリ、白倉絵蓮、菅谷有紗、
角田莉沙、中本妃世里、平田 栞(以上、ダイヤ)
石崎祐美、池谷心羽和、井上紗香、上野瑞妃、
佐藤あかり、千本松凜、田中梨乙菜、寺田夏望、
宣伝美術: ムラハタワークス、宣伝映像: 内田実莉亜
テキスト翻訳: 佐藤りさ子
協力:公益財団法人セゾン文化財団
G-Screw Dance Labo、急な坂スタジオ
山本貴愛、ゴーチ・ブラザース、
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文芸作家はいうに及ばず、映画作家であろうが舞踊作家であろうが、作家というものはすべからく、ひとつのテーマをくりかえしくりかえし自己引用することで自身を深めていくという側面を持っている。現代作家のなかでは多作の部類に入るだろうOrganWorksの平原慎太郎もまた、広範囲のテーマに取り組んでいるようでいて、なぜかこの場所に戻ってきてしまうという作品に何度も遭遇した。最初に印象に残った平原の作品は、振付家として大きな転機となった「トヨタ コレオグラフィアワード 2016」(2016年8月)で大賞と観客賞をダブル受賞した作品『Reason to Beleive』だったが、そこで本稿でテーマになる「逆走する盆踊り」の場面が登場していた。宗教的にも感じられる音楽が荘厳に鳴り響くなか、ステージ上に大円を描きながら群舞が逆さに歩きつづけるという盆踊りのような場面は、周到な演出か単なる偶然か、ちょうど夏祭りの季節にもあたっていたことから、「見えるもの/見えないもの」という亡霊的テーマを語るにふさわしく深く身体記憶に残るものだった。本公演がワークショップ・ショーイングの性格を持ち、多くの受講者の参加があったという事情が影響したのだろうか、『せかい』にもまた、あの印象深い場面が再来した。しかもこの度は順走と逆走が同時に提示される形で二重の輪になった円舞が構成されるという群像劇が演じられたのだった。この時間のテーマは今回ダンサー演じるところの役柄にも及んでいて、時間を進める存在としての「スペード」(身体的なるもの)と時間を戻そうとする存在としての「ハート」(精神的なるもの)という主演キャラクターへと象徴的に集約され、ステージに描き出される『せかい』の構造のなかに人を配置していくようにして身体の物語を描き出したのである。
OrganWorks流の群像劇──ステージ上に同時多発的に置かれるたくさんのダンスにあって、この時間の逆走という発想は、いまもなお謎を帯びてあらわれる。というのも、この動きのアイディアは、映画でよく使われるフィルムの逆回しという映像マジックからきたものと想像するが、生身のダンサーが踊るダンスの領域においては、どんな瞬間にあっても時間が逆戻りすることはないからである。「時間を戻そうとする存在」が逆さまに歩いたとして、それは“後ろに進む”ことであって、時間そのものの逆行が生じているわけではない。マイケル・ジャンソンのムーンウォークが与えた衝撃は、たしかに時間的な眩暈の感覚を引き起こすが、前に歩こうとしている人が後ろに歩いていってしまうという出来事がライヴで“同時に”(瞬時に)体験されることから起こるものだろう。「時間を進める存在」と「時間を戻そうとする存在」の対比は、ダンスの場合、時間的にではなく空間的にしか表現できない。つねに<いま・ここ>しか体験できない観客は、時間の多層性ではなく空間の多層性からなる群像劇を観ている。こんなふうに考えると、振付家・平原慎太郎が自己引用する亡霊を召喚するために採用した<逆走する盆踊り>の場面で、ダンサーはいったいなにを踊っているのかがあらためて問題になってくるだろう。ひとつのヒントは、マイケルがそうしたような、亡霊の出現を許す歪んだ空間、亀裂の入った空間を生み出すために必要とされた眩暈の感覚である。この関連からみていくなら、一方で他者理解をテーマとしている本作が、「自分の場所とそれ以外の他者が信じている場所という両方の場所を信じられる高い場所」と述べている場所こそは、順走し逆走する盆踊りの二重化された輪の間という「亡霊」の出現する場所となっている。換言するなら、『Reason to Beleive』において「見えるもの/見えないもの」の間に横たわっていたスラッシュを別様に読み替えたものといえるだろう。
平原慎太郎のフィジカルシアター作品では、かなり以前からオリジナル脚本が書かれているが、『せかい』でもダンサーはセリフを語ってテーマの周辺に詩的な言葉を投げている。逆行する時間についていうなら、「逆走する盆踊り」よりも観客の記憶に働きかける平原の言葉のほうが、<いま・ここ>にない瞬間を生じさせることになっているだろう。しかし平原の振付で言葉はダンスの動きと細かな対応関係をとることなく、ダンスはダンスとして動きのなかで出来事や物語を構造化しようとする。この意味で、平原のオリジナル脚本は、演じられるものとしてではなく、ダンスに翻訳されるものとして存在しているといえるだろう。言葉の果たす役割については、勅使川原三郎の場合、笠井叡の場合と、言葉と身体の関係に意識的なダンサーの作品を比較検討してみたくなる誘惑に駆られるが、いまはただ一点、OrganWorks作品では言葉はもっとも伝統的な「文学色」を剥ぎ取られていると指摘するにとどめたい。
舞踊作家の作品に自己引用の場面がくりかえし登場するのは、それがいまもなお謎に満ちているからである。『せかい』では、亡霊的なるものが召喚されることになった生と死のテーマにまでは至っていないが(むしろ世俗的なるものに読み替えられたが)、『Reason to Beleive』に登場した「逆走する盆踊り」が、そうした死の領域を背後の闇として抱えるところに出現した「逆走」であったことはあらためて指摘しておかなくてはならない。ここには謎のまますでに「せかい」があらわれていたのである。本作品で「逆走する盆踊り」の謎が解消されたわけではない。おそらく平原慎太郎にとって、「逆走する盆踊り」は、あれこれの脚本以前、あれこれのテーマ以前にあり、永遠の謎を帯びた場面として彼のダンスに取り憑いている。むしろそれこそが平原を振付家にしたといってもいい。彼の作品では、「逆走する盆踊り」のうえで、これからもさまざまな思考が積み重ねられていくことだろう。■
(北里義之)
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