イトカズナナエ
『十年』
二年目
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オープニング作品(映像)
『光明之日』
撮影: 森 政也
編集: 石丸麻子
協力: スタジオn、工房ムジカ
鈴木富美恵
『種子』
振付・演出: 鈴木富美恵(86B210)
出演: イトカズナナエ
操演協力: 森 政也、石丸麻子、森田智子、
にけ、MAJICO、冨士栄秀也、
清水依子、ノブナガケン、野村雅美
日時:2024年12月14日(土)
(マチネ)開場: 2:30p.m.、開演: 3:00p.m.
(ソワレ)開場: 6:30p.m.、開演: 7:00p.m.
12月15日(日)
(マチネ)開場: 3:30p.m.、開演: 4:00p.m.
会場: アトリエ第Q藝術
(東京都世田谷区成城2-38-16|tel.03-6874-7739)
入場料/前売: 3,000円、当日: 3,500円
音響: 成田 護
照明: 早川誠司
チラシデザイン: yamasin(g)
撮影: 柴田正継
(《十年》一年目《Botanical Body》舞台写真)
制作: シーボーズ有限会社
翻訳: 李 雨潔
企画協力: 冨士栄秀也
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10年という時間は、短期間には姿をあらわさないひとつの時代思潮が見えてくるのに十分な長さのある期間であり、どんな意味でも個人的なものたりえない。個人の現在位置を測量することよりも、より多く共同性が育っていくような性格をもった時間・空間といったらいいだろうか。もちろん個が育っていく側面を取り出して評価することもできるが、そうした成長自体、10年をかけて成立してくる共同性のなかにおいて初めて実感できるようになるものだろう。一年に一回ソロ公演を開催、これまで交渉を持ってこなかった外部の振付家に委嘱した作品を、自身の身体を「素材」として提供する純粋ダンサーとして公演することで、毎年傾向の違う作品と出会いながら、踊り手もまた自身の身体の変化に注目することで、身体に対する認識やダンスの経験を深めていこうとするイトカズナナエのプロジェクト『十年』もまた、個人的なものではありえない。本公演に先立って投影された映像『光明之日』に、そのヒントが隠されている。映像はダンサー自身が「10年」の意味について語るものだったが、そこに登場する恩師山田奈々子の存在は、ダンサーの芸術的出自を語るものとして重要なだけでなく、山田が担っていたようなモダンダンスの最良の部分を引き継ぎ、コンテンポラリーダンスの時代に発展させていくことができるかという問いを、自身の身体をもって測量していくという決意を、イトカズならではの謙虚さのなかで述べてもいたからである。モダンダンスにおいて戦われた最良の部分(モダンの確立)は、現代においてなお再興する価値があるのだろうか。すべてはコンテンポラリーダンスによって(あるいはコンテンポラリーダンスの時代によって)乗り越えられてしまったのではないだろうか。業界的な仕切りに守られて、そうした問いを正面から問うような公演に出会うことはまずない。
モダンダンスとコンテンポラリーダンスの方法論の違いを端的にイメージするために、作家性を持たない「純粋ダンサー」の存在、あるいは「素材」としての身体提供という切り口はいまでも有効だろう。歌謡曲の世界を参考にするとわかりやすい。敗戦後の流行歌では、作詞家・作曲家が歌を書き、大衆的な人気を得ている歌手がヒットを飛ばすという分業体制で歌謡曲が生産されていた。いまでも演歌などはこのスタイルで生み出されている。1970年代のDIYの時代になってフォークソングが流行、「シンガーソングライター」という存在に新たな注目が集まり、著作権・出版権がレコード会社から個人へと名実ともに権利移行していくことで、ヒット曲の生産体制に大きな変革期が訪れたが、この音楽における分業体制の崩壊と似たようなことがダンス界に起こったのが、モダンダンスからコンテンポラリーダンスの端境期だったといえる。振付家が舞踊作家として作品を提供し、自身のカンパニーやスタジオを運営しながら、身体的に優れた能力を持つダンサーをピックアップしてステージで作品を現実化するという分業体制。舞踏においても、晩年の土方 巽はこうしたモダンダンスの分業体制を維持した作家であり、即興的な衝動を創造の糧とした大野一雄や笠井 叡は、つねにこうした分業体制の破壊者としてあらわれていたということができるだろう。初年度に長岡ゆりの『Botanical Body』を、次年度に鈴木富美恵の『種子』を委嘱したプロジェクト『十年』は、おそらくずっと不分明な状態にある自身の身体の際を他者の視線にさらし、他者の身体観によって手探りするため、こうしたモダンダンスの創作スタイルを選択することになったと思う。強烈な自己表現ではなく、他者の視線に切り刻まれる身体表現といったらいいだろうか。それはモダンダンスのひとつの可能性として選択されている。
イトカズがその世界観が好きといった鈴木富美恵の振付は、井口桂子と結成している前衛舞踊デュオ“86B210”の作品がそうであるように、ダークでノワール、形を失ったエレクトロニクスの奔流が洪水のように押し寄せるサウンドアートにふさわしく、激情を内包したねっとりとした動き──H・アール・カオス(大島早紀子・白河直子)やBATIK(黒田育世)の作品を見ていると、激情の解放というのが、女性たちのコンテンポラリーダンスのひとつの要求であったことは確かだと思う──で身体の内側にあるものすべてを外部化するような距離感を喪失したダンスだが、激情を伴うことのないイトカズのダンスは、彼女自身の身体が持っている質感を際立たせながらも、ひとつひとつの語法を並べていくようにして踊られていった。イトカズの選択は、そうした激情の存在にもかかわらず、彼らの作品が緻密に構成されているところに魅了されたからではないかと想像される。イトカズの存在を知ったのは山田奈々子のもとでテン年代に結成していた“ASMR”時代からすでに10年近くになるが、当時から身体の美しい動きより滑稽さ、グロテスクさに惹かれる性向が顕著だった。パフォーマンス冒頭で衣装を脱ぎ、下着姿になって全身にベビーパウダーをはたいたり、床一面に敷かれた巨大な布が、真ん中に開いた穴からダンサーを通しながら、天井に吊りあがっていったり、また音響についても、86B210のように意識を直撃するエレクトロニクスアートではなく、水の流れる音など自然音のコラージュが使われるなどしていた『種子』の演出は、ダンサーの資質に配慮して、ややモダンダンスに寄せたものだったと思う。イトカズナナエの身体とダンスを媒介することで、このようにして広がっていく感覚表現のなかに、モダンダンスの垣根を乗り越え、拡張し、転生していく種子も内包されている。それは案外石井 漠(1886-1962)に本卦帰りすることなのかもしれない。■
(北里義之)
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