ダンス現在 vol.36
国分寺 天使館
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天使館は魔境。
素体で消えてみる。
地図あってもなくても迷宮。
素揚げは何がなくて、おいしいんだっけ?
どんなささやかな衝動も無視しない。
大丈夫。
へーつー。(平痛!)
すって、はいてっ。
(素って、歯痛てっ!)
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素おどり: 西村未奈
音楽: 梅原 徹
日時:2024年12月7日(土)
(ソワレ)開場: 13:30/開演: 14:00
12月8日(日)
(マチネ)開場: 13:30/開演: 14:00
(ソワレ)開場: 18:30/開演: 19:00
会場: 国分寺 天使館
(東京都国分寺市西元町3-27-9)
料金/前売: ¥2,500、当日: ¥3,000
主催: 笠井瑞丈×上村なおか
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「ミュージシャンズ・ミュージシャン」──ミュージシャンのうち、特に音楽のプロであり同業者であるミュージシャンから支持されているミュージシャンを指す語。必ずしも一般消費者の受けがよいとは限らないが、専門家から高く評価されているミュージシャン。(『実用日本語表現辞典』)──という言葉があるが、コンテにも舞踏にも、その言い方にならって「ダンサーズ・ダンサー」と呼べるような一群の踊り手がいる。踊られるダンスはダンスとも思えない日常的で平明なしぐさをしているだけのように見えても、一定期間そのことに専心してダンス特有の身体ナラティヴに習熟していなければ、見当さえつかない表現をしているダンサーたちである。たとえば、身体的交感と呼べるような言葉を介さないフィジカルな表現が中心になっているとか、唯一無二の存在を求めて身体の固有性を深掘りしているとか、具体的な動きとは別の位相にある抽象的なコンセプトを背景しているなどの要素は、観るにしても踊るにしても、一朝一夕の理解では届かない。笠井叡のアトリエである天使館を会場に、笠井瑞丈、上村なおかのふたりがホスト役を務めているシリーズ公演「ダンス現在 vol.36」に参加してソロ『へーつー。』を踊った西村未奈も、そうしたダンサーズ・ダンサーのひとりといえるだろう。舞踊が飛んだり跳ねたりするものであるなら、山田せつ子や田辺知美のようにそうした動きのまったくない、日常的な動きの日常的ではない連結といったようなものが、なにを意味しているかはわからないが、なにかを意味しようとしていることはよくわかるといった種類の体験。万人向きではないにしても普遍的なダンスといえるだろうか。
ステージ中央にスタスタと歩み出ると、前屈して床に両手指を触れた体勢でしばらくポーズ、ゆっくりと上体を捻っていくところからスタートしたダンスは、座位から中腰へ、中腰から立位へと体勢を移しながら、少しずつ語法を増やしテンポを速めながら動きをつなげていく。はっきりとした音響もなく、照明もほとんど素明かりといっていい環境のなか、どう踊っていこうとしているのかまったく先読みのできないダンサーの動きは、立ちあがってからややミニマルな展開を見せはじめるのだが、同時に、自由にならない手足の動きに苦しめられているようにも、勝手に動いてしまう手足に手こずっているようにも見えてくる。フラフラとホリゾントに後退していったとき、まるで空気が漏れてしまったというふうにして「あぁー、スミマセン」という声が発せられた。この言葉の他にも、意味を結ばない言葉の断片や口腔音はその後もつづいた。不可解ながら、声が発せられるタイミングと身体の動きは連動していた。後半になってあらわれてくる場面のなかで重要に思えたのは、すわりこんで左右の腕にキスをつづけたり(食人しているゾンビのように見える)、床をゴロゴロとしながら笑いつづけるといった場面で、方法論的には山田せつ子や田辺知美を連想させる踊りが、この瞬間“狂気”を孕んでくる。この“狂気”は(あるいは狂気の演技は)、求道的になっている最近の舞踏ではとんとお目にかかることのないものだ。
食人するゾンビについては、即興的なダンスの過程におけるその場の思いつきとしてではなく、一種の身体論として受け取るべき側面がある。詳細な検討は今後に待たれるが、現時点でも、室伏鴻の著書『Ko Murobushi Workshop memo』(2024年10月、Shy Books)に寄せられた西村の推薦文は、重要なヒントを与えてくれる。
(前略)忍者になるための修行なのかと思うほど20代の自分には過酷だった室伏さんの集中ワークショップ。ウィーンやニューヨークで一緒に時間を過ごさせていただいた中で、「自分もミイラになりたいのに、集中力や忍耐がなくて、集中ワークショップに集中できません」というしょうもない悩みを相談すると、「あなた、本当、開きっ放しで緊張感ないからミイラではないでしょ。」と言われたけど、大丈夫。室伏さん、自分は、このワークショップメモを食いちぎって、噛み噛みして、呑み込んで、ゾンビ目指しますから!(西村未奈)
「死体」「ミイラ」という舞踏用語が飛び交うテクストだが、ワークショップにおける室伏のこのアドバイスも謎に満ちていて、容易な理解を許さない。もうひとつ、謎のタイトル「へーつー」に関してダンサー自身が公演前に投稿したツイッターのテクストが残されている。
へーつー!平痛ってなんだろ…熱はないと死んじゃうから、平熱はわかるけど。痛みはちょっとでもあると痛いからなぁ…でもないのも不健康な気する。ゾンビだって本当は、痛み感じてるけど人肉を求めるドライブが強すぎて痛みを無視している状態らしいっ!って、そういう踊りなのかな?!
(Mina Nishimura: Nov.26, 2024)
ここで室伏鴻の「ミイラ」を迂回するようにして、「舞踏とは命がけで突っ立った死体である」という有名な土方巽の定義を「ゾンビ」に翻訳(誤訳)するのだとしたら、解釈のヴァリエーションという以外にどんな意味があるのだろう。すぐに想起されるのは、アメリカで大ヒットした人気テレビドラマシリーズ『ウォーキング・デッド』(2010-2022)である。このシリーズにおいてゾンビはすでに土俗的・悪魔的なものではなく、アメリカ全土に無政府的に広がったゾンビワールドを舞台としていた。そのようにゾンビの大衆性こそが、いまや身体的なるもののメインストリームを形成しているとするなら、舞踏の核として置かれた「死体」をゾンビ化することが意味するのは、21世紀の現代において舞踏を「暗黒」から引き摺り出し、一般的なるものに解放する行為となるであろう。西村が踊る実際のダンスを見ても、ダンスがダンス的機能をすべて廃棄して廃人のように動けば、それはたしかに死体というよりはゾンビの存在に近く、ゾンビもまたこんなふうに踊ることができるのではないかと思えるものだった。そのとき西村がゾンビ身体に見ている「人肉を求めるドライブ」という物語設定は、動かない、動く必要のない「死体」には存在しない欲望──通常ゾンビ映画では徹底して無視されるゾンビの内面にあるもので、死を超えて身体を動かしているものを指し示すことになるだろう。それをゾンビワールドにおけるダンスの原理=身体観とでもいったらいいだろうか。そのようにいうことができるのは、ここでいわれている「ゾンビ」が、ダンスが模倣する動きの対象ではなく、ひとつの概念の提示となっているからである。舞踏においてさまざまな思考と実践が積み重ねられ現在に至っていることを思えば、専門用語頻出のこうした解説もまた、どこまで一般に通じるかどうか自信がない。ダンサーズ・ダンサーのダンスについて書くのはかくもむずかしい。■
(北里義之)
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