【木村 由|BEST 3 PERFORMANCES 2012】
(1)木村 由『夏至』
2012年6月21日、経堂 ギャラリー街路樹
(2)橋月──橋の上の音と舞
2012年7月27日、吉祥寺 井の頭公園、七井橋
(3)長沢 哲「Fragments vol.14 with 木村 由」
2012年11月18日、江古田 フライング・ティーポット
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すべての公演を網羅してはいないのだが、近年とみに増加傾向にある木村由のダンス公演のうち、私自身が直接見ることのできた今年の11本のなかから、特に印象深かったパフォーマンスのベスト3を選出するとともに、場所/環境、空間構造、即興、演奏家、身体、速度、影、記憶、亡霊性など、これまでレポートのなかで触れてきたいくつかの視点をとりあげなおし、以下で、ささやかな木村由論を試みてみたいと思う。ベスト3の第三位は、チェロ奏者・入間川正美との出会いによってスタートを切り、少しずつ共演者を広げながら継続されている音楽家との即興セッションから、会場に投光器を持ちこみ、ライヴハウスを地下洞窟に変えた打楽器奏者・長沢哲との共演。投光器がライヴハウスの壁に投げかける巨大な影とのダンスは、パフォーマンスに躍動感を帯びさせるほど彼女を高揚させていた。第二位は、井の頭公園の池にかかる七井橋のうえでおこなわれた夜間のゲリラライヴで、通行人がいきかうなか、小面の面をかぶって橋のたもとに出現した木村は、日常的な時間を一気に錯乱させる異界の出現そのものだった。そして栄えある第一位は、私が木村のパフォーマンスを知るきっかけになった、ちゃぶ台ダンス『夏至』である。最初は作品として制作されたものと思いこんでいたが、ちゃぶ台と向かいあう稽古を重ね、公演当日までゆっくりと身体を煮詰めていく作業が、最終的に、凝縮され、高濃度になった身体をちゃぶ台のうえに立たせるということのようである。
このことは、木村由のダンスにとって、親族の記憶にまつわる強い象徴性を帯びたちゃぶ台も、作品性を担保するための(たとえば演劇的な)道具立てではなく、身体の凝縮度としてあらわれるパフォーマンスのある状態を獲得するための装置であり、即興演奏家たちとのセッションにのぞむ身体との間に、本質的な差などないことを意味している。換言すれば、ちゃぶ台と即興の間には、パフォーマンスによってそのつど出現する多様なる身体の間のグラデーションの差しかないのである。インプロヴァイザーたちとの共演は、即興的な身体のありように耳を傾けるところから出発する彼女にとって、ほとんど必然的ななりゆきだったように思われる。おそらく多様な身体を獲得するため、あるいは、みずからを多様な身体に開いておくため、パフォーマンスの場で音楽演奏するミュージシャンの身体とともに瞬間を生きるということが、とても重要なのではないだろうか。演奏家と即興セッションする際、一般的に、演奏にあわせたパフォーマンスをする(コミュニケーション重視の)ダンサーと、身体の内側からやってくる衝動や欲望に耳を傾け、それに忠実にパフォーマンスしようとするダンサーに大別できると思う。このふたつを方法論化しているダンサーは、ひとつの公演で両者を使いわけることもある。
ふたつの共演スタイルのうち、後者は、即興演奏においてフリー・インプロヴィゼーションの方法として知られるものだ。即興演奏とダンスのデュオは、二重焦点をもつ楕円構造でとらえることができる。木村の場合、ダンスが音や演奏と共振する瞬間はあっても、意図的に音楽に合わせるような場面はまず見られない。ところで、ダンスする身体が内側からやってくる衝動や欲望に耳を傾けるには、いったん音楽が作り出す時間の外に出るために、空間分節を別におこなう必要がある。そこでダンサーは、演奏会場の建築構造を利用したり、その場に置かれている調度品とからんだり、椅子のような簡単な道具を持ちこんだり、照明を工夫したりする。音楽の即興演奏が、自由になるための楽器を必要とするように、ダンスの即興パフォーマンスもまた、ありあわせのものを利用するにせよ、独自の工夫をするにせよ、自由になるための空間を必要とするのである。しばしば「幽霊的」「亡霊的」といわれるほどに、木村由のダンスを特異なものにしているのは、即興のためのパフォーマンス空間を選択する際、同時に、光と影の強いコントラストを利用して場所の異化をおこなうという点にあるだろう。本年度のベスト3は、すべてがその成功例となっている。
木村由のダンスにおける亡霊性は、そのようにいう言葉そのものが多義性を帯びており、その多義性が、みずからに(亡霊的に)回帰して、不可解さの源泉のひとつになるという入れ子状態にある。混乱を回避するために、このあたりのことを簡単に整理しておきたい。(1)身体の亡霊性。静止、緩慢な動作など、能楽を思わせるマイナス速度のエネルギー凝縮が、異物としての身体を立ちあげるときにあらわれるもの。ちゃぶ台のうえの身体。沈黙劇(太田省吾の作劇法)との近似が指摘できる。(2)身ぶりの亡霊性。幽霊のようにだらりとさげた手の表情がそう形容されることもあるが、この場合は、形の面白さはそれぞれにあっても、相互に意味的なつながりを持たないため異様に見える身ぶりの連結が、習慣化した(日常的な)身体感覚に解体をもたらすもののことをいう。(3)空間構造の亡霊性。身体にも、身ぶりにも属することのない、投光器の強い光が、場所/環境を非日常的化するところに出現する影の存在に代表されるようなもの。強い感情をかき立てるドイツ表現主義のスタイルに通底する場そのものの質感。(4)記憶の亡霊性。意味を排除したはずの身ぶりに憑依して、ダンスにくりかえし回帰してくるもの。いわゆるデリダ的亡霊。身体的な凝縮をもたらす装置が、ミカン箱ではなく、親族の記憶を塗りこめたちゃぶ台でなくてはならない理由。この延長線上で、木村由のちゃぶ台を、故・大野一雄の「わたしのお母さん」(1981年初演)などに登場する朱塗りのお膳と比較したくなる誘惑を禁じえないが、機会を改めたい。
木村のダンスが持っている特質を、公演レポートのなかで、「インデックスする身体」によるイメージ喚起力として定式化したが、これを上に整理したなかの「身ぶりの亡霊性」と「空間構造の亡霊性」の間で成立する出来事として考えることができるだろう。表現する意味内容もなく、あれこれの感情も持たないダンスの身ぶりが、ダンサー自身の身体ではなく、その外側にあるなにかを指し示すように見えるとき、「インデックスする身体」が出現する。彼女の身体がインデックスするものは、空間性をある形で満たす空虚なもの、すなわち、窓外の暗闇(「並行四辺系」)であったり、壁に投影される影(「Fragments vol.14」)であったり、天井(パフォーマンスの随所に見られる)であったり、自然の光(「ひっそりかん」)であったりするようなもののことである。その先に実際の物があるわけではない。むしろ光や影や闇を容れるなにもない空間というべき性格のものなので、とても具体的であるにも関わらず、ダンサーの身体の外部、あるいは私たちの身体の外部、引いては、触れることのできないここではないどこか(他の世界)を指し示しているとしかいえないようなものとなっている。まだなにも知らないはずの子どもが、部屋の片隅の暗闇を指さすような行為といったらいいだろうか。子どもの指の先に、あるいはインデックスする身体の先に、私たちは亡霊的なるものの存在を感じとってしまうが、もしかすると彼女の身体は、ピーター・ブルックの「The Empty Space」のように、なにもないこと自体を指し示そうとしているだけなのかもしれない。■
※本文に使用した写真のうち、『夏至』のものは、
長期間にわたって木村由さんを撮影されてきた
御礼申しあげます。
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