2012年12月17日月曜日

池上秀夫+長岡ゆり@喫茶茶会記1



おどるからだ かなでるからだ
池上秀夫デュオ・シリーズ vol.1 with 長岡ゆり
日時: 2012年11月19日(月)
会場: 東京/新宿「喫茶茶会記」
(東京都新宿区大京町2-4 1F)
開場: 7:30p.m.、開演: 8:00p.m.
料金/前売: ¥2,300(飲物付)、当日: ¥2,500(飲物付)
出演: 長岡ゆり(dance) 池上秀夫(contrabass)
予約・問合せ: TEL.03-3351-7904(喫茶茶会記)



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 ダンサーや舞踏家をゲストに迎える池上秀夫のマンスリー公演「おどるからだ かなでるからだ」が喫茶茶会記でスタートした。池上自身の語るところによれば、彼自身コントラバスのような大きな楽器を扱うところから、つねに自分の身体を意識せずにはいられない事情にあり、おなじ身体によって作業するダンサーたちに注目していたのだが、そこから共演したいという欲求も自然に沸き起こってきたものという。かたや、公演スタイルからみれば、<身体>を合言葉にプロデュースされた本シリーズは、ポストモダンの全盛期だった1980年代に、「脱領域」や「越境」といったタームでさかんに語られていた、開かれた表現の地平をめざす試みの系譜につらなるものといえる。音楽であれ美術であれ、既成ジャンルの閉鎖性を突き抜けていく横断的交流が、そこでは無条件によしとされていた。とはいうものの、周知のように、ダンスや舞踏のような身体パフォーマンスと即興演奏の共同作業は、田中泯とミルフォード・グレイヴスの共演を伝説として語るような時代をとうに過去のものとしており、今日ではごく日常的なものとなっている。領域を異にする表現者たちが即興を通して出会うことに、もはや特権性はない。数多くのダンサーや演奏家が、バリエーションをひろげながら共演する現在のありようを前にして、即興と身体、どちらの側からも前衛性を主張することなどできないだろう。

 基本的なことを確認しておけば、その当時に語られていたのは、あくまでも自由を獲得するための即興であり、ただそれだけであり、それらに基盤を提供しているはずの身体そのものではなかった。音楽する身体はむしろ沈黙したままであり、流行にまでなった身体論は、もっぱら(通常は別枠をもうけて論じられる「暗黒舞踏」までもそのなかに含むような)小劇場運動の興隆のなかで語られるものだったように思われる。フリージャズやフリー・インプロヴィゼーションの時代、私たちの音楽批評は、観念的な「自由」や「肉体」については語っても、日々を生きる私たちの身体そのものを語る言葉を、最後まで持ちえなかったといえるだろう。いいも悪いもなく、それはそういうものだったというしかない。即興演奏も身体表現も、その後に訪れた多様化の嵐のなかでそれぞれの季節を送り、今日ではまったく新たな環境を生み出している。このことから私たちが受け取るべきは、たとえ「前衛」という言葉が死語になったとしても、身体はその後の世界を生き延びて、いまもなにかにみずからを開くような表現の地平を支えつづけているということである。「おどるからだ かなでるからだ」は、そうした(もしかしたら間章の時代から?)未明のなかにある表現の地平をどこまでも滑走していくロング・プロジェクトになるのかもしれない。

 シリーズ公演の初回ゲストには、舞踏カンパニー<Dance Medium>を結成して活躍する長岡ゆりが迎えられた。「引き算」戦略によっていつもよりおさえ気味だったものの、サウンドの多彩さをじゅうぶんに印象づける池上のコントラバス・ソロからスタートしたこの日の公演で、長岡ゆりは、喫茶茶会記にある家具を利用した空間分割を即興的におこなったと思う。自前の小道具を持ちこむのではなく、偶然そこに置かれていた家具を利用するところから、パフォーマンスは身体をもってする(茶会記という)場の再定義になっていた。アップライトピアノのふたを開け、鍵盤のうえに倒れこむようにして音を出したり、背もたれによりかかりながら押していったピアノ椅子を、つま先立ちして高く掲げたり、通常は黒いカーテンで隠されている壁面の大鏡に向かって(あるいは鏡に映し出されたみずからの像に向かって)、前進と後退をくりかえすなど、身体と家具を結びつけてのダンスは、相互に性格の違うパフォーマンスを生み、書き割りのないひとつの部屋のなかでいくつもの場面を構成していく。音楽でいうなら、ひとつの交響曲がいくつもの楽章から構成されているような時間配分を、喫茶茶会記の空間に対して(即興的に)おこなうものといえるだろうか。池上の演奏は、こうしたシークエンスに沿うものでありつつ、同時に、サウンドそのものの抽象性によって(演奏せずにダンスをソロにする場面をのぞけば)独立したひとつの時間を提示し、長岡のダンスの背景を形作っていた。バラバラの楽章が、なおもひとつの交響曲のなかにあることを示すように。

 時間を生きる即興演奏と、空間を生きる身体パフォーマンスが共演するときのベースになるのは、ひとつの「作品」を生み出す対話的な関係である以上に、出発点も到着点も異なるような、解消することのできないふたつの焦点からなる楕円構造のように思われる。どちらか一方が共演者に従属する(合わせる)ことで、二重焦点を解消してしまうこともできるが、その逆に、この楕円構造を維持するために(場を開いたままにしておくために)パフォーマンスを工夫することもできる。こうしたことのすべては、「おどるからだ かなでるからだ」で出会うふたりの感性や、表現においてそれぞれがめざすところに大きく負っている。<身体>を合言葉に境界領域を横断していく即興の冒険も、このあたりにひとつのポイントが置かれるはずだ。記念すべき初回公演に迎えられた長岡ゆりは、二重焦点を解消することなく、いくつかの場面構成をもって即興演奏に応じた。おおよそ50分ほどのパフォーマンスに訪れた沈黙の場面でのこと、突然ジャンプして足を踏み鳴らす長岡に、弦を激しくヒットする池上の演奏が同期する瞬間があった。予想された二度目のジャンプでは、池上が意図的にタイミングをずらしたのだが、二重焦点が消えたり現われたりしたこの瞬間は、そこだけに木漏れ日が降り注ぐ日だまりのように、いつまでも記憶に残りつづける印象的なものだった。越境作業がけっしてシビアなものではなく、意外にも、コミカルな味わいやゲーム感覚を感じさせるものだったせいかもしれない。初回公演の忘れられない瞬間のひとつである。





【次回】池上秀夫:おどるからだ かなでるからだ vol.2 with 上村なおか   
2012年12月17日(月)   
会場: 喫茶茶会記   

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