2013年2月27日水曜日

高原朝彦 d-Factory vol.1 with 田村夏樹



高原朝彦 d-Factory vol.1
with 田村夏樹
日時: 2013年2月26日(火)
会場: 東京/新宿「喫茶茶会記」
(東京都新宿区大京町2-4 1F)
開場: 7:30p.m.、開演: 8:00p.m.
料金: ¥2,500(飲物付)
出演: 高原朝彦(10string guitar) 田村夏樹(trumpet, etc.)
予約・問合せ: TEL.03-3351-7904(喫茶茶会記)



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 十年単位の長期スパンで見れば、10弦ギターの高原朝彦は、高円寺グッドマンをホームベースにして継続してきたソロ演奏と、阿佐ヶ谷ヴィオロンでコントラバスの池上秀夫と共催している Bears' Factory というふたつのシリーズ公演を、演奏活動の柱にしてきたといえるだろう。私生活上の転機を越りこえた最近では、これらに加え、打楽器奏者ノブナガケンとの「連歌」や、ギタリスト吉本裕美子との「electric & acoustic」、あるいは打楽器奏者・長沢哲との共演(シリーズ名はつけられていない)など、組みあわせにおいて冒険的・実験的な側面を持つ即興セッションにも取り組んでいる。このところ即興系のプログラムが増えている喫茶茶会記で、Bears' Factory の盟友である池上秀夫がはじめたシリーズ「おどるからだ かなでるからだ」と見あうように企画されたのが、トランぺッター田村夏樹を初回のゲストに迎えてスタートした高原オリジナルのシリーズ「d-Factory」である。これまでに共演したミュージシャンのなかから、高原が理想とする即興演奏をぶつけても遜色なく、高原と互角に高密度の演奏をすることのできるプレイヤーを厳選して、彼自身の音楽を全面展開しようという待望のシリーズだ。

 即興演奏の速度は、たとえば、フリージャズのような音楽では、楽器の可能性を最大化するという演奏技術の側面が、自己表現の拡大と密接にかかわりあい、表裏一体化してあらわれたものだった。しかし、それと同時に、個人的な表現のリミットを越えて、もはやサウンドそのものとしかいうことができないような強度のあらわれ、すなわち、質量的なエネルギーへと音楽を解き放つ側面をも持っていたように思われる。リズムの細分化からポリリズム、さらにその先のパルスへというドラミングの大まかな流れは、その環境内で高速度化していった即興演奏を、それでもなお「ジャズ」という伝統音楽の枠内につなぎとめる働きをしたと思われるが、そのようなパルスすら排除したインプロヴィゼーションにおいては、後者のようなサウンドの質量化が前面に踊りだしてくることになった。この点においては、デレク・ベイリーのギター・ハーモニックスも、グローブ・ユニティの大咆哮サウンドも、おなじ地平線のうえで論じることができるだろう。急速調のフレーズをたたき出す演奏者の超絶技巧が、それとして人々を感嘆させる境界線を踏み越え、人間的なものを離れた即物的・廃物的なサウンドを出現させるようになる瞬間である。

 その日本的なあらわれのひとつが、欧米由来のフリージャズを換骨奪胎した高柳昌行の「集団投射」にも見て取れるだろう。そこには「高密度」、あるいは「高濃度」の音楽と呼べるような、もうひとつ別の美学の存在があったと思われる。すなわち、マッスなサウンドの状態に、人間の手に負えない物質的なものの出現を見るばかりではなく、ある美的な感性が託されているということなのだが、こうしたサウンド特性がすべて、高原朝彦のギター演奏にも受け継がれている。私たちは、音を廃物化する即興演奏から、あれこれの音楽形式から解放された純粋エネルギーのようなものを感じ取っているが、現在の時点では、その先にもうひとつのレベルを置き、エネルギー化したサウンドの濃淡によって生態系を編みあげるような、環境的な感性を想定すべきではないか。デュオ演奏の第一部で、高原と田村は、まるで砂嵐になった放送終了後のテレビ受像機から、少しずつ形のあるものが見えてくるみたいに、まったくメロディがないどころか、まともなノートすらないノイズ状態から、少しずつ楽器演奏らしいものが混入してくるという破天荒な演奏をした。田村のトランペットは、ミシェル・ドネダやアクセル・ドゥナーのように、楽器に息だけを吹きこむ演奏からスタートし、高原とサウンドの強度で対話をかわしながら、楽器音に息をまじえた演奏へ、さらに楽器を朗々と響かせる演奏へと移行していったのである。

 明快な構造を持った最初のセットをコンパクトにまとめ、第一部の後半には田村のヴォイスが登場した。また第二部に入ると、走りつづける高原の10弦ギターをそのままに、田村はかたわらのテーブルに用意してあった小道具を次から次へと手にして、ときにはリズミカルに、ときにはリズムをはずして、さらにはリズムと無関係に鳴らしながら、穴だらけの演奏をした。鈴や小型のシンバルといった楽器はともかく、先がゼンマイのように巻いてあるおもちゃの笛やでんでん太鼓など、日常的な雑貨を使った関節外しの演奏においても、すべては音楽的なものとして立ちあらわれ、けっして演劇的な(あるいは美術的な)パフォーマンスにはならなかった。もちろん、そこで問題になっているのが視覚だからではなく、どこまでも聴こえるものに焦点があたっていたからである。演劇的な要素は、むしろこれらの演奏の後に登場した坂田明ふうのハナモゲラ語による歌や語りに見られた。意味と無意味の間に横たわる遊戯空間を綱渡りする言語パフォーマンスは、音楽以上に、すぐれて文学的な領域に属するものといえるだろう。高原の10弦ギターは、共演者から投げかけられるこうした多面的な演奏を、サウンドの強度においてとらえかえしながら、すべての球を精力的に打ち返すという四つ相撲を見せた。フラメンコ風のリリカルなバラードでまとめられた最後のアンコール演奏まで、ふたりの豊かな音楽性が全面的に発揮されたすばらしいコンサートとなった。■




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2013年2月25日月曜日

りょう+木村 由: midnight dreams@神田 楽道庵



りょう木村 由
midnight dreams
日時: 2013年2月24日(日)
開場: 6:45p.m.、開演: 7:00p.m.
会場: 神田「楽道庵」
(東京都千代田区神田司町2-16)
料金: ¥2,000
問合せ: TEL.03-3261-8015(楽道庵)



出演: 
西村卓也(bass)+亞弥(舞踏)
りょう(十七絃箏)+木村由(dance)
KARAS(神楽)+ひでお(尺八、能管)



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 神田にあるヨガ道場「楽道庵」(らくどうあん)は、ダンスや舞踏など、身体表現のパフォーマンス会場としても活用されているが、その一階スペースの改装に際して、昨年の暮れには「Frame ここは入口 ここは出口」(1223日)という改装前イベントが、今年になってからは規模を縮小した「midnight dreams」(224日)が、ミュージシャンとダンサーを集めた小規模のフェスティバルとして開催されている。その二度目の公演でダンサーの木村由にも声がかかり、箏奏者りょうとの初共演が実現した。箏奏者のりょうは、ダンサーたちとの(即興)セッションに取り組んでいる演奏家のひとりである。かたや、数年前から、本格的な即興セッションをはじめた木村由にとって、箏のような邦楽器(奏者)との共演はこれがはじめてではないかと思う。とはいうものの、伝統的な楽器を弾いているからといって、演奏者が伝統的な感覚を持ちあわせているかというと、かならずしもそうとはかぎらないのがやっかいなところだ。たとえば、故・富樫雅彦に私淑している長沢哲などは、モダンなドラマーであるが、まるで墨絵を思わせるような、微細なサウンドの濃淡を描きわける感覚に秀でている。もちろん、高橋悠治の探究に見られるように、箏のような民族楽器が演奏者にもたらす身体性には、西洋楽器とは別の特異性があるのも事実ではあるのだが。

 楽道庵における木村由とりょうの共演では、ライトがパフォーマンスをリードする役回りを果たしていた。ふたりが完全暗転のなかで板つきをすますと、出演者それぞれの頭上に吊りさげられた、周囲を針金で防護したふたつの裸電球がゆっくりと点灯する。それとともに、まるで命のない機械人形にスイッチが入るかのように十七絃の箏が鳴り、箏の背後の壁前で、背中を見せて椅子に座ったダンサーが、静かな動きをはじめる。箏の弾奏は、時報のような単調さで、時間をおいて鳴らされる。会場はのっけからこの世のものではない雰囲気に支配される。白塗りをしたダンサーは、長い髪を頭のうしろで束ね、朱塗りの下駄をつっかけ、赤いというよりも、ライトのなかで乾いた血糊のように映える色味の花柄ワンピースを着て、ゆっくりと動作する。楽道庵を意識した衣装だろうか。木村がゆっくりと正面に向きなおり、椅子から立ちあがると、下手サイドのライトが正面から低い位置でダンサーを照らし出す。ときおり素早い動作を入れながら、一歩、また一歩と土間を踏みしめながら楽器の前へと進み出てきた時点で、今度は上手側のライトが点灯する。ダンスがライトを誘導するように見えて、じつはこれは、ライトがダンサーの次の動作を観客に素描してみせているのだと思われる。ライトによって開かれた空間になにものかが出現する。おそらくここまでが(能舞台における)橋懸かりでの演技に相当する部分だろう。序の舞というわけである。

 ダンスが本舞台に移ってからのりょうの弾奏は、特別な語法を使っているわけではなく、箏という邦楽器ならではの味わいを生かした伝統的な手でありながら、サウンドに強弱のメリハリをつけて、ダンスする身体の強度にふさわしい激情性を与えるという、正攻法の演奏を聴かせた。やがて上手側のライトが消えると、りょうはスティックを使って絃をこするノイジーなサウンドへと移行する。絃の爪弾きだけでは出せない凶暴な荒々しさを楽器から生み出すためだ。そうしたなか、ゆっくりとした動作を持続する木村は、荒々しい絃の奔流のなかにすっくと立つ巌のように、クラッシュした音のしぶきをはじきかえしながら、観客側にあった左足をゆっくりとあげていくと、朱塗りの下駄で土間をひと蹴りする。この瞬間がエネルギーの解放点となった。クライマックス以後は、ごく短時間で場を収めるための舞いが舞われる。細かい身ぶりをつなげながら身体をゆっくりと回転させ、まるで手踊りをしているように上手奥へと退いていく木村。上手奥で、右手を高く掲げる身ぶりが反復されるなか、暗転。関尾立子が会場の壁に描いたフレーム群が、黄土色の壁面色とあいまって、楽道庵をピラミッドのような王の墓所に見せていた。

 「midnight dreams」で踊られた木村のダンスは、光の足し算によって暗闇が開かれ、光の引き算によって空間が閉じる、そのわずかに開かれた場所になにものかが出現し、また去っていくという物語構造をもっていた。りょうの箏演奏もまた、デュオを構成するというよりは、むしろこの光を音に変換したようなものだったといえるだろう。こうした明快な形式性は、しばしば「亡霊」的なものにたとえられ、私自身もそう呼ぶことが多い木村のダンスの方法論を、きわめてシンプルな形で提示したものと受け取ることができる。そこに出現するものは、なにがしかの舞踊理論によって導きだされたものではなく、たとえば、「楽道庵」という場所(光)が用意されたとき、突然そこに(理由なく)出現する身体なのである。踊る身体と遭遇するとき、私たちはそこに存在する物質的な身体そのものに目を奪われがちだが、むしろここでは、その出現様式に注目すべきだろう。それはギャラリー街路樹のちゃぶ台のうえでも、盆踊りの晩の井の頭公園の橋のうえでも、自然光が降り注ぐキッドアイラックの5階でも、そのようなものとしてあったはずのものである。他のダンサーにはないこの特異性を、これまでは木村のダンスの「イメージ喚起力」と呼んできた。それはそこで起こる出来事が、ダンサーである彼女の個人的な資質に負うものと想定したからなのだが、もしかするとこれは、まったく逆に、伝統的に「地霊」(genius loci)と呼ばれてきた場所の力に、彼女が自分の身体をまるごとあけわたすことができる能力からきているのかもしれない。こちらはおそらく「人形振り」から「インデックスする身体性」へとつながる概念の系譜を持っている。いうべきことはあまりに多い。



  ※本公演のレポートは、長坂光司氏撮影のビデオ映像によっておこないました。
    また、掲載写真は、ビデオ映像から起こしたもの、あやこさん、太田久進さん撮影によるものです。
    ご協力ありがとうございました。

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2013年2月23日土曜日

新井陽子SOLO vol.1@焙煎bar ようこ



焙煎bar ようこ
新井陽子 2013 ピアノソロ シリーズ 第1回
yoko arai 2013 piano solo series no.1
日時: 2013年2月22日(金)
会場: 東京/新宿「喫茶茶会記」
(東京都新宿区大京町2-4 1F)
開場: 7:00p.m.、開演: 7:30p.m.
料金: ¥2,000(飲物付)
出演: 新井陽子(piano)
予約・問合せ: TEL.03-3351-7904(喫茶茶会記)



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 昨年度、各回ごとに多彩なゲストを迎え、新井陽子が隔月公演してきた喫茶茶会記の音楽シリーズ「焙煎bar ようこ」は、二年目に入る今年、三ヶ月ごとの第四金曜日におこなわれるピアノソロ・シリーズに衣替えした。とはいえ、音楽は人と人の間にあると考える彼女が、時々のゲストを迎えておこなう即興セッションを中止したわけではなく、こちらは本シリーズとは別に不定期公演へと移行したようなので、実質的にはシリーズが分岐したこととなり、新井の茶会記公演はかえって増えるかもしれない。すでに一月は、松の内から日本滞在中のユーグ・ヴァンサンや岩瀬久美と共演し、三月には、昨年から企画の進んでいた森重靖宗との初セッションが予定されている。即興演奏におけるソロは、単なる演奏フォーマットのひとつというのではなく、伝統的に特別な意味合いを持たされてきた。たとえば、新たな即興語法を発展させたり洗練させたりする場所として、あるいは集団即興のスタイルが析出する新たな個のスタイルとして、時代によって、時と場所によって、さまざまな語られ方をしてきた。一方、拡散の一途をたどった現代の即興演奏にとって、ソロ演奏は、孤立無援の環境のなかでも、何事かを可能にする出発点のようなものと見なされてもいる。新井の場合、それはなにを意味するのだろう。

 新井のソロ演奏は、昨年度の「焙煎bar ようこ」の第四回目ですでに登場していた。ひさしぶりに取り組んだこの単独ライヴで、楽器の潜在的な可能性を開く手ごたえを感じたのか、あるいは彼女自身が初心に帰る時期にさしかかったのか、シリーズ化に向かう動機はかならずしも詳らかではないのだが、2009年に製作されたソロ・アルバム『water mirror』の完成度や、本シリーズを始めるにあたって表明された「ピアノという孤独な楽器に向き合う方法を色々やってみたい」という発言などを勘案すると、「方法」と「孤独」を、彼女がピアノにむかう際のキーワードと考えていいように思う。すなわち、即興演奏を、最大限の自由の行使だとか、反復の拒否だとか、未踏の領域へのジャンプだとかいうように、観念的にイメージするのではなく、(交換可能な)複数の方法論的アプローチによる実践と考えていることがひとつ。もうひとつは、ピアノが「孤独な楽器」といわれている点で、おそらくこれは、ソロ・シリーズが彼女自身の内面と向き合うこと(ピアノが孤独な演奏者に向き合うという逆過程)も同時に意味するところから出た言葉だろう。とはいえ、新井の演奏はすぐれて運動的なものであり、すべてを運動性に開いていくということはあっても、内省的な自己への掘り下げを感じさせることはまずない。

 新シリーズの第一回では、こうした新井のピアニズムが十二分に発揮されることとなった。中間部にイマジナリー(映像的)なパートを置きながら、前後をパーカッシヴに躍動するサウンドではさんだ第一部の演奏は、たしかな技術に支えられて間然とするところがない。いつもながらの知的に切り立った演奏だ。特筆されるべきは第二部だろう。照明を極端にしぼって薄暗くした会場で、ピアノ線を直接はじきはじめた新井は、すぐに鍵盤へと移行し、トレモロだけで構成されるミニマル色の強い演奏を展開していった。執拗につづく鍵盤の連打が、鋭くとがった音、ふわっとした倍音の雲、滝壺に落ちる水のような轟音、吹きなぐられる雪の弾幕のように波打つサウンドなどを、次から次へとピアノ線から生み出してくる。緊迫感を最後まで途切れさせることなく、この楽器ならではという特色のあるサウンドをとことん出しつくした演奏は秀逸なものだった。自由な即興演奏にひとつだけルールを決めることが、まったく色あいの異なる世界を出現させるという、リダクショニズムの方法論に通じている点にも留意すべきだろう。ノートに対するリダクションが、沈黙の多い演奏に結実するのに対して、奏法に対するリダクションは、サウンド・ヴィジョンの徹底化をもたらすということになるだろうか。

 昨年の1110日(土)、やはりこの喫茶茶会記で、来日中のジョヴァンニ・ディ・ドメニコ(ベルギー在住のイタリア系ピアノ奏者)とノルベルト・ロボ(ポルトガルのギター奏者)をゲストにした森重靖宗のセッションがあった。その際、第一部でミニマルなパターンを反復しながら演奏するドメニコのソロピアノが披露された。コンパクトにまとめられたドメニコの演奏は、即興セッションではあっても、作曲といっていいほど形式性に貫かれたものだったのだが、あるいはこの演奏が、客席にいた新井陽子に、なんらかのヒントなりインスピレーションなりを与えたかもしれない。ダンパーを多用して音色変換をくり返すドメニコの演奏は、彼自身に深くのめりこむ姿勢ともども、まさに内省的・耽美的なものであったのに対し、新井陽子の演奏は、等しく「ミニマル」という言葉を使っても、ほとんど正反対の音楽で、作曲的なコンセプトによって音楽の方向性を定めることなく、ゲームのルールによって行きあたりばったりに鍵盤上をさまよっていく。おそらくはそのために、身体的な(十指の)運動性が突出することになるのであろう。鍵盤をはいまわる指と、ボードをはずされてむきだしになったアップライトの内部に薄明かりがさすだけのライティング。なぜ演奏者の姿を隠す暗がりが必要だったのだろう。もしかすると彼女の音楽は、身体を巻きこんだ深い部分で、聴き手の意識に働きかけようとするものなのかもしれない。




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2013年2月19日火曜日

池上秀夫+喜多尾 浩代@喫茶茶会記4



おどるからだ かなでるからだ
池上秀夫デュオ・シリーズ vol.4 with 喜多尾 浩代
日時: 2013年2月18日(月)
会場: 東京/新宿「喫茶茶会記」
(東京都新宿区大京町2-4 1F)
開場: 7:30p.m.、開演: 8:00p.m.
料金/前売: ¥2,300、当日: ¥2,500(飲物付)
出演: 喜多尾 浩代(dance) 池上秀夫(contrabass)
予約・問合せ: TEL.03-3351-7904(喫茶茶会記)



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 喜多尾浩代の無伴奏ソロ公演『Edge of Nougat』を、昨年と今年と、二度にわたって観劇している池上秀夫は、彼自身が主宰するダンスとの即興セッション「おどるからだ かなでるからだ」に彼女を迎えるにあたり、「身体事」(しんたいごと)と名づけられた喜多尾の感覚探究が、パフォーマンスのなかでどんな身体を立ちあげてくるか、あらかじめ承知していたはずである。コントラバスという巨大な楽器(的身体)が生み出すサウンドに照準を定め、その多様性をコントロールしうるほどに聴取を細分化していくことで、洗練されたサウンド・インプロヴィゼーションを身につけつつある池上のソロ演奏と、喜多尾のダンス・ミニマリズムにおいて展開される細かな身体の動きは、活動領域は違っても、おそらく池上がいま共演しているどんな演奏家よりも深いアンサンブルを編みあげることのできる組合わせだろう。さらにいうなら、コントラバス・ソロにおいては、一時間のパフォーマンスにおいて、なにかしら構成しなくてはならないという意識がどうしても働くため、サウンドへの集中が途切れる瞬間がいくつも訪れるのだが、「おどるからだ」セッションでは、おなじ場所に喜多尾浩代のダンスがあることで、意識的な構成をその場の身体的な交感に開放することができるため、サウンドへの集中はより徹底したものとなるようであった。

 私たちの身体感覚が持っている多層性を平板化してしまうことのないよう、モダンであれ舞踏であれ、歴史的に積みあげられてきたダンスの形をあらかじめ排しながら、身体感覚を活性化するエネルギーの流れを聴きとるところから第一歩を開始するというのが、身体事といえるだろうか。そこでは、歩く、立ちどまるといった基本動作をのぞけば、微動する身体の各部分が、風にそよぐ葦原のように、細かな波動となって身体全体におよんでいった先に、結果としてあらわれる動きの形(痕跡)がダンスとして結実する。こうしたエネルギーの流れは、即興演奏においてサウンドがフレーズを構成していった先に、結果としてあらわれる演奏の形とよく似ていて、動きが場を活性化して空間構成するというよりも、むしろひとつの時間構成として感じとれるものであり、その意味で、すぐれて音楽的な立ちあらわれ方をするものといえるだろう。喫茶茶会記でおこなわれるダンス公演では、会場に設置されている椅子、アップライトピアノ、縦格子になった背後の壁、ステージ下手に飾られた大きな鉄のハンドルなどがパフォーマンスの道具になることがよくあるが、喜多尾はそうした家具類にいっさい触れず、壁に向かったときも、指を触れるか触れないかという浮遊状態に保ちながら、まるで彼女自身が形のないひとつのエネルギー体であるかのようにして踊った。

 パフォーマンスの中盤から後半にさしかかるあたり、立ち位置によって変化するコントラバスの響きを受けとめながら、演奏する池上のうしろを壁づたいに一往復した喜多尾は、ステージ中央に戻ったあたりで二種類の音を出した。最初のひとつは、口のなかでカタカタと鳴る、声というよりも動物が出す警告音のようなサウンド、もうひとつは、観客席近くで腰を落とし、前屈みになったまま床に爪を立て、水泳のクロールのように腕を開いて何度かしてみせた、床を掻く動作である。いずれも突如として出現した意味を欠いた雑音であり、ダンスとも、コントラバスの演奏とも無関係にそこにある、余白のような音だった。そのたちあらわれはほとんど一瞬で、聴き手の意識がそれを出来事としてとらえ、一種の演奏として身体になじませてしまう前に、あるいは、コントラバスの弦ノイズといっしょに音楽化してしまう前に、なにも書きこまれることのない余白のままで消えていった。こうしたサウンドとくらべると、池上の生み出す弦ノイズは、はるかに重量のあるもの(つまりよく考えられたもの)であり、高く掲げた帆いっぱいに、サウンド・インプロヴィゼーションという「音楽」をはらんで航海中の船であることが、つぶさに見えてくる。喜多尾が身体事でとらえようとしている感覚のエネルギーは、この余白のサウンドのように、おそらく(なにかがそこに書きこまれる前に)瞬間瞬間に拡散していってしまう、とらえようのない気流の流れのようなものなのではないだろうか。

 喜多尾のダンスは、身体内を風のように吹き抜けるエネルギーに耳を傾けると同時に、パフォーマンス環境にも自らを開いている。そのときも、彼女に流れこんでくるサウンドとの間でエネルギーの回路が閉じてしまうことのないよう、出入り口の開閉に工夫がほどこされていた。「おどるからだ」セッションでこのことが感じられたのは、楽器の近くで(あるいは周囲で)パフォーマンスしたセット後半の時間帯だった。コントラバス・サウンドの音を受け入れつつ、その音のエネルギーを身体的な動きの方向に流していくのであるが、それが閉じた「反応」回路を形成しないよう、身体のなかに少しの時間だけ滞留させ、あらわれを少し遅らせながら、毛細血管を思わせる複数の流れに細分化したうえで、外へと解き放っていくのである。下の部分に小さな穴がたくさん開いている大きな皮袋に、次々と水が注ぎこまれていく場面を想像してもらうと、理解がしやすいかもしれない。池上の演奏は、太い一本の回路を通してやってくる。喜多尾の身体は、それにまったく別の形を与えながら応答していくのである。この時間的なズレを敏感に感じとった池上も、最後の場面では、音を出さずに、かすかに弓だけ動かしながら、身体事と即興演奏の帳尻を合わせていた。喜多尾浩代と池上秀夫のデュオは、ダンスによってサウンドが視覚化される、希有なパフォーマンスだったといえるだろう。





【次回】池上秀夫:おどるからだ かなでるからだ vol.5 with 鶴山欣也   
2013年3月18日(月)8:00p.m.開演~   
会場: 喫茶茶会記   




  【関連記事|おどるからだ かなでるからだ】
   「池上秀夫+上村なおか@喫茶茶会記2」(2012-12-18)
   「池上秀夫+長岡ゆり@喫茶茶会記1」(2012-12-17)

  【関連記事|喜多尾浩代】
   「喜多尾浩代: 身体の知覚」(2013-01-10)
   「並行四辺系」(2012-09-10)

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2013年2月18日月曜日

長沢 哲: Fragments vol.17 with カイドーユタカ



長沢 哲: Fragments vol.17
with カイドーユタカ
日時: 2013年2月17日(日)
会場: 東京/江古田「フライング・ティーポット」
(東京都練馬区栄町27-7 榎本ビル B1F)
開場: 7:00p.m.、開演: 7:30p.m.
料金: ¥2,000+1drink order
出演: 長沢 哲(drums, percussion)
カイドーユタカ(contrabass)
問合せ: TEL.03-5999-7971(フライング・ティーポット)



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 長沢哲のライヴシリーズ「Fragments」は、すでに何度か触れたように、彼の故郷である福島を中心に、3.11東北大震災以後、原発の過酷事故によって汚染された広大な低線量被曝地帯において、現在ただいまも進行中のコミュニティ分断や崩壊を含意してつけられたタイトルである。ときに社会の基礎単位とされる家族を引き裂く分断線から、遺伝子という「生命の回廊」をズタズタにしてしまう内部被曝まで、原子炉から放出された放射能が、生命や生活にどれほど徹底した破壊力を行使するのか、私たちは大きな代償とともに知ることとなった。それと同時に、「破片」「断片」というこの言葉は、統一的な音楽ジャンルや基準が説得力を失い、雑多なものが雑多のままにあるだけという現在の環境下での音楽の状態も、期せずして指し示すことになっている。もちろん即興演奏もこの例外ではない。音楽ジャンルの外に出て、あるいはジャンルとジャンルの間の境界領域で、なにかしらの作業(演奏のこと)をすることが、かつては即興演奏の特権であり、真の創造力を担保するものと考えられていたが、3.11以降、この事態は決定的に逆転してしまったように思われる。たとえそのことがわかったとしても、崩壊したコミュニティの再興が困難なように、いったん破片化してしまったものが、そうやすやすとかつての音楽ジャンルに戻ることはない。

 「Fragments」公演は、ソロ/ソロ/デュオの三部構成を定番にしている。これはいちいち構成を変えていたら面倒だからというわけではなく、まず生活と音楽の両面にわたるこの破片状態を、共演者がどんなふうに意識しているのか、どんなふうに生きているのかを確認する作業(もちろんそこに唯一の正しい回答などありえない)が、共通の入り口をつくる前提と考えられているためと思われる。第17回公演のゲストに迎えられたコントラバス奏者カイドーユタカは、みずからの立ち位置を「ジャズと即興の間」と表現し、意識的に、名づけようのない境界領域で活動するスタイルをとっている。時間の経過とともに概念が固定され、ジャンル化してしまった即興演奏を、さらに(その外側に)抜け出るような場所が想定されているのであろう。こうした立ち位置を反映したカイドーの演奏も、いわば二カ国語を話すようにしてジャズと即興演奏の間を往復しながら、オリジナルにサウンドの構築物を作りあげていくようだ。彼のこの姿勢は、おなじコントラバス奏者の池上秀夫が、即興語法において、(母語を持たない)ポリグロットとして自己確立しつつあることと対比させるとき、よりはっきりとするだろう。詳述はかなわないが、端的に言うなら、池上がみずからを肯定形で多様なものに開こうとしているのに対し、カイドーは否定形でそのことをしようとしていると思われる。

 周知のように、共演者である長沢哲の演奏は、オリジナルなドラムセットを工夫しながら、破片としてのサウンドを厳選し、それらを玉のように磨きあげたうえで、揺るぎないシークエンスにたたきあげていくという作業である。メッセージが添えられていなくても、それはそのまま、フラグメンツでしかありえない環境や存在に対し、演奏行為をもってする異議申し立てのようなものとなっている。カイドーユタカは、ソロ演奏において、ある長さを持ったシークエンスを構成することもあるが、この日のセッションでは、ソロでもデュオでも、あまり脈絡を感じさせず、いわばバラバラの状態のまま、断片的なサウンドをならべているように感じられた。デュオ演奏において顕著だったのだが、それは断片であることを強調しようとしてなされるものではなく、長沢が構成するひとつのシークエンスのなかに回収されてしまうことを回避するため、ある場面では、共演者の演奏に乗りつつずらし、別の場面では、ずらしつつ乗るというような、すぐれて戦略的な演奏に聴こえた。この結果、シークエンスはシークエンスとして完結することなく、つねに別のものへとずらされていき、なにかが演奏の最後まで次々に延期されていく。これはひとつのテーマをめぐる対話というより、批評的な感覚の発露だろう。さまざまなタイプのデュオ演奏を聴くことができる「Fragments」シリーズだが、このような演奏はおそらく初めてのことだったのではないだろうか。






※【次回】長沢 哲: Fragments vol.18 with 鈴木美紀子   
2013年3月17日(日)、開演: 7:30p.m.   
会場: 江古田フライング・ティーポット   

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2013年2月17日日曜日

秦真紀子+吉本裕美子+左馬 漣: Hyoruka



秦真紀子吉本裕美子左馬 漣
Hyoruka
日時: 2013年2月16日(土)
開場: 7:00p.m.、開演: 7:30p.m.
会場: 東京/下高井戸「不思議地底窟 青の奇蹟」
(東京都世田谷区松原3-28-12 B1F)
料金: ¥2,000
出演: 秦真紀子(dance)、吉本裕美子(guitar)
特別ゲスト: 左馬 漣(live drawing)
予約・問合せ: e-mail: tamatoy@gmail.com
(tamatoy project)



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 現在の活動スタイルは、2010年に結成した<tamatoy project>を足場にして、毎年、白矢アートスペースで開かれる「Irreversible Chance Meeting」を代表格に、大小の企画を組んでいるダンスの秦真紀子とギターの吉本裕美子であるが、長い共演歴を持つこのふたりが、劇団オルガンヴィトー(「生命器官」の意味)の活動拠点となっている「不思議地底窟 青の奇蹟」で、改めての本格的デュオ・パフォーマンスと、ボールペン絵画の左馬漣(さま・さざなみ)をゲストに迎えたコラボレーションからなる公演「Hyoruka」を開催した。下高井戸のシネマ通りにある「青の奇蹟」は、その名の通り、群青色に塗られた壁、空色の丸太を組んだ柱、ぎしぎしと鳴るグリーンの床、黒いカーテン仕切りなど、ブルーを基調に手作りされた雑居ビル地階の小スペースである。「Hyoruka」公演では、部屋の奥まった場所に、30人ばかりの雛壇席が作られた。演劇用の照明が使えるところから、第一部で、緑色の床をポツポツと照らし出すスポットライトが、木もれ日の落ちる鬱蒼とした森を思わせるステージを作る一方、ドローイングがよく見えるように部屋全体を明るくした第二部では、大団円の部分で舞台が暗くなり、観客席だけにスポットがあたるドラマチックな演出がなされた。

 盛りあがりもせず、盛りさがりもせず、開始点も終始点もなく、浮遊感のなかでサウンドを紡ぎだしていく吉本裕美子のギター演奏は、秦真紀子とのデュオにおいても変わらなかった。パフォーマンスの冒頭、暗い会場を歩きまわりながら出した高い金属音は、おそらく昨年「ACKid 2012」に出演したとき使ったグルジアのおもちゃの鉄琴だろう。暗闇に響く高次倍音には、場所を清める呪術的な働きがあるようで、パフォーマンスを日常的な時間から聖別しながら、闇のなかに座る観客をたやすく変性意識状態のなかに置いた(その直後、ギターを弾くための電気が来ていないことに気づいて、いったん部屋を出るという、まことに彼女らしい日常業務的な一幕もあったのだが)。ダンサー木村由とのシリーズ公演「真砂ノ触角」では、こうした吉本の変わらなさに対して、木村が別のパフォーマンス空間を用意するのだが、秦真紀子はそうした準備作業はなにもおこなわず、寝かせてあったギターの弦に触れたり、吉本の使うマレットを借用したりという以外は、いわば徒手空拳でデュオにのぞんでいた。共演者とのコミュニケーションを重んじる秦のダンスであるが、もともと吉本のギター演奏にからむというのはできない相談なので、ダンスはギタリストの立ち位置や観客席との間で距離感を測り、構図を取りしながらおこなわれているようであった。

 吉本のギター演奏よりからみやすかったのだろう、秦真紀子らしいパフォーマンスは、ライヴ・ドローイングする左馬漣とのセッションで多く見られたように思う。ステージ中央で、縦に切れ目の入った大きな黒い画用紙を前にした左馬は、白いペンを使ってアブストラクトな線画を描いていった。等高線のように見える線画ができあがると、切れ目に沿って画用紙を一枚一枚短冊のようにはがしていき、観客席との間にもうけられたバトンに吊り下げていく。すべての短冊をボードからバトンに移し終わるとパフォーマンスに転調が訪れ、ステージ照明が消えて、観客席にスポットライトが照射されるなか、三人が会場をウロウロと動き回り、簾のようになった短冊に触れたり、短冊の内外をくぐり抜けたりする動作がくりかえされた。ライヴ・ドローイングはハプニングへと発展したのである。第二部では、秦がダンスしている位置を確認しながら、立ち位置を変えつづけていた吉本だが、最後の場面でも、ギター演奏をしながら観客席前まで出てきていた。こんなふうに周囲にからむものがたくさんあるとき、秦真紀子のダンスは生き生きとしてくる。黒い大判の画用紙のわきから手やふくらはぎを出す登場の場面、死体のように会場の床に身体を横たえる動作、あるいは短冊の簾を何度もくぐり抜け、その一枚を顔の前で抱きしめるしぐさなど、身体が向かう対象を次々に変えながら積極的にコミュニケートしつづけたのである。

 デュオとトリオで構成された「Hyoruka」公演に触れてみると、<tamatoy project>を結成しているふたりの女性は、なにかひとつのヴィジョンを実現するためにではなく、独自に作ってきた幅広い人脈を生かして、さまざまな出来事を彼女たちの周囲に集めるために共同しているように思われる。音楽はもちろんのこと、映画やダンスなど、いくつもの芸術ジャンルで積みあげられた吉本の幅広い見聞や知識が、こうしたところで大きく役立っているのだろう。ここでの出来事は、深く掘り下げるためにではなく、蒐集されるためにある。いくつもの出来事の蒐集は、出来事と出来事の重なりのなかで複雑化され、予想のつかないもの、予想を大きく外れるものとなっていき、それ自体が新たな出来事を生んでいくといった様相を呈している。蒐集されるものが「情報」ではなく「出来事」と呼ばるれるべきなのは、言うまでもなく、そこに彼女たちの身体が深く関与しているからだ。観客席を照らし出すスポット、会場を分断して簾のように吊り下る短冊、ざわざわとした人の動き、ステージ奥の暗闇、こうしたものたちがかもしだす(夜の神社の境内のような)強烈なビザール感覚を身体いっぱいに呼吸しながら、まるでこの瞬間が少しでも長くつづことを祈るように、たゆたうような吉本裕美子のギターが会場にいつまでも揺曳していた。




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2013年2月12日火曜日

YAS-KAZ+山木秀夫+前田信明: TETRAHEDRON



TETRAHEDRON
── YAS-KAZ山木秀夫前田信明 ──
日時: 2013年2月10日(日)
会場: 東京/明大前「キッド・アイラック・アート・ホール」
(東京都世田谷区松原2-43-11)
開場: 2:30p.m.、開演: 3:00p.m.
料金/一般: ¥3,000、学生: ¥2,000
出演: YAS-KAZ(drums, percussion) 山木秀夫(drums, percussion)
前田信明(美術)
照明・音響: 早川誠司
企画・制作: 宮田徹也

※同時開催: 前田信明展『Rhythmic Movent』



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 幅3メートルほどの長い布が二枚、天井から吊り下げられている。よく見ると、全体にグレーがかった布には、継ぎ目のように見える本のラインが縦に走っていて、さらに仔細に観察すると、左側を走る一本は明るい白のラインなのだが、右側を走る一本は、たくさんの細いラインが束になったものである。さらにこの本のラインとは無関係に、巨大な布の中央部分は、滝のように流れ落ちるひときわ濃いグレーによって染め抜かれている。濃淡のグレーの境界は曖昧で、少しずつぼかされているという関係にもないし、濃淡によって墨絵のような奥行きを形成しているというわけでもない。それはむしろ、前景を本のラインが走り、中景を黒々としたグレーが流れ落ちていき、背景を薄いグレーの地が支えているというように、三枚のレイヤーが重なったもののように見える。前景と中景に出現するレイヤーは、背景のレイヤーの支えがなくては見ることができないのだが、いったん出現してしまったあとでは、前景と中景に出現するレイヤーの存在が、無地であるべき背景もまた、一枚のレイヤーにすぎないことを告げ知らせるのである。

 前田信明の手になるこの美術作品は、宮田徹也が制作した「TETRAHEDRON」で打楽競演する YAS-KAZ と山木秀夫の背後に、一枚ずつ吊り下げられていたものである。すなわち、二本のラインが走る前景レイヤーのさらに手前にミュージシャンが位置することは、そこに打楽サウンドによる四枚目のレイヤーが重なることを想定している(はずである)。ただし、ここはもっと正確にいう必要があるだろう。というのも、打楽器の演奏もまた「一枚岩」ではなく、ふたりの奏者によって二枚のレイヤーを持ったものだったからである。さらに山木秀夫はパソコンによる音響ファイルの再生(やはり打楽器の音)もしていたので、事実上は、音楽演奏もまた、前田信明の美術作品とおなじように、(最大で)三枚のレイヤーを重ねていたことになるだろう。こうしたところから、「四面体」のタイトルは、美術作品の三層構造+音楽を意味しているとも、また逆説的に、音楽演奏の三層構造+美術作品を意味しているとも解釈できる(もちろん、もっと単純に、美術家1+音楽家2+観客とも考えられる)。というのも、パフォーマンスの最中、作品の表面や裏側からあてられる色とりどりのライトが、布の編み目や肌理を浮き彫りにすることで、複数のレイヤーが生み出す作品内の緊張関係を解消して、作品がさまざまなイメージを浮きあがらせる一枚の皮膜にすぎないことを明らかにしていたからである。

 「気が済むまでに、終了時間は決めていない」と宣言されたリズム神による打楽競演「TETRAHEDRON」は、休憩時間も含めると、三時間三セット(演奏時間はおおよそ40分/60分/30分の割合)をたたきつくすという、予告通りの大コンサートになった。さほど広くない明大前キッドアイラック・アートホールに、ドラムセットはもちろんのこと、バラフォンやスティール・パン、フレームドラムやジャンベといった単体の民族楽器に、バケツにコイルのついた大きな糸電話みたいな反響装置まで、観客席の確保に悩むほどたくさんの打楽器が持ちこまれ、ソロ・ドラミングの交換というようなありきたりの形式が無意味化してしまうほど膨大な量のエネルギーが、ほとんどポトラッチ状態で演奏に注ぎこまれることになった。キッドアイラック初出演となった山木秀夫は、ドラムセットを中心に、バラフォンやパソコンをセットの両脇に設置するシンプルな構成で、演奏の自由度を確保していたが、対する YAS-KAZ は、膨大な量の楽器群に囲まれ、許された時間と体力のなかで、ひとわたりそれらをたたいてまわることがそのままコンポジションであるような、めまいを起こしそうな過剰さのなかで演奏に取り組んでいた。

 このように書くと、いくつかのレイヤーに還元された前田信明の作品に見られる絵画の最終形態に対し、人間にとって根源的な打楽に回帰することで、抽象化することのできない(古代的な)感情や、ある種の祝祭空間が開かれたように想像されるかもしれない。しかしながら、民族楽器で織りあげる特色のある繊細なアンサンブルから、ふたりが全身全霊で打ちあう打楽のハーモロディック・オーケストラまで、ものをたたきまわる膨大なエネルギーは、洗練された見事な手さばきで無駄なく三セット内に配分され、聴き手を快適に高揚させるような音楽として結実したのである。このことが示しているのは、多種多様な共同体から引きはがされた楽器群が、異質なものどうしの新たな出会いによって、音楽の既成概念を転覆するというような時代は終わり、すべてはひとつの界面に等しく並べうるものとなっているということだろう。この界面の存在は強力なもので、会場を打楽器で埋め尽くそうとした YAS-KAZ の欲望の過剰性すらも、すべて吸収してしまう力としてあるらしい。山木秀夫がパソコンで流したリズムパターンは、ふたりの打楽器奏者がともにソロをとることのできる状態を生み出すものだったのだろうが、それ以上に、彼らの音楽がすでにレイヤーを生きていることを、期せずして証明することになったのではないかと思われる。その意味で、打楽を知りつくした YAS-KAZ と山木秀夫もまた、前田信明と同時代を生きる表現者としてこの場に立っていたといえるだろう。





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2013年2月11日月曜日

木村文彦 東京 初ライブツアー



木村文彦 東京 初ライブツアー
@水道橋 FTARRI
日時: 2013年2月10日(日)
会場: 東京/水道橋「FTARRI」
(東京都文京区本郷 1-4-11 岡野ビル B1F)
開場: 7:30p.m.、開演: 8:00p.m.
料金: ¥1,500
出演: 【第一部】木村文彦(ds, perc)ソロ
【第二部】秋山徹次(guitar)+池上秀夫(contrabass)+鈴木學(electronics)
【第三部】全員による演奏
予約・問合せ: TEL.03-6240-0884(FTARRI)
e-mail:info@ftarri.com



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 昨年、大阪を拠点に活動する時弦旅団のリーダー宮本隆をプロデューサーに迎え、ソロ・アルバム『キリーク』をリリースしたドラマーの木村文彦が、エレクトロニクス奏者である鈴木學の尽力で、初の東京公演を実現した。ひとつはギターの秋山徹次とコントラバスの池上秀夫をゲストにした水道橋「Ftarri」公演、もうひとつはサックスの広瀬淳二とヴォイスの徳久ウィリアムをゲストにした大崎「l-e」公演である。以下ではこのうちの初日公演をレポートすることにしたい。第一部:木村文彦ソロ、第二部:秋山徹次+池上秀夫+鈴木學トリオ、第三部:全員によるセッションという三部構成のなかでは、やはりなんといっても、実際に見てみなくてはその雰囲気が伝わらない、木村の特異な打楽パフォーマンスが注目の的となった。関西エリアにおいて、「舞踏」を看板に掲げてパフォーマンスするダンサーとの共演が多いことがきっかけとなり、木村はおよそ一年ほど前から、打楽器の演奏に身体表現を加味した、演劇的な、あるいは表現主義的な打楽スタイルを構想してきたという。会場の照明を暗くし、ステージ下手の床に置かれたライトから発せられる強い光に下から射抜かれて、光のなかに顔を浮きあがらせたり、楽器が作る暗がりに身体を沈みこませたりしながら展開される、激しい身ぶりをともなったハイ・テンションの打楽。日常性を逸脱して、劇画的なまでにカリカチュアライズされた音楽である。

 そもそもドラムセットからして尋常ではない。おもな演奏場所となるセットの中央には、大きな灰色のボックスが置かれ、そのうえに発泡スチロールの角材やタンバリン、金属製のブックエンドなどが乗せられている。左脇には色とりどりのシャベルが吊るされ、スタンドにはチェーンも巻きつけられている。反対側の右脇には、大きなシンバルや銅鑼がセッティングされ、ドラムセットの両脇はタムで区切られている。上手にはスティック、マレット、ブラッシュなどを乗せた台があり、その前にはコンセントを抜かれた遠赤外線の電気ストーブ、床には大小のシンバルや鉄琴、ムビラや小さなゴング、フレームドラムなどの民族楽器が散乱している。会場が暗転すると、ゆったりとした動きやすい衣装に着替えた木村が、裸足になって、客席の斜めうしろにあるレコードショップのレジカウンターの前から、身体を大きく動かしながらステージに入ってくる。演奏に決まったリズムやビートはない。幽鬼のような顔を、足もとからやってくる光のなかに浮き沈みさせて、灰色のボックスのうえに楽器を乗せてたたいたり、ボックスを開けてなかでなにかをしたり、そのあたりをウロウロしながら、手に触れたものを手当り次第にたたいていくといった印象。本来ならばつながりようのない音が、木村の身体の動きによって斜めに連結されていく。20分ばかりの演奏のクライマックスでは、たたみかけるような太鼓類の連打があった。

 大阪からやってきた「暗黒打楽」を迎え撃つ格好で組まれた、秋山徹次、池上秀夫、鈴木學による東京組のトリオ・セッションは、ここ数年、コントラバスの池上がピボット役になり、秋山×池上のデュオや、鈴木と池上のふたりにサックスの広瀬淳二を加えたトリオなどで共演してきた経緯を背景にしたもので、おたがいの音楽を見定めたうえの、重厚な音響的即興を展開した。音楽を異化するノイズという野生のエレクトロニクス問題(SUZUKI FACTOR)は、ここでも即興演奏の質を測るものさしとして有効だろう。今井和雄トリオ結成(2005年)の際に求められたような、ハンドメイドで作り出す電子音の、飼いならされることのない外部性はすでになく、この晩の鈴木は、音響的即興を支えるエレクトロニクス音楽を演奏していたように思う。鋭角的に切りこんでくる秋山のギターサウンドと、音響機器の操作によって、つねに遅延した状態で出現してくる鈴木のエレクトロニクスの間で、池上のコントラバスが絶妙な橋渡しをおこなうという役どころもはっきりとしていた。池上の演奏スタイルは、多彩な即興イディオムに開かれたポリグロットの側面を持っているが、ここではそうした部分をおさえ、むしろ彼がソロ・パフォーマンスで追究している音楽に近い、サウンド主体の演奏に徹していた。初手から完成度の高い即興音楽だったといえるだろう。

 全員でおこなう最後の合同セッションでは、リズムのあるなしに関係なく、サウンドにダイナミックな身体性を求める木村のパフォーマティヴな演奏と、細かい響きを注意深い手つきで織りあげていく秋山 - 池上 - 鈴木トリオのミニマリズムが合流することとなった。セッションの冒頭で、ムビラの舌をはじいたり、ロール状に巻いた大きな半紙を開いてクシャクシャした音を出すなどしていた木村に対し、鈴木がいったんすべてを押し流すような洪水サウンドで下地を作ったあと、いくつものベクトルが交錯する状態のなか、カルテットによる演奏の方向性を模索しながら、間歇的にサウンドを出しあう展開がひとしきりつづいた。しかしながら、大きく開いた資質の相違は如何ともしがたかったようで、最終的には、大きなチョコレート玉(木村の打楽)をやわらかな和紙(トリオのミニマル・アンサンブル)で包むような、即興スタイルの棲み分けに落ち着いていった。やわらかな和紙は、多彩に様相を変えるサウンドで色とりどりに模様を変えていくのであるが、チョコレート玉との関係を変えることがない。チョコレート玉もまた、大小のサウンドで身体的な突出感を変えていくのだが、やわらかな和紙との関係性を崩すことがない。そこには地と図の関係というのではなく、地と図がそれぞれに動いていくような不思議なアンサンブルが生まれていた。





  【関連記事|木村文彦】
   「木村文彦:キリーク」(2012-04-03)

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