2014年10月28日火曜日

【書評】『ダンスワーク67号』(2014年秋号)


『ダンスワーク67号』
特集: 即興インプロヴィゼーション無形の力
(2014年秋号)

【目次】
[巻頭論文]福本まあや:コンタクト・インプロヴィゼーションという即興
長谷川六:まえがき|上杉満代:舞踏 上杉満代 即興
江原朋子:即興公演は学習|若松由起枝:インプロヴィゼーション感
能藤玲子:モダンダンスにおける「即興」の意義
日下四郎:ダダと即興、そしてダンス|竹田真理:即興はどこに在るのか
萩谷紀衣:即興improvisationに関する考察
長谷川六:即興と舞踊

[ダンス日記]山名たみえ:自分のダンスに出会うまで
三木和弘:未踏の海へ、母船出発~劇団 I'M 20年の報告

[公演評]ホワイトダイス+月読彦(企画+製作)
2014・春の先ガケ公演 dance experience “三点観測”
実験舞踏ムダイ『ウミダスウミダスウミ』、月読彦『シュレジンガーの猫』
ホワイトダイス『無比較と出差 II』@日暮里d-倉庫

深谷正子『自然は実に浅く埋葬する』
長谷川六『岩窟の聖母』『素数に向かう』
古関すま子『弥勒と刹那』@六本木ストライプハウス

江戸糸あやつり人形座+芥正彦『アルトー24時++再び』
東京芸術劇場シアターイースト
(以上、宮田徹也)

能籐玲子『間にて『蕨野行』より』妻木律子『二重の影』
菊地尚子『アトカタ』東京芸術劇場プレイハウス
小島章司の贈り物『desnudo』MUSICASA
『ダンス・アーカイヴ in Japan ─ 未来への扉 ─』新国立劇場
(以上、長谷川六)

[書評]宮田徹也:志賀信夫著『舞踏家は語る』青弓社
長谷川六:『丸山圭三郎著作集全5巻』岩波書店

人物漂流



[注文:d_work@yf6.so-net.ne.jp]



♬♬♬



 「自分がダンス作品を創るようになって、常に即興の存在を感じていた」という企画編集の長谷川六は、ダンスの身体技法や創作の手法としての即興ではなく、芸術にとって本質的な即興の位相を浮き彫りにすべく、『ダンスワーク67号』で特集を組んだ。今日において、意識的に即興ダンスと取り組んでいる現場のダンサーは数多く、本誌が彼ら/彼女らにまったく取材していないのは残念だが、この点に目をつぶれば、これまでダンスの領域で即興がどのように解釈されてきたかという歴史を知るうえで、ベーシックな紹介作業となる記事が集められている。コンタクト・インプロヴィゼーションの歴史をまとめた福本まあやの論考、コンテンポラリー・ダンスの即興について実例をあげて論じた竹田真理の「即興はどこにあるか」、そして長くジャーナリストとして活動してきた長谷川が、豊富な具体例をもとに論じた体験的即興論「即興と舞踊」など、読みごたえのあるテクストがならんだ。ダンサー自身が舞台制作の現場でつかみとった即興も、ダンサー自身の言葉で、身体の内側からそれぞれに語られていて興味深い。その一方で、ダンスが即興と出会う今日の現場において、驚くほど多様なそのあらわれを、「即興」の一言でくくることで平均化してしまうことのないよう、一定の配慮しておくのがよいと思う。

 例えば、さまざまなダンスのジャンルに、さまざまな形で出現する即興的なるものをまとめた長谷川の論考「即興と舞踊」には、「受容と憑依」の章に、以下のような田山メイ子評が出てくる。少し長いが引用してみよう。

 「21世紀になる前だが、テルプシコールで田山明子(引用者註:当時の表記)という笠井叡の天使館出身者の舞踏をみた。彼女は立ったまま正面を向き少しの左右の動きを入れた踊り、いわゆる身体の揺らしという動きを30分以上しておりきわめて退屈だったが、身体が上り詰めたような動きをしたのち突然われを忘れたような表情と小刻みな手足の動きのあと、身体が樹木に吊り下げられているような浮遊感に満たされた動きが起こった。これは猛烈なもので、見たことはないが霊媒師などが受霊するのはこのようなものか、と思わせる動きだった。身体は激しく上下し手足の末端は柔軟でぶらぶらになり、身体全体も骨のないぬいぐるみのようになって激しく揺れた。その時間は3分にも満たなかったが激しい霊気を感じた。/これは、彼女の過去の舞踏には見られず、全く予期しなかったことだった。彼女が受容し憑依した瞬間と考えられる。/田山明子の師匠である笠井叡は、こうした憑依の瞬間を難なくみせる。(中略)彼は、自分の内側で理性という箍をはずすことが自在に出来る。霊的なものと俗界を難なく行き来することが出来る。(中略)/笠井は自在で田山は到来する。」(58頁)

 これは15年前の忘れえぬ「記憶」というより、長谷川の身体に深く刺さったままの針と呼ぶべきようなもので、未見の者に公演の実際はわからないものの、ひとつの身体を介していまに運ばれたものといえるだろう。長谷川は、舞踊における理性を超えたもの──彼女はこれを即興のひとつのあらわれと解している──を、笠井叡においては「自在」という言葉で、田山メイ子におていは「到来」するものとして特徴づけ、天使館をなかだちに、両者のダンスの差異と反復を語っている。こうした具体的な身体/ダンスに即した議論こそが、即興をつかまえるコツではないかと思う。考えるに、ひとつの名前を持つ具体的な身体を離れ、アカデミックに、あるいは文学的に「即興」を語ることが、それだけにとどまってしまっては、さほど大きな意味をもてないのではないだろうか。というのも、いま、自分の目の前にある、この身体に向かうことができるようになるためにこそ、すべての言葉は準備されるべきだからである。長谷川のテクストが魅力的なのは、議論を起こす彼女の言葉が、そうした具体的なものに満ちあふれているからに他ならない。読者は、これらの言葉のなかにも、多様体としての身体が埋めこまれているのを難なく発見することだろう。

-------------------------------------------------------------------------------


 

2014年10月24日金曜日

黒沢美香: 薔薇の人 vol.17「deep」


怠惰にかけては勤勉な黒沢美香のソロダンス
薔薇の人 vol.17: deep
日時: 2014年8月27日(水)&28日(木)
2014年10月22日(水)&23日(木)
2014年12月26日(金)&27日(土)
[昼の部]開場: 1:40p.m.、開演: 2:00p.m.
[夜の部]開場: 7:10p.m.、開演: 7:30p.m.
会場: 横浜市/大倉山記念館「集会室」&「ホール」
(神奈川県横浜市港北区大倉山二丁目10番1号)
料金/前売: ¥3,000、当日: ¥3,500
昼夜はしご券: ¥4,500(要予約)
リピーター割引: ¥2,500(要予約)
(複数回の公演をご覧になる場合には、2回目以降割引になります)
振付・出演: 黒沢美香
演出協力: 小林ともえ、首くくり栲象
Public Acoustic: 椎 啓 照明: 糸山明子、木檜朱実
現場監督: 河内 崇 制作: 平岡久美
主催: 薔薇ノ人クラブ



♬♬♬



 踊ろう!と燃えたらダンスは逃げてだからといって冷めて踏めば弾き飛ばされ、門の中に入れない。どう測りどう踏むとダンスに逢えるのか。だったら反対にダンスではないとはどういうことか。この境界線を怖ろしい気持ちで渡るのが「薔薇の人」の勤めで儚くて余計で遠回りな道を選んでいる。この度はナイト&デイだ。昼間は密やかに会議室で、夜は開け放ったホールにて踊る、原始的で古臭いこころみです。そして夏・秋・冬・厳冬にくり返し同じ部屋に立つこと。そして昼も夜も異常であること。
(黒沢美香、フライヤー文面)  




 大倉山記念館2階の第6集会室でおこなわれるマチネ公演と、エントランスホールの階段を3階まで登ったところにある教会風のホールを使ったソワレ公演をセットにして、2デイズ公演する黒沢美香<薔薇の人>シリーズの第17回公演『deep』は、20148月、10月、12月、年越しして翌年の3月と、ほぼ隔月で同内容のパフォーマンスを反復する変則的なスタイルをとっている。これはおそらく、「怠惰にかけては勤勉な」というコピーに暗示されているように、視覚の「怠惰」や「退屈」を招き寄せるため、<反復>の行為を方法論として採用したものと思われる。ダンスと非ダンスの境界線は、動きのどこに発生してくるのかという問いは、身体にとっての普遍的なテーマであると同時に、観客に対して投げかけられた謎でもある。周囲に目配せすれば、最近のダンスでよくお目にかかる公演スタイルなのだが、偶然なのか、それとも似たような問題意識が隠れている徴候なのか、就中、黒沢美香の<反復>は、深谷正子の振付に頻出する<反復>と、働かせ方の面でとてもよく似たものとなっている。8月、10月と、集会室で自然光とともにおこなわれるマチネ公演を観劇、10月にはマチネ公演に加え、会場を3階ホールに移しておこなわれるソワレ公演も観劇しているので、ソロダンスにあらわれた反復と差異に注目しながら、黒沢美香のヴィジョンに迫ってみたいと思う。

 初日のマチネ公演、自然光だけの集会室はほんのり薄暗く、部屋の一面に敷きつめられた絨毯の真中に、小さな子鹿のぬいぐるみが一体ポツンと置かれているだけ。窓と反対側にある壁の一面に観客用の椅子が並べられていたが、基本的には、椅子をどこに置いて座っても自由ということになっていた。しかし、夏公演に集まった35人ばかりの観客は、誰にいわれるともなく、部屋の中央に置かれた子鹿の人形を取り囲むようにして周囲に散らばり、椅子を要求することなく、思い思いの姿勢で立ったり座ったりしながら、ダンサーの登場を待った。かすかに鳴るアコーディオンの響きを合図に、足をしのばせて廊下をやってきた黒沢美香は、集会室の大きな扉の内側に入ると、しばし外をうかがう様子を見せ、もう誰も来ないことを確認してから静かに扉を閉め、鍵をかけた。集会室が密室となる。ワイシャツに濃紺のロングスカートという女学生ふうの衣裳に、毛糸編みの帽子をかぶり、裸足に白いストッキングをはいている。顔と腕は白塗りされていた。扉を閉めると、そこに観客がいるのもおかまいなしに、左手の壁に至近距離までじわっと接近し、部屋の中央に背中を向けたまま、しばらく動かずにじっとしていた。

 やがて、壁に面していた身体を180° 回転させると、扉の右側にのびている壁の近くを、座っている観客の足のうえを歩くように(実際には、ゆっくりと接近してくるダンサーを観客のほうからよけるため、たくさんの足をかきわけるように)して、窓のある反対側の壁まで直進していく。腰を落とし、胴をまったく動かさないまま、腕や足だけを大振りに動かしていくダンスは、スローモーションで全力疾走しているような奇妙な動きで、大袈裟な身ぶりが、皮肉で、批評的なものに見えた。その一方で、胴が微動だにせずみごとに水平移動していく様子は、能楽師のようだった。反時計回りで三方の壁際をまわるという動線のとられ方は、夏と秋、双方の公演で反復されたが、雨に祟られた秋公演では、観客も20人ほどと少なくなったため、観客が余裕をもって動くことができるようになり、黒沢が人々をかきわけていくときの動きや、(それが本作品の趣旨と思うのか)最初の立ち位置や姿勢を変えようとしない観客をやり過ごすときも、まったく違った身体の使い方となった。特に後者は、それだけで公演にクライマックスを作ってしまうような要素だったが、おそらくそうなることを回避しようとしてだろう、黒沢はあわてる様子も見せず、淡白に、機械的に、細心の注意を払って動きを選んでいた。正面の窓枠に手をかけて外を見たり、窓の前を往復したりするときダンスめいた動きが出るので、おそらく窓前が踊り出しの場所になっていたのではないだろうか。最後は、集会室の対角線上を横断して扉までたどりつき、終演となった。

 夜のホール公演は、二列に並べた椅子を両脇に寄せて対面するように観客席を作り、中央に広く開いたアリーナと、一段高いステージを使ってのものとなった。内容的には昼公演を反復するものだったが、ホールに立ったダンサーの身体は観客から遠く、ダンススペースも広く、ステージ上には電気スタンドやピアノやピアノ椅子など、なにもせずとも身体を踊らせてしまう要素がたくさんあったため、踊らない身体を立てるには、集会室以上の工夫をこらさなくてはならず、それが動きを複雑なものにしていた。ステージ下手に置いてあった懐中電灯を持ち出し、高いホールの天井を照らしていく奇妙な行動も、その一端だったろう。パフォーマンスの最初に、ダンスを回避するため、意図的にならないようにしながら、なんらかの意味を帯びてしまうことのない動きを構成するのは、とてもむずかしい。即物的にしか見えない(目的のない)動作を執拗に重ねていきながら、そのどこかで作業に飽きが来る瞬間があり、踊りがむこうからやって来るのを、無抵抗に受け入れる作業といったらいいだろうか。しかしながら、黒沢美香にとっては、徹底してダンスを殺していく作業もまた、強烈な欲望の対象となっているようだった。黒沢美香のダンスには人を熱中させるものがある。それはおそらく、身体に即した思考を展開するため、彼女が象徴的な動きを徹底して排除しようとしているからだと思われる。


-------------------------------------------------------------------------------


 

2014年10月20日月曜日

榎木ふく× 勝部順子: 二人の夜



榎木ふく× 勝部順子 舞踏公演
二人の夜
日時: 2014年10月19日(日)
開場: 5:30p.m.、開演: 6:00p.m.
会場: 東京/中野「テルプシコール」
(東京都中野区中野3-49-15-1F)
料金/前売: ¥2,000、当日: ¥2,500
音響: 武智圭佑(maguna-tech)
照明: 越川裕子(有限会社スペクトル)
舞台監督: 宮尾健治
宣伝美術: 高橋 亮(Stand Inc.)



♬♬♬



 舞踏家の小林嵯峨に師事、博美、夕湖らと、カンパニー “NOSURI” のメンバーとしてその主要作品に参加してきた榎木ふくが、勝部順子とともに本格的な舞踏公演『二人の夜』を開催した。音響/音楽を担当したのはノイズダンスユニット “maguna-tech” の武智圭佑。いくつもの電子音をループしたミニマルな演奏と環境音のコラージュがふたつの場面を構成した公演は印象深く、舞踏する身体を別次元に開こうとする意欲にあふれていた。このことは、公演冒頭、ビニール袋に入ったダンサーふたりが舞台に運びこまれてくる場面に、象徴的にあらわれていた。白塗りに白い褌姿の榎木は、身体を包みこむ繭をいっきに引き裂くような強い動きで、また黒い衣裳に身を包んだ勝部は、昆虫が脱皮するようにズルズルと床を這いながら外界に出るという、思い思いのやりかたで殻を破ってみせた。ふたりのアクションの違いは、あとに残される抜け殻としてのビニール袋を、なおも自分の身体の一部と感じる(勝部)か、すでに別のものの身体と感じるか(榎木)という感覚の相違から生じており、後続するデュオの場面においても、勝部がまるめたビニール袋を服の下に入れ、妊婦のように腹をふくらませて再登場したのに対し、ビニール袋をゴミ袋に入れた榎木が、朝のゴミ出しのように両手にさげて登場するという相違にあらわれていた。

 公演を象徴する冒頭の場面が提示されたあと、いったん暗転がはいり、つづいて無音のなかで動きのない動きをつなげていく勝部のソロ、さらなる暗転ののち、強力なミニマル音楽の奔流のなかに巌となって立つ榎木のソロと、ふたつの身体による対照的な場面がつづいた。いずれも脱皮直後のまっさらな身体をステージに立てる儀式的なパフォーマンス。特に後者の場面では、ゆるゆると動く身体と光量を変える照明がコンビネーションしていた。これは深谷正子作品でもしばしば見られる演出法(照明:玉内公一)で、身体の質感にフォーカスすると同時に、光で観客の視線を遊ばせる意味合いがある。白い衣裳に着替えた勝部が、ビニール袋でふくらんだ腹を抱えて走りまわるデュオの場面で、雰囲気は急変する。環境音がコラージュされるなか、勝部が襟元から腹に詰められたビニール袋を引っぱり出す一方、勝部とは逆に、黒い衣裳に着替えて再登場した榎木は、両手にさげたゴミ袋のなかのビニール袋をあたり一面にばらまいた。ビニール袋の山は、これまでダンサーが重ねてきた数々の脱皮を象徴するのだろう。最後の場面では、ロマンチックなピアノ曲を使った常套的な幕切れがやってきた。光を浴びるダンサーは手を広げ、世界と和解する。ピアノ曲の最後に、雷鳴(あるいは打ち上げ花火)を連想させる不穏なノイズが重ねられたのは、予定調和を回避するためのアレンジと思われる。

 歌謡曲でもピアノ曲でも、ありものの楽曲を流用して、ある場面を彩る感情を増幅したり、場面のわかりやすい説明にかえる方法はごく一般的におこなわれている。これに対して、この晩、音響係をはみだし、ふたつの場面を彩った武智圭佑の演奏が気づかせてくれたのは、舞踏だけでなく、音楽やサウンドにも身体があるという当然の事実であった。ひとつのステージはさまざまな要素から成り立つ複雑なものだが、ダンスする身体がサウンドと触れあうまさにそのことから、私たちは演劇的なテーマを離れ、ダンスがダンスであるための(舞踏が舞踏であるための)身体的領域を開くことになるのではないかと思う。おなじことを出来事のリアルに触れるといってもいい。ライヴハウスという即興演奏の現場で、身体と音楽が出会うときの常識になっていることは、ホール公演にもあてはまるだろう。こうしてみると、『二人の夜』で注目すべきは、無音のなか、足もとのビニール袋をわずかにカサコソさせて半回転する、ほとんど動きのない身体を立てた勝部と、武智の強力なミニマル・サウンドに拮抗する榎木の身体の対照性であり、ふたつの異質な身体がひとつの作品を構成することになった意味ではないかと思う。

 榎木と勝部は、脱皮する身体を持つ点において共鳴しあいながら、抜け殻としてのビニール袋を身内/身外に感じる、その感じ方の相違によって、身体の内/外を感じわける皮膚を置く場所に相違をみせた。勝部がビニール袋を内側から感じ/触れていたのに対して、榎木はそれを外側から感じ/触れていたといってもいいだろう。それはこれまで積み重ねてきたみずからの身体の重層性に対する態度の相違でもあろう。ふたりが公演の前後半で白と黒の衣裳を交代したのは、ダンサーが男女ペアであることに特別の意味がないことの表明である。そこにはふたつの身体があるだけであり、作品のための役(割)があるわけではない。ふたつの異質な身体は、おたがいを照らし出すために出会っていた。各々のソロ舞踏において、無音を選択した勝部に対し、エネルギッシュで、ときに強迫的なミニマルサウンドの奔流のなかに舞踏する身体を立てようとした榎木ふく。私には、このときのダンサーが、身体を突出させるのではなく、舞踏の型で自身を守っているように感じられた。武智の生み出すサウンド(的身体)に過不足なく拮抗する強度を、榎木の身体が帯びはじめたとき、おそらくそこにこれまで見たことのない舞踏の風景が立ちあがってくるのではないかと思う。ノイズ演奏とダンスを主体とする “maguna-tech” の活動も視野に入れるなら、こうした探究の延長線上に、舞踏の再定義という大きなテーマも訪れるのではないだろうか。さらなる実践を待つことにしよう。



※写真提供:小野塚誠   



-------------------------------------------------------------------------------


 

2014年10月16日木曜日

ダンスの犬 ALL IS FULL 公演: 指先から滴り落ちる混沌


ダンスの犬 ALL IS FULL 公演
指先から滴り落ちる混沌
日時: 2014年10月15日(水)
会場: 東京/浅草橋「スタジオピエール」
(東京都台東区浅草橋5丁目7-6)
開場: 7:00p.m.、開演: 7:30p.m.
料金/前売: ¥2,000、当日: ¥2,500
作・演出: 深谷正子
出演: 岡田隆明、七感弥広彰、武智圭佑
縫部縫助(ビデオ映像)
衣裳: 田口敏子 照明: 玉内公一
音: 武智圭佑 ビデオ: 坂田洋一
問合せ: TEL.047-447-0073(ダンスの犬)


♬♬♬


 浅草橋スタジオピエールで開催されたダンスの犬 ALL IS FULL” の公演『指先から滴り落ちる混沌』は、深谷正子の作・演出によって、岡田隆明、七感弥広彰、武智圭佑という三人の男性パフォーマーが、最後までコンタクトすることなく、ステージ上でテリトリーを分けあいながらパフォーマンスする作品だった。深谷作品と縁の深かった故・縫部縫助の映像が、開演までの時間ビデオで流されたのは、おそらく生前四人目の出演者に選ばれていたことによるのだろう。全暗転、板つきのスタート。ぼんやりとした照明が入るなか、ステージ中央に思い思いの向きで立った三人は、オレンジ色の合羽のうえから柄物ネクタイを締めるという奇抜な衣裳をつけていた。地球に降り立った宇宙人さながらの姿は、深谷ならではのセンスである。岡田が舞台奥の椅子に座り、残りのふたりが床に寝て距離を開いたあと、客席前の武智、上手側に伸びた七感弥、椅子に座った岡田の順で合羽とネクタイをはずし、それぞれの動きを開始していった。下手に6本、上手に4本(横棒つき)と立てられたパイプを利用して、出演者はテリトリーを作って踊った。手を腰にあてたままステージ中央で腰を落として回転する武智、下手でパイプの木立に寄りかかる七感弥、上手のパイプのなかで横棒と縦棒をぶつけて金属的な音をさせる岡田と、それぞれの動きが作られていく。

 スピーカーから流れるサウンドの変化や、踊りを変えるタイミングを揃えることでシーン(らしきもの)が構成されていく。時間経過とともに三人の距離は次第に接近し、最後の場面では、七感弥が上手下手のパイプをテキパキと事務的に片づけて会場を広くしたあと、本公演のフライヤーがあたり一面にばらまかれて紙の海が作り出され、三人の男は、そのうえでダイブしたり、回転したり、歩きまわったりした。どこまでが演出されているのかをいうのはむずかしいが、この構成から読みとれるのは、おたがいに触れあうことなく、領域を棲みわけることでみずからを保つ身体にとって、(否応のない)接近こそが、タイトルにいう「混沌」を生じさせるというヴィジョンではないかと思う。フライヤーの海が出現する最後の場面は、パフォーマーの三人が、紙の束を放り投げたり、束のうえに置いた手をすばやく動かして輪転機のように紙を放出したり、歩きながら少しずつ床に落したり、苛立たしく足で蹴散らしたりしながら、全員で作りだしたものだが、これはまさにテリトリー(意識)を無化する装置として働いた。そこで起こったのは、それぞれに動きは違っても、紙をばらまく行為においてはひとつのことをすることで、風景が一変するという出来事だった。

 テリトリーを分けあいながら、他者の存在を感じる身体が少しずつ開かれていくところに生まれる「接近」に対して、最後に置かれた紙の海の場面は、形式的には、起承転結の「転」の部分にあたる。しかしそれは、ノアの大洪水のような物語の大団円(悲劇的な、あるいは円満な結末)を作り出そうとするものではなく、(身体の)外部から突然到来した理解不能の飛躍と呼ばれるべきものだった。もっと言うなら、それは三人の出演者による身体の物語を切断しにやってくるものですらあった。作品構成とは別に、そこで起こる出来事は、かならずしも筋道だって進行しないという前提をふまえる必要がある。身体から帰結することのないものの突然の侵入が、身体を別の風景のなか、別の空間のなかに立たせた結果、七感弥のダイブも、武智の回転も、岡田の歩行も、紙の海のうえで、等しく遊戯的なものに変質した。修学旅行の枕投げが連想されたのは、おそらくこの遊戯性、一種のゲーム感覚のためだろう。男たちの身体は、少年時代や学生時代の感覚に遡行することで「混沌」へと開かれていくようだった。

 男たちの身体によって構成された空間に、紙の海によって持ちこまれたものがことのほか重要に感じられるのは、おそらくそれが作品を完結させるための演出にとどまらず、作品の外でも意味を持つようなテーマに開かれたものになっていたからだと思う。すなわち、テリトリーを分けあう単独者の身体に、ある種の試みをしかけること。あるいは身体の固有性を最大限に尊重しながら、なおもそこに疑いの目を向けること。本作品の出演者が舞踏家かどうかに関係なく、舞踏によって一般化した(あるいは通俗化した?)身体観の延長線上に開かれた現在のダンス/身体表現のフィールドにおいて、かけがえのないこの身体を発見や探究の場にする作業はごく普通におこなわれているが、この場所で一匹狼の群れに属さない領域を開くことは、そこに多様なものから構成される社会のパースペクティヴを開くことに他ならず、強いては私たちが立っている身体の環境(多様な身体をコラージュした「身体地図」のようなもの)を広く照らし出すことにつながると思うからである。“ダンスの犬 ALL IS FULL” が、その旺盛な活動のなかで、これからどのような演出をしていくかに注目したい。

-------------------------------------------------------------------------------

浅草橋 スタジオピエール