2014年10月20日月曜日

榎木ふく× 勝部順子: 二人の夜



榎木ふく× 勝部順子 舞踏公演
二人の夜
日時: 2014年10月19日(日)
開場: 5:30p.m.、開演: 6:00p.m.
会場: 東京/中野「テルプシコール」
(東京都中野区中野3-49-15-1F)
料金/前売: ¥2,000、当日: ¥2,500
音響: 武智圭佑(maguna-tech)
照明: 越川裕子(有限会社スペクトル)
舞台監督: 宮尾健治
宣伝美術: 高橋 亮(Stand Inc.)



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 舞踏家の小林嵯峨に師事、博美、夕湖らと、カンパニー “NOSURI” のメンバーとしてその主要作品に参加してきた榎木ふくが、勝部順子とともに本格的な舞踏公演『二人の夜』を開催した。音響/音楽を担当したのはノイズダンスユニット “maguna-tech” の武智圭佑。いくつもの電子音をループしたミニマルな演奏と環境音のコラージュがふたつの場面を構成した公演は印象深く、舞踏する身体を別次元に開こうとする意欲にあふれていた。このことは、公演冒頭、ビニール袋に入ったダンサーふたりが舞台に運びこまれてくる場面に、象徴的にあらわれていた。白塗りに白い褌姿の榎木は、身体を包みこむ繭をいっきに引き裂くような強い動きで、また黒い衣裳に身を包んだ勝部は、昆虫が脱皮するようにズルズルと床を這いながら外界に出るという、思い思いのやりかたで殻を破ってみせた。ふたりのアクションの違いは、あとに残される抜け殻としてのビニール袋を、なおも自分の身体の一部と感じる(勝部)か、すでに別のものの身体と感じるか(榎木)という感覚の相違から生じており、後続するデュオの場面においても、勝部がまるめたビニール袋を服の下に入れ、妊婦のように腹をふくらませて再登場したのに対し、ビニール袋をゴミ袋に入れた榎木が、朝のゴミ出しのように両手にさげて登場するという相違にあらわれていた。

 公演を象徴する冒頭の場面が提示されたあと、いったん暗転がはいり、つづいて無音のなかで動きのない動きをつなげていく勝部のソロ、さらなる暗転ののち、強力なミニマル音楽の奔流のなかに巌となって立つ榎木のソロと、ふたつの身体による対照的な場面がつづいた。いずれも脱皮直後のまっさらな身体をステージに立てる儀式的なパフォーマンス。特に後者の場面では、ゆるゆると動く身体と光量を変える照明がコンビネーションしていた。これは深谷正子作品でもしばしば見られる演出法(照明:玉内公一)で、身体の質感にフォーカスすると同時に、光で観客の視線を遊ばせる意味合いがある。白い衣裳に着替えた勝部が、ビニール袋でふくらんだ腹を抱えて走りまわるデュオの場面で、雰囲気は急変する。環境音がコラージュされるなか、勝部が襟元から腹に詰められたビニール袋を引っぱり出す一方、勝部とは逆に、黒い衣裳に着替えて再登場した榎木は、両手にさげたゴミ袋のなかのビニール袋をあたり一面にばらまいた。ビニール袋の山は、これまでダンサーが重ねてきた数々の脱皮を象徴するのだろう。最後の場面では、ロマンチックなピアノ曲を使った常套的な幕切れがやってきた。光を浴びるダンサーは手を広げ、世界と和解する。ピアノ曲の最後に、雷鳴(あるいは打ち上げ花火)を連想させる不穏なノイズが重ねられたのは、予定調和を回避するためのアレンジと思われる。

 歌謡曲でもピアノ曲でも、ありものの楽曲を流用して、ある場面を彩る感情を増幅したり、場面のわかりやすい説明にかえる方法はごく一般的におこなわれている。これに対して、この晩、音響係をはみだし、ふたつの場面を彩った武智圭佑の演奏が気づかせてくれたのは、舞踏だけでなく、音楽やサウンドにも身体があるという当然の事実であった。ひとつのステージはさまざまな要素から成り立つ複雑なものだが、ダンスする身体がサウンドと触れあうまさにそのことから、私たちは演劇的なテーマを離れ、ダンスがダンスであるための(舞踏が舞踏であるための)身体的領域を開くことになるのではないかと思う。おなじことを出来事のリアルに触れるといってもいい。ライヴハウスという即興演奏の現場で、身体と音楽が出会うときの常識になっていることは、ホール公演にもあてはまるだろう。こうしてみると、『二人の夜』で注目すべきは、無音のなか、足もとのビニール袋をわずかにカサコソさせて半回転する、ほとんど動きのない身体を立てた勝部と、武智の強力なミニマル・サウンドに拮抗する榎木の身体の対照性であり、ふたつの異質な身体がひとつの作品を構成することになった意味ではないかと思う。

 榎木と勝部は、脱皮する身体を持つ点において共鳴しあいながら、抜け殻としてのビニール袋を身内/身外に感じる、その感じ方の相違によって、身体の内/外を感じわける皮膚を置く場所に相違をみせた。勝部がビニール袋を内側から感じ/触れていたのに対して、榎木はそれを外側から感じ/触れていたといってもいいだろう。それはこれまで積み重ねてきたみずからの身体の重層性に対する態度の相違でもあろう。ふたりが公演の前後半で白と黒の衣裳を交代したのは、ダンサーが男女ペアであることに特別の意味がないことの表明である。そこにはふたつの身体があるだけであり、作品のための役(割)があるわけではない。ふたつの異質な身体は、おたがいを照らし出すために出会っていた。各々のソロ舞踏において、無音を選択した勝部に対し、エネルギッシュで、ときに強迫的なミニマルサウンドの奔流のなかに舞踏する身体を立てようとした榎木ふく。私には、このときのダンサーが、身体を突出させるのではなく、舞踏の型で自身を守っているように感じられた。武智の生み出すサウンド(的身体)に過不足なく拮抗する強度を、榎木の身体が帯びはじめたとき、おそらくそこにこれまで見たことのない舞踏の風景が立ちあがってくるのではないかと思う。ノイズ演奏とダンスを主体とする “maguna-tech” の活動も視野に入れるなら、こうした探究の延長線上に、舞踏の再定義という大きなテーマも訪れるのではないだろうか。さらなる実践を待つことにしよう。



※写真提供:小野塚誠   



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