2012年1月30日月曜日

益子博之=多田雅範「四谷音盤茶会」vol.4

左から、橋本学、多田雅範、益子博之の諸氏

masuko/tada yotsuya tea party vol.4
益子博之=多田雅範
四谷音盤茶会 vol.4
会場: 四谷「喫茶茶会記」
(東京都新宿区大京町2-4 1F)
日程: 2012年1月29日(日)
開場: 6:00p.m.、開演: 6:30p.m.
料金: 1,200円(飲物付)
ナビゲーター: 益子博之 多田雅範
ゲスト: 橋本 学
予約・問合せ: 喫茶茶会記 013-3351-7904(15:00~23:00)


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 定期的にニューヨークを訪問し、日本のジャーナリズムではほとんど紹介されることのない現代ジャズの現場に触れている益子博之が、かつてECMファンクラブを主宰し、音楽雑誌の編集にも関わっていた多田雅範や、毎回ゲストに迎える現在活躍中のミュージシャンと、それぞれの角度から最新盤を聴きあい、クロスレヴューしていく音盤鑑賞会のシリーズが、喫茶茶会記で開催されている。ジャズといえばニューヨークが本場といわれているが、現在のニューヨークでどんなことがおこなわれているのか、ジャズファンの間ですら、共通認識が作られているとはいいがたいのが現状だということである。まずは聴く機会を作ることが必要という趣旨で、このライヴ・クロスレヴューがスタートすることとなった。ゲストにドラマーの橋本学を迎えた本年最初のセッションは、2011年度年間ベスト10発表を兼ねた一里塚ということになるだろうか。

 四谷音盤茶会が選出した2011年度年間ベスト10は以下の通り。注目されたミュージシャンは、クレイグ・テイボーン(p)、タイション・ショーリー(ds)、メアリー・ハルヴァーソン(g)、クリストファー・トルディーニ(b)、クリス・デイヴィス(p)、クリス・スピード(ts,cl)など。最後の「HIATUS」(ハイエイタスと読む)のみ、別枠で選盤された日本のロックバンドである。J-POPの枠内では理解されないだろう音の経験が盛りこまれたアルバムとして紹介された。音楽状況や音の聴き方を、大枠で組み替えるようなムーヴメントがなくなった現状において、ニューヨークも多様なものが多様なままにあるということでしかとらえられないようなのだが、そのなかでも益子の解説のいくつかには、最近の傾向を示すような言葉がいくつか語られていたように思う。そのコメントもリスト内に添えておくことにしたい。

(1)Farmers by Nature『Out of This World's Distortions』
(AUM Fidelity 067)    
(2)Tony Malaby's Novela『Novela: Arrangements by Kris Davis』
(Clean Feed CF 232)    
(3)Steve Coleman and Five Elements『The Mancy of Sound』
(Pi Recording PI 38)    

 ※[冒頭3タイトルのアルバムには、]あっているようであっていないような、あっていないようであってるみたいな感覚が[あり]、それぞれやり方は違うんだけど、きっちりあわせりゃかっこいいという感じが、どんどんなくなっているように思います。逆にみんな、あわせようとおもえばあわせられるテクニックは確実に持っているんだけど、それをわざとそうしない。 (益子)

(4)Tyshawn Sorey『Oblique - I』       (Pi Recording PI 40)
(5)Okkyung Lee『Noisy Love Songs [for George Dyer]』
(Tzadik Oracles TZ 7724)    
(6)The Clarinets『Keep on Going Like This』
(Skirl Records SKLRL 013)    
(7)Bill McHenry『Ghosts of the Sun』
(Sunnyside Communication SSC 1422)    
(8)Jeremy Udden's Plainville『If The Past Seems So Bright』
(Sunnyside Communication SSC 1277)    

 ※[ジェレミー・ユーディーンのように]こういう軽い感じで吹く人ってあまりいないんですよね。割合みんなアルトサックスは、ブリブリ吹きまくるタイプの人ばっかりで。個人的には、ポール・デズモンドみたいなテイストで、こういうのは残ってほしいなあと。 
 ニューヨークだと、ラテン系の人たちが、人数も多いってこともあってひとつの流れがあって、アルトサックスだとミゲル・セノーンというプエルトリコ出身の人が、いまとても人気があるんですけれど、まあ、昔ながらのラテンジャズだよねっていう感じなんですよね。で、もうひとつの勢力としては、インド・パキスタン勢がいて、これも移民がいっぱいいるからなんですけれど、ヴィジェイ・アイヤーとかですね、アルトサックスだとルドレシュ・マハンサッパがいて、あとギターのレズ・アバシとか、それもM-BASEみたいなものの流れで聴けるんで、一方の勢力としては、大きいし人気もあるんですけれど、そういうところに隠れてね、ちょっとこういう昔の、ふわっとした人っていないので、僕は貴重だと思うんです。(益子)

(9)Theo Bleckmann『Hello Earth! - The Music of Kate Bush』
(Winter & Winter 910 183-2)    
(10)the HIATUS『A World of Pandemonium』
(Iron Gear Records FLCF-4406)    

 特に、若手を積極的に登用してニューヨーク・ジャズの支柱になっていたポール・モチアンの死は大きな出来事で、「時間を伸び縮みさせる」特徴的なリズムを生み出すモチアンの経歴を述べながら、多田はある時代の終わりをいい、益子は支柱を喪失したニューヨーク・シーンの今後の予測不可能性について述べていたのが印象的だった。

 益子博之=多田雅範「四谷音盤茶会」は、本年度も定期的に開催していく。




※当日かけられた音盤の詳細なデータは、下記にリンクを張った「喫茶茶会記」の該当ページにあがっています。
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喫茶茶会記



2012年1月25日水曜日

富士栄秀也:The End Of The World


富士栄秀也
The End Of The World
~終わると、始まる~ vol.1
日時: 2010年11月7日(日)
会場: 東京/池袋「アトリエ・ベムスター」
(東京都豊島区池袋4-26-11 中本ビル 001)
開場: 3:00p.m.,開演: 3:30p.m.
料金: ¥1,500+order
出演
富士栄秀也(vo) 高原朝彦(10 strings guitar)
予約・問合せ: TEL.03-5950-2780(アトリエ・ベムスター)


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 池袋にある画廊やカフェを兼ねた小スペース、アトリエ・ベムスターは、池ノ上現代HEIGHTSのように半地下になった場所で、室内禁煙のため、玄関前にテーブルと椅子を出して喫煙スペースをもうけている。店内は細長いカウンターと喫茶スペースが奥まで縦に走り、つきあたりには屋内東屋といった感じの別室があって、シャッターのように、うえから引き下ろす間仕切りで半分まで隠れるようになっている。ここの壁面も美術作品の展示に使われるという。ベムスターが開店してからすでに六年目になるとのこと。カフェは「ie cafe」と名づけられていて、「ie」は「that is」の省略ではなく、カタカナ語で「イエ」=家と読む。隠れ家的スペースをアピールしているのであろう。現在、東京のいたるところに見られるこうした小スペースが、小規模のパフォーマンスや表現の発表の場となっていることで、即興演奏の公演形態にも、少なからざる変化が起きている。それは、音量、集客、宣伝規模はもちろんのこと、演奏そのものの質にも反映しているのではないかと思われる。

 ヴォイスの富士栄秀也にとっては地元になる、池袋のこの画廊カフェ “アトリエ・ベムスター” を会場に、新たなライヴ・シリーズ「The End Of The World ~終わると、始まる~」がスタートした。第一回目のゲストは、10弦ギターや、エフェクターに接続されたブロックフレーテで即興演奏する高原朝彦。数々のインプロヴァイザーとセッションしているダンサー亞弥を加えたトリオで共演しているものの、デュオ演奏はこれが初めてという。ふたりの相性はいいようで、おたがいを煽り立てるようにして演奏した前半(37分)と、ボサノバをパラフレーズしたり、ブロックフレーテでノイズ的な演奏をして方向をばらけさせ、共演者との間に距離を保ちながら演奏した後半(33分)というように、富士栄・高原のデュオは、ペース配分やサウンドのバラエティーにもじゅうぶん配慮した即興演奏を聴かせた。

 楽器からうかがわれるように、古楽やクラシカルなギター曲によって鍛えられたらしい高原の耳は、そのアグレッシヴさとは裏腹に、響きの細部にまで意識を届かせる洗練度を備えたものであり、奇妙な言い方になるが、ノイジーなサウンドで攻撃的な演奏をしているときにも、ギターはよく歌い、瞬間ごとに共演者と対話しようとしている。ギタリストの求める演奏の速度が、ときには暴力的に時間を引き裂いていくこともあるが、開かれた耳のありようとか、サウンドの細部に対する感覚は隠しようがない。その一方で、ギターの弓奏とか、ブロックフレーテの音をトリガーにしたサウンド・アート的な方向性には、エレクトロニクス世代の感覚が横溢していた。即興にいたる道というのは人さまざまだと思うが、もしかすると高原は、強烈な身体の突出を可能にする方法として、この音楽に魅了されたのかもしれない。

 かたや、天鼓のワークショップでヴォイスと即興を学んだ富士栄秀也は、自覚的には、方法論的なやり方をとらないようにしているという。でたところ勝負を貫くといったらいいだろうか。しかしながら、パフォーマンスのなかで、天鼓のスタイルをエピソード的に引用した部分を措くとしても、なにもないところからはじめる、道がなくなったところを歩くというやり方は、間違いなく師匠の即興ヴィジョンを継承したもののように思われた。それと対照的だったのは、天鼓の声質が、“咆哮” と呼びたくなるようなロックな部分、あるいは社会に対してもの申す女闘士的な(アマゾネス的な?)資質をあふれさせたものであるのにくらべ、富士栄のヴォイスは、もっとずっと繊細なもの、いわば内省的なものからなり、彼自身と深くかかわるいくつものためらいとともに演奏されていたことだった。天鼓の声が社会との闘い(社会的存在の獲得)であるなら、富士栄の声は自身との闘い(個人的存在の獲得)であるように聴こえたというふうにいってもいい。

 口もとから離している場合もあったが、富士栄は、基本的には、マイクとエフェクターで声に変調を与えながらパフォーマンスを構成するようである。エレクトロニクスによる声の魔術化は広くおこなわれているものだが、このことによって演奏者のしていることを、日常と非日常を往還する声というサウンドを、演奏スタイルのような器楽的なるものによって芸術化するのではなく、声の立ちあがってくる環境によっておこなうといってもいいように思う。どのようなサウンドであれ、それが聴くべきものであることを示すために、演奏者はなにがしかの聖別化をおこなわなくてはならないということなのだろう。

 マイクの効用はそれだけでなく、ヘッド部分を手のひらでこすったり、口をつけて口唇ノイズを作りだしたりといった演奏にも使われていた。誤解のないようにいっておくと、富士栄のヴォイスが方法論をもたないとか、でたところ勝負の演奏だといっても、決してでたらめに演奏されているという意味ではない。あまり意識していないかもしれないが、彼のヴォイスは、浪花節のような低音とファルセットで出される高音を、瞬時に往還しながらおこなわれる。よく知られた演奏家では、デヴィッド・モスが似たような声の往還をおこなう。モスの場合、二種類の声は、対話する声として対比的に構成されるが、ひとつひとつの声が経過的に出現する富士栄のパフォーマンスでは、一種の(バイオ)リズムのようなものを構成している。「アイシテル」とか「LR(エルアール)」とか、それがなんであれ言葉を思わせる音の連鎖を使うときに、中間域のヴォイスが使用されるのも印象的だった。

 第二部では、沖縄民謡のような歌も引用していたが、これにも中間域の声が使われていた。巻上公一や徳久ウィリアムのように、他者の声を引用して多声化するということはあまりしないようであるが、天鼓のようにまったくしないというわけではない。このあたりが後続世代ということなのであろう。声の引用をほとんどおこなわないため、曲想の展開が必要になる場面では、手数の多い高原のリードにその多くを負っていた。このあたりで発揮される阿吽の呼吸が、このデュオの妙味となるのであろう。


[初出:mixi 2010-11-08「池袋アトリエ・ベムスター」]      
[初出:mixi 2010-11-09「富士栄秀也:The End Of The World」]  

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アトリエ・ベムスター
 




2012年1月24日火曜日

キース・ロウ/ジョン・ティルバリー


KEITH ROWE & JOHN TILBURY
キース・ロウ/ジョン・ティルバリー
E.E. TENSION AND CIRCUMSTANCE
(potlatch, P311)
演奏: ジョン・ティルバリー(p) キース・ロウ(g)
録音: 2010年12月17日
場所: フランス/モントルイユ「レザンスタン・シャヴィレ」
エンジニア: ジャン=マルク・フッサ
発売: 2011年12月


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【プレスリリース】

 キース・ロウとジョン・ティルバリーは、即興音楽の領域に多大な影響を与えてきた伝説的アンサンブルAMMのメンバーとして、ともによく知られた著名人である。

 [抱えて弾くのが常識だったギターを、テーブルのうえに寝かせて操作する]テーブルトップ・ギターの発案者であるキース・ロウは、1965年にAMMを共同設立した。それ以降、少しだけ例示するなら、MIMEO、中村としまる、ラドゥ・マルファッティらによる、幅広いレンジのプロジェクトにかかわってきた。

 ジョン・ティルバリーは、著名な現代音楽の演奏家として知られ、ハワード・スケンプトン、クリスチャン・ヴォルフ、ジョン・ケージなどの作品を数多くレコーディングし、モートン・フェルドマンの作品については、最高の演奏者のひとりと言われている。1965年にティルバリーとロウが出会ったきっかけは、ともにコーネリアス・カーデューの「トリーティーズ」をBBC放送のために演奏するよう依頼されたからだったが、それ以来、ヴォルフやケージの作品を演奏するスクラッチ・オーケストラや、最も有名なAMMといったあれこれのグループで共演、プロフェッショナルとしての輝かしい関係を築いてきた。1980年前後になって、ティルバリーはAMMに参加する。

 2004年、ロウがAMMを脱退することになったのは、打楽器奏者エディー・プレヴォーとの間に確執が生まれたからだ。プレヴォーが二冊目のエッセイ本『Minute Particulars』のなかで、ロウの演奏に対する手荒い批判をおこなったことに激怒したのである。

 『E.E. テンション・アンド・サーカムスタンス』は、ロウとティルバリーにとって、この決別以来、あらためての出会いなおしを証言するもので、デュオとしての録音はこれが二度目となる。第一弾『Duos for Doris』(Erstwhile)は、2003年1月に、フランス・ヴァンドゥーヴルにあるCCAMスタジオで録音され、ティルバリーの母親に捧げられた。

 本盤の表紙を飾るドローイングは、すでに他界したキース・ロウの兄弟ミルフォード・ロウの手になるもので、ライナーノートは、キース・ロウ自身が母親アイリーン・エリザベス・ロウの筆跡をまねて書いたものである。


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 とても重いあれこれの鉄くずを体じゅうから紐でぶらさげ一時間ばかり、疲れたら途中休憩などを入れつつ、あれこれの鉄くずを地面に引きずり、かすかなノイズを立てながら、キース・ロウはゆっくりと歩みを進めていく。かたわらに寄り添うジョン・ティルバリーは、いそぐでもない旅に、同伴者と歩調をあわせながら、ポロンポロンと鍵盤を鳴らし、気のない歩みを重ねている。とまればとまるし、歩けば歩く。太陽は中天にかかり、額からはじっとりと汗が噴き出す。どちらからも、何も言い出さない。鉄くずを地面に引きずる金属の音ばかりが、いつまでも響いている。

 演奏をどうしようという気もなく、またデュオであることの意味をさぐる(いまさらさぐるものなどあるのだろうか?)というのでもなく、これまでそのようにしてやってきたように、これまでそのようにしてやってきたから、今日もまたいっしょに歩くだけというなんでもなさは、そこに響くサウンドを、異様なまでに透明度の高い、澄んだものにしている。ジャケットの表紙を飾る兄弟の画、ライナーノートの母の筆跡というように、キース・ロウのふるまいは、おそらくどれも彼固有の記憶と強く結びついたもののように思われるのだが、アルバムのどの一瞬をとりあげても、演奏は描写的・説明的なものではなく、サウンドそのものが喚起する見たことのない他者性で、聴き手の耳を打ちつづける。

 あまりの所在なさに、ティルバリーは、気のない歩みのテンポを変えることはないものの、ピアノ線を直接はじく、弦をミュートする、ボディをかすかにたたく、鍵盤の右端だけを使って音質を変化させる、というようなことをする。そしてそれは、音に形があることによって、たとえその場かぎりの思いつきであったとしても、まるで即興語法のように響いてしまう。聴き手によく知られている音の形を拒否して、ピアノ線にe-bowをあてたとしても、それはたちまちのうちに語法と化していってしまうだろう。ピアノで即興演奏することは、それほどに至難の業である。

 デレク・ベイリーの演奏スタイルがそうであるように、ここでもふたりの即興演奏は、還元的ということができるだろう。もちろんこれは、サウンドへの還元という原理主義のことを指すのではなく、音楽から、起承転結や序破急というような物語性(文学性)を抜きさったところに、サウンド・プラトーを実現しているという意味である。緊張感と環境という、あいいれないものが同居する。ここでは時間は過ぎていかない。聴き手はずっと変わることのない風景を眺めることになる。これまで味わったことのない時間経験として。

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POTLATCH
 




2012年1月23日月曜日

Bears' Factory vol.11 with 黒田京子


Bears' Factory vol.11
高原朝彦&池上秀夫 with 黒田京子
日時: 2012年1月22日(日)
会場: 東京/阿佐ヶ谷「ヴィオロン」
(東京都杉並区阿佐谷北2-9-5)
開場: 7:00p.m.,開演: 7:30p.m.
料金: ¥1,000(飲物付)
出演: 黒田京子(piano)
高原朝彦(10string guitar) 池上秀夫(contrabass)
予約・問合せ: TEL.03-3336-6414(ヴィオロン)


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 10弦ギターの高原朝彦とコントラバスの池上秀夫が、阿佐ヶ谷にあるレトロな音楽喫茶「ヴィオロン」を開催場所に、2009年12月から3年越しにつづけているライヴ・シリーズ「ベアーズ・ファクトリー」は、ふたりがこれまで共演したことのないアーチストをゲストに迎えておこなう即興セッション・シリーズである。これまでに、中尾勘二(perc)、森順治(sax)、田村夏樹(tp)、林栄一(sax)、佐藤行衛(g)、矢野礼子(vln)、広瀬淳二(ts)、岸洋子(dance)、沢田譲治(b)、山崎弘一(cello)などと共演している。1980年代ニューヨーク・ダウンタウン・シーンで、すでに故人となったトム・コラと、現在は日本に拠点を置いて活躍しているサム・ベネットが結成していた “サード・パースン” を思わせる趣向である。シリーズ名に「ベアーズ」があるのは、ふたりの体型がそろってクマに似ていると、ピアニストの新井陽子にいわれたからという。高原と池上の共演は10年前にさかのぼるというが、「ベアーズ・ファクトリー」以前に、デュオで活動する期間があったということではないようである。演奏活動をするためのネットワークが重なっていたと理解すべきなのだろう。

 阿佐ヶ谷の北口商店街に店を構える音楽喫茶「ヴィオロン」は、店の外側も内側も、レトロな調度品にあふれた雰囲気のある店で、もともとSP盤を含むクラシックの音盤を、高級なオーディオ機器で聴かせる店としてスタートしたが、最近では、自主的な演奏活動をするミュージシャンたちに場所を貸し出すことがメインになっている。しかしながら、名盤鑑賞会は、いまもつづけられているとのこと。コーヒー代が350円、食べものの持ちこみは自由という経営をしている。電気楽器類の使用はいっさい厳禁で、補助的なアンプの使用にも交渉が必要となる。基本的にはアコースティックな環境で演奏することが条件になっている。テーブル二台ばかりが置かれた、部屋の中央のアリーナ状になった平土間を、高い木組みの回廊が取り囲むという建築構造で、回廊の縁に手すりがついているために、下の土間は、まるで裁判所にある被告席のような印象を与えている。部屋の奥に巨大なオーディオ機器が置かれ、アップライト・ピアノが木組みの回廊の上手側に置かれている。ライヴ会場にしては特異なロケーションというべきだろう。

 第11回「ベアーズ・ファクトリー」公演には、ピアニストの黒田京子が招かれた。演奏の進行にかかわる特別な打ち合わせはなく、音量を確認するていどの簡単なサウンド・チェックだけで本番にのぞむ。おそらくゲストを立てようとしたのだろう、初手あわせとなった前半は、ホスト役のふたりが黒田の出方をうかがうピアノ・トリオ風の演奏となる。黒田のピアノが提示する構造の内側に身を置きながら、細かなサウンドを使って内声を変化させていくミクロな展開といったらいいだろうか。10弦ギターの高原朝彦は、クラシカルな楽曲にも通じているが、即興演奏をする場合、様々な小道具を使って弦をプリペアドするのとおなじ効果を与えながら、カラフルでノイジーなサウンドを追究しているようである。以前に聴いたときにも感じたことだが、ピックを使わず、十指が弦のうえを疾走していくという演奏の様子は、めまぐるしさとスピード感と瞬発力にあふれた独特のものだ。やはりアコースティック・ギターを使う今井和雄ならば、似たような疾走のエネルギーが、どこかで熱量に変換していくという印象なのだが、高原にはそうした側面がない。これは10弦ギターを使用していることとも関係するのだろう、どこまでも音色に焦点があたっている。

 かたや、池上秀夫のコントラバスは、彼の実直さをそのまま絵に描いたような誠実さにあふれたものである。楽器が性格を作るのか、そのような性格が楽器を選択させるのか、つねに受けて演奏を構成する池上は、これもまた以前に感じたことだが、相手の演奏に攻めこむということが極端に少ない。ジャズやフリージャズならともかく、彼がいま指向しているインプロヴィゼーションでは、もう少し別の対話スタイルが求められるはずである。こうした印象には、会場の特性や立ち位置の制限から、(私の座った後方の席まで)低音部があまり響かなかったことが原因しているかもしれない。後半は、黒田がかなり意識的に共演者を先行させるよう、演奏に注文をつけ、ありようは前半よりもずっと自由なトリオ・ミュージックになったように思われた。高原朝彦の芸域の広さ、音楽に対する欲求の多面性、あるいはジャズとフリー・インプロヴィゼーションの中間に位置している池上秀夫の資質などが、よりストレートに前面に出たと思う。それにしても、即興演奏がどんな展開になったとしても、それをけっして平凡なパターンに流しこむことなくまとめあげる黒田の構成力は、格段に “進化” していた。彼女もまた、つねに精進することを怠らない、真摯な演奏家のひとりである。

 次回の「ベアーズ・ファクトリー」には、ふたたびサックス奏者の森順治を迎える。

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2012年1月22日日曜日

宵(酔い)どれ黒海周遊ジャズツアー 十番目の航海

左から、泉秀樹、岡島豊樹、片岡文明の諸氏


宵(酔い)どれ黒海周遊ジャズツアー
第10回ウィンター・ヴァケーション篇:イタリア特集第2回
イタリア・フリーその後
featuring
イタリアン・インスタービレ・オルケストラ
会場: 吉祥寺「サウンド・カフェ・ズミ」
(東京都武蔵野市御殿山 1-2-3 キヨノビル7F)
開演: 2012年1月15日(日)5:00p.m.~(3時間ほどを予定)
料金: 資料代 500円+ドリンク注文(¥700~)
添乗員: 岡島豊樹(「ジャズ・ブラート」主宰)、片岡文明
主催: サウンド・カフェ・ズミ


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 昨年末、聖夜の晩に開かれたイタリア特集第1回「SUDから来た男とイタリア・フリーの流れ」は、1960年代、70年代の貴重なアナログ盤を多数所蔵している片岡文明が中心となって、1990年代のイタリアン・インスタービレ・オルケストラ結成へといたるイタリア・フリージャズの原点を、ジョルジォ・ガスリーニ、マリオ・スキアーノ、エンリコ・ラーヴァといった巨匠たちのアルバムで再確認するというものだった。1月15日に開催されたイタリア特集第2回「イタリア・フリーその後」は、ナビゲーターを岡島豊樹にバトンタッチし、イタリア半島の靴の踵あたりに位置するルヴォ・デ・プーリアを拠点にするピノ・ミナフラの提唱によって、イタリアン・インスタービレ・オルケストラに結集することになった新旧のメンバーを中心に、現代イタリア・ジャズの諸相を総覧する回となった。

 選曲はイタリア音楽の独自性を意識したものだったため、西ヨーロッパで花開いた即興シーンとの交流よりも、むしろ郷土意識の強い音楽作りの側面に光があてられる格好となった。「90年代が進む中、イタリア・ジャズ・シーンでは、オーソドックスなバップ系ジャズメンの中にも、『イタリア性』『地中海的多様性』『南イタリア性』を打ち出す人が増えはじめました。」(当日配布のレジュメより)サウンド・カフェ・ズミの泉秀樹が、ニュージャズ/フリージャズが開いたインターナショナリズムに力点を置いた議論を展開するのと比較すると、この「地中海的多様性」は、岡島の紹介にあるように、あくまでも「再発見された地中海」であり、対抗文化的な意味合いを持されたインナー・マルチカルチュアリズム(地中海が内海であることをふまえた「インナー」という意味だが、ポストモダンの議論を視野にいれたうえで、あえて翻訳するなら「内破する多文化主義」ということになるかもしれない)というように定義できるのではないかと思われる。フリージャズの伝統がイタリアに引き継がれていったというよりも、むしろそこで一度「反転」しているのではないかという印象を強く受けたのである。地中海の影すら見えなかった西ヨーロッパの即興シーンでは、国別の音楽圏の特徴が前面に押し出され、今にいたるまで、イタリアで起きたような出来事は生じていないように思われる。

 当日かけられたアルバムは以下の通り。

(1)Carlo Actis Dato Quaretet『Delhi Mambo』(YVP, 1998年)
(2)Roberto Ottaviano『Aspects』(Ictus, 1983年)
(3)Enrico Rava/Massimo Urbani『Live at JazzBO '90』
(Philology, 1990年)     
(4)Gianluigi Trovesi & Paolo Damiani『Roccellanea』(Splasc(h), 1983年)
(5)Paolo Damiani Opus Music Ensemble『Flashback』(Ismez, 1983年)
(6)Gianluigi Trovesi & Janni Coscia『Radic』(Egea, 1995年)
(7)Pino Minafra Quintet『Colori』(Splasc(h), 1985年)
(8)Pino Minafra『Quella Sporca 1/2 Dozzina』(Splasc(h), 1989年)
(9)Carlo Actis Dato Quartet『Ankara Twist』(Splasc(h), 1989年)
(10)Italian Art Quartet『Italian Art Quartet』(Boxes Ed., 1987年)
(11)Geremia - Tommaso - Damiani『Italian String Trio』
(Splasc(h), 1993年)     
  ※イタリア・ジャズの郷土意識を聴く
(12)Nexus『Free Spirits』(Splasc(h), 1994年)
  ※Nexus:Daniele Cavallanti, Tiziano Tononi
(13)Eugenio Colonbo『Giuditta』(NelJazz, 1995年)
  ※「Giuditta」は『聖書外伝ユデット書』を素材にしたもの。
(14)Italian Instabile Orchestra『Live in Noci and Ruvo de Gier』
(Leo, 1992年)     
   ※インスタービレ・オルケストラのアルバム・デビュー盤。
(15)Italian Instabile Orchestra『Litania Sibilante』(Enja, 2000年)

 【現代イタリア・ジャズの諸相 - バーリ、ナポリ、サルディーニア、シチリア】
(16)Pino Minafra Sud Ensemble『Terronia』(Enja, 2005年)
(17)Daniele Sepe『Viaggi fuori dai paraggi』(Il Manifesto, 1996年)
(18)Marco Zurzolo『Ex Voto』(Egea, 2000)
(19)Paolo Fresu, Antonello Salis and others『Sonos'e Memoria』
(ACT, 1996年)     
(20)Gianni Gebbia『The Mystic Revelation』(Curva Minore, 1990年代)
(21)Giorgio Occhipinti『The Kaos Legend』(Leo, 1993年)

 なるほどジョルジォ・オッキピンティのピアノには強いジャズ色が感じられるものの、現代イタリア・シーンの諸相に触れてみると、郷土性を意識する彼らが、モダニズムとして受容したニュージャズ/フリージャズを内破していった先にあるものは、総じて「イタリアン・ポピュラー・ミュージック」としか呼びようのない、(ジャズをその一部に持つ)複雑な音楽の混合体だといえるのではないだろうか。「宵(酔い)どれ黒海周遊ジャズツアー」は、ジャズと世界音楽の接点において、このようなことが日常的に起こっていることを紹介してきたということであろうが、ニュージャズ/フリージャズを大きく特徴づけた、モダニズムやアヴァンギャルドの精神から接線を引いてみるとき、合衆国はもとより、西ヨーロッパにも、また日本にも、こうした音楽の混合体が生まれているようには見えない。波の彼方からなにがやってくるかわからない、広大な無意識とも呼べるような地中海に半身を(もしかすると「全身を」かもしれない)浸したイタリアの土地柄は、「土着と近代」という有名なテーマが、音楽においても全面衝突する文化のメルティング・ポットになっているということなのだろう。

 第11回の「宵(酔い)どれ黒海周遊ジャズツアー」は、バルカン・旧ユーゴ系の音楽を特集する予定とのこと。

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吉祥寺サウンド・カフェ・ズミ
 

2012年1月21日土曜日

パール・アレキサンダーのにじり口


Pearl Alexander presents "Nijiriguchi"
パール・アレキサンダー:にじり口
日時: 2012年1月15日(日)
会場: 東京/新宿「喫茶茶会記」
(東京都新宿区大京町2-4 1F)
開場: 2:30p.m.,開演: 3:00p.m.
料金/前売り: ¥2,300、当日: ¥2,500(飲物付)
出演: 
パール・アレキサンダー(contrabass)
中村としまる(no-input mixing board)
予約・問合せ: TEL.03-3351-7904(喫茶茶会記)



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 コントラバス奏者パール・アレキサンダーが、喫茶茶会記で新たにスタートしたコンサート・シリーズ「にじり口」のタイトルは、背を低くして、にじりながらでなくては入ることができない茶室の入り口のことで、おそらくは公演場所にちなんでつけられた洒落なのであろう。しかしそればかりではなく、茶室のように極小の空間が、それ固有の美学や宇宙観を持っているように、「音の隠れ家」という銘のはいったプレートが玄関に掲げられたこの場所も、おなじように主宰者の美学や宇宙観によって彩られていること、そこでおこなわれるライヴ・パフォーマンスは、茶の湯をふるまう儀式のなかに凝縮されたコミュニケーションと同質の濃密さをたたえたものである(べき)ことを含意している。フリー・インプロヴィゼーションが最もその特質をあらわにするデュオという形式にとって、幅広で、天井の威圧感がなく、PAなしでも部屋の隅々にまでじゅうぶんに音が届く喫茶茶会記は、最適の環境を提供する場所のひとつといえる。

 記念すべき第一回のゲストは中村としまるだった。公演はそれぞれ30分程度の演奏を前半と後半にわけておこない、アンコールはなし、ライヴの最初と最後には、主催者のパール・アレキサンダーから簡単な挨拶があった。通常の即興セッションにしては短めのライヴといえるだろうが、これまで経験してきた中村としまるの即興セッションのなかには、さらに短く凝縮されたパフォーマンスがあったので、演奏時間について極端な印象は受けなかった。そのときは、たしか20分の2セットと記憶しているのだが、張りつめた演奏を聴いたあとで、それでも音楽の満足度とは別に、演奏時間が短かすぎることは気にならないのかということを、中村に直接たずねたことがある。内容より時間を気にするあまり、不必要な演奏をして結果がよくなくなるのだったら、短いほうがずっといいではないかというのが彼の返答だった。また、最近では、演奏がだんだん短くなっていく傾向にあるともいっていた。このような時間の(あるいは時間経験の)凝縮傾向は、けっして気分や気まぐれの問題ではないだろう。

 短歌や俳句に見られるように、表現を節約して余白を大事にするというのは、日本人の伝統的な美学にもなっている。中村としまる本人は、音響的即興にひとくくりにされるような日本人の演奏の背後に、日本文化の特殊性を読むことに懐疑的だが、そこに欧米の演奏家にはない、あるいは欧米の演奏家とは、発想の点においてどこかずれてしまう、身体化された(ということは、演奏者が意識していなくても、ということである)独特なサウンド構成のやり方があることは間違いないように思われる。あるいは、おなじような演奏をしても、流れのなかでの意味づけがまったく違っているという言い方もできるだろうか。

 様々なタイプのミュージシャンと幅広く共演しているパール・アレキサンダーのインプロヴィゼーションは、現場で鍛えあげられ、日進月歩の勢いで進化/深化している。聴くたびに、彼女のなかの違う側面が、少しずつあらわになりつつあるように思う。積極的な活動は、30歳を目前にして、ひそかに期するところもあるのだろう。その意味では、コンサート・シリーズ「にじり口」は、彼女の新たなステップというべきものなのである。ライヴの前半は、おそらく中村としまるがしかけた趣向で、意識的に演奏のタイミングをはずし、距離をとってサウンドを提示しあうような演奏になった。ギタリスト秋山徹次との “蝉印象派” デュオでは、余白をきわだたせる美学が前面にせりだしてくるところであるが、アレクサンダーは、フリー・インプロヴィゼーション風のサウンド構成をしながら、時間的な対話を求めたために、それこそ “にじり口” が見つからないといったふうだった。人の演奏ではなく、場に聴き耳を立てる(あなたの演奏でもなく、私の演奏でもないような場所を埋めているものに、聴き耳を立てる)という、これは聴き手にも意識の再チューニングが求められる場面である。

 ライヴの後半は、お互いがより積極的にサウンドをぶつけあっていく演奏が展開された。ひとしくノイズを扱うとはいえ、コントラバスの特殊奏法はなおもエクスプレッシヴな演奏(音を自分の内部に置く)であり、新しい音響ガジェットの接続で、意図的に不確定要素を導入するエレクトロニクスの演奏は、すでに一般的な楽器とみなされるようになったとはいえ、その本質においてあくまでも操作的なもの(音を自分の外部に置く)である。これが初共演のデュオは、エレクトロニクス環境(地)のうえにコントラバス演奏(図)を置くというような、安易な役割分担に陥ることはなかったものの、このような楽器特性の間に、どのような “にじり口” が作れるのかを、じゅうぶんに示すことはなかったように思う。この問題へのアプローチは、おそらくインプロヴァイザーとして充実した演奏活動をしているパール・アレキサンダーが、やがて即興そのものの概念を塗り替えていくようになる時点で、可能になるのではないかと思う。


※「にじり口」フライヤーの写真とデザインは山田真介。 

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喫茶茶会記