2014年5月29日木曜日

ヒグマ春夫の映像パラダイムシフト Vol.59 with 佐藤ペチカ


ヒグマ春夫の映像パラダイムシフト Vol.59
ゲスト:佐藤ペチカ
日時: 2014年5月28日(水)
会場: 東京/明大前「キッド・アイラック・アート・ホール」
(東京都世田谷区松原2-43-11)
開場: 7:00p.m.、開演: 7:30p.m.
料金/当日: ¥2,000
出演: 佐藤ペチカ(dance)
照明: 早川誠司
予約・問合せ: TEL.03-3322-5564(キッドアイラック)



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 長期間にわたって持続されている「ヒグマ春夫の映像パラダイムシフト」の第59回が、528日(水)明大前キッドアイラックアートホールで開催された。各回ごとに、さまざまな分野から迎えたゲストとのパフォーマンスをおこなう実験的映像インスタレーション展だが、今回はダンサー佐藤ペチカが登場した。ふたりは2009年以来の共演とのこと。縦長のキッドの会場を横に使い、入口のある壁と、反対側の壁の二面に観客席を寄せて中央に広いスペースをあけ、通常ならばステージ、観客席それぞれの背後となる壁をスクリーンにして、おなじ内容の映像が投影された。映像はキッドを撮影場所にしたもので、(1)扉が開いたままのエレベーター内で肩倒立する佐藤ペチカ、(2)4階と5階をつなげる外づけ階段を、頭を下にして這い降りてくる佐藤ペチカ、(3)カニが横ばいするクローズアップ映像を加工したもの、などである。スクリーンの前とステージ中央には、映像を邪魔しない程度の植物が置かれ、細い光のラインがスクリーンのうえを斜めに横切って走っていた。アラブ風の衣裳を身に着け、奈落から登場したペチカは、公演冒頭、ペデュキュア、マニキュアをほどこし、青緑色の絵の具で、左頬の眼のしたから顎にかけ、太くあざやかな涙のラインを引いたあと、会場内のあちこちで肩倒立する動作を反復しながら、公演の終わりまで立つことなく、床のうえを反時計まわりに這いずっていくパフォーマンスをおこなった。

 こうした展示スタイルに慣れていない観客のためだろう、最後の挨拶のとき、ヒグマはいつも、簡単な公演趣旨の解説を例としている。この日は身体と映像の「関係」を問題にしたとのことで、その場で佐藤ペチカに感想を求めていた。これは関係を問題にしてはいても、どのような関係を問題にするかは、共演者や観客の判断にゆだねられていることを意味するのだろう。床を這いまわる身体も、エレベーターや階段で逆さまになる身体(映像)も、なにかの表現というよりむしろ無意味な行為として提示された。その結果、観客の視線は、ダンサーの佐藤ペチカや反復される肩倒立の動作、あるいは身体の影をスクリーン上に重ねる行為などによって、身体と映像を「関係」づけるよう誘導されることになった。しかしながら、これらは疑似餌のようなもので、故意か偶然か、より深部にあるもうひとつの関係を隠す働きをしたように思う。公演を成立させるこの深部の関係は、あたかも「額縁」のようにしてあり、観客の視線を作品内に留める役割を果たしていた。それを簡潔にいうなら、映像は──あるいは絵画は──直立し、身体は横臥する、ということになるだろう。縦横のこの関係を崩すことなく、反復される肩倒立にポイントを置いて、佐藤ペチカは動きを構成していた。

 しかしながら、佐藤ペチカ(の身体)はルールを守っていただろうか?  ステージ中央で、あるいは壁に足を投げかけながら、執拗に反復された肩倒立は、たしかに「逆立ち」ではないにしても、やはり立つことに違いないのではないだろうか?  あるいは、映像のなかのカニの横ばいにしても、ビデオが俯瞰するからそう見えるのであって、カニの視線に立つならば、彼は/彼女は、はたして這っているといえるのか?  もしかして立っているのではないだろうか?  おそらく佐藤ペチカは、「横臥」という条件を満たしながら、直立するスクリーンの映像に、倒立する身体を対置したのではないかと思う。この動作は、「直立と横臥」という関係性の延長線上にあるものではなく、身体の反撃めいたもの、直立する映像に対するノイズとして出現していたように思う。化粧というより濃い隈取りのようなフェイスペインティング、グリーンをメインカラーにしたステージ衣裳、衣裳についた飾りがたてる響き、ドタドタと音をたてる床上での横転、七転八倒、そしてもちろんスクリーンの映像にみずからの影を重ねること──こうしたことのすべてが、まるで直立する映像に嫉妬して、観客の視線を映像から引き離そうとするかのように、誘惑的に、ノイジーにおこなわれた。

 「映像パラダイムシフト Vol.59」における映像と身体の関係には、共同作業と拮抗という、補いあうことのない二つの側面があり、そのひとつは、直立する映像と横臥する身体の関係によって、観客の視線を額縁の内側に留め置き、映像インスタレーションを成立させるものとしてあらわれ、もうひとつは、そのような目に見えない枠組みをはみ出して額縁に触れる身体の過剰さとしてあらわれた。そこでの佐藤ペチカのパフォーマンスは、映像に対して嫉妬深く、執拗で、誘惑的なものに見えていた。パフォーマンスを鑑賞する観客の視線は、他者のパースペクティヴに他ならない映像が身体を(至近距離で)まなざす視線と、目の前の身体を見るみずからの視線との間で股裂きにあい、そのようにして裂かれるみずからの身体の存在を強く感じながら、単一の視覚体験を複数化して出来事へと接近していく。他者の視線(映像)は欲望されるものとしてあり、自己の視線(身体)は誘惑されるものとしてある。「映像パラダイムシフト Vol.59」では、これらの視線が交互に前面化して、観客を不安定さのなかに宙づりにしていた。

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2014年5月27日火曜日

kawol+木村 由@白楽Bitches Brew


kawol木村 由
日時: 2014年5月26日(月)
会場: 横浜/白楽「Bitches Brew」
(横浜市神奈川区西神奈川3-152-1 プリーメニシャン・オータ101)
開演: 7:30p.m.、開演: 8:00p.m.
料金: ¥3,000(1飲物付)
出演: kawol(guitar) 木村 由(dance)
予約・問合せ: TEL.090-8343-5621(Bitches Brew)



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 ギタリストのkawolとダンサー木村由の初共演は、「アーバン/cruel」と題されて、昨年の106日(日)に、木村の活動拠点のひとつとなっている、神田岩本町のギャラリーサージでおこなわれた。開演前の時間帯を利用して、ギタリストが写真撮影した都市の風景が壁に投影されたこと、また演奏家が広い会場を歩きまわる展開など、結果的には、木村がkawolの表現空間のなかに入るような公演になったといえるだろう。この出会いから半年、526日(月)に、白楽ビッチェズブリューの極小空間で、因縁のこのふたりによる二度目のセッションが開催された。断続的に降っていた小雨は、ライヴ中に本降りとなった。間歇的に鳴らされるギターの響きに重なる雨音。ステージの背後に開ける二階の窓からは、表壁のネオン管に照らされて店舗前の路地をゆく人の傘がのぞいていた。そんなうらさびれた雰囲気も手伝ってか、この晩の共演は、音楽もダンスも乱離骨灰となって飛び散ったあとの荒れ地で、ふたりの狂人が、音楽ではない音楽を奏で、踊りではない踊りを踊っているような不気味さを感じさせるものとなった。まるで壊れてしまった二体の人形が風に揺れ動いているような音と動きの連続(あるいは不連続)といったらいいだろうか。

 木村が岡田隆明から譲り受けたオレンジ色の面は、別に彼女が常用している能面とは違って、なにかを象徴するようなとっかかりがなく、のっぺらぼうのように無個性的でありながら、おそらくはそのためだろう、かえって強い場の支配力を感じさせるものとなっている。パフォーマンスに臨み、化粧や髪型も含め、顔をどのようなものに取り替えるかは、木村にとって重要な選択肢のひとつとなっている。舞踏の白塗りが、踊り手の個性を消去することで、身体を抽象的な位相に転生させたり、異形のものに変成する危機的な身体が目の前で生きられていることを暗示するのにも似て、木村の変身は、ひとつの身体が複数のものに開かれていく喜びの感情とともに、身体を彼女自身から逸脱させる装置なのである。オレンジ色の面は、おちょぼ口をしており、それが無個性なはずの顔にひょっとこのようなおかしみを与えている。「おかめひょっとこ」という伝統的な男女顔のペアを下敷きに、「絶光OTEMOYAN」に登場するおてもやん(メイク)との対称性を指摘するべきかもしれない。セッション冒頭で、赤いワンピースを着た木村は、このオレンジ色の面をかぶり、椅子に腰かけて演奏者と斜めに相対するところからスタートした。

 この晩、少しだけ電気的なエコーをつけて、生ギターを演奏したkawolは、前半のセットで、断片的に鳴らされるフレーズとフレーズの間に、じゅうぶんな距離を確保しながら、アンチ・クライマックスの音楽を坦々と紡ぎだしていった。ときどきくぐもった声を出したり、演奏をやめて右手を動かし、座ったままで手踊りしてみせたりというようなこともあった。いずれもkawolの即興語法の範囲内にあるもののようだ。オレンジ色の面をかぶった木村は、椅子に座っていくつかの動きをためしたあと、おもむろに立ちあがり、窓際に寄せた椅子のうえに足を乗せ、窓枠に腰かけて演奏者を高い位置からのぞきこんだり、椅子のうえに立ちあがって、窓のうえにある棚に手を伸ばすと、そこに並べられていたCDをごそっと床におろして演奏者の周囲にならべたりした。この挑発にkawolは動じる様子もない。面をはずした木村の動きは激しくなり、片隅に寄せてあった店置きのアンプ類や空いている椅子をガラガラと動かし、ステージ中央に積みあげて会場を倉庫のように模様替えすると、今度は椅子のうえに乗ったまま、かたわらのアップライトピアノのうえに、何脚かの椅子を逆さにして乗せはじめた。こうした模様替えパフォーマンスをその後もつづけた木村は、塗り替えられた景色のひとつひとつに、みずからの身体を点描していくような感じで、kawolの前に背中を向けて座ったり、ピアノ椅子を足を乗せるスツールがわりに使うなどして、踊りではない踊りを展開していった。

 セッション後半では、暴れまくった感のある前半とは真反対の、ドラスティックな変化が訪れた。顔を白粉でまだら塗りにした木村は、前半の衣裳のうえに着物を羽織り(途中で脱いだ)、kawolと対角線の位置にある椅子の背もたれに高く腰かけ、共演者を山頂から見下ろすようにしながら、視線を自身の内部に向け、徹頭徹尾、静かに動いていく踊りを展開したのである。顔の角度や身を傾ける角度のわずかな変化、ゆっくりと手踊りするような両手の表情、動きのなかに出現する老婆のイメージ、強いライトの光に顔をさらし、右手で悲しげに顔の右側をおおい、高い椅子に乗って、肩まで天井につくような大女を出現させるなど、ミニマルな感覚の変化をていねいにたどりながら豊かなイメージを表出させるという、木村ならではの踊りが展開された。こうした木村の変化を受けてか、kawolの演奏も、前半の断片的なアプローチから連続的なものへと変化し、自身の内面に集中していた。実質的には、凝縮された20分ほどのデュオ演奏だったと思うが、おそらく弾き足りなかったのだろう、kawolがその後もソロで10分ほど演奏をつづけたため、いったん退場した木村がステージに戻り、終わりを待つ幕切れとなった。初回の公演は、歩きまわるkawolの動きが、木村の踊りを壊してしまうといううらみが残ったが、今回の再会は、それぞれのやり方を堅持してぶつけあうものになったと思う。




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2014年5月11日日曜日

縫部縫助@自然は実に浅く埋葬する2


深谷正子 ダンス エスキース
自然は実に浅く埋葬する
第二夜: 縫部縫助
日時: 2014年5月10日(土)
会場: 東京/六本木「ストライプハウスギャラリー」
(東京都港区六本木5-10-33-3F)
開演: 7:00p.m.、開演: 7:30p.m.
料金/一日券: ¥2,000、通し券: ¥5,000
出演: 縫部縫助(dance)
(玉内集子、奥田純子、長谷川六、岡田隆明、
UIUI[友井川由衣・曽我類子]、佐藤ペチカ)
作・演出: 深谷正子、照明: 玉内公一
衣裳協力: 田口敏子、写真: 阿波根治 (株)スタッフテス
ビデオ: 坂田洋一、フライヤーデザイン: 沼田
主催: 深谷正子  ダンスの犬 ALL IS FULL
企画: 長谷川六
協力: ストライプハウスギャラリー



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 59日(金)から513日(火)までの五日間、六本木ストライプハウスの三階にあるバルコニーつきの小さなギャラリーで、長谷川六が企画し、深谷正子が作・演出したダンスエスキース集「自然は実に浅く埋葬する」が開催された。日替わりで出演する8人のパフォーマーで構成される6つの公演は、(未見の奥田純子公演をのぞくと)いずれも演劇的なドラマツルギーを持たない場面の連結として構成され、演出家のものではない、ひとつの(あるいはふたつの)身体との対話や抗争から生まれる動きに焦点をあてる、文字通りの「スケッチ集」だった。何本もの彩筆によって描き出される印象的な6枚のスケッチを、日々に重ねていくにしたがって、観客の視線にも、その骨格をなすひとつの筆致らしきものが見えはじめる。深谷の振付・演出で特に重要と思われたのは、どのスケッチにおいても、身体の静止、動作の反復などの手法が、滞留する時間を生み出したことである。これは流れゆく(物語的な)時間軸に沿って展開していく出来事から、ダンスを解き放つものとして働いたように思う。スケッチそのものに物語が想定されていないことはもちろん、放っておけば、自然にドラマチックになろうとする身体からも、物語を遠ざけておく装置のようなもの。

 本企画に参加するメンバーは、これまでにも深谷と共同作業を重ねてきたダンサー/身体表現者たちである。日替わりパフォーマンスに共通する条件のひとつに、イベントそのものを象徴する深谷製作のオブジェと、それをさまざまな方角から描いた4枚の画があった。動物的な雰囲気を放つ奇妙なオブジェは、透明ビニール袋の身体を持ち、そのなかに入れられた水は、原生動物の腹に透けて見える内臓のようだった。赤いテープでぐるぐる巻きにされたビニール袋の口は、なにより水が漏れないようにとの配慮であろうが、なにかの動物のくちばしのようにも見えれば、舌にも、尻尾にも、性器にも見える、つまり、身体の出入口に生える触角のような、極めてデリケートな器官のように見えるのであった。三つの要素からなるキメラ的形象。すべてのスケッチに共通する小道具であるそれが、動物的な臭いを放っていることを気づかせるのは、床のうえにクタッとなっているそれそのものではなく、画廊の壁にかかった4枚の画である。画のなかのオブジェは、赤い触角に細かい毛のようなものを生やしており、動物の身体の生々しさ、卑猥さを、描きこんだものとなっている。公演のなかで手荒く扱われるオブジェは、ビニールの皮膚が傷つき、内臓の水が漏れ出てしまうところから、日々にその数を増していくこととなった。

 第二夜には、本名の「憲治」から改名したばかりの縫部縫助が登場。おそらく五日間のうちでもっともシンプルな踊りが踊られ、余計なことをほとんどすることのないストイックな動きによって、ダンスの構造がむき出しになる公演となった。玉内集子が踊った初日公演で、会場の中央に縦に一列に並べられた三脚の椅子は一脚となり、残りはバルコニーに出された。(1)椅子を背にして直立する姿勢、(2)両肘を張りつつ上半身を手前に低くかがめていく鳥のような形、(3)起きあがりながら椅子に身体をあずける不安定な演技、というようにセットになった一連の動きを、奥の小窓の前(観客席に向かって)、ステージ下手(やや下手向き)、ステージ中央(やや上手向き)、奥の小窓の前(窓に向かって)など、複数のポイントに椅子を移動して反復。そのあと、大きな水音をさせながら、オブジェを椅子のうえに置く動作をくりかえすなかで、下手側の床に倒れこんでゆっくりと起きあがったり、椅子の下を抜けて反対側に顔を出し、顔だけでビニール袋を押したり、立ちあがってやや激しい踊りをしたり、ふたたび床に倒れこみブリッジをしながらダンスをしたりした。そこから、床に座ったまま壁際まで後退、顔をまっすぐ正面に向けたまま、かなり長く静止していた。ライトがゆっくりと変わりつづけ、縫部に影の変化をつけていく。最後は、オブジェを持ってベランダに出ると、暗転した室内に顔を向けながら、ガラス窓に近く端から端へ移動したところで終幕。抑制された演技と刈りこまれた動きが、身体の静かさを印象づける公演だった。

 「憲治」時代におこなわれた縫部縫助のソロ公演『ランゲルハンス島』(201398日、中野テルプシコール)を参照すると、縫部の身体のありようは、かなり饒舌なもので、多くのことを言おうとして身悶えするところがあり、起承転結によって連結される場面は、「爆発」と呼ぶのがふさわしいクライマックス(感情の解放点)へと向かう劇的なものであった。彼の身体が物語を欲しているのはあきらかだろう。「自然は実に浅く埋葬する」が要求する身体に、そのようなノイズや熱量は必要ない。さまざまに仕組まれた反復のなかで、そうした劇的な構造が生み出す身体の自然さは切断され、まったく別のものへと組み替えられていく。画廊の建築構造を利用した、室内からバルコニーへという場面の展開は、観客の身体に訴えかけて、公演に擬似的な解放感、終止感をもたらすが、それはあくまでも形式的なもの(形式主義に徹したもの)で、縫部の身体やダンススケッチのありようは、最後まで変わることがない。むしろ五日間を通して連結されていくさまざまな身体や感覚の断片こそが重要──「誤差や、無駄や、間違いを含んで世界は流れていきます」(村上春樹)、「増加、減少、質の多様性という変化、変質を内包する」「『含んで』という言葉」(深谷正子)──なのである。緊張感をはらんでかわされた固有の身体との対話、公演はそのすべてをスケッチのなかに刻みこんでいた。




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