2015年9月23日水曜日

田辺知美ダンサ・ダンス Ⅱ「カリントン」


田辺知美 ダンサ・ダンス Ⅱ
カリントン
日時: 2015年9月22日(祝・火)
開場: 6:30p.m.、開演: 7:00p.m.
会場: 東京/中野「スタジオ・サイプレス」
(東京都中野区野方2-24-3|TEL.03-5345-5898)
料金/前売・当日: ¥1,500
出演: 田辺知美(舞踏)
協力: スタジオ・サイプレス


♬♬♬


 舞踏家の武内靖彦が主宰する中野スタジオ・サイプレスで、田辺知美のダンサ・ダンス・シリーズ第2弾『カリントン』が公演された。初回の『kimiko』が、ワンピースを水に浸すためにスチール製の容れ物を置いた床を分岐点に、三部構成の踊りで見せたのに対し、女性シュルレアリストの名前をタイトルに冠した今回は、演技の場所と身ぶりを限定して集中したダンスが踊られた。現代音楽や音響的即興で「リダクション」と呼ばれる手法に通じるものだが、広いステージの一部分を使うことで視線のフォーカスを観客から引き出す点は、映画的なクローズアップの戦略ともいえるだろう。一本の線の上を歩くようにして演技した前回とくらべ、今回は、動きの細部を前面化するような反復が取り入れられていた。動作の反復は、それとわからないように、ゆっくりと移行する身体の向きや仰臥と腹這いの姿勢、特に後半では、最後に立ちあがる直前の時間帯に、身体を二つ折りにしたどっちつかずな姿勢を維持しながらの回転などにあらわれた。こうした反復がダンスになることを免れていたのは、あるいは、ダンスの発生を水際で押しとどめていたのは、なにかを表現することのないまま、所在なさそうに床のうえを這い、みずからの身体に触れ、空中に爪を立てながら彷徨する二つの手、照明の加減で黒く見える、青緑色のマニュキュアをした十本の指の細かな動きだった。

 反復されないもの、反復できないもの、ダンスの発生を水際で押しとどめるこの動きを、逆接的に、「もうひとつのダンス」「他なるダンス」というふうに呼べるかもしれない。なかには「舞踏」と呼ぶものもいるだろう。ただ、身体をイメージでとらえる方法が舞踏だとすれば──少なくとも、舞踏における主力の方法のひとつだとすれば──そのような身体イメージを発生させるような動きは、田辺の踊りには存在しない。動きはダンスの境域(土地のさかい。境界内の土地)をめぐっていくだけである。観る人によって、床のうえでゴロゴロしているようにしか見えないのはそのためだ。『カリントン』で反復されないものは、もうひとつあった。髪で隠れたままの顔である。固有名が記されるこの身体の場は、たとえば、上杉満代のような踊り手には、究極のダンスの場としてあるが、本公演においては、床のうえで身体を横向きに起こしたとき、経過的な動きのなかで、まるで偶然のように髪の間からのぞいただけだった。細かな手の動きを前面に立てるホリゾントのような効果を果たしながら、後景に退いていた身体から抜け出してきた顔は、そのとき一回性の出来事としてあらわれたといえるだろう。最後に立ちあがったときも、顔は髪で隠れたままだったのである。

 公演の前半に展開されたのは、観客席の側に頭を向け、ステージ中央で仰向きに寝転んで両足を抱えるという、ダンスではもちろん、舞踏でもあまり見ることのない姿勢をとりながらの動き/踊りだった。胎児の姿勢に似ているが、あきらかにそれではない。動きの発展性に乏しい姿勢。もちろんこれは、田辺が自由な動きを封じるような条件をあえて選択したということであろう。この姿勢が維持された時間帯、髪で隠れたままの顔は、実際には、明々と照明に照らし出されていたのだが、私がそれを「顔」と感じなかったのは、(自由な手の動きを封じる)拘束衣のような身体の一部として、地のなかに埋没していたからではないかと思われる。顔は他者に対したとき顔になるというようなことであるが、本作品において、それはつねにほのめかされるものとしてあった。断片的な身体への注視は、男性の欲望が生み出すそれをはずれるような広い意味においても、なお「ポルノグラフィックなもの」といえるように思う。ベルメールやウニカ・チュルンを踊る小林嵯峨が、装置としての衣裳の装着によっておこなう身体の断片化に通じるものが、『カリントン』では装置なしで実現されていた。

 タイトルにある「カリントン」という画家/小説家の名前、あるいは、事前に「アンフォルムからフォルムへ時間と身体を紡ぐ踊り」を表明しているサブタイトルを、素直に公演のテーマと考えてよいのだろうか。さらに、シリーズ初回のタイトル「kimiko」が実母の名前であるように、田辺の踊りが日常生活と近接した場所で踊られること、深い関係を結ぶことになった人の記憶を機縁にしていることなども、かねてから知られているだろう。にもかかわらず、私たちがもしこれらを踊りによって「表現」されるものと受け取るとしたら、大きく間違ってしまうように思われる。こうしたことどもは、身体のうえに(表現ならざる)動きを誘発させるため、それが具体的な物であれ個人的な記憶であれ、身体の傍らに置かれることに意味があるからである。実際のパフォーマンスでは、誘発される身体のさまを、もうひとつの身体が冷静に観察するというような事態が同時進行している。観客の目前で、所属を持たない曖昧な動きによって、踊りを封じながら動かされる身体は、それらすべての外側に放り出され、記憶のどこを探しても見あたらない、今という時間を紡ぎ出すことになるだろう。あえてサブタイトルに関連づけていうなら、『カリントン』は、微細な十指の動きと消された顔だけが、アンフォルムとフォルムの間に宙吊りになって揺れていたような踊りだった。

 田辺知美の踊りにあらわれる動きに、制度化されたダンスの動きを相対化する日常的な動作という、ポストモダンダンス的な意味を見出すだけではもはや足りない。本公演にあらわれた、身体の動きそのものを阻むかのようにがっちりと組まれる両脚や、麻痺したように突っ張ったままの脚、あるいは、日常においてもそんなふうに動くことのない、そこだけ別の生き物のような不透明さを抱えた十指の動作などについて、その先を考えなくてはならない。田辺の場合、装置としての衣裳や化粧を使わずに実現される身体の断片化は、おそらく──そこが芸術ダンスの場であれ、日常生活の場であれ──両手が十指をもっておこなってきたことの再定義(手の別の使い方)、あるいは両脚がこれまで果たしてきたことの再定義、さらには顔が私たちにもってきた意味の再定義を、それぞれの場所においておこなうことで実現されているのではないかと想像する。予断になるが、実はこのことは、勅使川原三郎や黒沢美香のような、田辺とは似ても似つかないスタイルで身体を探究するダンサーたちにも起きている出来事ではないかと思う。踊りの要素としては、むしろ広く一般的におこなわれているため、かえって見えにくくなってしまっているのではないか。断片化された身体は、伝統的な舞踏の方法にみられる、広義の振付といえるような身体イメージによって再統合されることのないまま、パフォーマンスする身体のうえで、これまでとは別の関係性を築こうとしている。これを風通しのよい身体と呼んでもいいだろう。ダンスの刷新は、こうしたレヴェルまで身体を遡行していく作業と結びつくことで、初めて可能になるように思われる。


写真提供: 小野塚 誠  



 【関連記事|田辺知美】
  「田辺知美+陰猟腐厭@間島秀徳展」(2012-07-08)
  「田辺知美: 水無月金魚鉢」(2013-06-08)
  「田辺知美: 霜月金魚鉢」(2014-11-27)

-------------------------------------------------------------------------------