2011年12月30日金曜日

前門の虎、後門の狼、ニューヨークのコヴァルト2


横井一江
アヴァンギャルド・ジャズ
── ヨーロッパ・フリーの軌跡 ──
四六版 上製 288頁 2,800円(税別)
未知谷 2011年6月


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 「グローバル・ヴィレッジ」という、マクルーハンの理論とも無関係ではない「世界がもし100人の村だったら」的な世界観によって、ペーター・コヴァルトが切り開いたネットワークによる即興演奏の集団性と、強い地域主義のもとでばらばらに活動していたイタリアのミュージシャンが、ピノ・ミナフラの働きかけによって大同団結したイタリアン・インスタービレ・オーケストラにおける即興演奏の集団性とは、等しく多文化主義と呼べるものであっても、インターナショナリズムの有無という点で大きく異なっている。『アヴァンギャルド・ジャズ』の著者が、前者ではなく、なぜ後者に「ヨーロッパ・フリー」を脱構築する可能性を見ているのか、重要なポイントと思われるので、第3章からやや長めに引用してみることにしよう。

 八〇年代後半のグラスノスチ、ペレストロイカは我々の視線をソ連や東欧に向けた。旧ソ連のミュージシャンが持つエネルギーに感応したのだ。だが、制度の移行に伴う経済の悪化などが起こると一気に花開いたかに見えた旧ソ連のジャズも沈滞を余儀なくされた。と同時に一時はもてはやされた旧ソ連のミュージシャンの海外での演奏も減っていったのである。 
 その後、徐々に視界に入ってきたのがヨーロッパの周縁部だったように思う。既にヨーロッパのフリー・ミュージックは「新しい」音楽ではなくなっていた。西欧の僻地である南イタリア、しかも長靴の踵で生まれたローカルであると同時にナショナルなIIO[Italian Instabile Orchestra の略]、この特異なプロジェクトが、ヨーロッパの九〇年代を代表するオーケストラになり得たのにも時代的な必然性を感じる。 
 冷戦構造の終焉による覇権構造の変化、その後の情報社会とグローバリゼーション、それらが何をもたらしたのか。かえって自らのアイデンティティと文化をより意識させるようになったのではないか。実際、マージナルな地域音楽が主張し始め、それがコミュニティの外の世界、コアな音楽ヲタクに留まらずに知られるようになったのはこの十数年のことである。九〇年代はグローバルとそれに対峙するローカルという二つの概念がまだクリアではなかった。あるいはナショナルなものの意味もまだ有効だったと言えよう。IIOが内在させていたヨーロッパの中のローカルは時代の先を読むものだったと同時に、それ以前の価値観、大きな物語への憧れもまだあったのだ。[中略] 
 IIOはある意味、冷戦前後の世界をめぐる構造変化、その後のグローバリゼーションによる社会の変化が顕著になった九〇年代からミレニアムにかけた時代を象徴する存在だったように、私には思えてならない。(242-244頁)
 新たなものは常に周縁や辺境から生まれる(といわれている)。かつては西ヨーロッパにもそのような周縁が生まれていた。私たちはそれを、おなじようにエッジにあるものでも、「前衛」と呼びならわしていたけれども。ここでのポイントは、著者がすでに「『新しい』音楽ではなくなっていた」といいながらも、おそらく本書があつかうテーマの必然性もあってだろう、なおも「ヨーロッパ・フリー」に視点をおいて、イタリア半島に「周縁部」を見いだしている点である。インスタービレの音楽を、ソ連解体後の世界性のなかに置き、いわゆる「時代と寝た音楽」としてその新しさを語っている。換言すれば、ここでの「ローカル」は、現実のローカル音楽のことではなく、トピックとしての「ローカル」のことなのである。

 さて、一方において、ここでいう「ヨーロッパ・フリー」の脱構築というのは、まるでその出来事がなかったかのようにヨーロッパの即興演奏を歴史記述することではなく、これまで気づかれていなかった出来事の新たな側面を語りなおす契機を、「ヨーロッパ・フリー」の外部に(あるいは外部と思われているものに、さらには内部にある外部に、すべての語り残されたものに)求めるということだ。既述したように、高瀬アキと多和田葉子、イレーネ・シュヴァイツァーとカネイユを論じる際に生じる「溝、亀裂、ひび」、すなわちジェンダー・バイアスなどもそのひとつである。すなわち、他者はこの世界を語りなおすためにやってくるのであって、この世界をこの世界のまま保つためにやってくるのではない。

 重要なのは、非対称の関係にある(語られざる)他者を前にしたとき、私たちは視点を移動させなくてはらないということである。それまでの想像力のスタイルを変え、イタリア南部から西ヨーロッパをまなざさなくてはならない。すなわち、脱構築の実践とは、もしそれをしようと思うならばだが、インスタービレに「ヨーロッパの周縁部」を見いだすことにはなく、まったく逆に、「ヨーロッパ・フリー」の主要舞台となった西ヨーロッパそのものが、もうひとつのローカルであるということ、「アジア大陸の小さな岬」(ヴァレリー)の出来事であり、「他の岬」(デリダ)の「他の音楽」であることを、インスタービレから再発見する行為に他ならない。新時代のイタリア音楽を論じながら、著者は「覇権構造の変化」が「かえって自らのアイデンティティと文化をより意識させるようになった」と書いている。じつはこれは、ペーター・コヴァルトの活動スタイルを、「西洋的な視点をずらすことが可能であり、ゆえにドイツ人である自分が見えた」(96頁)と書くこととおなじ論法である。それはバランスのよい配慮というものに属すると思われるのだが、肝心なのは、にもかかわらず著者の視点が移動していないということである。「ヨーロッパ・フリー」の語りなおしに重点を置いてみたとき、それは他者の他者性を相対化してしまうことにつながる。問いかけがそこで停止してしまう。

 ヨーロッパの音楽に関して、情報の万年欠乏状態にある日本のジャーナリズム環境について配慮すれば、定期的におこなわれるベーシックな音楽知識の確認が必要なことは、じゅうぶんに理解できることであり、本書はその責務を果たしていると思う。そのうえで欲を述べさせてもらえば、ヨーロッパの即興シーンを熟知している著者には、もっと自由に筆を揮ってもらい、まったく新たな「ヨーロッパ・フリー」像を再構築してみせてほしいと思うのである。それが見えている批評家は、ほんとうに少ないからである。

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横井一江[ブログ]音楽のながいしっぽ
 



2011年12月29日木曜日

前門の虎、後門の狼、ニューヨークのコヴァルト1


横井一江
アヴァンギャルド・ジャズ
── ヨーロッパ・フリーの軌跡 ──
四六版上製288頁 2,800円(税別)
未知谷 2011年6月


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 清水俊彦がしていたように、モダンであれフリーであれ、レコード鑑賞をそれだけ独立した媒体としてあつかい、論じるべき対象に触れないようにして世界を構築できたなら、ここでテーマになっている「ヨーロッパ・フリー」も、純粋で、客観的な姿をあらわすのかもしれないが、音楽が創造される現場と直接かかわり、インタヴューを重ねるところから再構成された『アヴァンギャルド・ジャズ』(未知谷、2011年6月)の世界は、すでにして横井一江というフォト・ジャーナリストの存在を巻きこんだ世界として記述されている。すなわち、彼女は「ヨーロッパ・フリーの軌跡」の語り手であるとともに、その世界を生きて著者に語られる存在のひとりでもあるということである。それが「アウトサイダー/インサイダーとでもいうような入り組んだ語りのポジション」が持つ意味だろう。音楽スタイルの変化によって合衆国ジャズ史を祖述してきた戦後日本のジャズ評論と、副島輝人『日本フリージャズ史』(青土社、2002年)や昼間賢『ローカル・ミュージック』(インスクリプト、2005年)などの著作の本質的な相違は、後者が、批評対象にしている世界のなかに著者自身が登場してしまう必然性を引き受けて、どのような音楽批評が可能なのか試みる実験になっている点ではないだろうか。

 ひとりの女性ジャーナリストの侵入が、「ヨーロッパ・フリーの軌跡」を不安定なものにしてしまうように、西ヨーロッパが西ヨーロッパとして自己完結できないような地政学上の変動期を迎えた時代の著作として、ヨーロッパ・フリーの物語は、出発点と、終着点と、物語のまっただなかにたくさんの他者を抱えている。ここでいう「他者」は、それがどこの誰であれ、「ヨーロッパ・フリーの軌跡」を脅かしにやってくるものたちのことである。

 出発点においては、ヨーロッパを大挙して訪れていた合衆国フリージャズ・ミュージシャンの群れであり、終着点においては、著書のなかで「音響派」(多義的な用語なので注意しなくてはならないが、これはけっして「形容詞」ではなく、特にここでは、即興演奏に関連して、一般的に「サウンド・インプロヴィゼーション」と呼ばれるような演奏をするリダクショニストのことを意味しているように思われる)と呼ばれる、即興演奏の伝統を切断しにやってくるミュージシャンの群れであり、さらに物語の中心においては、ヨーロッパ・フリーの第一世代という、いわば「主人公」の一群に入れられているペーター・コヴァルトが、即興グループ「グローバル・ヴィレッジ」を結成し、トゥバ共和国のサインホ・ナムチュラクを西欧に紹介し、即興のユーロセントリズムを脱構築するようなネットワークを、外部へ、外部へと開きながら、最後はニューヨークという異郷の地で客死するというような活動スタイルのことである。そして、ともにヴッパータールを故郷にするペーター・ブロッツマンもまた、コヴァルトの衣鉢を継ぐように、ノルウェーやシカゴやスイスや日本のミュージシャンたちと共演を重ね、「ヨーロッパ・フリーの軌跡」から逸脱するような、まったく新たな感覚をそなえた音楽の創造に取り組んでいることも忘れられない。

 出発点にいる他者に対し、ヨーロッパの「即興音楽は、アメリカのフリージャズとヨーロッパの現代音楽が結びついたもの」(サード・ストリーム的な解釈といえるだろうか)という発言を引用した著者は、「クラシック・現代音楽を参照することは、彼らにとって原点回帰のひとつのあり方であってもおかしくない」、「と同時に、『前衛』とはそれまでに培われた伝統への反旗でもある。それはコインの裏表にすぎない」(38頁)とアクロバティックに応じ、終着点にいる他者に対しては、デレク・ベイリーを論じた項目で、「『音響派』などという形容詞が出現する何十年も前から[ベイリーは]類い稀な発想で音響的なアプローチを行っており、亡くなるまで即興演奏を追求したことを考えると、サウンド戦略の転換によって新たな領域を切り拓こうとする世代にとって、ベイリーはひとつのメルクマールとなり得る」(180頁)と応じている。サウンド・インプロヴィゼーションの起源をフリー・インプロヴィゼーションにまで遡行させて、「音響派」を解消してしまうという後者のやり方は、福島恵一がとっている論法とおなじものである。

 物語のまっただなかにいる他者に対して、著者は「もしコヴァルトがいなければ、フリー、即興音楽の国境を越えた緊密なネットワークは果たして出来ただろうか」(94頁)と書き、「グローバルに動き、異文化あるいはローカルな音楽との交流を求めた生き方には、戦後世代ゆえのドイツ人としてのアイデンティティを逆に問うものであったような気がする。そうすることによって西洋的な視点をずらすことが可能であり、ゆえにドイツ人である自分が見えたのではないだろうか。」(96頁)と正しく評価しながら、それでも彼の活動スタイルが、即興のユーロセントリズムに帰結してしまうような「ヨーロッパ・フリー」の脱構築であり、根底からする批判になっているという点については触れない。「ヨーロッパ・フリー」を脱構築する可能性については、むしろ著書の後半、イタリアン・インスタービレ・オーケストラを論じたところで触れられることになる。

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横井一江[ブログ]音楽のながいしっぽ
 

2011年12月28日水曜日

即興のユーロセントリズム


横井一江
アヴァンギャルド・ジャズ
── ヨーロッパ・フリーの軌跡 ──
四六版上製288頁 2,800円(税別)
未知谷 2011年6月


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 横井一江『アヴァンギャルド・ジャズ』(未知谷、2011年6月)の背景をなしているのは、サブタイトルに「ヨーロッパ・フリーの軌跡」とあるように、学芸においては欧州に価値の源泉があるとする、ある種のヨーロッパ中心主義である。もちろん著者の横井自身は、創造的なジャズのシーンを取材する誠実なひとりのフォト・ジャーナリストとして、くりかえし異国の地を訪れ、新しい時代を切り開く音楽を特集していたメールス国際ニュージャズ祭や、ベルリンに移住した高瀬アキの周囲を彩るミュージシャンらとの交流を育てながら、旅行者でもある自由さを最大限に利用して、アウトサイダー/インサイダーとでもいうような入り組んだ語りのポジションを構築している。すなわち、フリージャズを切りとる物語構造の枠組みにおいてヨーロッパ中心主義的でありながら、その語りがあらゆる「中心主義」の外部にあるために(内部にありながらいちじるしい “ずれ” をひき起こし)、合衆国ジャズはもちろんのこと、日本にもヨーロッパにも故郷をもたない、いってみるなら境界線上にあるしかない危機的な位置から語りだすことになったといえるだろう。

 その端的なあらわれが、第二章でドイツ・シーンを論じる際に、著者にとっておそらくヨーロッパの「窓」のひとつになっている高瀬アキを前面に出し、高瀬のプロジェクトのひとつに参加するドイツ在住の日本人作家・多和田葉子の「エクソフォニー」(「母語の外に出る」の意味)というビジョンに注目している点だろう。「異郷化」というジャン=リュック・ナンシーの概念を使いながら、そのことには触れず、横井はさりげなく書いている。「異郷化をともなう風景には、そこかしこに多和田の表現を借りれば『溝、亀裂、ひび』が存在する。そこに現代における芸術表現の一つのキーが隠されているように私は思う。」(116頁)あえていうならば、横井一江という女性ジャーナリストの軌跡もまた、「ヨーロッパ・フリー」に「溝、亀裂、ひび」を入れていく行為そのものだといえるのではないだろうか。またスイス・シーンを論じる際に、イレーネ・シュヴァイツァーとカネイユをとりあげ、女性たちのフリージャズについて大きく紙面を割いている点も、著者なくして「ヨーロッパ・フリーの軌跡」のなかに書きこむことのできなかったものと思われる。即興演奏におけるジェンダー・バイアスについて、公に触れることができるようになったのは、ごく最近のことであり、女性ミュージシャンを女性ジャーナリストがフォローするところに生まれる「溝、亀裂、ひび」は、著者が議論をとどめている女性の社会進出という論点を越えて、これからもさらに拡大していくはずである。

 それでもなお、本書の物語構造は、合衆国ジャズからの「ヨーロッパ・フリー」の自立という点にあり、著者のテクストも、こうした始原の物語に縛られることとなる。物事の本質を語るとは、すなわちその誕生を物語ること(言語により略取すること)に他ならないからである。「アメリカのフリージャズの少なからぬ影響下で始まったヨーロッパのフリージャズも彼らの価値観の中で異化されていく。イギリス、ドイツ、オランダでは一種のムーヴメントとなり、ここにヨーロッパ独自の言語を獲得する。もはや彼らの音楽はフリージャズという言葉ではなく、フリー・ミュージック、のちには即興音楽とも呼ばれる──フリージャズからヨーロッパ・フリーの誕生である。」(40頁)換言すれば、このときヨーロッパに澎湃と起こってきた音楽の冒険主義は、「ヨーロッパ・フリー」と呼ばれることが適当となるような「独自の言語を獲得」した、すなわち、「エクソフォニー」を参照すれば、「ヨーロッパ・フリー」という故郷の「母語を獲得した」ということができるだろう。その結果、ジョージ・ルイスが異議申し立てした即興演奏における彼我の差異は厳然と存在しつづけたにもかかわらず、合衆国ジャズとの間に開かれた緊張関係のなかで生きられていたはずの「溝、亀裂、ひび」は、意識において埋められることになったのである。

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横井一江[ブログ]音楽のながいしっぽ
 


2011年12月27日火曜日

横井一江:アヴァンギャルド・ジャズ


横井一江
アヴァンギャルド・ジャズ
── ヨーロッパ・フリーの軌跡 ──
四六版上製288頁 2,800円(税別)
未知谷 2011年6月


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 定期的にヨーロッパ取材を敢行して、歴史のあるベルリン・ジャズ祭や、敏腕プロデューサーのブーカルト・ヘネンが、つねに最先端の音楽を特集していたメールス国際ニュージャズ祭、さらに、ドイツ・フリージャズの宝庫であるFMPレーベルの音楽週間などをレポートして、その最新動向を伝えたり、有名無名を問わず数多くのミュージシャンにインタヴューをして、音楽はもちろんのこと、その人間性まで浮き彫りにするなど、確乎とした合衆国ジャズのマーケットが築かれている日本のジャズ雑誌には、なかなか生の情報が入ってこない西ヨーロッパの音楽事情を、ドイツのジャズ界を中心に、根気よくフォローしてきた横井一江が、これまでの業績を一本にまとめるような著書を刊行した。故・清水俊彦の評論集のタイトルをひっくりかえしたような「アヴァンギャルド・ジャズ」というのは、おそらくいまは亡き先達への隠されたオマージュであるとともに、すでに歴史となった “あの時代” を象徴する言葉として採用されたものであろう。

 著者みずから「あとがき」で書き足しているように、ベルリンの壁崩壊以降のヨーロッパは、西ヨーロッパが西ヨーロッパとして自己完結できないような地政学上の変動期を迎えている。現地の訪問を重ねてきた著者が、そのことを知らないはずはない。グローバリゼーションの時代に突入して、「アヴァンギャルド」の概念は大きく揺さぶられているだろうが、そのことをきちんと論じるためにも、まずは歴史や社会に軸足をおきつつ、ベーシックな情報にもとづいた「ヨーロッパ・フリー」の基本的イメージを一書にコンバインすることが必要と判断されたのであろう。それはおそらく、著者が過去に訪れた場所や時間を、もう一度生きなおしてみるような経験ではなかったかと想像する。

 というのも、ジャズの歴史を語る類書とは違って、本書はそのようなフリージャズが誕生したある時代のヨーロッパを再訪する、イマジネーションの旅の自由度を獲得しているように思われるからである。フリージャズをあつかいながら、そこに書き留められているのは、私たちがよく知っている小難しいジャズ論などではなく、颯爽としたいでたちに身を包み、女性にはさぞや重たいだろうと思われるカメラを抱え、春先の風に吹かれながら、あるいは秋口の曇天の空をにらみつけながら、ヨーロッパの空港に降り立つ著者の姿なのである。そのせいで本書は、著者が足で稼いだ音楽情報を惜しげもなく盛りこみながら、けっして観念的にならないエッセイの文体に乗せてつづられたフリージャズ・データブックというような、ユニークな性格の音楽書になっているのではないだろうか。

 欧州のジャズ雑誌を定期購読するなどして、海外記事になじんでいるコアなジャズ愛好家には、本書に収録された豊富なミュージシャンの写真群が、それらの雑誌を飾っていた写真のスタイルを踏襲したものであることに気づかれるだろう。日本の音楽誌ではあまりお目にかかることのない、ミュージシャンとの距離がとても近い写真の数々は、実際の距離によるものではなく、彼らの音楽への共感がそこにあるからであり、伝統的なモダン・ジャズ・フォトグラフィ(モダン・ジャズの写真という意味ではなく、モダン・フォトグラフィの美学に立ったジャズ写真の意味)の美学に立ちながら、カメラマンと被写体との強い関係性を感じさせるものとなっている。なかでも特筆すべきは、本書に収録されたイタリアン・インスタービレ・オーケストラの写真や、残念ながら収録されなかったセルゲイ・クリョーヒン “ポップ・メハニカ” のステージ写真などで、これらは即興オーケストラが出来事の場であることを、この一瞬にまるまるとらえた貴重な作品となっている。

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横井一江ブログ]音楽のながいしっぽ
 

2011年12月26日月曜日

宵(酔い)どれ黒海周遊ジャズツアー 九番目の航海

左から泉秀樹、岡島豊樹、片岡文明の諸氏


宵(酔い)どれ黒海周遊ジャズツアー
第9回ウィンター・ヴァケーション篇:イタリア特集第1回
── SUDから来た男とイタリア・フリーの流れ ──
会場: 吉祥寺「サウンド・カフェ・ズミ」
(東京都武蔵野市御殿山 1-2-3 キヨノビル7F)
開演: 2011年12月25日(日)5:00p.m.~(3時間ほどを予定)
料金: 資料代 500円+ドリンク注文(¥700~)
添乗員: 片岡文明、岡島豊樹(「ジャズ・ブラート」主宰)
主催: サウンド・カフェ・ズミ


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 中欧から東欧、さらにはスラヴ圏にかけて広がるユーラシア大陸のジャズを追いつづけるトヨツキーこと岡島豊樹が、「添乗員」兼「お酌係」をあいつとめ、西ヨーロッパのアヴァンギャルドだけではとても語りつくせない、多彩な世界のジャズを紹介するシリーズ「宵(酔い)どれ黒海周遊ジャズツアー」が好調だ。換気扇にひるがえる万国旗のもと、年末に開かれた第9回目のジャズツアー「ウィンター・ヴァケーション篇:イタリア特集第1回」には、ゲストに “ブンメイ堂” こと片岡文明氏(音盤コレクターである氏にとっては、今回が初のディスクガイド経験となるとのこと)を迎え、氏が所蔵する貴重なアナログ盤の数々によってイタリア・フリージャズの歴史を回顧する「SUDから来た男とイタリア・フリーの流れ」が開催された。今回は、ジョルジオ・ガスリーニやマリオ・スキアーノなどの第一世代、アンドレア・チェンタッツォやカルロ・アクティス・ダートらの第二世代をあつかいながら、1960年代から70年代にかけての動きを駆け足で追った。

 冒頭、本ツアーのチーフ・アテンダントである岡島豊樹は、イタリアにおけるフリージャズの大まかな流れを解説しながら、その存在を世界にアピールした象徴的な出来事として、イタリアン・インスタービレ・オーケストラの結成に触れ、ECMからリリースされた『ヨーロッパの空』を紹介した。「アメリカの空」を作曲したオーネット・コールマンがライナーを寄せたことでよく知られるアルバムだ。原初的なジャズがそうであったように、トヨツキーが持論にしているジャズ生誕の地オデッサも、文化的な混淆のなかから創造的なものが芽生えてくる場所の名前であり、さらには、イタリア半島が突き出た地中海の文化圏も、そのような文化混淆のなかから新たな感覚をつかみ出してくる場所の名前なのである。アメリカの空ならぬヨーロッパの空に反転して映し出されたサウンドの地勢学、すべての人間が等しく大地をはって生きる運命をもつという庶民観、文化的な地域主義に風穴をあけ、異質なものを橋渡ししていく装置(ドゥルーズ的に「音楽機械」と呼んでもかまわない)としてのジャズ、そのようなものが転生したジャズの姿(清水俊彦)として語られていた。

 当日かけられたアルバムは以下の通り。

(1)Italian Instabile Orchestra『Skies Of Europe』(ECM, 1994年5月)
(2)Giorgio Gaslini『12 Canzoni d'amore Italiane』(1964年)
(3)Giorgio Gaslini『Nuovi Sentimenti』(RCA, 1966年)
(4)Mario Schiano『Sud』(TomOrrow, 1973年)
(5)Mario Schiano & Giorgio Gaslini『Jazz A Confronto 8』(Horo, 1974年)
(6)Marcello Melis『The New Village On The Left』
(Black Saint, 1974年&76年)  
  ※サルジニア民謡とジャズ。おそらく編集で重ねられたもの。
(7)Enrico Rava『Jazz A Confronto』(Horo, 1974年)
(8)Guido Mazzon『Gruppo Contemporaneo』(PDU, 1974年)
  ※ここからイタリア・フリー第二世代の台頭を刻印するアルバム群。
(9)Gaetano Liguori Idea Trio『I Signori della Guella』(PDU, 1975年)
(10)Andrea Centazzo『Fragmantos』(PDU, 1974年)
(11)O.M.C.I./Renato Geremia『Contro』(L'Orchestra, 1975年)
  ※O.M.C.I.=Organico di Musica Creativa e Improvvisata
(12)Carlo Actis Dato『Art Studio』(Drums Ed.Mus., 1977年)
(13)Giorgio Gaslini『Free Actions』(Dischi della Quercia, 1977年)
  ※参加メンバーであるジャンルイジ・トロヴェージ(cl)の演奏を聴く。
(14)Eugenio Colombo『I Virtuosi di Cave』(Red, 1977年)
(15)ICP Orchestra『Live Soncino』(ICP, 1979年)
  ※クレモナ公演の際、メンゲルベルクが現地のミュージシャンと特別編成のICPオー
   ケストラを組んだときの演奏。
(16)Mario Schiano『Test』(Red, 1977年)
  ※ラストを飾るのは、ビリー・ホリデイのこぶしを思わせる巨匠の歌声。

 片岡文明が担当した本編の音盤紹介は、郷土意識が強く、その土地土地のトラッドを重視することの多いイタリアの即興シーンを、各地域ごとにまとめるのではなく、一本に歴史化できるものとして仮想された(フリージャズを含む)ジャズ史を世代ごとに画すことで整理していた。音盤をかける時間はなかったが、ジャズとイタリアの左翼運動とのダイレクトな関わりにも触れられた。合衆国にボブ・ディランらがいたように、この時期にはイタリアにも大衆歌謡の運動が起こっており、そこでのジャズのふるまい方、あるいはプログレなどとの影響関係も、個人的には気になるところである。いずれもトラッドが深く関わっている。しかしながら、まともに扱えば、このあたりは簡単な紹介ではすみそうにない。そのような声の要素を含み、イタリアのジャズ演奏には、西ヨーロッパの前衛音楽にはない色彩感がある。たとえシチリア島の音楽を扱っていなくても、味わいの深いこの色彩感こそ、イタリアが地中海に突き出した半島であることの証明なのだろう。

 1980年代から現代までのイタリア・フリーをあつかう次回のツアーは、2012年1月の出航になるとのことである。

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■ 吉祥寺サウンド・カフェ・ズミ http://www.dzumi.jp/
 

2011年12月24日土曜日

ESP(本)応援祭 第十三回

ガイド役の泉秀樹氏とイベント主催者の渡邊未帆氏

ESP(本)応援祭
第13回「ベース&ドラム奏者特集 Part 2」
会場: 吉祥寺「サウンド・カフェ・ズミ」
(東京都武蔵野市御殿山 1-2-3 キヨノビル7F)
開演: 2011年12月23日(金)5:00p.m.~(3時間ほどを予定)
料金: 資料代 500円+ドリンク注文(¥700~)
講師: 泉 秀樹 サポーター: 片岡文明
主催: 渡邊未帆


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 クリスマス直前の12月23日、1960年代の音楽革命の記憶もはるか遠くになり、一般の音楽ファンはもとより、音楽関係者の間ですら、ニュージャズ/フリージャズの基本的な知識や常識が共有されなくなってきた現状に一石を投じるべく、ベーシックな認識の土台と音源を提供するという趣旨でスタートした<ESP(本)応援祭>の最終講義がおこなわれた。ミルフォード・グレイヴスやドン・チェリーの活動に魅惑されながら、出発当初は「ニュージャズ」と呼ばれたこの音楽の変革期を、ひとりの同時代人として体験したナビゲーター役の泉秀樹が、彼自身の耳の歴史を音盤輸入史という切り口ではさみこみながら、1960年代にアメリカとヨーロッパの間に切り開かれたインターナショナルな音楽交流史を、ESPレーベルを中心に再構成し、追体験してみるというシリーズ・レクチャーだった。

 ほんとうのところ、ESPレーベルがカヴァーしていた芸術領域の全体像をつかむには、1960年代の美術、文学、ロック等々におよぶ広範な周辺ジャンルへの参照が必要になるということである。それにはまた適切な語り手が必要だろうということで、音盤紹介も兼ねた本シリーズは、あくまでもジャズを切り口に1960年代精神史の一面を垣間見るという内容の講義になったように思う。レクチャーを主催した渡邊未帆は、毎回、記録係のようにして講義を見守り、経過報告以外、特別に発言することもなかったのだが、彼女が同時代体験をもたない若い世代の代表としてそこにいることで、レクチャーの場は、レコード愛好家の集いのような趣味的に閉ざされたものではなく、世代間を橋渡しする公的なものになっていたのではないかと思われる。あるいはそうしたレクチャーの隠された意図を、構造的に表現することになったのではないかと思われる。ボケの渡邊にツッコミの泉という絶妙のとりあわせも、<ESP(本)応援祭>ならではの魅力だったのではないだろうか。

 最終講義は、前回語り残した部分を補う「ベース&ドラムス奏者特集」の後半で、ヘンリー・グライムス、ルイス・ワーレル(音盤演奏はなし)、ゲイリー・ピーコック、アラン・シルヴァ、ロニー・ボイキンスなど、ニュージャズ/フリージャズ期を彩るベーシストについての紹介がおこなわれた。なかでも幅広いセッションに参加して、新旧大陸の間にネットワークを開いていた重要な演奏家として、講義の最後に、ヴィブラフォン奏者のカール・ベルガーにスポットがあてられた。ザディック・レーベルで新譜をリリースするなど、現在も第一線で活躍するベルガーの重要性については、本シリーズのなかでもくりかえし語られてきたところである。当日かけられたアルバムは以下の通り。

(1)Henry Grimes『The Call』(ESP-1026, 1965年12月)
(2)Perry Robinson『Funk Dumpling』(Savoy, 1962年)
  ※ヘンリー・グライムスが参加した「Moon Over Moscow」。
(3)Albert Ayler『Swing Low Sweet Spiritual』(Osmosis, 1964年2月)
(4)Albert Ayler『Spiritual Unity』(ESP-1002, 1964年7月)
(5)Cecil Taylor『Unit Structures』(Blue Note, 1966年5月)
(6)Alan Silva『Skillfulness』(ESP-1091, 1968年11月)
(7)Sun Ra『The Heliocentric Worlds Of Sun Ra, Vol.2』
                        (ESP-1017, 1965年11月)
(8)Ronnie Boykins『The Will Come, Is Now』(ESP-3026, 1974年2月)
(9)Karl Berger『From Now On』(ESP-1041, 1966年12月)

 サックスのような管楽器が主導的役割を果たしてきたジャズの場合、音楽革命は、譜面に書きあらわすことができるようなもの、すなわち、ハーモニーやメロディーの再定義や解体といったものによって理解されることが主軸をなしてきた。いってみるならば、サックス演奏史が、そのままジャズ史であったのである。「が、実はアイラーやローガンの演奏は共演していたリズム隊が、それまでのジャズが持つ定速ビートでリズムを刻むような演奏をしていなかったのが凄かったと言われる要因のひとつでもあるのです。」(レジュメより)これもまた、ジャズ論のなかではいわずもがなのこと、いわば “常識” の部類に属するのだが、すでに解放された耳のあとからやってきた世代にしてみれば、あまり考えたこともない、改めて問いなおしてみる価値があるテーマになりうるのかもしれない。こうした常識のラインを越えて探究を深めていくには、それこそ土取利行のミルフォード・グレイヴス論から再出発するというような視座が必要になってくるだろう。それほどに、この時期のリズムの変容を言語的に理解することは、(ハーモニーやメロディーの再定義や解体と比較して)簡単なことではないように思われる。

 シリーズ・レクチャー<ESP(本)応援祭>は、音盤紹介が批評性を帯びてしまうことを禁欲的に回避しながら、音楽理解へといたるためのベーシックな記憶を喚起し、できるだけ第一次資料となるようなデータを、音盤によって提供するという作業をめざしていた。ここにおいて、「アナログ・ディスク」というメディアは、けっして趣味的な対象ではなく、永遠に失われてしまった時間(あえて聖別化された瞬間ということもできるだろう)へのヴァーチャルな遡行を意味している。ニュージャズ/フリージャズの領域は、その歴史的重要性にも関わらず、ジャズ・ジャーナリズムはもちろんのこと、音楽アカデミズムのなかですら、基礎研究に対する配慮がなされていない。本レクチャーが、そのような日本の音楽環境への、あるいはジャズに対する愛情不足への、強烈な批判であることは論をまたない。音盤紹介においてガイド役に徹しようとした講師の禁欲的な態度は、1960年代の音楽経験を、私たちが生きている今の時点で意味あるものとすべく、主観的な感想を大きく超えた、より根源的な批評性のうえに構築されたものだったといえるのではないだろうか。

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■ 吉祥寺サウンド・カフェ・ズミ http://www.dzumi.jp/