2011年12月28日水曜日

即興のユーロセントリズム


横井一江
アヴァンギャルド・ジャズ
── ヨーロッパ・フリーの軌跡 ──
四六版上製288頁 2,800円(税別)
未知谷 2011年6月


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 横井一江『アヴァンギャルド・ジャズ』(未知谷、2011年6月)の背景をなしているのは、サブタイトルに「ヨーロッパ・フリーの軌跡」とあるように、学芸においては欧州に価値の源泉があるとする、ある種のヨーロッパ中心主義である。もちろん著者の横井自身は、創造的なジャズのシーンを取材する誠実なひとりのフォト・ジャーナリストとして、くりかえし異国の地を訪れ、新しい時代を切り開く音楽を特集していたメールス国際ニュージャズ祭や、ベルリンに移住した高瀬アキの周囲を彩るミュージシャンらとの交流を育てながら、旅行者でもある自由さを最大限に利用して、アウトサイダー/インサイダーとでもいうような入り組んだ語りのポジションを構築している。すなわち、フリージャズを切りとる物語構造の枠組みにおいてヨーロッパ中心主義的でありながら、その語りがあらゆる「中心主義」の外部にあるために(内部にありながらいちじるしい “ずれ” をひき起こし)、合衆国ジャズはもちろんのこと、日本にもヨーロッパにも故郷をもたない、いってみるなら境界線上にあるしかない危機的な位置から語りだすことになったといえるだろう。

 その端的なあらわれが、第二章でドイツ・シーンを論じる際に、著者にとっておそらくヨーロッパの「窓」のひとつになっている高瀬アキを前面に出し、高瀬のプロジェクトのひとつに参加するドイツ在住の日本人作家・多和田葉子の「エクソフォニー」(「母語の外に出る」の意味)というビジョンに注目している点だろう。「異郷化」というジャン=リュック・ナンシーの概念を使いながら、そのことには触れず、横井はさりげなく書いている。「異郷化をともなう風景には、そこかしこに多和田の表現を借りれば『溝、亀裂、ひび』が存在する。そこに現代における芸術表現の一つのキーが隠されているように私は思う。」(116頁)あえていうならば、横井一江という女性ジャーナリストの軌跡もまた、「ヨーロッパ・フリー」に「溝、亀裂、ひび」を入れていく行為そのものだといえるのではないだろうか。またスイス・シーンを論じる際に、イレーネ・シュヴァイツァーとカネイユをとりあげ、女性たちのフリージャズについて大きく紙面を割いている点も、著者なくして「ヨーロッパ・フリーの軌跡」のなかに書きこむことのできなかったものと思われる。即興演奏におけるジェンダー・バイアスについて、公に触れることができるようになったのは、ごく最近のことであり、女性ミュージシャンを女性ジャーナリストがフォローするところに生まれる「溝、亀裂、ひび」は、著者が議論をとどめている女性の社会進出という論点を越えて、これからもさらに拡大していくはずである。

 それでもなお、本書の物語構造は、合衆国ジャズからの「ヨーロッパ・フリー」の自立という点にあり、著者のテクストも、こうした始原の物語に縛られることとなる。物事の本質を語るとは、すなわちその誕生を物語ること(言語により略取すること)に他ならないからである。「アメリカのフリージャズの少なからぬ影響下で始まったヨーロッパのフリージャズも彼らの価値観の中で異化されていく。イギリス、ドイツ、オランダでは一種のムーヴメントとなり、ここにヨーロッパ独自の言語を獲得する。もはや彼らの音楽はフリージャズという言葉ではなく、フリー・ミュージック、のちには即興音楽とも呼ばれる──フリージャズからヨーロッパ・フリーの誕生である。」(40頁)換言すれば、このときヨーロッパに澎湃と起こってきた音楽の冒険主義は、「ヨーロッパ・フリー」と呼ばれることが適当となるような「独自の言語を獲得」した、すなわち、「エクソフォニー」を参照すれば、「ヨーロッパ・フリー」という故郷の「母語を獲得した」ということができるだろう。その結果、ジョージ・ルイスが異議申し立てした即興演奏における彼我の差異は厳然と存在しつづけたにもかかわらず、合衆国ジャズとの間に開かれた緊張関係のなかで生きられていたはずの「溝、亀裂、ひび」は、意識において埋められることになったのである。

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横井一江[ブログ]音楽のながいしっぽ