2013年10月26日土曜日

根耒裕子ソロ舞踏: 風象の耳



根耒裕子ソロ舞踏
風象の耳
日時: 2013年10月25日(金)
会場: 東京/新宿「喫茶茶会記」
(東京都新宿区大京町2-4 1F)
開場: 7:00p.m.、開演:7:30p.m.
料金: ¥2,000(1飲物付)
出演: 根耒裕子(舞踏)
作曲: 福井陽介
照明: 芽衣桃子 音響: まぎぃ
受付: 阿久津智美 撮影: bozzo
予約・問合せ: TEL.03-3351-7904(喫茶茶会記)



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 ダンスという身体表現における「作品」概念について、まずはそれを、再現可能性から考えることができるだろう。すなわち、ラバノーテーションや舞踏譜などに書き記すことのできる身ぶりやステップの構成、あるいは身体イメージの採取=サンプリングを、音楽における作曲のようなもの、しばしば建築にたとえられる響きの構成方法のようなものと理解することはたやすい。これらはいずれも、もともと時間のなかにしか出現しないものを、紙のうえに視覚化(空間化)することで、パフォーマンスの再現を可能にする努力である。もちろんこうした動きや身ぶりの記述が、個々に特異なありようをしている身体そのものをつかむこととは別であるため、身体におけるもうひとつの「作品」概念が、ダンスのたびごと、たとえそれが即興する身体であっても、動きのなかで新たに生まれてくることになる。この場所では、再現可能性は「再帰可能性」とでもいうべきものになり、踊り手が意図すると否とにかかわらず、動きのなかにくりかえしあらわれてくるものをつかまえようとする行為になるだろう。曖昧な言い方になるが、目に見える具体的な身ぶりが、そのものに触れていると感じることのできる、目に見えない身体の存在のようなもの。喫茶茶会記でおこなわれた根耒裕子のソロ舞踏公演「風象の耳」も、こうしたダンスする身体そのものをもってする作品へのアプローチだった。

 公演に先立つ文章のなかで、根耒は、彼女自身が舞踏において探究している「物語」の定義を、ダンスが独自の身体領域を確立するために抜け出してきた文学や演劇におけるそれと対置させながら、以下の4項目にまとめている。(1)時と風景のはざまに、形をまとわず「象(しょう)」として現れてくるもの。(2)目には見えないかもしれないがそこに歴然とあるもの。(3)人と人、人と物、物と物とのあいだにおのずと生まれてくるもの。(4)「私」が私の身を尽くし、心を砕いたあげくに、「私」を忘れて空け渡した場にわきだすもの。
 さらには、ここにいたる前提として、「風象の耳」という公演タイトルが、直接的には、根耒を舞踏に導いた古川あんずの記憶と結びついたものであることもいわれている。「自分の耳のありかをさぐり、あげくの果ては、その実際の耳だけでは足らずと、首の後ろから、背中から、腕のうちっ側から、よじれた腰から、もうそれこそ身体中を耳にして、大空を飛ぶ。その時なにが見えてくるか」という課題「ダンボ」ですることになった経験が、根耒の舞踏の原体験にあり、目に見えず、形をまとわず現象するもの、からになったこの身体において、間身体的、間物質的に生成してくるものを、独自に「象」の言葉で呼ぶ理由でもあるという。

 「風象の耳」は、三つの場面から構成されていた。第一場は、暗転して真っ暗闇になった会場のなか、観客出入口の扉とは反対側にある楽屋口の低い位置から放たれる、暗く青いライトのなかに、頭に角を生やした生き物が出現する。ほんのわずかの時間、踊りらしい踊りもなしに浮きあがる姿だけで、夢のようなこの場面は終了した。つづく第二場では、いったん楽屋に退いた根耒が、カラフルかつ祝祭的な衣裳で再登場した。緑青色の布を首のところで交差させて上半身に巻きつけ、ゆるやかに寛いだもんぺのようなオレンジ色のスボンをはき、ズボンをとめた黄緑色の紐をうしろに垂らして、腰にはアクセントとなる白い端切れをつけるという格好。全体的に床での演技が多い公演だったが、長いダンスが踊られた第二場では、寝たままの姿勢で転がって、壁をおおった黒いカーテンを足にからめて引っぱり、その裏にある大きな鏡を露出させたり、立ちあがってしなやかさと躍動感が同居する魅力的なダンスを踊ったりと、印象的な場面がいくつもあった。第三場は、うぐいす色の地に緑の花がデザインされたワンピースの衣裳で登場。白い端切れが小学生の名札のようにピンで左胸に留められていた。顔や身体は薄く白塗りされていて、ダンサーが転がると、汗で落ちた白粉が床のうえに点々とした。最後は、観客出入口に消えていって終演。

 冒頭に出現した不思議な生き物は、根耒が小ぶりの木の枝を頭にくくりつけた姿だったのだが、闇が触発する深層心理的なヴィジョンというのだろうか、根耒がつかまえようとしている「象」が、あるいは、目に見えない身体の顕現として感じられる風景が、ひとつの典型として実現されていたように思う。彼女が木の枝を身にまとったことは、この生き物の出現を自然神の到来と解釈させるにじゅうぶんであり、根耒の姿から、宮崎駿『もののけ姫』に登場する水面歩行するシシ神が連想されたのにも、それなりの理由があったといえそうである。用意される衣裳は、もちろんそれ自体が身体の舞台装置である。第二場の重要なトーンを決定していた岩絵具を思わせる不透明な衣裳の色は、見るものの古代的な感覚を触発し、ダンスする身体に、もの言わぬ物語性を与えていた。ここは顔の表情がもっとも豊かに変化した場でもあったが、根耒が他の舞踏家との相違を感じさせるのは、それが非日常性へと逸脱していく狂気の表情ではなく、どこまでも日常的な喜怒哀楽の世界を動いていくことによるのではないだろうか。第三場に挿入された仰向けの根耒が呼吸を荒げる場面は、暗闇の第一場と呼応して、「春の祭典」につながる犠牲のシーンをイメージさせた。もちろん、「風象の耳」が、そうしたプロットを持っているわけではない。すべては私の解釈なのだが、エロスではなく犠牲のパッションを感じさせる舞踏版「春の祭典」というようなものを、作品の風景として感じとることは、根耒の舞踏の本質に、わずかなりとも届いているのではないだろうか。





  ※文中の写真はすべて写真家のbozzoさんにご提供いただいたものです。
     ご協力に心から感謝いたします。


 【関連記事|根耒裕子】
  「根耒裕子@畳半畳in路地と人」(2013-05-14)
  「根耒裕子+森重靖宗@喫茶茶会記」(2013-09-23)

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2013年10月22日火曜日

池上秀夫+菊地びよ@喫茶茶会記12



おどるからだ かなでるからだ
池上秀夫デュオ・シリーズ vol.12 with 菊地びよ
日時: 2013年10月21日(月)
会場: 東京/新宿「喫茶茶会記」
(東京都新宿区大京町2-4 1F)
開場: 7:30p.m.、開演: 8:00p.m.
料金/前売: ¥2,300、当日: ¥2,500(飲物付)
出演: 菊地びよ(dance) 池上秀夫(contrabass)
予約・問合せ: TEL.03-3351-7904(喫茶茶会記)



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 コントラバスの池上秀夫が主催するシリーズ公演「おどるからだ かなでるからだ」の第12回に、舞踏家の菊地びよが迎えられた。菊地は地域コミュニティの活動にも積極的に取り組んでいて、踊りの立ちあらわれる場というものを、近代的な劇場空間のなかだけにとどめることなく、また「環境」という美術的な方法論に押しこめたりもせず、3.11以降の社会のありように根ざした広い視野から探究し、その身体をもって実践的にかかわっているダンサーといえるだろう。踊りの立ちあらわれる場を、重層的なものとして経験にもたらそうとする態度は、彼女が本シリーズのいくつかの公演を下見に訪れたところにもあらわれている。この晩のセッションでは、ホスト役の池上が、彼にしては珍しく、ころあいを見はからって演奏に終盤を作るというような配慮をせず、意識的にサウンドに焦点する彼ならではの即興演奏を全面展開しながら、共演者に合わせるというのではなく、また対立するというのでもなく、それぞれの(身体の)ありようがおさまりどころを見つけるまで、パフォーマンスの流れに身をまかせるという演奏をしたため、公演時間はシリーズ最長の70分となった。

 この結果は、即興的なダンスに対する菊地の習熟度に負うところが大きかったように思う。公演冒頭、黒のワンピースドレスに裸足というシンプルないでたちで楽屋口から登場した菊地は、本編のパフォーマンスに入る前に、かたわらの照明コントローラーを操作して会場を暗転させ、コントラバス奏者を呼びこむという演出上の注文をつけた。パフォーマンスに入ってからは、菊地びよならではの動きを随所にはさみこみながら、公演の最初と最後では、疾走する帆船が海風を帆にはらむように、大きく両手をあげて身体を波打たせる動作をフィーチャーすることで、「おどるからだ」におけるダンスの基調を形作っていった。くりかえし踊りのなかに出現してくるダンサー固有の身ぶりは、即興演奏において音楽的な語りを構成するイディオムに相当するものと考えられるだろう。これを身ぶりの即興語法といってもいいし、その場で即席になされる振付、すなわち、即興演奏におけるインスタント・コンポージングのようなものとみなすことも可能である。自由であることを観念的にとらえるのではなく、実際の身体のありようと密接に関連づけて理解するために、過去に即興演奏のなかで語られてきたこの種の知見は有効だと思う。

 菊地の場合、つま先立ちをしての歩行、両肩をあげ背中を丸めるしぐさ、肩を床につけるようにして尻を突きあげ、身体の左側から顔をのぞかせる身ぶりといった特徴的な動作が、公演のたびごとにあらわれてくる。菊地の踊りをまだ二度しか見ていない私でも気づくようなそうした身ぶりのなかに、たとえば、コントラバス奏者の足もとに頭を投げ出し、片足を高くあげる「尾長鳥」と呼ばれる型のダンス(あるいは型に変形を加えたもの)もはさみこまれてくる。視覚に強く訴えかけるこうした型のダンスは、即興演奏には登場してこない。高くあげられた菊地の足は、さらに型を崩すまでに高くあがっていき、沸騰点を経過すると、腰の回転とともにそのまま床に投げ出され、股割りの姿勢に移行していく。直立するベーシストの身体と床のうえにまっすぐ広がった足が、あざやかな対照性を描き出す。身体の風景が次々に移り変わっていくなかでも、この場面はとりわけダイナミックなものだった。またセッションの中間地点では、ステージの対角線に沿って、うつ伏せにした身体を上手の観客席側にまっすぐにのばし、全身の力を抜いて動きをリセットする場面があった。この姿勢から下半身だけを使い、まるで屍体を引きずるようにして上半身を引きこんでいったのも、印象的な場面として記憶に残っている。

 菊地びよのダンスを初めて見た畳半畳の踊りで、私は「子狐」を連想させられたのだが、たとえ彼女が実際に子狐を模倣していたわけではないにしても、やはりそれがどこか動物的な質感をたたえたものであることが、本公演からも感じられた。一般的にいって、くりかえし出現する動きや身ぶりには、即興語法という語りのテクニックによって理解できる側面と、身体の奥深くにわだかまる、容易に言語化を許さない根源的なものに触れている側面があるように思う。前者を目に見える身体のふるまい、後者を目に見えない身体のふるまいということもできるだろう。「おどるからだ」での菊地のダンスは、身体の深みに向かうより、共演者の池上が彼女に展開の半分をまかせてしまえるような即興演奏の地平を、どこまでも滑走していくものとして踊られたように思う。もちろんそこに特異な身体の深みがたちあらわれていなかったわけではない。音楽的、時間的な流れのいたるところに亀裂は入っていたのだが、おそらく菊地は、共演者や観客との間に、しかるべき関係性を構築することを優先したのではないかと思われる。音楽の時間を凍らせてしまうような身体には、スポットがあたっていなかった。音楽と身体がどのような場所でかかわるのかは、つねに空欄のままである。公演のひとつひとつが謎解きそのものであり、音楽と身体のありようは、そのような謎解きの過程で少しずつ開かれ、明らかになってくるのだろう。





 【関連記事|おどるからだ かなでるからだ】
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  「池上秀夫+上村なおか@喫茶茶会記2」(2012-12-18)
  「池上秀夫+喜多尾浩代@喫茶茶会記4」(2013-02-19)
  「池上秀夫+木野彩子@喫茶茶会記7」(2013-05-21)
  「池上秀夫+笠井晴子@喫茶茶会記8」(2013-06-18)
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2013年10月12日土曜日

新井陽子7days3 with 亞弥@白楽Bitches Brew



新井陽子 piano7days
第三夜
Guest: 亞弥
日時: 2013年10月11日(金)
会場: 横浜/白楽「Bitches Brew」
(横浜市神奈川区西神奈川3-152-1 プリーメニシャン・オータ101)
開演: 7:30p.m.、開演: 8:00p.m.
料金: ¥2,000(1飲物付)
出演: 新井陽子(piano) 亞弥(dance)
予約・問合せ: TEL.090-8343-5621(Bitches Brew)



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 即興することの本義に戻るならば、即興ダンスをジャンルとして語ることは適当でないだろうが、即興する身体のありようをもって、たくさんの演奏家と積極的なセッションを展開してきた(またいまも展開している)ダンサーのひとりに舞踏の亞弥がいる。年に一度、あるいは数年に一度おこなわれる自主公演にむけて、すべての準備を整えていくようなダンサーからしてみれば、月に数度という公演数は、ほとんど異常な頻度であり、そのダンサーの内面の特別な事情を想像させるもののようである。たとえば、読書における濫読のようなもの、誰にでも経験のある、ダンス衝動に突き動かされるはしかのような時期という解釈もそのひとつだろう。かたや、即興演奏が示した多くのことのひとつに、生活のなかから立ちあげられる音楽の存在があった。そこで感じとられる演奏の(身体の)ミクロな変化は、日々の生活のようにして移り変わっていく、たくさんの演奏を仔細に観察することによってしか意識にとまらない。ダンスにおきかえれば、年に一度の公演では、発見された身ぶりのほとんどすべてを捨てざるをえないような身体の多様性、原初的な身体のありさまに接近するものといえるだろうか。非日常的なリサイタルよりも、日常的な練習/稽古に限りなく近いこのありようは、練習/稽古そのものを、身体的な実践の過程と定義しなおすものだった。

 この10月、ピアニストの新井陽子が、ジャズのフォトジャーナリストとして知られる杉田誠一の店「ビッチェズ・ブリュー」を会場に、一週間に一度、二度というとびとびの日程で、「新井陽子月間」とでもいうべき7デイズ公演を開催中である。その第三夜のゲストに、ここしばらく共演する機会のなかったダンスの亞弥が迎えられた。ステージの狭いこの会場では、アップライトピアノが常設されている他の音楽喫茶やライヴハウス同様、壁に寄せられた楽器に向かうピアニストは、他の共演者と背中合わせになって演奏しなくてはならない。聴くことが優先される音楽であれば問題はないが、これが身体表現のダンスとなると、黒いピアノの板に反射する背後の景色をうかがったり、演奏しながら身体をよじったり、立ちあがって内部奏法をするときを利用したりと、気配を察知するためのあれこれが試みられる。背後のダンス・パフォーマンスを見ることができないという条件が、デュオの間に必然的な距離感を生む。この晩、第二部の冒頭で、ピアノを背中にまわし、椅子に腰かけるダンサーに対面して座った新井は、足を片方ずつあげるゲーム的なパフォーマンスからスタート、その後、ピアノを背中向きのまま弾くアクロバティックな奏法をみせてから、本格的な演奏にはいった。ダンスとの共演になにがしかの方向性を与えるものではなかったにせよ、これらの挿話的なパフォーマンスが、ピアニストの実験心(悪戯心?)の発露であったことはたしかだろう。

 前後半に40分弱のパフォーマンスをふたつ配したライヴの第一部を、薄く白塗りした亞弥は、キャミソールと短パンのうえに、背中の大きく開いた和服柄の薄いガウンを羽織り、このガウンを脱ぐという行為をポイントにして静かな舞踏を展開した。裸足の足指には赤いペディキュアが塗られていた。また第二部では、黒のタンクトップに短パン、足にはエナメルが剥がれ落ちた銀色のバレエシューズといういでたちで、第一部とうってかわった道具立てのない裸の空間を自身に課しながら、足を使う動きのあるダンスを展開した。第一部が静的な展開になったのは、銀色の厚紙が持ちこまれたことによる。すなわち、座布団ほどの大きさの銀の厚紙を、四隅を丸く切ってステージの中央に置き、その内外を出入りしてダンスするための道具立てとしたのである。会場をそのまま使うのではなく、オリジナルに空間をカスタマイズするこのやり方は、木村由が自前の投光器を持ちこんでおこなう空間演出に相当するものだろう。ダンスの視点からいうなら、第一部では、ピアノ演奏とダンスが二重焦点になるようなパフォーマンスが、また第二部では、ピアノ演奏する新井の左手のスペースに立ち、演奏者から自分の姿が見えるように演技するなど、より積極的にピアノ演奏との対話を試みるダンスがおこなわれたように思う。

 いつからということを明確にいえないのだが、おそらくはごく最近、亞弥のダンスは、顔のありようにひとつのポイントを置くようになったのではないかと思われる。もうすこし正確にいうなら、瞼を見開きながらどこも見ていない眼、そうであるがゆえに、あまねくすべてを見ているように感じられる視線をまとうようになったのではないかと思われる。人間的であることをいったん停止するような、非日常性へと逸脱するこの視線を、彼女は新井陽子とのセッションでも見せていた。それをさまざまに用いられる舞踏的な手法のひとつといってしまえばそれまでのことだが、私の知る範囲で、亞弥のこの眼は、上杉満代のそれを容易に連想させるものだった。上杉の視線は、観客を凝視しながらなにも見ていない無意味さの強度に貫かれたもので、私たちを見てはならないものを見てしまったという気持ちにさせる強烈なものだが、即興ダンスとは別のところで、亞弥もまた、そのようなものに自身を開いていこうとしているのかもしれない。もうひとつ、ダンサー本人も見ることのできない、汗をかく肩や背中の美しさも印象的だった。これはさまざまに技法的なるものを越えて、あるいはエロティシズムのようなテーマを越えて、さらには汗っかきという体質を越えて、見るものに直接、そうでしかありえない固有の身体を運ぶものだった。それが会場の弱い照明に濡れて美しく輝いていたのは、そこに触れるべき重要なことが示されていたからだろう。




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2013年10月11日金曜日

ヒグマ春夫【第2弾】連鎖する日常/あるいは非日常の3/21日間



ヒグマ春夫の映像インスタレーション&コラボレーション
【第2弾】連鎖する日常/あるいは非日常の21日間
正朔・長谷川六・尾身美苗
開催期間: 2013年9月18日(金)~10月11日(金)
【公演日時】
10月2日(水)正朔
10月9日(水)長谷川六
10月10日(木)尾身美苗
会場: 東京/明大前「キッド・アイラック・アート・ホール」
5階ギャラリー
(東京都世田谷区松原2-43-11)
公演時間: 7:00p.m.~8:00p.m.
料金[各日]: ¥1,500



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 9月から10月という秋の深まりゆく季節、明大前キッド・アイラック・アート・ホールの5階ギャラリーで、21日間にわたるヒグマ春夫の映像インスタレーション展「連鎖する日常/あるいは非日常」の第二弾が開催された。このインスタレーション展は、毎年春にヒグマが企画にあたっているACKidと同様、専門化した芸術ジャンル間のコラボレーションにポイントが置かれていて、美術家(ヒグマ本人も含む)、音楽家、俳優、舞踏家、ダンサー、評論家らによる、インスタレーション内での日替わりパフォーマンスを特徴にしている。インスタレーション展を訪れる観客は、たとえ21日間にわたる公演のすべてに参加できなくても、分有の度合いが高まれば高まるほど、すなわち、よりたくさんのイベントに参加すればするほど、<連鎖する日常/あるいは非日常>のスラッシュが示す曖昧な領域を、「非日常」側から「日常」側へと動いていく(斜めになったスラッシュ線を上から下へとくだっていく)ことになる。これは美術のみならず、音楽やダンスがともども置かれている現在の社会的/文化的な環境を露出させる批評性といえるだろう。わずかながらではあるが、正朔(舞踏)、長谷川六(アクション)、尾身美苗(ダンス)が出演する公演を見ることができたので、以下で簡単なレポートを試みてみたい。

 キッドアイラックの5階ギャラリーは、いびつながらほぼ正方形をしていて、明大前駅から甲州街道(首都高速4号線)に抜けるキッド前の道路に面したサッシ扉の外は、雨ざらしのバルコニーになっている。部屋のなかにもうひとつ小さな部屋を作る感じで、会場の中央にキューブ型の枠が組まれ、枠組みが作る五面のうち、窓側と天井の面だけに薄い布が張られている。窓側の面と窓のカーテンは並行になっていて、窓と反対側の壁に寄せられたプロジェクターから、それらに列車の窓外を駆け抜けていく雪景色が投射されている。また、床の中央に置かれた上向きのプロジェクターからは、キューブの天井の布とギャラリーの天井の双方に、泡立って動きをとめることのない水面が投射されている。ギャラリーの天井には、皮を剥がれ、骨だけ広がった傘が吊りさげられている。窓と天井に向かって放たれる映像は、雪景色、水面、魚といった内容よりも、この場所を明確に構造づける光として意味のあるものだった。部屋のなかの部屋といったインスタレーションのありようは、視点を中央(特に上向きになったプロジェクター)に凝縮するが、そうした枠の力を、プロジェクターの強烈な光が突き抜けていくところに、空間のダイナミズムが生まれている。また会場に流れるノイズの音響ともども、それらが永遠にループすることで、インスタレーションの内部に滞留する時間が作り出されていた。

 出演者たちの身体は、こうした堅固な形式を備えた作品のなかにやってくる。ほとんど蟻の這い出る隙間もないといったほうがいいくらいだ。そもそも身体が身体としての自律性を持とうとしても、映像によってスクリーン化される身体は、つねにすでに皮膜でしかないものになってしまう。今回は「インスタレーションに触れないで表現」することが申し渡されていたとのこと。映像と身体が、あるいは音響と身体が、この場で「触れないで」いることは不可能なので、これはおそらく「意識しないで」とか「無関係に」というような意味なのだろう。踊りすらも作品化してしまうインスタレーションのなかで、どうしたら固有の身体を立ちあげることができるのかという意味で、踊り手の力量が試される場であったと思う。10番目に登場した正朔は、公演の冒頭、テラスの暗闇から影のように立ちあらわれた。正面の映像が落とされ、窓にかかったカーテン越しにうごめくものの気配。やがて映像のスイッチが入れられたが、正朔は窓から侵入するというような、作品構造を侵すようなことをせず、窓にかかるカーテンに触れたあと、入口の扉から入って、ふたつの正面スクリーンの間を通り、中央キューブの右手から中心部に入る経路をたどりながら、四つの映像に自分の影を映すことで、身体の存在を暗示した。天井に吊り下げられた傘にも影で触れたのは、はたして意識的なことだったかどうか。

 映像を回避しなから、床にうつ伏せになる汗まみれの身体。パフォーマンスのクライマックスで、キューブの中心部に身を置いた正朔は、上向きのプロジェクターにおおいかぶさるようにして叫び声をあげつづけた。ここでも正面の映像が消された。天井に向かって放たれる映像は、囲炉裏からあがる火のようなものにイメージ変成する。皮膜であることをやめた闇のなかの身体は雄弁だった。正朔の発した叫び声も、なにがしかの感情の爆発というより、強度をもった身体そのものの響きというべきだろう。あるいはまた、映像によってスクリーン化されながら、正朔の皮膚は膨大な汗を吹き出した。布でできたスクリーンは汗をかかない。見るものの視線がこの汗に焦点するとき、映像は皮膚の背後へと退いていく。これもまた、現実には存在しないふたつの皮膜の間で、映像が身体に反転するポイントのひとつだったといえるだろう。16番目に登場した長谷川六は、開場をしたときから、白いカーテンでぐるぐる巻きにした身体を、大きな窓の右脇になる部屋のコーナーの椅子に置いていた。少し油断すると、その存在に気づかずにいてしまう長谷川ならではの趣向。彼女のアクションは、開演とともに椅子から立ちあがり、身体を巻いたカーテンから両手を出し、頭を出し、布を少しずつ巻きほどいて床のうえに残しながらゆっくりと回転、窓とキューブの間の通路を、上手から下手に移動していくというもの。

 観客の視線を弛緩させないでおくためだろう、見栄を切るようにして細長い紐をピンと張り、それを縦にしたり横にしたり、前に突き出したりする動作のアクセントを入れていた。会場の一部分しか使わないということも含め、長谷川六のアクションは、まさに「インスタレーションに触れないで表現」せよという注文に応じたものだった。17番目に登場した尾身美苗の公演では、ダンサーや観客も作品の一部としてしまうような、ヒグマ春夫のパフォーマンスが前面化した。というのも、公演の冒頭で観客をテラスに出し、窓の外から映像と重なるダンサーの影を見せたり、事前に取り決めのあった公演時間を守らず、ダンサーを裏切って長目に踊らせたりというふうに、種々のハプニング的な要素が持ちこまれたからである。こうなるともうどこまでを「作品」と呼んでいいのかわからなくなる。白い上着にグレーのタイツで登場した尾身美苗のダンスは、特に、キューブの中央にあるプロジェクターの上で美しく海老ぞりになり、正面と天井の映像に自分の影を投影させてからの後半、彼女ならではの身ぶりを内側からあふれ出させて素晴らしかった。パフォーマンスのラスト部分では、痙攣するような激しい身ぶりを見せたのだが、これは約束の時間を超過し、身体が追いつめられた結果あらわれたダンスだったかもしれない。




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