ヒグマ春夫の映像インスタレーション&コラボレーション
【第2弾】連鎖する日常/あるいは非日常の21日間
正朔・長谷川六・尾身美苗
開催期間: 2013年9月18日(金)~10月11日(金)
【公演日時】
10月2日(水)正朔
10月9日(水)長谷川六
10月10日(木)尾身美苗
会場: 東京/明大前「キッド・アイラック・アート・ホール」
5階ギャラリー
(東京都世田谷区松原2-43-11)
公演時間: 7:00p.m.~8:00p.m.
料金[各日]: ¥1,500
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9月から10月という秋の深まりゆく季節、明大前キッド・アイラック・アート・ホールの5階ギャラリーで、21日間にわたるヒグマ春夫の映像インスタレーション展「連鎖する日常/あるいは非日常」の第二弾が開催された。このインスタレーション展は、毎年春にヒグマが企画にあたっているACKidと同様、専門化した芸術ジャンル間のコラボレーションにポイントが置かれていて、美術家(ヒグマ本人も含む)、音楽家、俳優、舞踏家、ダンサー、評論家らによる、インスタレーション内での日替わりパフォーマンスを特徴にしている。インスタレーション展を訪れる観客は、たとえ21日間にわたる公演のすべてに参加できなくても、分有の度合いが高まれば高まるほど、すなわち、よりたくさんのイベントに参加すればするほど、<連鎖する日常/あるいは非日常>のスラッシュが示す曖昧な領域を、「非日常」側から「日常」側へと動いていく(斜めになったスラッシュ線を上から下へとくだっていく)ことになる。これは美術のみならず、音楽やダンスがともども置かれている現在の社会的/文化的な環境を露出させる批評性といえるだろう。わずかながらではあるが、正朔(舞踏)、長谷川六(アクション)、尾身美苗(ダンス)が出演する公演を見ることができたので、以下で簡単なレポートを試みてみたい。
キッドアイラックの5階ギャラリーは、いびつながらほぼ正方形をしていて、明大前駅から甲州街道(首都高速4号線)に抜けるキッド前の道路に面したサッシ扉の外は、雨ざらしのバルコニーになっている。部屋のなかにもうひとつ小さな部屋を作る感じで、会場の中央にキューブ型の枠が組まれ、枠組みが作る五面のうち、窓側と天井の面だけに薄い布が張られている。窓側の面と窓のカーテンは並行になっていて、窓と反対側の壁に寄せられたプロジェクターから、それらに列車の窓外を駆け抜けていく雪景色が投射されている。また、床の中央に置かれた上向きのプロジェクターからは、キューブの天井の布とギャラリーの天井の双方に、泡立って動きをとめることのない水面が投射されている。ギャラリーの天井には、皮を剥がれ、骨だけ広がった傘が吊りさげられている。窓と天井に向かって放たれる映像は、雪景色、水面、魚といった内容よりも、この場所を明確に構造づける光として意味のあるものだった。部屋のなかの部屋といったインスタレーションのありようは、視点を中央(特に上向きになったプロジェクター)に凝縮するが、そうした枠の力を、プロジェクターの強烈な光が突き抜けていくところに、空間のダイナミズムが生まれている。また会場に流れるノイズの音響ともども、それらが永遠にループすることで、インスタレーションの内部に滞留する時間が作り出されていた。
出演者たちの身体は、こうした堅固な形式を備えた作品のなかにやってくる。ほとんど蟻の這い出る隙間もないといったほうがいいくらいだ。そもそも身体が身体としての自律性を持とうとしても、映像によってスクリーン化される身体は、つねにすでに皮膜でしかないものになってしまう。今回は「インスタレーションに触れないで表現」することが申し渡されていたとのこと。映像と身体が、あるいは音響と身体が、この場で「触れないで」いることは不可能なので、これはおそらく「意識しないで」とか「無関係に」というような意味なのだろう。踊りすらも作品化してしまうインスタレーションのなかで、どうしたら固有の身体を立ちあげることができるのかという意味で、踊り手の力量が試される場であったと思う。10番目に登場した正朔は、公演の冒頭、テラスの暗闇から影のように立ちあらわれた。正面の映像が落とされ、窓にかかったカーテン越しにうごめくものの気配。やがて映像のスイッチが入れられたが、正朔は窓から侵入するというような、作品構造を侵すようなことをせず、窓にかかるカーテンに触れたあと、入口の扉から入って、ふたつの正面スクリーンの間を通り、中央キューブの右手から中心部に入る経路をたどりながら、四つの映像に自分の影を映すことで、身体の存在を暗示した。天井に吊り下げられた傘にも影で触れたのは、はたして意識的なことだったかどうか。
映像を回避しなから、床にうつ伏せになる汗まみれの身体。パフォーマンスのクライマックスで、キューブの中心部に身を置いた正朔は、上向きのプロジェクターにおおいかぶさるようにして叫び声をあげつづけた。ここでも正面の映像が消された。天井に向かって放たれる映像は、囲炉裏からあがる火のようなものにイメージ変成する。皮膜であることをやめた闇のなかの身体は雄弁だった。正朔の発した叫び声も、なにがしかの感情の爆発というより、強度をもった身体そのものの響きというべきだろう。あるいはまた、映像によってスクリーン化されながら、正朔の皮膚は膨大な汗を吹き出した。布でできたスクリーンは汗をかかない。見るものの視線がこの汗に焦点するとき、映像は皮膚の背後へと退いていく。これもまた、現実には存在しないふたつの皮膜の間で、映像が身体に反転するポイントのひとつだったといえるだろう。16番目に登場した長谷川六は、開場をしたときから、白いカーテンでぐるぐる巻きにした身体を、大きな窓の右脇になる部屋のコーナーの椅子に置いていた。少し油断すると、その存在に気づかずにいてしまう長谷川ならではの趣向。彼女のアクションは、開演とともに椅子から立ちあがり、身体を巻いたカーテンから両手を出し、頭を出し、布を少しずつ巻きほどいて床のうえに残しながらゆっくりと回転、窓とキューブの間の通路を、上手から下手に移動していくというもの。
観客の視線を弛緩させないでおくためだろう、見栄を切るようにして細長い紐をピンと張り、それを縦にしたり横にしたり、前に突き出したりする動作のアクセントを入れていた。会場の一部分しか使わないということも含め、長谷川六のアクションは、まさに「インスタレーションに触れないで表現」せよという注文に応じたものだった。17番目に登場した尾身美苗の公演では、ダンサーや観客も作品の一部としてしまうような、ヒグマ春夫のパフォーマンスが前面化した。というのも、公演の冒頭で観客をテラスに出し、窓の外から映像と重なるダンサーの影を見せたり、事前に取り決めのあった公演時間を守らず、ダンサーを裏切って長目に踊らせたりというふうに、種々のハプニング的な要素が持ちこまれたからである。こうなるともうどこまでを「作品」と呼んでいいのかわからなくなる。白い上着にグレーのタイツで登場した尾身美苗のダンスは、特に、キューブの中央にあるプロジェクターの上で美しく海老ぞりになり、正面と天井の映像に自分の影を投影させてからの後半、彼女ならではの身ぶりを内側からあふれ出させて素晴らしかった。パフォーマンスのラスト部分では、痙攣するような激しい身ぶりを見せたのだが、これは約束の時間を超過し、身体が追いつめられた結果あらわれたダンスだったかもしれない。■
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