2013年9月30日月曜日

田山メイ子舞踏ダンス公演: 情熱ノ花


田山メイ子舞踏ダンス公演
情熱ノ花
アクノ花アカイ花
日時: 2013年9月28日(土)「アクノ花」
日時: 2013年9月29日(日)「アカイ花」
会場: 東京/中野「テルプシコール」
(東京都中野区中野3-49-15-1F)
開場: 5:30p.m.,開演: 6:00p.m.
料金/1日券: ¥2,000、2日券: ¥3,000
演出・出演: 田山メイ子(dance)
照明: 神山貞次郎 音響: 太田久進
宣伝美術・写真: GMC
協力: 岡田隆明、縫部憲治、木村 由



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 田山メイ子の舞踏ダンス公演「情熱ノ花」が、「アクノ花」「アカイ花」と、それぞれにサブタイトルのついた2デイズ公演としておこなわれた。事前に告知されていた、「アカイ花」への田村泰二郎の友情出演がとりやめになったところから、結果的には、ふたつの対照的なソロ・パフォーマンスがならぶこととなった。場面を絞りこみ、身ぶりを絞りこみする集中した演技が、禁欲的にも感じられた「アクノ花」と、往年の歌謡曲を場面構成に使い、田山メイ子、歌謡曲を踊るというコピーをつけたくなるような遊び心を発揮した「アカイ花」、そのどちらにも共通していたのは、マネキン人形のように衣装を替え、演劇的に設定されたある登場人物をステージに立たせ、観客になにかしらの物語を想像させるイメージ作りをしながら場面をつなげていく手法と、一見それとは対照的に、日常的な身ぶりを文脈逸脱的に引用し、意味を欠いているという意味では「貧しい」といえるような身ぶりに変質させた反復するダンスの結合だったように思う。この異質なものの結合は、たとえば、歌謡曲の通俗的なイメージを裏切るダンサーの身体として出現し、日常的な場面設定のなかから、シュールで異様な感覚が生み出されてくる。

 ある人物が出現しているという点から見ると、初日の「アクノ花」は二場からなり、衣装替えに入る少し前の時間帯に、赤いリボンを首に巻きつけ舌をペロペロ出す場面があった。この顔の演技は、印象的ではあるものの、いまではベーシックな舞踏の技法(の引用)といえるものである。ダンスのなかで執拗に反復される日常的な身ぶりは、潜在的な身体を立ちあげ、反復をもって、日常ならざるものへの扉を開くものだったが、この顔の演技は、もっとダイレクトな形で、ステージに非日常性を持ちこむ。同様の顔の演技は、二日目にもあらわれた。「アクノ花」の最初の場面は、左膝に大きな破れ目のある古いジーパンにタンクトップの上着を着た田山が、左足に長く赤いテープを巻きつけて片足立ちするダンスだった。上手に座った姿勢から立ちあがり、壁に身体をもたせかけながら、下手に向かってゆっくりと進んでいく。右足にかかる負荷の増大が身体的なドラマになっている。暗転後は、赤い照明をバックに黒いドレスでつま先立ちして踊る、バレエ人形のようなコケットリーなダンスが登場。ともに「子供時代はバレエ少女、青春期はサヨク少女」という田山自身の経歴から、ふたりの人物をピックアップする構成らしかった。強調される赤と黒は、田山のなかにある色であるとともに、二日目の「アカイ花」にも通じている。

 二日目の「アカイ花」は、タイトルが暗示するように、つげ義春の世界に原イメージを得ている。「北帰行」「雪が降る」「骨まで愛して」「時の過ぎゆくままに」「圭子の夢は夜ひらく」「creep」(これだけレディオヘッド)などの曲を、ある登場人物のいるシチュエーションを設定して踊るというもの。最後の舞台挨拶では、藤圭子を意識してだろう、宇多田ヒカルの「First Love」が流され、歌謡曲の合間には、音響をつとめた太田久進の判断で、環境音や細田茂美の「Beyond The Sea」がはさみこまれた。これらが表地/裏地になることで、サウンド構成には、曲を流すだけの単調さを回避する自由闊達さがもたらされていた。「アクノ花」でのダンスが禁欲的だったのに対して、こちらには通俗的なイメージの豊かさがあり、私たちがよく知る歌の風景と、それを非日常化する身体を対応させる遊び心にあふれたものだった。イメージと身体をめぐる田山のダンスの方法は、二日目の「アカイ花」で、さらに効果的に機能したように思う。特に印象的だったのは、「圭子の夢は夜ひらく」にあらわれた赤い花柄のパンツをはいた黒い犬(のように見える、手足を床につけた黒いバレエ衣装でのダンス)の回転で、この人物といえない人物の出現には、シュールという以上に異様な感覚があらわれ、歌手の不幸な死という不条理を、見るものにあらためて痛感させるものになっていたと思う。

 田山メイ子の舞踏は、とどまることのない、新たな身ぶりの発見と発展のうえに形作られていくというものではなく、「アカイ花」でつげ義春の世界を参照したように、誰もがとっくに忘れてしまった(はずの)タイムカプセルを開封して、ある時代が持つことになった感覚や感情を、見るものにくりかえし思い出させ、感覚しなおさせる、生活再発見的なものとしてあるように思われた。これはおそらく、ダンサーが意識していると否とにかかわらず、ある種の舞踏観の反映なのであろう。たとえば、合田成男が土方巽の追悼に際して記した「舞踏は舞踏する肉体に生活の実体が宿っておれば、小さくとも成立する」というような言葉は、薄暗い感情の襞を一枚一枚数えあげていくようなつげ義春の世界に、無理なく寄り添わせることができると同時に、日常的な身ぶりを、別の光のもとで見ることを可能ならしめるものでもある。田山の場合、それは生活に埋没している感情を、まるごと救い出そうとするような(文学的)行為=ダンス=舞踏としてではなく、日常的な意味を剥奪された異様な身ぶりとともに、異化的に提示される。そのような身体だからこそ、現在性を巻きこむことのできるようなダンスが踊られているのである。





 ※初日の写真は、小野塚誠さんからご提供いただいたものです。
   ご厚意に感謝いたします。

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