根耒裕子+森重靖宗
異文化交流ナイト FINAL5days !!
日時: 2013年9月22日(日)
会場: 東京/新宿「喫茶茶会記」
(東京都新宿区大京町2-4 1F)
開場時間: 6:00p.m.~11:30p.m.
料金/予約: ¥2,500、当日: ¥3,000(1飲物・軽食付)
出演: 根耒裕子(舞踏)+森重靖宗(cello)、千葉広樹(contrabass)
表現、カール・ストーン(electronics)、HIMIKO倭人伝
Sound Director: Kyosuke Terada
キュレーター・MC: 芦刈 純
予約・問合せ: TEL.03-3351-7904(喫茶茶会記)
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新宿大京町にある喫茶茶会記は、ユニークな数々の公演で異彩を放つカフェバーとなっているが、マスター福地史人のブッキングの他にも、副店長を務める芦刈純がキュレーターとなって、福地路線とはひと味違った人脈と雰囲気を持つシリーズ「異文化交流ナイト」が開催されてきた。10月に主催者の芦刈が期間を定めない海外行脚に旅立つため、シリーズがいったん休止になることから、芦刈の離日直前、特別にファイナル5デイズ公演が企画された。その四日目のプログラムのトップを飾ったのが、四谷インプロのメンバーである舞踏の根耒裕子と、チェロ演奏にねばりつくような色彩感覚をもたらす森重靖宗の即興セッションである。数年前、ふたりはより人数の多いライヴで共演しているが、デュオはこの日が最初とのこと。芦刈ブッキングの功績である。舞踏のイムレ・トールマンとの活動にはじまり、亞弥、可世木祐子、木村由など、これまでに個性的なダンサーたちと一頭地を抜くパフォーマンスを見せてきた森重が、その経験の厚みをもって、古川あんずの舞踏からスタートしながら、現在では、独自のテーマを探究しながら、いわばその発展形として魅力的な身体を立ちあげている根耒裕子とまみえる注目のセッションだった。
今年の春先、中西レモン主催の「畳半畳」に出演した根耒裕子は、全身を白塗りにし、和紙で作った手製のドレスを身にまとったが、30分弱の即興セッションとなったこの晩は、白塗りはせず、ダンスの装置としてある衣装も、皮膚感覚を直接刺激してくるようなものではなかった。喪中の貴婦人を思わせるベールのついた黒い帽子、背中の部分だけ白とうぐいす色がまじって虫の羽のように見えるゆったりとした黒い薄地のロングドレス、黒いソックス、黒いダンスシューズという黒一色のいでたちで、根耒の想定では、茶会記の強いライトのもとで薄地の洋服が透け、下の裸が見え隠れするはずだったのであるが、実際の公演では、縦格子になった背後の壁に寄ったとき、多少の効果はあらわれたものの、ほとんどの瞬間は、肌の色が服の色にアンサンブルしてしまうため、見るものに布と地肌の質感の相違を意識させることはなかった。残念ななりゆきではあったが、このエピソードは、即興セッションに際しても、根耒がダンスする身体と衣装の間にあるものを、一種の対話的関係として意識していることを示しているだろう。外に対しては、演奏者との位置関係がダンスのありようを決定し、内に対しては、衣装と身体の間でかわされる対話が、内面の吐露というモダンな表現図式のかわりに置かれている。
根耒の両面作戦は、「畳半畳」の公演レポートで触れたような、私ではなく皮膚が考えるということ、あるいは、舞踏やダンスに奉仕する機能的な身体ではなく、いくつもの表情があらわれては消えていく、ひとつの場としての身体を立ちあげることにつながるはずである。こうした皮膚感覚的なるものの提示は、チェロの森重の演奏にも共通して感じとれるものだ。かたや、この日のライティングによる演出は、闇からはじまり闇に終わる触覚的な時間のなかにデュオ・パフォーマンスを置くもので、舞踏的なもの、即興的なものに、闇から出現する異形の存在というようなイメージを与えていた。ねばりつくような森重サウンドの効果もあって、これは「異文化交流ナイト」にふさわしい秘教的な演出だったと思う。そうしたなか、根耒は床や壁を使って演技したり、ピアノに寄りかかったり、観客席の通路に侵入したり、さらにチェリストに接近すると、前の床に腰を落としてすわったり、横の床に寝ころんだりするなど、茶会記のスペースを縦横に使って踊った。そこには「畳半畳」とまた性格の違う独特な雰囲気がかもし出されていたが、余談としていうと、衣装に身体を慣らす目的でリハーサルしたときには、力が抜けていたこともあって、ボリュームのある彼女のなかにこんな動きが!と驚くような、軽々としたステップやチャーミングな身ぶりがいくつもあらわれていた。
ダンサーが演奏家と即興セッションするとき、即興を成立させる構造的なもの(なにかを動かすとき、別になにか動かないものを作らなくてはならないが、このときその動かないものが、動くものを支える構造、あるいは足台のようなものとなる、そのもののこと)を、その音楽や演奏の内容にではなく、パフォーマーとしてその場に存在する演奏家の身体そのものに求めることが多いように見受けられる。これはおそらく、ダンサーの視点からは、音楽における即興が見えにくいことによるのだろう。この即興セッションでも、そのような関係のとりかたが試みられたように思われるが、上述したように、響きの表面を執拗になでさすっていく森重の演奏の表層性と、衣装との対話によって根耒が立ちあげようとする皮膚感覚の間には、そもそもとてもよく似たところがある。「畳半畳」に参加した根耒がそうしたように、大きな動きを捨て、ミクロにうごめく皮膚感覚を前面化したとき、ふたつの即興パフォーマンスは、まるで二枚の皮膚のように触れあう領域を獲得することができるのではないかと思われた。ダンスと即興演奏の交点においては、そこにあらわれる新たな感覚──音楽にもダンスにも所属しない、第三の感覚をこそ体験してみたい。■
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「根耒裕子@畳半畳in路地と人」(2013-05-14)
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