2013年1月31日木曜日

毒食 Dokujiki 6



中空のデッサン Vol.36
Un croquis dans le ciel Vol.36
毒食6 Dokujiki 6
日時: 2013年1月30日(水)
会場: 吉祥寺「サウンド・カフェ・ズミ」
(東京都武蔵野市御殿山 1-2-3 キヨノビル7F)
開場: 6:30p.m.、開演: 7:00p.m.~
料金: 投げ銭+drink order
出演: 森 順治(alto sax, bass clarinet) 橋本英樹(trumpet)
金子泰子(trombone) 多田葉子(sax)
蒔田かな子(pianica) 岡本希輔(contrabass)
問合せ: TEL.0422-72-7822(サウンド・カフェ・ズミ)

── 毒食6|演奏順 ──
【第一部】
蒔田かな子金子泰子 → 
橋本英樹/森 順治/岡本希輔多田葉子
【第二部】
蒔田かな子金子泰子多田葉子
橋本英樹/森 順治/岡本希輔



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 ひとりの演奏家の即興演奏を継続して聴くことで、日々に移り変わるその変化を聴きとろうという、娯楽というより、専門研究に近いテーマを設定して、一晩のセッションを参加者のソロ演奏だけで構成していくのが、「毒食」シリーズのユニークな特徴であるが、2013年初頭におこなわれた<毒食6>は、ホスト奏者のひとりであるギタリストの林谷祥宏がインド旅行で欠席するなか、「毒食」最初のゲスト奏者として<毒食4>から参加している蒔田かな子の最終セットがある一方、蒔田と入れ替わるように、トロンボーンの金子泰子とサックスの多田葉子が、最初のソロ演奏を披露する特別な会となった。<毒食6>を特別なものにしたもうひとつの要素がある。それは参加人数の増大にともなう演奏時間の節約に関するもので、橋本英樹、森順治、岡本希輔というホスト奏者が、三人いっしょにステージに立ち、同時には演奏しないというルールで、三つのソロ演奏を並走させるアイディアを試したことであった。結果的にいうと、この試みは、たしかに時間短縮にはなったが、演奏者どうしが反応するしないにかかわらず、簡単なルールで作曲されたコンポジションをトリオで演奏することと選ぶところがなくなり、ソロ演奏をリレーしていく「毒食」の大枠を破ることになってしまった。縦のつながりを横に並べることで、ソロ演奏の変化を聴くというテーマがどこかにとんでしまったのである。

 演奏が自然に変わっていくことと、演奏になんとか変化をつけようとすることとは別のことである。意識を働かせれば働かせるほど、自然にもたらされる変化が聴こえないようになる。即興演奏において、過程を生きることから離れてしまった意識を、もう一度カッコに入れ、そこにある自然状態をふたたび感じられるようにするというのは、聴き手と演奏者の別なく、かなりコンプレックスした行為といえるのだろう。気づかずにいつもその前を通り過ぎている入口のようなものだが、「身体の声に耳をすます」という言葉が、おなじことをわかりやすく述べている。蒔田かな子、金子泰子、多田葉子らは、ジャンルとしての「即興演奏」のイメージを前提に、それぞれふたつのソロ演奏に挑戦した。初参加したときの蒔田は、ピアニカの鍵盤をまさぐるように音を出しながら、即興のありどころを探っていた姿が印象的だったが、方向もなく楽器から出てくる原初的なサウンド、ベタベタと彼女の指紋がついた音の塊自体が、まさしく「即興」と呼ばれるものに他ならなかった。最終回の蒔田は、前半のセットで音にエフェクターをかけ、後半はヴォイスと組みあわせることで変化をつけながら、ピアニカから煙のようなサウンドをくゆらせた。

 自由な音楽という点を別にすると、金子泰子と多田葉子は、即興演奏をアブストラクトな演奏としてとらえているように思われた。周知のように、歌の伴奏のような、調性的なものをはずれていく演奏だとか、二度とおなじことをしない演奏といった一般的なイメージである。金子の場合、調性からの逸脱は、田村夏樹のように、声が持っている声調をトロンボーンに移すことでおこなわれた。タンバリンや鈴のような小物楽器も用意され、演奏中に足で踏んでリズムをとるようなこともあったが、大道芸的なこの感覚は、遠くにアートアンサンブルの諧謔性をこだまさせているようだった。後半のセットは椅子に座ったまま演奏された。トロンボーンの長い管を、まるで佐々木小次郎の物干し竿のように、めいっぱいスライドさせてふりまわしたり、大きなトロンボーンミュートを操作しながらおこなう演奏は、それだけでパフォーマティヴなものだった。かたや、この日カーヴドソプラノを吹いた多田の演奏は方法論的なもので、前半のセットでは、ブルージーな雰囲気の静かな吹奏からスタートし、アドリブラインの抽象性を貫徹する一方、後半では、楽器のマウスピースをコップの水につけるパフォーマティヴな演奏にはじまり、エネルギッシュなフリージャズ演奏の強度を保つことで、ふたつのソロ演奏という課題に応えていた。

 橋本 - - 岡本のトリオ演奏は、多くのゲームピースを作曲したジョン・ゾーンの作品「ゴダール」を思わせた。相互に無関係な演奏断片が連続していくこの曲は、テープの継ぎはぎによるヴァーチャルなものではなく、録音の際に、そこまで収録された演奏をぜんぶ聴いてから、新たな演奏を即興的に追加していく形で収録されたものとしてしられている。個々の即興演奏の内容に手を加えることなく全体を編集していくというのが、ゾーンがゲームピースに持っていたヴィジョンだった。橋本 - - 岡本の三人が、前後の脈絡なく新たな演奏の断片をリレーしていくセットは、前後半ともに、「ゴダール」の場合同様、ひとつのルールを前提にした共同作業というべきものになっており、そうした楽曲構造が、三つのソロの並走状態を不可能なものにしていた。後半のセットは、岡本が何度か演奏を中断し、スタートの仕切りなおしをしながら、前半のルールに、適当なところで各自が長いソロを入れるという新ルールを付しておこなわれた。しかしルールをふたつにしても音楽構造が変わるわけではないために、トリオ演奏はそのままで、「毒食6」(ここだけの仮タイトル)という同名曲の別バージョンを演奏する結果になったように思われる。しかしながら、逆にいうなら、ソロ演奏というスタイルの本質も、ここから見えてくるのではないかと思う。





   ※毒食(どくじき):1900(明治33)年2月17日、衆議院で演説した田中正造が、「目に見えない毒」
      に汚染された水や作物を飲み食いすることをいいあらわしたもの。[フライヤー文面から]

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2013年1月21日月曜日

長沢 哲: Fragments vol.16 with 森重靖宗




長沢 哲: Fragments vol.16
with 森重靖宗
日時: 2013年1月20日(日)
会場: 東京/江古田「フライング・ティーポット」
(東京都練馬区栄町27-7 榎本ビル B1F)
開場: 7:00p.m.、開演: 7:30p.m.
料金: ¥2,000+order
出演: 森重靖宗(cello) 長沢 哲(drums, percussion)
問合せ: TEL.03-5999-7971(フライング・ティーポット)



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 長沢哲が主催する「Fragments」シリーズの第16回公演において、チェロの森重靖宗との二度目の共演という好カードが実現した。チェロの弦に鋭利な刃物のような弓をたて、断末魔の悲鳴を思わせるノイズサウンドに激しいパッションを重ねる森重の、痛々しいまでの快楽的な欲求は長沢になく、かたや、ミニマルに反復されるリズムのなかで、微細なサウンドの差異を執拗に積み重ねていく長沢の、求道者のような辛抱強さや実直さは森重にない。一見すると、ふたりはまるで正反対の資質の持ち主のようであるのだが、濃密に凝縮したサウンドのエネルギーによって日常性の時間を脱臼させ、時空間をゆがめてしまう魔術的な音楽をしているという点では、現在の即興シーンにおいて双璧といえるのではないだろうか。これもまた即興演奏というしかないのではあるが、音楽的な衝動に火がつくとともに、多彩なフレーズを展開し、いくつものバリエーションを経巡りながら、演奏を外へ外へと(あるいは横へ横へと)拡張していく身体のありようとは違って、彼らはいわば垂直の方向に深い穴をうがっていく。対比的にいうならば、演奏を内へ内へと(あるいは中へ中へと)拡張していく身体のありようを持っているのである。この自己への沈潜がサウンドを濃密に凝縮させ、時空間をゆがめてしまうほどの強度を獲得させることになる。

 故・富樫雅彦のドラミングに私淑してきた長沢が、内面的な音楽を志向しているのは疑いないとして、静謐な音楽空間を切り開く富樫の系譜を受け継ぐと同時に、長沢ならではの音楽性もそこにつけ加えている。さらには、長沢の演奏をかたわらに置くことで、富樫打楽の特質があらためて見えてくるようなところさえある。たとえば、サウンドカラーで絵を描くようなところだとか、サウンド構成におけるある種のデザイン感覚などである。あるいは、微細なサウンドの差異に集中してミニマルなパターンを追う長沢に対して、富樫が、(韓国の故・金大煥のように)太鼓やシンバルの一打のなかにすべてを見ようとする指向性を持っている点で、これは銅鑼の使用、バスドラの扱い方などに象徴的にあらわれているだろう。等しくサウンドに集中するといっても、微細な音色の差異を追っていく長沢は、ひとつのサウンドになにかを託すというようなことは少なく、演奏はいくつかのシークエンスを基本単位としている。これを作曲家的なセンスということも許されるだろう。周知のように、富樫を「作曲家」という場合は、あくまでもメロディを書く人、自然のヴィジョンを提示する人を意味していた。打楽する富樫は、つねにインプロヴァイザーとして考えられていたのである。

 そうした長沢哲が、森重とのデュオではアグレッシヴな演奏を展開した。ミニマルなサウンドの展開を捨てて、チェロ奏者との一騎打ちに挑んだのである。ともに内面を深く掘り下げていくタイプの演奏家でありながら、彼らはけっして自閉的な音楽をしているわけではない。くりかえせば、濃密なサウンドの凝縮をもって時空間をゆがめてしまうような、強度のある演奏をしているのである。ふたりの共演は、ひとつの密度が別の密度に接近し、重なりあい交錯しあって、まるでそこに新たな天体が誕生するような演奏だった。全体的には、ソロを交換しあいながら演奏が進行し、クライマックスでは、ギタリスト吉本裕美子と共演したとき(2012617日、Fragments vol.9)のように、長沢がゆっくりとドラミングの海面をあげていく打楽器版シーツ・オブ・サウンドで、演奏のヴォルテージを(内面の深いところから)最高度にまで押しあげていくというスリリングな展開をみせた。潮がゆっくりと引いていくような最後の部分も、自然な流れが美しく、個性的な演奏をするふたりが、演奏の個性をただの一音も犠牲にすることなく共演した、希有なケースのひとつとなったように思われる。

 昨年10月にチェロの弾き語りで活動を再開してから、さほど時間も経過していないこの時点で、森重のソロ演奏はひさしぶりのものだったようだ。彼の演奏は、目的地もないままに船出する航海のようなもので、特定のスタイルを持とうとせず、前後の脈絡もなく散発的に出されるサウンドの命綱のうえを、危ういバランスで綱渡りしながら、そこに内面の深みからやってくるパッションを編みこんでいく。方向の定めなさは、肉に突き立てられることなく、いつまでもサウンドの皮膚のうえを滑っていく鋭利な刃物を見ているようで、ヒヤヒヤとしたスリリングな感触がたまらない。即興演奏の長い歴史だとか、演奏スタイルだのコンセプトだのにふりまわされることなく、「まるでなにも知らない子どものように無垢な」サウンドを理想とする(らしい)森重にとって、よりどころとなるのはただひとつ、彼自身の内面からやってくる衝動のようである。森重が生み出すサウンドのヒリヒリとした触覚性は、演奏のなかであれこれのフレーズを使うことがあったとしても、美術でいわれるところの、アンフォルメルの音楽をめざすところからやってくるものなのだろう。ここでいう「アンフォルメル」とは、形のない、たとえば、すべてをサウンドに還元するような形式的なものではなく、そこに浮んでは消えていく散漫なフレーズやパターン等々の「形」が、音楽的に意味をなさないことを意味すると考えられる。





【次回】長沢 哲: Fragments vol.17 with カイドーユタカ   
2013年2月17日(日)、開演: 7:30p.m.   
会場: 江古田フライング・ティーポット   

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2013年1月19日土曜日

絶光 OTEMOYAN



絶光 OTEMOYAN
── 木村 由 - 本田ヨシ子 - イツロウ ──
日時: 2013年1月18日(金)
会場: 東京/明大前「キッド・アイラック・アート・ホール」
(東京都世田谷区松原2-43-11)
開演: 8:00p.m. 料金: ¥2,000
出演: 木村 由(dance)
本田ヨシ子(voice) イツロウ(synthsizer, etc.)



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 その場でサンプリングしたヴォーカリーズをループで重ねていき、こすれあう皮膚感覚をもって干渉しあう擬似コーラスによって、無国籍で、幻想的な空間を織りあげていくヴォイスの本田ヨシ子、シンセサイザーやサンプリングされた物音を組みあわせながら、不均衡な電子ノイズを脈絡なしに散りばめ、穴だらけの時間を構成していくイツロウ、数ある木村由のダンスシリーズのひとつ「絶光 OTEMOYAN」で演奏するユニークなこのコンビが描き出す音響空間は、サウンド間に対立がないことで際立っている。声と声、声と物音は、ときにぶつかりあうように聴こえたとしても、基本的にそれぞれのレイヤーのなかを動いていくだけなので、本質的な対立も、また対話もひき起こすことがない。本田のコーラスは、(たとえば、巻上公一の「声帯」のように)他者の声が出会う場所ではなく、乱反射するひとつの声のこだまとして響いている。音響機器を接続した輪のなかに座りこむステージ下手の本田と、正面の壁前に楽器類をセッティングしたイツロウが、ダンスする木村由をサンドイッチにしておこなう演奏は、ホールの床を大量の黒い水で満たしていくかのようで、それは間違いなく、意識の底にわだかまっている影の領域を、強烈な催眠効果を発するサウンドとともに開いてみせるような演奏だった。

 彼方まで広々とひろがる湖の、鏡のように静かな水のうえを、髪を頭のうしろで束ね、白塗りにした顔に赤いほお紅と口紅を描き加えた “おてもやんメイク” の木村由が、足首まで水に浸かりながら、ゆっくりとした動きを運んでいく。これはもちろん私が見た幻想の風景に過ぎないが、「絶光 OTEMOYAN」では、ドラマーの長沢哲やピアニストの照内央晴と共演したときのように、投光器の光や壁に投影される影を使ったダンス空間が(音楽とは別に)用意されるということはなく、ダンサーが対話の相手にした空間は、まさに本田ヨシ子とイツロウが構築した音響空間そのものだったところから、私が見たこの風景は、たんに幻想というにとどまらず、ダンス空間の構造をも示しているように思われる。下手側の太い柱が、天井から吊り下げられたスポットによって明るく照らし出されていて、滝壺に落ちる滝のようだったのだが、そこが「絶光 OTEMOYAN」の空間の扇の要でもあり、またダンスの開始点になったこと、あるいは、奈落の底にある楽屋からステージに登場したとき真知子巻きにしていた赤いショールを、パフォーマンスの途中で小道具に使ったことなどをのぞけば、この日の木村由は、ほぼ徒手空拳の状態でダンスにのぞんでいた。これはもしかして、木村由の即興セッションでこれまで採用されていた、ダンス空間(時間)と音楽時間(空間)の楕円構造を解消しようとする試みだったのかもしれない。

 本田ヨシ子とイツロウが開いてみせる空間は、これまで木村が共演してきた即興演奏家のものとは大きく違っているが、それを身体のレベルまで下降していうなら、(上述したように)無意識の水を大量にたたえた深い池のようなものといえるであろうし、視覚的にいうなら、抽象的なサウンドを書きこむことのできる面(複数のレイヤー)の出現ということもできるだろう。そこにはおそらく世代的なメディア経験の相違が横たわっている。おてもやんメイクをした木村が持ち運ぶ身体は、一時間という時間を区切って、対立のないこれら複数のレイヤー空間を、いわば斜めに横切りながらダンスしていくのであるが、投光器の強い光が作り出す方向感覚や影を投影する壁を使えない(実際のパフォーマンスでは、公演の中程で壁に寄りかかるなどしていたが、これはダンスというより身体をオフの状態にする行為で、そこまでのパフォーマンスをいったんリセットする効果を生んでいた)ところから、いつも以上に床の存在を意識するものになっていたように思う。まさに対立や葛藤のない無意識の水からなる池の水面を歩行しながら、目に見えない水しぶきをあげて腰を落とし、身体を横たえ、緋毛氈のうえに頭を乗せ、芋虫のように身をよじり、(私は初めて見たのだが)寝たままの姿勢で床を蹴って床面を滑っていったのである。キッドの床と壁は、天井のライトが投影する格子模様でおおわれていた。

 木村のダンスは、本能的に反復を嫌う。新たな展開が見つからずに、似たような動きや身ぶりが出現することはあるが、ミニマルな動作の反復によってリズミカルな展開を作り出すというような場面には、これまで出会ったことがない。そうした音楽的な処理をせずに、パフォーマンスの終わりまで一本のラインのうえを歩きつづけようとする姿勢が、つねに過程を生きる即興演奏とがっぷり四つに組み合う現在にいたっているようである。私の知る範囲では、「速度ノ花」の山田せつ子も、木村とは身ぶりも構成もまったく違ったものでありながら、反復を嫌う即興という点で通じ合う部分を持っているように思われる。山田の場合、反復のない動きを連ねていくなかで身体のエネルギーが枯渇してきたと感じると、デュオ/デュエットでおこなっているパフォーマンスの最中でも、椅子のうえに腰かけるなどして身体を休めながら、いったん周囲の音から身を引いて、身体の内側からやってくる声に耳を傾けるということをしているようである。木村由の場合、こうしたダンスの空白を回避するためだけの動きをすることがあるが、即興演奏においては、共演者にソロを渡すということは頻繁におこなわれている。「絶光 OTEMOYAN」のサウンド空間が穴だらけのものであったように、即興演奏が生み出す時間も、本来は穴だらけのものなのである。

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2013年1月15日火曜日

風巻 隆: インプロヴァイザーズ ネットワーク



インプロヴァイザーズ ネットワーク
それぞれが指名したデュオ・トリオによる即興演奏
日時: 2013年1月14日(月・祝)
会場: 東京/二子玉川「KIWA」
(東京都世田谷区玉川3-20-11-B1F)
開場: 5:00p.m.,開演: 5:30p.m.
料金/前売: ¥2,500、当日: ¥3,000+drink order
出演: 千野秀一(piano, laptop)大熊ワタル(cl, vo, etc.)
クリストフ・シャルル(electronics, laptop, guitar) 
永田砂知子(波紋音, piano)
入間川正美(cello) 吉本裕美子(guitar)
風巻 隆(percussion)
予約・問合せ: TEL.03-6805-7948(KIWA)


【プログラム】
(1)千野秀一+大熊ワタル+風巻 隆
(2)シャルル+永田砂知子
(3)入間川正美+吉本裕美子+風巻 隆
── 休憩 ──
(4)千野秀一+永田砂知子
(5)大熊ワタル+入間川正美+風巻 隆
(6)シャルル+吉本裕美子+永田砂知子
── 休憩 ──
(7)千野秀一+シャルル+吉本裕美子
(8)シャルル+大熊ワタル+入間川正美
(9)永田砂知子+風巻 隆



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 記録的な大雪のため、交通機関に大きな影響の出た日、パカッションの風巻隆が、過去に共演経験のあるインプロヴァイザーに声をかけ、バラエティを持たせた少人数の組合わせで即興セッションを構成する「インプロヴァイザーズ・ネットワーク」が、二子玉川の「KIWA」で開催された。即興のネットワークは、風巻によって不定期におこなわれてきた音楽シリーズのひとつである。周知のように、こうした演奏スタイルは、いまでこそ即興演奏の常套手段となり、クリシェ化してしまったものだが、原点にこだわっていうなら、共演にいたるきっかけはさまざまでありながら、そのときどきのメンバーを集めることによって人々の関係性を浮き彫りにしつつ、即興演奏をなかだちに社会性を結びなおし、また解きほぐしするなかで、ネットワークが照らし出す個のありようを再確認していくという作業だったように思われる。即興演奏が実験的にスタートした当初から活動に関わってきた風巻のような演奏家が声をかけたからといって、様変わりしたいまの時代に、その精神が受け継がれるかどうかは保証のかぎりではないが、時代を生き抜いてきた演奏家を通して、身体化された音楽のヴィジョンや歴史や記憶に触れるということは、情報の海を泳いでいる私たちが、忘れがちになっていることではないだろうか。

 2013年度版「インプロヴァイザーズ・ネットワーク」は、千野秀一、大熊ワタル、クリストフ・シャルル、永田砂知子、入間川正美、吉本裕美子、そして呼びかけ人となった風巻隆の7人が、それぞれ事前に出した共演希望を、人によって偏りのでないようバランスに配慮しながら、最終的に、風巻がデュオとトリオの編成に調整するという形でおこなわれた。事前に公表されたプログラムは別記の通り。壊れやすく、繊細なサウンドを発する鉄製の創作楽器、「波紋音」をあつかう永田砂知子が、千野、シャルル、風巻のそれぞれとデュオ演奏するのが特徴となっている。3セットを終えた時点で休憩が入り、全体では9つの即興セッションがおこなわれた。即興演奏では例外的な、三時間を越える長丁場のコンサートだった。ステージの立ち位置は、下手から上手に向かって、波紋音を前にして敷物のうえに座った永田砂知子、椅子に座ったり立ったりしながらヴォイスやクラリネットを演奏した大熊ワタル、その横の奥まった位置に座ってチェロ演奏した入間川正美、ステージ中央に楽器を広げた風巻隆、エフェクター類を前にギターを立って演奏した吉本裕美子、上手最奥に位置するグランドピアノの前に座り、かたわらの机に置いたコンピュータも操作した千野秀一、そしてエレクトロニクスのクリストフ・シャルルは、昨年おこなわれた「音の交差点 2012」公演同様、ステージの下に降り、共演者と向かいあう位置に機材をセッティングした。聴き手には背中を向ける格好になる。演奏家は、自分の順番が来ると定位置について演奏する。

 <Session 1: 千野秀一+大熊ワタル+風巻隆>(14分)。ベルリンから一時帰国して三日目という千野を迎えた最初のトリオは、前世紀から活動してきた演奏家たちの集まりということもあるのだろう、私のような古くからの聴き手には、心の奥のどこかにある懐かしさをかき立てるような演奏だった。ソロ演奏において、不均衡なリズムと音色をアンサンブルさせていく風巻が、音色を変えながら、珍しくリズムセクション役を引き受けていたのが印象に残る。がらりと雰囲気を変えた<Session 2: シャルル+永田砂知子>(18分)では、ミクロな波紋音の響きが巻き起こす干渉波のうねりと、細かな電子ノイズはもとより、大気の厚みそのもののような空気感のあるエレクトロニクスの響きが層のように積み重ねられ、夢幻的な音風景が生み出されていくという、秀逸な演奏が展開された。永田の世界のなかに入ったシャルルが、少し色を足したような感じといったらいいだろうか。<Session 3: 入間川正美+吉本裕美子+風巻隆>(19分)。第一部の最後には、アコースティック楽器が多いなか、エレキギターという唯一の電気楽器を演奏する吉本裕美子が登場した。最初、やや引きがちの吉本と、まるで会話するような打楽をする風巻パカッションとがデュオ対決の様相を呈したため、ふたりの間にはさまった入間川の演奏に、少し出遅れた印象があった。ちなみに、この公演のあと、入間川と吉本は、あらためてデュオ・セッションを持つこととなる。

 第二部の冒頭は、ふたたびデュオ演奏。<Session 4: 千野秀一+永田砂知子>(14分)。音程が不安定な波紋音と平均律のピアノの組合わせながら、不協和音も音楽にしてしまう耳のよさで、薄氷を踏むような緊張感にあふれた音楽がくりひろげられる。波紋音が生み出すミステリアスな雰囲気は、第一部のシャルルとのデュオともまた違ったもの。響きが触発するイマジネーションの世界に驚かされる。ピアノの千野をチェロの入間川に代える形の<Session 5: 大熊ワタル+入間川正美+風巻隆>(17分)では、懐かしさがふたたび戻ってくる。この懐かしさは、おそらくトリオの音と音がぶつかりあい対話するところに、ジャズセッションのホットさを感じるからだろう。演奏の後半に登場した、バケツの底をかきむしる風巻のノイズ演奏が圧巻だった。そして第二部の最後は、<Session 6: シャルル+吉本裕美子+永田砂知子>(17分)という異色のセッションで、<Session 2>のデュオ+吉本と考えれば、一種の発展形の演奏ということもできるだろう。吉本は波紋音の繊細さを破壊しないように、サウンドを選び、注意深くフレーズを散りばめながら、なおかつ彼女ならではのアグレッシヴさを失わないベストプレイをしたと思う。あちらこちらにサウンドが浮遊しているだけの不思議な演奏だった。

 第三部冒頭の<Session 7: 千野秀一+シャルル+吉本裕美子>(20分)は、<Session 6>の永田が千野に交代した形。サウンドチェックはあったものの、実践的なコンサートの進行とともに、その場で経験が積み重ねられ、演奏はすぐにでも応用編の様相を呈してくる。これが即興演奏(家)のすごいところだろう。シャルルがギターを手にすると、千野はラップトップを広げた。これは期せずしての吉本シフトだったと思われる。吉本のギター演奏の構造に沿うようにして、浮遊感に彩られたノイジーなサウンド環境が形作られるというセッションを、私は初めて聴いた。千野がピアノに転じたところで演奏は終了したが、本コンサートのなかで最長の演奏になった。つづく<Session 8: シャルル+大熊ワタル+入間川正美>(17分)では、大熊が木製の箱をたたき、カズーのようなものを鳴らし、ヴォイスを使うパフォーマティヴなプレイに出た。大熊と対照的に、入間川は細かい急速調のフレーズで独走態勢に入る。途中からギターにスイッチしたシャルルにより、演奏にジャズ的なフレイヴァーが加わると、入間川がベースラインをとりはじめ、最後にはフォービートのジャズになった。これは想定外の展開だった。コンサートのラストを飾ったのは<Session 9: 永田砂知子+風巻隆>(16分)。なぜか永田はピアノを弾いた。打楽器のパターンを出すように、間歇的に弾かれるピアノに対して、木製のカウベルを両手に持った風巻は、立ったままリズミカルにコギリをヒットしつづけた。最終セットは、実質的には風巻のソロだったように思われる。





風巻 隆:ソロ・パカッション】   
日時: 2013年3月19日(火)    
開場: 7:30p.m.、開演: 8:00p.m.      
会場: 銀座「Steps Gallery」    
料金/前売: ¥2,500、当日: ¥3,000(飲物付)    

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2013年1月14日月曜日

真砂ノ触角──其ノ参@喫茶茶会記



吉本裕美子 meets 木村 由
真砂ノ触角
── 其ノ参 ──
日時: 2013年1月13日(日)
会場: 東京/新宿「喫茶茶会記」
(東京都新宿区大京町2-4 1F)
開演: 8:00p.m.、料金: ¥2,000(飲物付)
出演: 吉本裕美子(guitar) 木村 由(dance)
予約・問合せ: TEL.03-3351-7904(喫茶茶会記)



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 「真砂ノ触角」と命名された、針の先のようにとがった場所で、ギタリスト吉本裕美子とダンサー木村由という超個性派のふたりが、三度目の出会いを果たした。とはいえ、何度回数を重ねても、ふたりの出会いの危うさは解消されることがない。前回の公演で、肩にかけた細紐で一升瓶を引きずりながら楽屋口から登場した木村由は、ステージ下手の奥に立って演奏する吉本の前を斜めに通過する対角線上を動き、ギタリストのテリトリーを侵犯しないようにしながら、その境界線に触れていくダンスによって空間の構造化をおこなった。細紐につながれた一升瓶は、木村にとってダンスの性格を決定づけるような、心躍らせる面白い思いつきだったと思われるが、それを喫茶茶会記で引きずっていくとなると、おそらくこの対角線のラインしかありえなかっただろう。備えつけの照明が極力落とされたのは、闇が必要だったからというより、むしろ照明の光が(多少なりとも)場所を性格づけてしまうことで、ふたりの間の境界線をなす斜めのラインをぼかしてしまうことのないようにという配慮からだったと思われる。「真砂ノ触角」においては、ふたりが(ある意味では悪夢のように)くりかえし出会いつづけること、いいかえるなら、出会いの位相に踏みとどまりつづけることが、針の先のようにとがった場所で、誰かの皮膚に触れようとする「触角」の存在を現実のものとするのである。

 およそ半年後に開かれた今回の公演では、机の高さに取りつけられたクリップライトが、上手下手の客席側から、ふたりのパフォーマーを照らし出していた。前回とおなじ位置に立ったギタリストは、下手側のライトに照らされて、木調の縦格子が貼られた背後の壁に長い影を落とす。かたや頑丈な椅子ではなく、花瓶を乗せるような華奢な台座に腰かけたダンサーは、上手側のライトに照らされて、彼女自身の影をギタリストの足もとまでのばしている。シンプルな演出だが、これが前回と対照的なパフォーマンス空間の構築になっていることは、すぐに見て取れるのではないだろうか。下手のライトに消されて見えなくなっているが、上手のライトが投影するダンサーの影は、床をはった先でギタリストの吉本に重なり、あなたと私の境界線を突き破って曖昧にしている。その場で構築するパフォーマンス空間を、音楽から切り離されたダンスだけのものにすることもできるが、そこにギタリストの存在を巻きこむことで、出会いの化学変化を期待させるようなものにすることもできるということだろう。あらかじめクリップライトの光が素描する動線に沿って木村のダンスはおこなわれ、ギタリストに接近したり遠ざかったりしながら、あたかもデュエットで一枚の絵を描くように、ひとつひとつのダンスの身ぶりを意味づけていくことになる。

 そのなかでも、木村が吉本に急接近してのダンスは、一瞬一瞬をつなげてアンチ・クライマックスの演奏をするギターサウンドのたゆたいはそのままに、前回の共演になかった劇的な要素を「真砂ノ触角」に加えることとなった。すでに出会っているふたりによるさらなる即物的な出会いは、出会いの常識的な距離感を撹乱させるところに、新たな出来事を起こすものということができるだろう。前回のレポートで、このふたりでなくては生まれない「真砂ノ触角」らしさについて、以下のように書いた。「『真砂ノ触角』が扱っているのは、音楽とダンスというように、はっきりとした領域や形をもたないサウンドと動きの接触によってあらわれる、すぐれて身体的な出来事なのではないかと思われる。それは始まりもなく終わりもなく、ずれるという意識もないままに、ひたすら横へ横へとずれていくようなもの。おたがいに触れあうような場所がどこかにできたら、それがパフォーマンスのどの時点でも出発点となるような、出来事の場だったのではないかと思われる。拡張された即興演奏としての出来事の場、あるいは拡張されたダンス・パフォーマンスとしての出来事の場(以下略)」。木村が吉本に急接近した場面は、リング中央で殴りあうボクシングを見るようにスリリングだったが、それは実のところ、こうした身体的交感のヴァリエーションのひとつなのだと思う。

 木村が吉本に接近していったとき、縦格子に投影される木村の影は、上手下手のライトから同時に照らされることでふたつになった。右手にできた影は、吉本のそれと同じ方向にゆがみながら並んでダンスし、左手にできたもっと小さな影は、大きな吉本の影のなかに出入りしながらダンスしていた。即興セッションのなかで演奏するミュージシャンに接近し、楽器や身体に触れるダンサーは多い。ミュージシャンの身体そのものに働きかけて、ダイレクトに触発しようとするこうしたやり方については意見のわかれるところだろうが、「真砂ノ触角」のふたりに関するかぎり、そもそもそのような場面を想像することができない。かっちりとした木村のダンススタイルによるものだろうか、あるいは直立不動の姿勢を保ったまま、ほとんど動くことのない吉本の演奏スタイルによるものだろうか。演奏する身体に余白や隙間、あるいは激しく動く部分などがなければ、いくらダンサーといえども、必然性をもってミュージシャンの身体とクロスすることなどできないような気がする。目の前でダンスする木村に吉本はわずかに身体を向けたが、ふたりの背後では、いくつもの影が身体を自由に交錯させながら踊っていた。私はそれをふたりの思いの影のようにしてながめていた。






  【関連記事|真砂ノ触角】
   「真砂ノ触角──其ノ弐@喫茶茶会記」(2012-08-27)

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2013年1月11日金曜日

風巻 隆: 音の交差点 2012



音の交差点 2012
二つのデュオによる、インプロヴィゼーション
日時: 2012年9月17日(月・祝)
会場: 東京/二子玉川「KIWA」
(東京都世田谷区玉川3-20-11-B1F)
開場: 5:30p.m.,開演: 6:00p.m.
料金/前売: ¥2,500、当日: ¥3,000+drink order
出演: 風巻 隆(percussion)
クリストフ・シャルル(electronics, computer)
中山信彦(modular synthesizer)
予約・問合せ: TEL.03-6805-7948(KIWA)



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 20129月、エレクトロニクスとの共演をテーマに、古巣の明大前キッド・アイラック・アート・ホールを離れ、高いステージが組まれ、音響設備も整った二子玉川のライヴハウス “KIWA” に会場を移して、風巻隆の「音の交差点 2012」が開催された。中山信彦との共同制作で進められたコンサートには、はるか昔、横浜の大桟橋ホールで開かれた「デュオ・イムプロヴィゼーション・ワークショップ」(19883月)のときに声をかけて以来というサウンドアートのクリストフ・シャルルが、ほぼ四半世紀ぶりに参加することとなり、第一部をシャルルと風巻のデュオで、第二部を中山と風巻のデュオで構成するふたつの即興セッションがおこなわれた。打楽器のひとつひとつと対話を交わしながら、そこからオリジナルなヴォイスを引き出してくる風巻隆の打楽にとって、エレクトロニクス奏者との共演というのは、これまで例外的なものだったように思う。ともに音色を生命とする音楽に変わりはないものの、風巻のパカッションにおいて、楽器と格闘する演奏者の身体感覚が前面化することを考えれば、彼にとっての即興セッションとは、耳だけに限定されない全身的な交感でもあり、演奏性よりも操作性が際立つエレクトロニクスの抽象性には、あまりそぐわないように感じられるからである。その意味で、このプログラムは、風巻にとってひとつの挑戦だったのではないだろうか。

 コンピュータ内臓のサウンドファイルを使ったクリストフ・シャルルのエレクトロニクス演奏は、選び抜かれた硬質なサウンドを音質変換しながら配置していくコンポジション的なもので、演奏の全体が知的なクールネスに彩られていたところが、いたるところに指紋や汗が染みついた風巻パカッションのノイジーな身体性と好対照をなしていた。意識的にずれを重ねていく非対称のリズムのなかで、楽器を変えながら音色をまるごとチェンジし、ひとつのシークエンスから次のシークエンスへとジャンプしていく風巻隆の演奏と、なにも描かれていない(沈黙の)白紙のうえに、次々と色を流したり重ねたりしていくシャルルのサウンドアートとは、音楽構造においても水と油で、まるで違う惑星群を抱えるふたつの天体が並び立つようだった。それぞれに形のある音、ない音を扱うという点でも、ふたりは大きく違っていた。そこには、もし一方が他方に合わせようとするなら、一種の天体衝突のようなものが起こり、デュオ演奏はたちまちカオス状態におちいってしまうのではないかという緊張感があった。こうした印象は、シャルルがステージ下のアリーナに音響機材をセッティングしたことによって、倍加されていたかもしれない。セッションの前半は、交互にソロをフィーチャーする形で、また後半では、シャルルが風巻の演奏の背景を大きく描き出す形で、共演を成立させていた。

 モジュラーシンセをステージ上にセッティングした中山信彦の演奏は、シャルルのサウンドが持っていた抽象絵画の硬質さとは対照的なもので、アグレッシヴなサウンドをドラマチックに構成しながら、風巻の演奏と丁々発止のやりとりを展開することになった。中山には、シャルルとの違いを際立たせようとする意図もあったらしい。その結果、セッションの第二部では、第一部にみなぎっていた緊張感やクールネスとはうってかわったホットな演奏がくりひろげられた。この日、中山信彦が演奏した音楽は、エレクトロニクスで描き出す一種のスペースミュージックで、喜太郎やヴァンゲリスのそれを思わせるキッチュなまでの壮大さを、中間部に静かな演奏を置きつつ、最後にアグレッシヴなサウンドが回帰してくるソナタ形式で支えるものだったといえるだろう。シャルルとのセッションで多種多様な音色を使った風巻は、ストレートな太鼓の打ちこみを中心にした演奏で、中山のスペースミュージックの壮大さにこたえていた。私個人は、こういう風巻の演奏を、これまであまり聴いたことがなかった。シャルルのサウンド・コンポジションが、それでもその場で構築されるインスタント・コンポージングだったのにくらべ、中山の演奏は、ひとつのパターンにのっとったもので、ある種のフリージャズがそうであるように、予定調和のなかで演奏されていたことは否めない。そのぶんデュオの間で構築されるべき即興性は、演奏の前面から退いていた。

 クリストフ・シャルルと中山信彦、それぞれの音楽性を背景にしたエレクトロニクスとのセッションは、音楽的な意味でいうなら、風巻隆にとって他流試合と呼ぶべきものだろう。新たな環境のなかで、彼はみずからの演奏スタイルを堅持しながら、その対応力をじゅうぶんに発揮してみせた。風巻本来の打楽は、どちらかといえば、ソロとソロが並び立つ結果となったシャルルとの共演により多くあらわれていたとしても。特筆すべきは、音楽家として、あるいはアーチストとして、異質というべき資質の持ち主であるクリストフ・シャルルを、四半世紀のときを越えて呼び出したことである。風巻の呼びかけにこたえたシャルルもまた、なにか感じるところがあって参加を決断したものと思われる。ステージ下のアリーナに陣取るという異例のセッティングが、スピーカーから流れる自分の音を聴くためという、小屋の条件に縛られてのものだったとしても、それと同時に、トリオの関係性を象徴することにもなっていた。はるか昔の出会いが、現在の時点においてふたたび出会いなおされ、その都度ごとに、まったく別の関係性へと組み替えられていく。風巻隆が開いてきた「音の交差点」は、出会われるたびごとに場所を変え、人を変えながら、いたるところに予期せず出現する即興のクロスロードとなっている。




日時: 2013年1月14日(月)、開演: 17:30~
会場: 二子玉川 KIWA
料金/前売: ¥2,500、当日: ¥3,000+drink order
出演: 千野秀一、大熊ワタル、クリストフ・シャルル、入間川正美、
吉本裕美子、永田砂知子、風巻 隆


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2013年1月10日木曜日

喜多尾 浩代: 身体の知覚



喜多尾 浩代 ── 菊地びよ
身体の知覚 カラダノチカク

2013年1月5日(土)
喜多尾 浩代「Edge of Nougat」(new creation)
演出: 与野ヒロ

2013年1月6日(日)
菊地びよ「Pan-barabara 2013」
演出: 菊地びよ

2013年1月7日(月)
喜多尾 浩代 × 菊地びよ コラボレーション

会場: 東京/中野「RAFT」
(東京都中野区中野1-4-4-1F)
開場: 6:30p.m.、開演: 7:00p.m.(5日、7日)
開場: 5:00p.m.、開演: 5:30p.m.(6日)
料金: ¥2,000(各日)
[予約のみ]¥3,500(2公演)、¥5,000(3公演)
出演: 喜多尾 浩代(dance) 菊地びよ(dance)
問合せ: TEL.&FAX.03-3365-0307(RAFT)


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 中野にあるオルタナティヴ・スペース「RAFT」(「いかだ」の意味)が企画したダンス公演「身体の知覚(カラダノチカク)」に喜多尾浩代と菊地びよが参加、それぞれのソロ作品とコラボレーションで構成した3デイズ公演が開催された。このうち初日と最終日を観ることができたので、喜多尾のパフォーマンスを中心に、昨年もこの場所で公演され、その後ヨーロッパを巡演してブラッシュアップされた『Edge of Nougat』と、立ち位置を入れ替えながらダンサーふたりが即興的にパフォーマンスした最終日の共演を簡単に報告しておきたい。演出を担当した与野ヒロと組み立てた喜多尾の『Edge of Nougat』は、よどみなく連結されたミニマルな身ぶりの背後に、澄んだ水の流れのようにきれいで気持ちのよいバイオリズムが流れているような作品だった。かたや、即興的におこなわれた菊地びよとのコラボレーションは、これと対照的に、ひとつの場をふたつのテリトリーにわけて踊ったダンサーふたりが、おたがいに接触したり接近したりすることなく、次第に滞留していくエネルギーを、それぞれがみずからの身体にかかる負荷へと変換していくようなありかたで、「了解のない世界」をつくりあげるものだった。「身体の知覚」を切り口に、ソロとデュエットのそれぞれで、こうした対照的なパフォーマンスが踊られたのは、深く印象に残った。

 スポット照明によるモノクロームのステージ、ミモレ丈のロングドレス(藍色なのだが、光線のかげんで深緑に見えることもあった)、赤毛のカーリーヘアにつけられた赤い髪飾り──Edge of Nougat』のステージを飾る色彩の美しさは、無駄をはぶいたダンスの動きがかもし出す美的なシンプルネスと、絶妙のアンサンブルをみせていた。重心を落とし、へっぴり腰のような格好でたどられる歩行と、胸の前でお盆を持つようにして広げられた両手の指を、親指と小指を軸にして細かく動かしつづける奇妙な動作が、『Edge of Nougat』の基調音をなしている。特に、くねくねとうごめく指は、それがないと前進できないという具合で、宮崎駿のアニメ『風邪の谷のナウシカ』(1984年)に登場する腐海の主、玉蟲(オーム)の頭の部分から出ている無数の触手を思わせた。ステージに円を描いてたどられる歩行は、ときどき停止して、足の動きを隠すロングドレスのなかで上下動のダンスを踊るものの、飛躍のない、ほぼ一定した等速のテンポを保っており、それがミニマルな指の動きとあいまって固有のバイオリズムを生んでいた。無伴奏ソロ・パフォーマンスに感じられる、音にならない音楽的なるものの波動。後半の場面で、観客席のすぐ前に立った喜多尾の姿が、不思議なほど克明なエッジを持って見えたのは、身体知覚のレベルにフォーカスしたダンスが、物語やイメージの類いを排除していることで、観客である私の知覚にも、なにがしかの変化がもたらされた結果なのかもしれない。

 動くため身体にかけられる負荷は、低く重心を落とした姿勢に明らかだ。この身体への負荷は、池がなんであるかを知るため、ためしに小石を投げこんでみるような行為となっている。池があることを知っていることと、池に応答してもらうこととは、別の出来事だからである。身体そのものがおこなう了解の形。もうひとつ、「前進」に対する「後退」もまた、意識を背後に飛ばすという意味で、身体に別の負荷をかける動きだったと思われる。それと察知されないくらい、ほんの少しだけ変化をつけられた動きのなかで、身体にどのような変化が生じるかを身体そのものに観察させるという行為が、『Edge of Nougat』での身体事となっていた。公演の冒頭、喜多尾はうしろむきのままステージに入ってくると、円を描きながら長いこと後進をつづけた。また最後の場面で、観客席前とステージ奥を結ぶ直線ラインを後ずさりしていった彼女は、ステージ奥で立ち止まると、いったん指の動きも止め、その場所で身体を横向きに変えてから、ふたたび指を動かしながら下手に退場していくという、なんとはなしにユーモラスな幕切れを用意していた。その姿が巣穴に戻る小動物を思わせたのも、おそらくは偶然でなく、これは『Edge of Nougat』が、そもそもなにかを表現するダンスアートというより、むしろ(動物のように)ただ生きる身体をそこに立たせることをめざすものだからではないかと思われる。

 菊地びよとのコラボレーションで、ともに片手を高くさしあげるポーズからスタートした喜多尾は、狭いスペースを共演者とわかちあいながら、膝を中途半端に折り曲げて、立つでもなく座るでもなくされた不安定な姿勢のまま、膝がガクガクいうようになるまで長時間持続する場面を作って、見るものをハラハラさせた。ダンサーの身体への過重な負荷に、観客の身体までもが巻きこまれていく。これは殴られている人を見たり、転んだ子どもを見たりしたときに、他人事であるにもかかわらず思わず「痛い」といってしまうような、絶対的な速度を持ったダイレクトな感覚の巻きこみかたといえるだろう。安定したバイオリズムがかもしだす音楽的な心地よさによって、ふんわりと観客の感覚を巻きこんでいくという、ソロ公演で見せた身体のありようとは極めて対照的な、いってみるならば暴力的な開けと呼べるようなものである。自分の身体を痛めつけるこうしたパフォーマンスの酷薄さには、歩きながら指を触手のようにうごめかす『Edge of Nougat』の仕草ともども、遠くピナ・バウシュのこだまを聴くことができるだろうか。喜多尾の出発点になったというドイツ・モダンダンスの系譜は、いまも彼女の方法論のなかに脈々と息づいている。



※文中の写真は、RAFTの来住真太さんからご提供いただいたもの、   
喜多尾さんがビデオから作られた静止画などを使用しております。      
ご協力ありがとうございました。                  


  【関連記事|喜多尾 浩代】
   「並行四辺系」(2012-09-10)

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2013年1月7日月曜日

Hugues Vincent+岩瀬久美+新井陽子@喫茶茶会記



Trio Improvisation
Hugues Vincent岩瀬久美新井陽子
日時: 2013年1月6日(日)
会場: 東京/新宿「喫茶茶会記」
(東京都新宿区大京町2-4 1F)
開場: 2:30p.m.、開演: 3:00p.m.
料金: ¥2,000(飲物付)
出演: ユーグ・ヴァンサン(cello)
岩瀬久美(alto sax, clarinet)
新井陽子(piano)
予約・問合せ: TEL.03-3351-7904(喫茶茶会記)



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 昨年度は、隔月のシリーズ公演「焙煎bar ようこ」を5回にわたって開いたピアニスト新井陽子が、おなじ喫茶茶会記に場所を借り、ユーグ・ヴァンサン、岩瀬久美による “TabunDaijyobu” デュオを迎えたトリオ編成で、シリーズ枠をはずれたプログラムを組んだ。ユーグ・ヴァンサン来日ツアー10番目のコンサートである。ヴァンサン+岩瀬、岩瀬+新井、新井+ヴァンサンという3つのデュオ演奏を第一部で、また第二部をトリオ演奏で通すという構成だった。これが即興セッションの常套手段であるのは周知の通りだが、新井に引きつけていえば、「焙煎bar ようこ」の2回目に登場した「跋扈トリオ」(2012518日)の公演スタイルに準ずるものとなっている。組合せを変える即興セッションは、特色ある個人の演奏を単位にしたアンサンブルのバラエティーを聴かせるものだろうが、この日の流れからいうなら、コンサートの冒頭で、来日組のデュオ演奏があり、その後で新井が(デュオの間に入って)メンバーのそれぞれと個別にセッションし、最後は、ヴァンサンが女性ふたりの間を仲介するトリオ演奏で締めくくる形になったため、おそらく最後まで “TabunDaijyobu” デュオ+新井陽子という枠を崩せなかったのではないかと思われる。

 今回のツアーでヴァンサンといっしょに動いている岩瀬久美は、フランスの音楽学校に留学して10年以上になる真摯な音楽家で、現代音楽やジャズ、即興音楽やエレクトロニクス音楽などを学びながら、ヨーロッパの音楽コンクールに挑戦してすでに高い評価を受けている逸材だ。プレイヤーとしては、アルトサックスとクラリネットを演奏する。ゆがみのない澄んだ楽器の音色は、クラシック仕込みの硬質さを備えたものであり、即興演奏のセッションでも構造的なアプローチを忘れることがないため、インスタント・コンポージング(その場でただちにおこなう作曲行為)による現代音楽とでもいうような、明快な形式性にのっとった演奏が持ち味になっているようだ。この日のセッションは、そうした岩瀬の資質をわきまえたヴァンサンのフォローも手伝って、岡本希輔が主催した「中空のデッサン vol.36」(14日)での演奏とはくらべものにならないくらい、岩瀬久美の音楽が全面的にフィーチャーされる展開となった。二つのライヴを聴いたかぎりの話としていえば、岩瀬の即興演奏は、内面から沸き起こってくる感情や衝動のような身体的なものより、普遍的な音楽形式によって意味づけられているのではないかと思われる。彼女の存在が、森重靖宗とのデュオからはうかがえないヴァンサンの音楽性を、別角度から照らし出していたのも興味深かった。

 ヴァンサン/岩瀬久美のセットは、ふたりで短い音のラインを引きあうような出だしから、たくさんの細かいドットを散らしていくような演奏に移行、最後は低音のロングトーンで演奏を締めた。図形楽譜を思わせるアブストラクトなこの演奏で、岩瀬はクラリネットを吹いた。これを受けた岩瀬久美/新井陽子のセットは、その場にかもしだされた静謐な空気を壊すことのないよう、細かな音を出しあって相手の出方をうかがう点描的な演奏からスタート、次第に音数を多くしておたがいの間を詰めながら、最後は、ピアノが低音部でモアレ状のサウンドを敷き詰める幕切れを作った。前半の最後となった新井陽子/ヴァンサンのセットは、堆積したエネルギーが一気に爆発するのではないかと思われたが、ふたりはこの日のライヴを支配することになった静謐な空気感を守りながら、共演者の演奏に注意深く耳を傾け、音楽の芯にむかってコントロールの利いた豪速球を投げこむような、驚くほど精度が高く緻密な演奏を展開した。変則的なチェロ演奏でふんだんにノイズを出すヴァンサンも、加速度を増していく新井のピアノ演奏も、爆発しようとするエネルギーをその直前で巧みにコントロールしながらの名演奏だったと思う。

 高密度の即興演奏が展開した前半の雰囲気を払拭しようとしたのか、第二部の冒頭、椅子から立ちあがった新井陽子は、ピアノ線をはじき、ホイッスルやオルゴールを鳴らし、さらにリコーダーを吹いて場面の転換を図った。岩瀬がサックスのキーをパタパタいわせはじめると、飛び道具では負けてはいないヴァンサンも、チェロを膝のうえに乗せ、楽器からさまざまなノイズを出して応戦する。ピアノの低音部にリズムパターンを出しながらも、こうしたシチュエーションを10分ほどもつづけた後、トリオはようやく本筋の器楽演奏に移っていった。転換場面を情感あふれるメロディーでリードしたのはヴァンサンだった。演奏はそこからゆっくりとクライマックスに向けて登りつめていったのだが、岩瀬のサックスが、フリーキートーンを連発するようなフリージャズ的なものでなく、サックス本来の音色を生かすクラシカルな洗練度をたたえていたのが、演奏の盛りあがりに独特の色彩感を与えていた。最初の演奏が20分ばかりで終わってしまったので、コンサートをしめようとした新井をさえぎってヴァンサンがもう一セットを提案、アンコールがわりの最終演奏がおこなわれた。最後は前半の雰囲気に戻った現代音楽風の演奏となった。第二部のセッションは、冒頭の奇襲攻撃をのぞくと、ツーセットともに、明確なメロディーを出して場をリードするヴァンサンが軸になった演奏となった。




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