2013年10月26日土曜日

根耒裕子ソロ舞踏: 風象の耳



根耒裕子ソロ舞踏
風象の耳
日時: 2013年10月25日(金)
会場: 東京/新宿「喫茶茶会記」
(東京都新宿区大京町2-4 1F)
開場: 7:00p.m.、開演:7:30p.m.
料金: ¥2,000(1飲物付)
出演: 根耒裕子(舞踏)
作曲: 福井陽介
照明: 芽衣桃子 音響: まぎぃ
受付: 阿久津智美 撮影: bozzo
予約・問合せ: TEL.03-3351-7904(喫茶茶会記)



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 ダンスという身体表現における「作品」概念について、まずはそれを、再現可能性から考えることができるだろう。すなわち、ラバノーテーションや舞踏譜などに書き記すことのできる身ぶりやステップの構成、あるいは身体イメージの採取=サンプリングを、音楽における作曲のようなもの、しばしば建築にたとえられる響きの構成方法のようなものと理解することはたやすい。これらはいずれも、もともと時間のなかにしか出現しないものを、紙のうえに視覚化(空間化)することで、パフォーマンスの再現を可能にする努力である。もちろんこうした動きや身ぶりの記述が、個々に特異なありようをしている身体そのものをつかむこととは別であるため、身体におけるもうひとつの「作品」概念が、ダンスのたびごと、たとえそれが即興する身体であっても、動きのなかで新たに生まれてくることになる。この場所では、再現可能性は「再帰可能性」とでもいうべきものになり、踊り手が意図すると否とにかかわらず、動きのなかにくりかえしあらわれてくるものをつかまえようとする行為になるだろう。曖昧な言い方になるが、目に見える具体的な身ぶりが、そのものに触れていると感じることのできる、目に見えない身体の存在のようなもの。喫茶茶会記でおこなわれた根耒裕子のソロ舞踏公演「風象の耳」も、こうしたダンスする身体そのものをもってする作品へのアプローチだった。

 公演に先立つ文章のなかで、根耒は、彼女自身が舞踏において探究している「物語」の定義を、ダンスが独自の身体領域を確立するために抜け出してきた文学や演劇におけるそれと対置させながら、以下の4項目にまとめている。(1)時と風景のはざまに、形をまとわず「象(しょう)」として現れてくるもの。(2)目には見えないかもしれないがそこに歴然とあるもの。(3)人と人、人と物、物と物とのあいだにおのずと生まれてくるもの。(4)「私」が私の身を尽くし、心を砕いたあげくに、「私」を忘れて空け渡した場にわきだすもの。
 さらには、ここにいたる前提として、「風象の耳」という公演タイトルが、直接的には、根耒を舞踏に導いた古川あんずの記憶と結びついたものであることもいわれている。「自分の耳のありかをさぐり、あげくの果ては、その実際の耳だけでは足らずと、首の後ろから、背中から、腕のうちっ側から、よじれた腰から、もうそれこそ身体中を耳にして、大空を飛ぶ。その時なにが見えてくるか」という課題「ダンボ」ですることになった経験が、根耒の舞踏の原体験にあり、目に見えず、形をまとわず現象するもの、からになったこの身体において、間身体的、間物質的に生成してくるものを、独自に「象」の言葉で呼ぶ理由でもあるという。

 「風象の耳」は、三つの場面から構成されていた。第一場は、暗転して真っ暗闇になった会場のなか、観客出入口の扉とは反対側にある楽屋口の低い位置から放たれる、暗く青いライトのなかに、頭に角を生やした生き物が出現する。ほんのわずかの時間、踊りらしい踊りもなしに浮きあがる姿だけで、夢のようなこの場面は終了した。つづく第二場では、いったん楽屋に退いた根耒が、カラフルかつ祝祭的な衣裳で再登場した。緑青色の布を首のところで交差させて上半身に巻きつけ、ゆるやかに寛いだもんぺのようなオレンジ色のスボンをはき、ズボンをとめた黄緑色の紐をうしろに垂らして、腰にはアクセントとなる白い端切れをつけるという格好。全体的に床での演技が多い公演だったが、長いダンスが踊られた第二場では、寝たままの姿勢で転がって、壁をおおった黒いカーテンを足にからめて引っぱり、その裏にある大きな鏡を露出させたり、立ちあがってしなやかさと躍動感が同居する魅力的なダンスを踊ったりと、印象的な場面がいくつもあった。第三場は、うぐいす色の地に緑の花がデザインされたワンピースの衣裳で登場。白い端切れが小学生の名札のようにピンで左胸に留められていた。顔や身体は薄く白塗りされていて、ダンサーが転がると、汗で落ちた白粉が床のうえに点々とした。最後は、観客出入口に消えていって終演。

 冒頭に出現した不思議な生き物は、根耒が小ぶりの木の枝を頭にくくりつけた姿だったのだが、闇が触発する深層心理的なヴィジョンというのだろうか、根耒がつかまえようとしている「象」が、あるいは、目に見えない身体の顕現として感じられる風景が、ひとつの典型として実現されていたように思う。彼女が木の枝を身にまとったことは、この生き物の出現を自然神の到来と解釈させるにじゅうぶんであり、根耒の姿から、宮崎駿『もののけ姫』に登場する水面歩行するシシ神が連想されたのにも、それなりの理由があったといえそうである。用意される衣裳は、もちろんそれ自体が身体の舞台装置である。第二場の重要なトーンを決定していた岩絵具を思わせる不透明な衣裳の色は、見るものの古代的な感覚を触発し、ダンスする身体に、もの言わぬ物語性を与えていた。ここは顔の表情がもっとも豊かに変化した場でもあったが、根耒が他の舞踏家との相違を感じさせるのは、それが非日常性へと逸脱していく狂気の表情ではなく、どこまでも日常的な喜怒哀楽の世界を動いていくことによるのではないだろうか。第三場に挿入された仰向けの根耒が呼吸を荒げる場面は、暗闇の第一場と呼応して、「春の祭典」につながる犠牲のシーンをイメージさせた。もちろん、「風象の耳」が、そうしたプロットを持っているわけではない。すべては私の解釈なのだが、エロスではなく犠牲のパッションを感じさせる舞踏版「春の祭典」というようなものを、作品の風景として感じとることは、根耒の舞踏の本質に、わずかなりとも届いているのではないだろうか。





  ※文中の写真はすべて写真家のbozzoさんにご提供いただいたものです。
     ご協力に心から感謝いたします。


 【関連記事|根耒裕子】
  「根耒裕子@畳半畳in路地と人」(2013-05-14)
  「根耒裕子+森重靖宗@喫茶茶会記」(2013-09-23)

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2013年10月22日火曜日

池上秀夫+菊地びよ@喫茶茶会記12



おどるからだ かなでるからだ
池上秀夫デュオ・シリーズ vol.12 with 菊地びよ
日時: 2013年10月21日(月)
会場: 東京/新宿「喫茶茶会記」
(東京都新宿区大京町2-4 1F)
開場: 7:30p.m.、開演: 8:00p.m.
料金/前売: ¥2,300、当日: ¥2,500(飲物付)
出演: 菊地びよ(dance) 池上秀夫(contrabass)
予約・問合せ: TEL.03-3351-7904(喫茶茶会記)



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 コントラバスの池上秀夫が主催するシリーズ公演「おどるからだ かなでるからだ」の第12回に、舞踏家の菊地びよが迎えられた。菊地は地域コミュニティの活動にも積極的に取り組んでいて、踊りの立ちあらわれる場というものを、近代的な劇場空間のなかだけにとどめることなく、また「環境」という美術的な方法論に押しこめたりもせず、3.11以降の社会のありように根ざした広い視野から探究し、その身体をもって実践的にかかわっているダンサーといえるだろう。踊りの立ちあらわれる場を、重層的なものとして経験にもたらそうとする態度は、彼女が本シリーズのいくつかの公演を下見に訪れたところにもあらわれている。この晩のセッションでは、ホスト役の池上が、彼にしては珍しく、ころあいを見はからって演奏に終盤を作るというような配慮をせず、意識的にサウンドに焦点する彼ならではの即興演奏を全面展開しながら、共演者に合わせるというのではなく、また対立するというのでもなく、それぞれの(身体の)ありようがおさまりどころを見つけるまで、パフォーマンスの流れに身をまかせるという演奏をしたため、公演時間はシリーズ最長の70分となった。

 この結果は、即興的なダンスに対する菊地の習熟度に負うところが大きかったように思う。公演冒頭、黒のワンピースドレスに裸足というシンプルないでたちで楽屋口から登場した菊地は、本編のパフォーマンスに入る前に、かたわらの照明コントローラーを操作して会場を暗転させ、コントラバス奏者を呼びこむという演出上の注文をつけた。パフォーマンスに入ってからは、菊地びよならではの動きを随所にはさみこみながら、公演の最初と最後では、疾走する帆船が海風を帆にはらむように、大きく両手をあげて身体を波打たせる動作をフィーチャーすることで、「おどるからだ」におけるダンスの基調を形作っていった。くりかえし踊りのなかに出現してくるダンサー固有の身ぶりは、即興演奏において音楽的な語りを構成するイディオムに相当するものと考えられるだろう。これを身ぶりの即興語法といってもいいし、その場で即席になされる振付、すなわち、即興演奏におけるインスタント・コンポージングのようなものとみなすことも可能である。自由であることを観念的にとらえるのではなく、実際の身体のありようと密接に関連づけて理解するために、過去に即興演奏のなかで語られてきたこの種の知見は有効だと思う。

 菊地の場合、つま先立ちをしての歩行、両肩をあげ背中を丸めるしぐさ、肩を床につけるようにして尻を突きあげ、身体の左側から顔をのぞかせる身ぶりといった特徴的な動作が、公演のたびごとにあらわれてくる。菊地の踊りをまだ二度しか見ていない私でも気づくようなそうした身ぶりのなかに、たとえば、コントラバス奏者の足もとに頭を投げ出し、片足を高くあげる「尾長鳥」と呼ばれる型のダンス(あるいは型に変形を加えたもの)もはさみこまれてくる。視覚に強く訴えかけるこうした型のダンスは、即興演奏には登場してこない。高くあげられた菊地の足は、さらに型を崩すまでに高くあがっていき、沸騰点を経過すると、腰の回転とともにそのまま床に投げ出され、股割りの姿勢に移行していく。直立するベーシストの身体と床のうえにまっすぐ広がった足が、あざやかな対照性を描き出す。身体の風景が次々に移り変わっていくなかでも、この場面はとりわけダイナミックなものだった。またセッションの中間地点では、ステージの対角線に沿って、うつ伏せにした身体を上手の観客席側にまっすぐにのばし、全身の力を抜いて動きをリセットする場面があった。この姿勢から下半身だけを使い、まるで屍体を引きずるようにして上半身を引きこんでいったのも、印象的な場面として記憶に残っている。

 菊地びよのダンスを初めて見た畳半畳の踊りで、私は「子狐」を連想させられたのだが、たとえ彼女が実際に子狐を模倣していたわけではないにしても、やはりそれがどこか動物的な質感をたたえたものであることが、本公演からも感じられた。一般的にいって、くりかえし出現する動きや身ぶりには、即興語法という語りのテクニックによって理解できる側面と、身体の奥深くにわだかまる、容易に言語化を許さない根源的なものに触れている側面があるように思う。前者を目に見える身体のふるまい、後者を目に見えない身体のふるまいということもできるだろう。「おどるからだ」での菊地のダンスは、身体の深みに向かうより、共演者の池上が彼女に展開の半分をまかせてしまえるような即興演奏の地平を、どこまでも滑走していくものとして踊られたように思う。もちろんそこに特異な身体の深みがたちあらわれていなかったわけではない。音楽的、時間的な流れのいたるところに亀裂は入っていたのだが、おそらく菊地は、共演者や観客との間に、しかるべき関係性を構築することを優先したのではないかと思われる。音楽の時間を凍らせてしまうような身体には、スポットがあたっていなかった。音楽と身体がどのような場所でかかわるのかは、つねに空欄のままである。公演のひとつひとつが謎解きそのものであり、音楽と身体のありようは、そのような謎解きの過程で少しずつ開かれ、明らかになってくるのだろう。





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2013年10月12日土曜日

新井陽子7days3 with 亞弥@白楽Bitches Brew



新井陽子 piano7days
第三夜
Guest: 亞弥
日時: 2013年10月11日(金)
会場: 横浜/白楽「Bitches Brew」
(横浜市神奈川区西神奈川3-152-1 プリーメニシャン・オータ101)
開演: 7:30p.m.、開演: 8:00p.m.
料金: ¥2,000(1飲物付)
出演: 新井陽子(piano) 亞弥(dance)
予約・問合せ: TEL.090-8343-5621(Bitches Brew)



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 即興することの本義に戻るならば、即興ダンスをジャンルとして語ることは適当でないだろうが、即興する身体のありようをもって、たくさんの演奏家と積極的なセッションを展開してきた(またいまも展開している)ダンサーのひとりに舞踏の亞弥がいる。年に一度、あるいは数年に一度おこなわれる自主公演にむけて、すべての準備を整えていくようなダンサーからしてみれば、月に数度という公演数は、ほとんど異常な頻度であり、そのダンサーの内面の特別な事情を想像させるもののようである。たとえば、読書における濫読のようなもの、誰にでも経験のある、ダンス衝動に突き動かされるはしかのような時期という解釈もそのひとつだろう。かたや、即興演奏が示した多くのことのひとつに、生活のなかから立ちあげられる音楽の存在があった。そこで感じとられる演奏の(身体の)ミクロな変化は、日々の生活のようにして移り変わっていく、たくさんの演奏を仔細に観察することによってしか意識にとまらない。ダンスにおきかえれば、年に一度の公演では、発見された身ぶりのほとんどすべてを捨てざるをえないような身体の多様性、原初的な身体のありさまに接近するものといえるだろうか。非日常的なリサイタルよりも、日常的な練習/稽古に限りなく近いこのありようは、練習/稽古そのものを、身体的な実践の過程と定義しなおすものだった。

 この10月、ピアニストの新井陽子が、ジャズのフォトジャーナリストとして知られる杉田誠一の店「ビッチェズ・ブリュー」を会場に、一週間に一度、二度というとびとびの日程で、「新井陽子月間」とでもいうべき7デイズ公演を開催中である。その第三夜のゲストに、ここしばらく共演する機会のなかったダンスの亞弥が迎えられた。ステージの狭いこの会場では、アップライトピアノが常設されている他の音楽喫茶やライヴハウス同様、壁に寄せられた楽器に向かうピアニストは、他の共演者と背中合わせになって演奏しなくてはならない。聴くことが優先される音楽であれば問題はないが、これが身体表現のダンスとなると、黒いピアノの板に反射する背後の景色をうかがったり、演奏しながら身体をよじったり、立ちあがって内部奏法をするときを利用したりと、気配を察知するためのあれこれが試みられる。背後のダンス・パフォーマンスを見ることができないという条件が、デュオの間に必然的な距離感を生む。この晩、第二部の冒頭で、ピアノを背中にまわし、椅子に腰かけるダンサーに対面して座った新井は、足を片方ずつあげるゲーム的なパフォーマンスからスタート、その後、ピアノを背中向きのまま弾くアクロバティックな奏法をみせてから、本格的な演奏にはいった。ダンスとの共演になにがしかの方向性を与えるものではなかったにせよ、これらの挿話的なパフォーマンスが、ピアニストの実験心(悪戯心?)の発露であったことはたしかだろう。

 前後半に40分弱のパフォーマンスをふたつ配したライヴの第一部を、薄く白塗りした亞弥は、キャミソールと短パンのうえに、背中の大きく開いた和服柄の薄いガウンを羽織り、このガウンを脱ぐという行為をポイントにして静かな舞踏を展開した。裸足の足指には赤いペディキュアが塗られていた。また第二部では、黒のタンクトップに短パン、足にはエナメルが剥がれ落ちた銀色のバレエシューズといういでたちで、第一部とうってかわった道具立てのない裸の空間を自身に課しながら、足を使う動きのあるダンスを展開した。第一部が静的な展開になったのは、銀色の厚紙が持ちこまれたことによる。すなわち、座布団ほどの大きさの銀の厚紙を、四隅を丸く切ってステージの中央に置き、その内外を出入りしてダンスするための道具立てとしたのである。会場をそのまま使うのではなく、オリジナルに空間をカスタマイズするこのやり方は、木村由が自前の投光器を持ちこんでおこなう空間演出に相当するものだろう。ダンスの視点からいうなら、第一部では、ピアノ演奏とダンスが二重焦点になるようなパフォーマンスが、また第二部では、ピアノ演奏する新井の左手のスペースに立ち、演奏者から自分の姿が見えるように演技するなど、より積極的にピアノ演奏との対話を試みるダンスがおこなわれたように思う。

 いつからということを明確にいえないのだが、おそらくはごく最近、亞弥のダンスは、顔のありようにひとつのポイントを置くようになったのではないかと思われる。もうすこし正確にいうなら、瞼を見開きながらどこも見ていない眼、そうであるがゆえに、あまねくすべてを見ているように感じられる視線をまとうようになったのではないかと思われる。人間的であることをいったん停止するような、非日常性へと逸脱するこの視線を、彼女は新井陽子とのセッションでも見せていた。それをさまざまに用いられる舞踏的な手法のひとつといってしまえばそれまでのことだが、私の知る範囲で、亞弥のこの眼は、上杉満代のそれを容易に連想させるものだった。上杉の視線は、観客を凝視しながらなにも見ていない無意味さの強度に貫かれたもので、私たちを見てはならないものを見てしまったという気持ちにさせる強烈なものだが、即興ダンスとは別のところで、亞弥もまた、そのようなものに自身を開いていこうとしているのかもしれない。もうひとつ、ダンサー本人も見ることのできない、汗をかく肩や背中の美しさも印象的だった。これはさまざまに技法的なるものを越えて、あるいはエロティシズムのようなテーマを越えて、さらには汗っかきという体質を越えて、見るものに直接、そうでしかありえない固有の身体を運ぶものだった。それが会場の弱い照明に濡れて美しく輝いていたのは、そこに触れるべき重要なことが示されていたからだろう。




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2013年10月11日金曜日

ヒグマ春夫【第2弾】連鎖する日常/あるいは非日常の3/21日間



ヒグマ春夫の映像インスタレーション&コラボレーション
【第2弾】連鎖する日常/あるいは非日常の21日間
正朔・長谷川六・尾身美苗
開催期間: 2013年9月18日(金)~10月11日(金)
【公演日時】
10月2日(水)正朔
10月9日(水)長谷川六
10月10日(木)尾身美苗
会場: 東京/明大前「キッド・アイラック・アート・ホール」
5階ギャラリー
(東京都世田谷区松原2-43-11)
公演時間: 7:00p.m.~8:00p.m.
料金[各日]: ¥1,500



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 9月から10月という秋の深まりゆく季節、明大前キッド・アイラック・アート・ホールの5階ギャラリーで、21日間にわたるヒグマ春夫の映像インスタレーション展「連鎖する日常/あるいは非日常」の第二弾が開催された。このインスタレーション展は、毎年春にヒグマが企画にあたっているACKidと同様、専門化した芸術ジャンル間のコラボレーションにポイントが置かれていて、美術家(ヒグマ本人も含む)、音楽家、俳優、舞踏家、ダンサー、評論家らによる、インスタレーション内での日替わりパフォーマンスを特徴にしている。インスタレーション展を訪れる観客は、たとえ21日間にわたる公演のすべてに参加できなくても、分有の度合いが高まれば高まるほど、すなわち、よりたくさんのイベントに参加すればするほど、<連鎖する日常/あるいは非日常>のスラッシュが示す曖昧な領域を、「非日常」側から「日常」側へと動いていく(斜めになったスラッシュ線を上から下へとくだっていく)ことになる。これは美術のみならず、音楽やダンスがともども置かれている現在の社会的/文化的な環境を露出させる批評性といえるだろう。わずかながらではあるが、正朔(舞踏)、長谷川六(アクション)、尾身美苗(ダンス)が出演する公演を見ることができたので、以下で簡単なレポートを試みてみたい。

 キッドアイラックの5階ギャラリーは、いびつながらほぼ正方形をしていて、明大前駅から甲州街道(首都高速4号線)に抜けるキッド前の道路に面したサッシ扉の外は、雨ざらしのバルコニーになっている。部屋のなかにもうひとつ小さな部屋を作る感じで、会場の中央にキューブ型の枠が組まれ、枠組みが作る五面のうち、窓側と天井の面だけに薄い布が張られている。窓側の面と窓のカーテンは並行になっていて、窓と反対側の壁に寄せられたプロジェクターから、それらに列車の窓外を駆け抜けていく雪景色が投射されている。また、床の中央に置かれた上向きのプロジェクターからは、キューブの天井の布とギャラリーの天井の双方に、泡立って動きをとめることのない水面が投射されている。ギャラリーの天井には、皮を剥がれ、骨だけ広がった傘が吊りさげられている。窓と天井に向かって放たれる映像は、雪景色、水面、魚といった内容よりも、この場所を明確に構造づける光として意味のあるものだった。部屋のなかの部屋といったインスタレーションのありようは、視点を中央(特に上向きになったプロジェクター)に凝縮するが、そうした枠の力を、プロジェクターの強烈な光が突き抜けていくところに、空間のダイナミズムが生まれている。また会場に流れるノイズの音響ともども、それらが永遠にループすることで、インスタレーションの内部に滞留する時間が作り出されていた。

 出演者たちの身体は、こうした堅固な形式を備えた作品のなかにやってくる。ほとんど蟻の這い出る隙間もないといったほうがいいくらいだ。そもそも身体が身体としての自律性を持とうとしても、映像によってスクリーン化される身体は、つねにすでに皮膜でしかないものになってしまう。今回は「インスタレーションに触れないで表現」することが申し渡されていたとのこと。映像と身体が、あるいは音響と身体が、この場で「触れないで」いることは不可能なので、これはおそらく「意識しないで」とか「無関係に」というような意味なのだろう。踊りすらも作品化してしまうインスタレーションのなかで、どうしたら固有の身体を立ちあげることができるのかという意味で、踊り手の力量が試される場であったと思う。10番目に登場した正朔は、公演の冒頭、テラスの暗闇から影のように立ちあらわれた。正面の映像が落とされ、窓にかかったカーテン越しにうごめくものの気配。やがて映像のスイッチが入れられたが、正朔は窓から侵入するというような、作品構造を侵すようなことをせず、窓にかかるカーテンに触れたあと、入口の扉から入って、ふたつの正面スクリーンの間を通り、中央キューブの右手から中心部に入る経路をたどりながら、四つの映像に自分の影を映すことで、身体の存在を暗示した。天井に吊り下げられた傘にも影で触れたのは、はたして意識的なことだったかどうか。

 映像を回避しなから、床にうつ伏せになる汗まみれの身体。パフォーマンスのクライマックスで、キューブの中心部に身を置いた正朔は、上向きのプロジェクターにおおいかぶさるようにして叫び声をあげつづけた。ここでも正面の映像が消された。天井に向かって放たれる映像は、囲炉裏からあがる火のようなものにイメージ変成する。皮膜であることをやめた闇のなかの身体は雄弁だった。正朔の発した叫び声も、なにがしかの感情の爆発というより、強度をもった身体そのものの響きというべきだろう。あるいはまた、映像によってスクリーン化されながら、正朔の皮膚は膨大な汗を吹き出した。布でできたスクリーンは汗をかかない。見るものの視線がこの汗に焦点するとき、映像は皮膚の背後へと退いていく。これもまた、現実には存在しないふたつの皮膜の間で、映像が身体に反転するポイントのひとつだったといえるだろう。16番目に登場した長谷川六は、開場をしたときから、白いカーテンでぐるぐる巻きにした身体を、大きな窓の右脇になる部屋のコーナーの椅子に置いていた。少し油断すると、その存在に気づかずにいてしまう長谷川ならではの趣向。彼女のアクションは、開演とともに椅子から立ちあがり、身体を巻いたカーテンから両手を出し、頭を出し、布を少しずつ巻きほどいて床のうえに残しながらゆっくりと回転、窓とキューブの間の通路を、上手から下手に移動していくというもの。

 観客の視線を弛緩させないでおくためだろう、見栄を切るようにして細長い紐をピンと張り、それを縦にしたり横にしたり、前に突き出したりする動作のアクセントを入れていた。会場の一部分しか使わないということも含め、長谷川六のアクションは、まさに「インスタレーションに触れないで表現」せよという注文に応じたものだった。17番目に登場した尾身美苗の公演では、ダンサーや観客も作品の一部としてしまうような、ヒグマ春夫のパフォーマンスが前面化した。というのも、公演の冒頭で観客をテラスに出し、窓の外から映像と重なるダンサーの影を見せたり、事前に取り決めのあった公演時間を守らず、ダンサーを裏切って長目に踊らせたりというふうに、種々のハプニング的な要素が持ちこまれたからである。こうなるともうどこまでを「作品」と呼んでいいのかわからなくなる。白い上着にグレーのタイツで登場した尾身美苗のダンスは、特に、キューブの中央にあるプロジェクターの上で美しく海老ぞりになり、正面と天井の映像に自分の影を投影させてからの後半、彼女ならではの身ぶりを内側からあふれ出させて素晴らしかった。パフォーマンスのラスト部分では、痙攣するような激しい身ぶりを見せたのだが、これは約束の時間を超過し、身体が追いつめられた結果あらわれたダンスだったかもしれない。




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2013年9月30日月曜日

田山メイ子舞踏ダンス公演: 情熱ノ花


田山メイ子舞踏ダンス公演
情熱ノ花
アクノ花アカイ花
日時: 2013年9月28日(土)「アクノ花」
日時: 2013年9月29日(日)「アカイ花」
会場: 東京/中野「テルプシコール」
(東京都中野区中野3-49-15-1F)
開場: 5:30p.m.,開演: 6:00p.m.
料金/1日券: ¥2,000、2日券: ¥3,000
演出・出演: 田山メイ子(dance)
照明: 神山貞次郎 音響: 太田久進
宣伝美術・写真: GMC
協力: 岡田隆明、縫部憲治、木村 由



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 田山メイ子の舞踏ダンス公演「情熱ノ花」が、「アクノ花」「アカイ花」と、それぞれにサブタイトルのついた2デイズ公演としておこなわれた。事前に告知されていた、「アカイ花」への田村泰二郎の友情出演がとりやめになったところから、結果的には、ふたつの対照的なソロ・パフォーマンスがならぶこととなった。場面を絞りこみ、身ぶりを絞りこみする集中した演技が、禁欲的にも感じられた「アクノ花」と、往年の歌謡曲を場面構成に使い、田山メイ子、歌謡曲を踊るというコピーをつけたくなるような遊び心を発揮した「アカイ花」、そのどちらにも共通していたのは、マネキン人形のように衣装を替え、演劇的に設定されたある登場人物をステージに立たせ、観客になにかしらの物語を想像させるイメージ作りをしながら場面をつなげていく手法と、一見それとは対照的に、日常的な身ぶりを文脈逸脱的に引用し、意味を欠いているという意味では「貧しい」といえるような身ぶりに変質させた反復するダンスの結合だったように思う。この異質なものの結合は、たとえば、歌謡曲の通俗的なイメージを裏切るダンサーの身体として出現し、日常的な場面設定のなかから、シュールで異様な感覚が生み出されてくる。

 ある人物が出現しているという点から見ると、初日の「アクノ花」は二場からなり、衣装替えに入る少し前の時間帯に、赤いリボンを首に巻きつけ舌をペロペロ出す場面があった。この顔の演技は、印象的ではあるものの、いまではベーシックな舞踏の技法(の引用)といえるものである。ダンスのなかで執拗に反復される日常的な身ぶりは、潜在的な身体を立ちあげ、反復をもって、日常ならざるものへの扉を開くものだったが、この顔の演技は、もっとダイレクトな形で、ステージに非日常性を持ちこむ。同様の顔の演技は、二日目にもあらわれた。「アクノ花」の最初の場面は、左膝に大きな破れ目のある古いジーパンにタンクトップの上着を着た田山が、左足に長く赤いテープを巻きつけて片足立ちするダンスだった。上手に座った姿勢から立ちあがり、壁に身体をもたせかけながら、下手に向かってゆっくりと進んでいく。右足にかかる負荷の増大が身体的なドラマになっている。暗転後は、赤い照明をバックに黒いドレスでつま先立ちして踊る、バレエ人形のようなコケットリーなダンスが登場。ともに「子供時代はバレエ少女、青春期はサヨク少女」という田山自身の経歴から、ふたりの人物をピックアップする構成らしかった。強調される赤と黒は、田山のなかにある色であるとともに、二日目の「アカイ花」にも通じている。

 二日目の「アカイ花」は、タイトルが暗示するように、つげ義春の世界に原イメージを得ている。「北帰行」「雪が降る」「骨まで愛して」「時の過ぎゆくままに」「圭子の夢は夜ひらく」「creep」(これだけレディオヘッド)などの曲を、ある登場人物のいるシチュエーションを設定して踊るというもの。最後の舞台挨拶では、藤圭子を意識してだろう、宇多田ヒカルの「First Love」が流され、歌謡曲の合間には、音響をつとめた太田久進の判断で、環境音や細田茂美の「Beyond The Sea」がはさみこまれた。これらが表地/裏地になることで、サウンド構成には、曲を流すだけの単調さを回避する自由闊達さがもたらされていた。「アクノ花」でのダンスが禁欲的だったのに対して、こちらには通俗的なイメージの豊かさがあり、私たちがよく知る歌の風景と、それを非日常化する身体を対応させる遊び心にあふれたものだった。イメージと身体をめぐる田山のダンスの方法は、二日目の「アカイ花」で、さらに効果的に機能したように思う。特に印象的だったのは、「圭子の夢は夜ひらく」にあらわれた赤い花柄のパンツをはいた黒い犬(のように見える、手足を床につけた黒いバレエ衣装でのダンス)の回転で、この人物といえない人物の出現には、シュールという以上に異様な感覚があらわれ、歌手の不幸な死という不条理を、見るものにあらためて痛感させるものになっていたと思う。

 田山メイ子の舞踏は、とどまることのない、新たな身ぶりの発見と発展のうえに形作られていくというものではなく、「アカイ花」でつげ義春の世界を参照したように、誰もがとっくに忘れてしまった(はずの)タイムカプセルを開封して、ある時代が持つことになった感覚や感情を、見るものにくりかえし思い出させ、感覚しなおさせる、生活再発見的なものとしてあるように思われた。これはおそらく、ダンサーが意識していると否とにかかわらず、ある種の舞踏観の反映なのであろう。たとえば、合田成男が土方巽の追悼に際して記した「舞踏は舞踏する肉体に生活の実体が宿っておれば、小さくとも成立する」というような言葉は、薄暗い感情の襞を一枚一枚数えあげていくようなつげ義春の世界に、無理なく寄り添わせることができると同時に、日常的な身ぶりを、別の光のもとで見ることを可能ならしめるものでもある。田山の場合、それは生活に埋没している感情を、まるごと救い出そうとするような(文学的)行為=ダンス=舞踏としてではなく、日常的な意味を剥奪された異様な身ぶりとともに、異化的に提示される。そのような身体だからこそ、現在性を巻きこむことのできるようなダンスが踊られているのである。





 ※初日の写真は、小野塚誠さんからご提供いただいたものです。
   ご厚意に感謝いたします。

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2013年9月23日月曜日

根耒裕子+森重靖宗@喫茶茶会記



根耒裕子森重靖宗
異文化交流ナイト FINAL5days !!
日時: 2013年9月22日(日)
会場: 東京/新宿「喫茶茶会記」
(東京都新宿区大京町2-4 1F)
開場時間: 6:00p.m.~11:30p.m.
料金/予約: ¥2,500、当日: ¥3,000(1飲物・軽食付)
出演: 根耒裕子(舞踏)+森重靖宗(cello)、千葉広樹(contrabass)
表現、カール・ストーン(electronics)、HIMIKO倭人伝
Sound Director: Kyosuke Terada
キュレーター・MC: 芦刈 純
予約・問合せ: TEL.03-3351-7904(喫茶茶会記)



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 新宿大京町にある喫茶茶会記は、ユニークな数々の公演で異彩を放つカフェバーとなっているが、マスター福地史人のブッキングの他にも、副店長を務める芦刈純がキュレーターとなって、福地路線とはひと味違った人脈と雰囲気を持つシリーズ「異文化交流ナイト」が開催されてきた。10月に主催者の芦刈が期間を定めない海外行脚に旅立つため、シリーズがいったん休止になることから、芦刈の離日直前、特別にファイナル5デイズ公演が企画された。その四日目のプログラムのトップを飾ったのが、四谷インプロのメンバーである舞踏の根耒裕子と、チェロ演奏にねばりつくような色彩感覚をもたらす森重靖宗の即興セッションである。数年前、ふたりはより人数の多いライヴで共演しているが、デュオはこの日が最初とのこと。芦刈ブッキングの功績である。舞踏のイムレ・トールマンとの活動にはじまり、亞弥、可世木祐子、木村由など、これまでに個性的なダンサーたちと一頭地を抜くパフォーマンスを見せてきた森重が、その経験の厚みをもって、古川あんずの舞踏からスタートしながら、現在では、独自のテーマを探究しながら、いわばその発展形として魅力的な身体を立ちあげている根耒裕子とまみえる注目のセッションだった。

 今年の春先、中西レモン主催の「畳半畳」に出演した根耒裕子は、全身を白塗りにし、和紙で作った手製のドレスを身にまとったが、30分弱の即興セッションとなったこの晩は、白塗りはせず、ダンスの装置としてある衣装も、皮膚感覚を直接刺激してくるようなものではなかった。喪中の貴婦人を思わせるベールのついた黒い帽子、背中の部分だけ白とうぐいす色がまじって虫の羽のように見えるゆったりとした黒い薄地のロングドレス、黒いソックス、黒いダンスシューズという黒一色のいでたちで、根耒の想定では、茶会記の強いライトのもとで薄地の洋服が透け、下の裸が見え隠れするはずだったのであるが、実際の公演では、縦格子になった背後の壁に寄ったとき、多少の効果はあらわれたものの、ほとんどの瞬間は、肌の色が服の色にアンサンブルしてしまうため、見るものに布と地肌の質感の相違を意識させることはなかった。残念ななりゆきではあったが、このエピソードは、即興セッションに際しても、根耒がダンスする身体と衣装の間にあるものを、一種の対話的関係として意識していることを示しているだろう。外に対しては、演奏者との位置関係がダンスのありようを決定し、内に対しては、衣装と身体の間でかわされる対話が、内面の吐露というモダンな表現図式のかわりに置かれている。

 根耒の両面作戦は、「畳半畳」の公演レポートで触れたような、私ではなく皮膚が考えるということ、あるいは、舞踏やダンスに奉仕する機能的な身体ではなく、いくつもの表情があらわれては消えていく、ひとつの場としての身体を立ちあげることにつながるはずである。こうした皮膚感覚的なるものの提示は、チェロの森重の演奏にも共通して感じとれるものだ。かたや、この日のライティングによる演出は、闇からはじまり闇に終わる触覚的な時間のなかにデュオ・パフォーマンスを置くもので、舞踏的なもの、即興的なものに、闇から出現する異形の存在というようなイメージを与えていた。ねばりつくような森重サウンドの効果もあって、これは「異文化交流ナイト」にふさわしい秘教的な演出だったと思う。そうしたなか、根耒は床や壁を使って演技したり、ピアノに寄りかかったり、観客席の通路に侵入したり、さらにチェリストに接近すると、前の床に腰を落としてすわったり、横の床に寝ころんだりするなど、茶会記のスペースを縦横に使って踊った。そこには「畳半畳」とまた性格の違う独特な雰囲気がかもし出されていたが、余談としていうと、衣装に身体を慣らす目的でリハーサルしたときには、力が抜けていたこともあって、ボリュームのある彼女のなかにこんな動きが!と驚くような、軽々としたステップやチャーミングな身ぶりがいくつもあらわれていた。

 ダンサーが演奏家と即興セッションするとき、即興を成立させる構造的なもの(なにかを動かすとき、別になにか動かないものを作らなくてはならないが、このときその動かないものが、動くものを支える構造、あるいは足台のようなものとなる、そのもののこと)を、その音楽や演奏の内容にではなく、パフォーマーとしてその場に存在する演奏家の身体そのものに求めることが多いように見受けられる。これはおそらく、ダンサーの視点からは、音楽における即興が見えにくいことによるのだろう。この即興セッションでも、そのような関係のとりかたが試みられたように思われるが、上述したように、響きの表面を執拗になでさすっていく森重の演奏の表層性と、衣装との対話によって根耒が立ちあげようとする皮膚感覚の間には、そもそもとてもよく似たところがある。「畳半畳」に参加した根耒がそうしたように、大きな動きを捨て、ミクロにうごめく皮膚感覚を前面化したとき、ふたつの即興パフォーマンスは、まるで二枚の皮膚のように触れあう領域を獲得することができるのではないかと思われた。ダンスと即興演奏の交点においては、そこにあらわれる新たな感覚──音楽にもダンスにも所属しない、第三の感覚をこそ体験してみたい。■





  【関連記事|根耒裕子】
   「根耒裕子@畳半畳in路地と人」(2013-05-14)

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2013年9月15日日曜日

南阿豆舞踏ソロ: スカーテッシュ~傷跡Ⅲ~



南 阿豆 舞踏ソロ
Scar Tissue III
スカーテッシュ~傷跡 Ⅲ
日時: 2013年9月14日(土)~16日(月・祝)
会場: 東京/中野「テルプシコール」
(東京都中野区中野3-49-15-1F)
14日・15日/開場: 7:00p.m.,開演: 7:30p.m.
16日/開場: 6:00p.m.,開演: 6:30p.m.
料金/前売: ¥2,000、当日: ¥2,500
演出・出演: 南 阿豆(dance)
照明: 宇野敦子 音響: 成田 護
音楽: 濁郎、Delfino nero(在ル歌舞巫、志賀信夫)
衣装: 摩耶(Atelier P. of S.)
舞台美術: 栗山美ゆき 写真: 小野塚誠



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 ふたつの舞踏ソロ公演『傷跡』『傷跡 II』によって、第44回(2012年)舞踊批評家協会の新人賞を獲得した南阿豆が、シリーズ第三弾となる『傷跡 III』を中野テルプシコールで3デイズ公演した。本シリーズは同じ内容の作品を再演するものではなく、回を追うごとに手直しされ、新たな場面をつけ加えるなどして進化/深化してきたものである。今回が「最終章」と宣言されているが、ここで得られたモチーフは、形を変えながら今後も発展していくことだろう。注意深くあるべきは、『傷跡』のあつかっているものが、いまなお疼くトラウマティックな傷ではなく、文字通り、その傷跡=痕跡だということである。この作品に受け容れがたい傷跡の肯定というような文学的テーマを読むのは、誤解とはいえないまでも、いささか的外れなように思われる。むしろダンサーは、声をもたない出来事の痕跡をいつくしみ、指で丹念になぞるようにして記憶をたどり、感情を回復し、それがはたして踊ることの根拠となりうるかどうかを、痕跡を持つからだによって、あるいは、痕跡としてのからだによって実際に確かめてみようとする。入口はダンサー自身の「傷跡」かもしれないが、それは必ずしも彼女だけのものとはいえない領域へと拡散していく。

 ステージ中央に円形の裾を広げた大きなパッチワークドレス、そのまんなかで横になっていた南阿豆は、開演と同時に起きあがり、立ちあがり、ドレスの裾を巻きこみながら、反時計回りでステージ上を回転していく。衣装が腰までしかなく、ダンサーは下半身が樹になった人間のよう。背中からチョッキのように羽織るだけの黒い上着は、裸のうえに着けているので、乳房が見え隠れしていたが、回転する背中が観客席に向いたとき、静かに脱ぎ捨てられた。下手まできたところで動きがとまると、ダンサーは、蛹から羽化する蝶のように、するりと下半身をドレスから抜き出した。下着はつけている。裸になった彼女は、床に頭をつけ、からだを反らせてブリッジ転倒すると、今度は四つん這いになり、両手両脚を突っ張ってからだを浮かせる転倒、という一連の動きを反復しはじめた。ピナ・バウシュを連想させる外傷的な場面。からだをそらす動作の反復は、肉感的な印象を突出させた。突然、赤いドレスが上手より投げ入れられ、照明が赤く染まると、井上陽水の歌う「コーヒー・ルンバ」がかかり、南は、赤いドレスを手で支えながら、やけっぱちのようなダンスを踊る。曲が終わった後も、しばし空虚なダンスがつづけられた。そのまま床のうえに大の字に倒れこんでから、ゆっくりとした歩みでセンター奥に立てられた二枚の絵の前までいき、赤いドレスを脱ぎ捨てる。

 二双の屏風のように立てられた絵には、斜め上空から見下ろした大地の一面に、こちらを向いて咲きほこる向日葵の群れが描かれている。地平線はない。ダンサー自身によって描かれたこの絵は、雛壇になった観客席と対になるように置かれ、内容だけでなく、形式においても空間構造を決定づける重要な役割を果たしていた。向日葵が描かれた由来は、3.11後に試みられた放射能による土壌汚染対策のひとつに、向日葵が有効だといわれたところにあるという。それを聞いた南は、向日葵の種を大量に買いこんだものの、そのすぐあとで、花が放射能を解毒化するわけではなく、向日葵に移染するだけということがわかったのである。このエピソードは、土地や土に対する南の執着を示すとともに、大地にも、逃れることのできない「傷跡」があることを私たちに示している。この向日葵の絵の前から、ダンスのクライマックスがやってきた。二双の屏風を、向日葵の群生する大地にみなした南阿豆は、両手を翼のように広げて風に乗り、その影を絵に投げかけながら、背中を見せたまま、観客席のほうに少しずつ後退してくる。脊椎、脇腹のくびれ、背面の骨をおおう皮膚などが細かく動きながら、ゆっくりと観客席へと接近してくる。それはまるで、向日葵畑のはるか上空を飛翔する背中のようだった。

 暗転。ステージに脱ぎ捨てられた衣装をまとめていったん楽屋にひっこんだ南は、白いドレスに着替えて再入場してくる。舞台中央までゆっくりと進むと、中腰でつま先立ちになり、足をふるわせながらダンスした。最後には、手のひらになにか大事なものを乗せるようにしながら、観客席のところまでやってきた。ふりかえると、もういちど向日葵の絵の前までいき、絵のなかの人になってその前に立つ。花火大会を思わせる火薬玉の炸裂音と人々のざわめき。音を残しながらの暗転。印象的な終幕である。身体に刻みこまれた痕跡、痕跡としての身体に触れるたびに、新たなダンスの変成がやってくる。舞踏ソロ公演『傷跡』を構成する場面のひとつひとつは、物語的な構成をもつというより、決して説明的ではない数々の傷跡によってもたらされた身体的な変成であり、同時に、変成していくダンスの集積としてあるような公演になっていた。その最大のものが、向日葵に由来する大地の傷、私たちの傷であることはいうまでもないだろう。そのなかで特筆すべきは、南阿豆がヴィジョン化してみせたヒトの背中の解剖学的、造形的な美しさであり、それは大地に残された傷跡を、そのままで受容しようとする天上的なものとしてあったように感じられた。





   ※掲載写真は、写真家の小野塚誠さんからご提供いただいたものです。
      ご厚意に感謝いたします。

   ※以上は初日公演のレポートです。

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