2013年4月28日日曜日

Bears' Factory vol.19 with 徳久ウィリアム



Bears' Factory vol.19
with 徳久ウィリアム
日時: 2013年4月27日(土)
会場: 東京/阿佐ヶ谷「ヴィオロン」
(東京都杉並区阿佐谷北2-9-5)
開場: 7:00p.m.,開演: 7:30p.m.
料金: ¥1,000(飲物付)
出演: 徳久ウィリアム(voice)
高原朝彦(10string guitar) 池上秀夫(contrabass)
問合せ: TEL.03-3336-6414(ヴィオロン)



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 本シリーズには二度目の出演となるヴォイスの徳久ウィリアムを迎えた第19回ベアーズ・ファクトリーは、<Annex>シリーズの第9回(20121114日)で手あわせした古池寿浩との共演をうわまわる微弱音の即興セッションとなった。周知のように、即興ヴォイスでは、多彩なヴォキャブラリーを誇る徳久だが、ここではオリジナルな即興イディオムによる対話的アプローチを捨て、口腔で作り出される微弱なノイズだけを使用しながら、どんな音楽形式にも依拠しないアンフォルメルな演奏をおこなった。もともと学究的な資質を持った演奏家である徳久の公演やワークショップは、声の諸相を探究するものとして展開されているように思われるが、彼の即興即興も、そのときどきの感興にまかせたり、自己表現にこだわったり、感情解放を求めたりするようなものではなく、ピアノの新井陽子がそうであるように、あくまでも方法論的なものとしておこなわれているように感じられる。事前の音楽的な話しあいを持たないベアーズ公演では、トリオで方法論を共有するということはないが、ゲスト奏者の音楽をフォローし、かつ拡大することが暗黙の合意になっていることから、この晩のセッションでも、徳久の提案を受け入れた演奏が展開されることとなった。

 サウンド・インプロヴィゼーションという総称に対して、響きの特徴をとらえてそう呼ばれる「弱音」「微弱音」の演奏スタイルは、周知のように、ある種の即興批判からスタートしたものであり、「音響」と呼ばれる認識の地平を前提に、作曲であれ即興であれ、ここで徳久がしたような方法論的なものを含んだ音楽運動としておこなわれてきたし、いまもおこなわれている。ベアーズの演奏にそうした実験性はないので、セッションが微弱音に傾くような演奏では、いつもおなじことが起きるように思われる。第9回<Annex>公演レポートから引用すると、「高原朝彦も池上秀夫も、楽器をノイズ発生装置にしてしまうほどサウンドを偏愛するプレイヤーであり、音響ということでは古池と共通点を持ちながらも、演奏姿勢においては真逆のありかたをしている」というような点のことだ。すなわち、本セッションにおいて、口腔ノイズを採用した徳久ウィリアムは、さまざまな伝統音楽やポピュラー音楽の歌唱法を一般化することで獲得した豊富な即興ヴォキャブラリーを放棄し、アンフォルメルな演奏を徹底したといえるのに対し、ベアーズの演奏は、あくまでも即興語彙をヴァリエーション化していく地平でおこなわれているということである。

 会場となった阿佐ヶ谷ヴィオロンでは、10弦ギターの高原朝彦がオーディオセット前の椅子に座り、着座したまま演奏する彼を両脇からはさみこむような格好で、下手側の土間にはコントラバスの池上秀夫が、上手側の土間には徳久ウィリアムが立った。ふたりはにらみ合うように対峙し、まるで先に音を出したほうが負けというルールでもあるかのように、共演者の一挙手一投足を注視する剣豪勝負の雰囲気をかもしだしていた。しかし「動く」といっても、徳久がすることといえば、卓上に置かれたペットボトルの水を口に含み、手で口を被いながら、うがいをするようにして音をさせるといったようなことである。実験的試行ということでいうなら、もちろん現在は、微弱音の演奏が、習慣化された私たちの音楽聴取を根底からゆるがすというような段階にはない。また演奏される音が小さいため、周囲をとりまく環境から、人の声やいろいろなノイズが聴こえてくるというケージ的な発見も、もはや環境音趣味のようなクリシェにしかならないだろう。池上と徳久のにらみ合いは、おそらく事情に通じていない観客の誤解を防ぐため、演奏らしい演奏のないセッションが、それにもかかわらず真剣勝負の場であることを保証するものとしてあったと考えるべきなのだろうが、それにしても、この種のインプロヴィゼーションにおいては初めてお目にかかるような不思議な光景であった。

 多様化の一途をたどる即興演奏のなかにまぎれて見えにくくなっているが、音響によるアンフォルメルなものの提示は、結局のところ、聴取のありようを変える(少なくとも、制度的な聴き方に疑問を持たせる)とともに、演奏家自身にはねかえって、楽器や演奏に対する態度変更もうながすことになった。もちろんすべての演奏家がそうしたわけではないし、態度変更のありようも人によってさまざまだ。しかしたとえば、特殊奏法をさらに逸脱して、ある楽器をその楽器らしくなく弾くなどというのは、演奏家の身体と楽器の関係をいったん切り離すことにつながり、音楽において演奏家の身体(の痕跡)そのものを消すことになると思われる。このような流れのなかに池上秀夫の演奏をおいてみれば、その特徴がいっそう明確になるだろう。すなわち、音響アプローチにおいて断片的なサウンドをあつかう池上は、その一方で、プレイヤーと楽器の強い結びつきを示すような身体的突出をみせる。剣豪勝負における剣豪と剣の関係は、ほとんど分身といってもいいようなものだが、ベアーズのふたりにとっての楽器もそのようなものとしてあり、音響による態度変更を経ない演奏は、あくまで即興語彙のヴァリエーションとしておこなわれている。この間の事情が、ベアーズ公演では、前代未聞の剣豪勝負の図として立ちあらわれることになったのではないだろうか。





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2013年4月21日日曜日

ジェローム・フーケ+松本健一@吉祥寺ズミ



ジェローム・フーケ松本健一
Jérôme Fouquet & Ken-ichi Matsumoto
日時: 2013年4月20日(土)
会場: 吉祥寺「サウンド・カフェ・ズミ」
(東京都武蔵野市御殿山 1-2-3 キヨノビル7F)
開場: 6:30p.m.、開演: 7:00p.m.~
料金: ¥2,800(飲物付)
出演: ジェローム・フーケ(trumpet) 松本健一(sax, 尺八)
岩見継吾(contrabass)
問合せ: TEL.0422-72-7822(サウンド・カフェ・ズミ)



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 412日(金)から54日(土)にかけて、東京、横浜、大阪、京都各地のライヴハウスをめぐり、ほぼ毎日演奏するという過密なスケジュールを組んだトランペット奏者ジェローム・フーケだが、そのなかで、吉祥寺ズミでは、サックス/尺八の松本健一とのデュオ・セッションがおこなわれた。第二部では、数日前、八丁堀の「七針」で共演したコントラバスの岩見継吾がかけつけ、飛び入りでトリオ演奏を聴かせた。パリ在住のフーケは過去に何度も来日しているので、ジャンニ・ジェッビアやユーグ・ヴァンサンとならび、日本のライヴシーンではすでにおなじみの顔となっている。海外の演奏家といっても、今日では、見知らぬ場所から異文化を運んでくる異形の人といったニュアンスはなく、彼らの演奏からは、ヨーロッパの即興界も、日本とおなじような状況にあるらしいことが漠然と伝わってくる。「即興演奏のパラダイムシフト」として喧伝された音響的試行が、ブーム的な盛りあがりをみせた一時期を経過してから、この傾向はますます加速したように思われる。「世界」というのが大袈裟ならば、少なくとも、伝統的に即興演奏が聴かれてきたような地域においては、音楽の均質化がかなりの程度進行したということだろう。

 こうした文化状況にもかかわらず、音楽的な出来事が、なおも出来事であるためには、やはり外部からやってくる圧倒的なものが必要であることに変わりはない。ここに即興演奏のような、これまで逸脱的、越境的な身ぶりに価値を見いだしてきた音楽を聴こうとするときの困難がある。たとえば、千野秀一や藤井郷子/田村夏樹といったミュージシャンがベルリンに移住するのは、演奏活動に便利だからという以上のなにものでもない。そこに出来事はないといえるだろう。一般的には、グローバリゼーションの時代に、もうそうした世界の余白はないといわれている。あるのは「内破」といわれるようなもの、すなわち、「パラダイム」となる大枠を動かさずにおこなわれるあれこれのマイナーチェンジが、私たちに残されたすべてというわけである。たしかに音のあらわれが洗練度と複雑さを増していくなか、音楽はひたすら(内側に)拡散的な動きをくりかえすばかりで、八幡の薮知らず状態のなか、すでに出発点も到達点も見失われているように思われる。私たちが自分の周囲に視線を落として「生活」と呼んでいるようなものは、もしかしたら、こうした状況そのもののことかもしれない。その危険性はけっして小さくない。こうした音楽環境のなかで、演奏家たちは、いまも自分に可能な選択をしていくことになるだろう。

 フーケと松本のデュオ演奏もそのようなものとしてあった。音響派ブームの時代、それとは距離を置きながらも、いまからみれば同時代的試行というしかないようなありようで、南仏に住むミッシェル・ドネダなどが、サックスの領域において気息の演奏を切り開いた。この奏法が、ふたりの演奏においても換骨奪胎され、語法のひとつとして取り入れられることで、伝統的なフレーズによる即興演奏が、より微分的な響きを交換する演奏へと変容している。このデュオの場合、サウンド・インプロヴィゼーションというより、ジャズなどによって培われたフレーズの、さらなる細分化を中心にした即興というべきだろうが、いずれにしても演奏内容はより細かなものとなっており、そこに伝統的な即興語法の組み替え(内破)が起こっていることが想像される。感情の解放や爆発は抑制され、一貫して静かな演奏ならびにアンサンブルが展開していく。クライマックスに向かって盛りあがっていく物語構造をもたない演奏は、ひとつひとつの音の肌理を際立たせながら進行していくものであるため、演奏の持続には、プレイヤーも聴き手も、かなりの精神的な集中が求められる。この意味では、第二部で飛び入りした岩見継吾とのトリオ演奏は、ジャズ演奏に傾くことで、こうしたデュオの緊張感をいっきに解放するようなものとなった。前後半を通してみれば、デュオのありようを崩すことなく、集中から解放へと、大きな流れが形作られたと思う。

 デュオ演奏でとくに興味深かったのは、松本がテナーサックスを吹いた前半のセットが、かなりの精神集中を求められるものだったのと対照的に、尺八を吹いた後半冒頭の演奏が、なぜかリラックスした自然さのなかで聴けたことだった。前半と音楽の内容が変わっていたわけではない。楽器が違うだけである。私が日本人だからということも理由にはなりそうにない。というのも、私の人生では、尺八などよりはるかにサックス演奏を聴く機会のほうが多かったからだ。この違いはおそらく、松本が尺八の特殊奏法をいろいろと工夫していくなかで、サックスでそれをするときのようには自由に音がつなげられず、どうしても演奏と演奏の間に隙間ができてしまうことが、聴き手の耳には、逆に、一定の自由度を与えることになったと思われる。フーケがトランペットで尺八のような音色と息のタイミングを出そうとした方向性(かつてネッド・ローゼンバーグが体系的にこのやり方をとっていた)より、松本が意識しているかどうかはわからないものの、まさにドネダ的な気息の演奏を、尺八の吹奏という一種のずらしを加えながら、独自のカラフルなサウンドをもって拡大していく結果になっているのではないだろうか。デュオの語らいのなかで、ふたりはすぐれて現代的な即興演奏を展開したといえるだろう。





   【関連記事|ジェローム・フーケ】
(2013-04-14)     

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照内央晴+木村 由: コマの足りないジグソーパズル



照内央晴木村 由
コマの足りないジグソーパズル vol.31
日時: 2013年4月20日(土)
会場: 東京/高円寺「koen the TAO」
(東京都杉並区高円寺北3-6-2)
開場: 2:30p.m.、開演: 3:00p.m.
料金: 投げ銭制
出演: 青木ケン(guitar, vo)
照内央晴(piano)+木村 由(dance)
Fujiyo(vo, guitar)+Yano Chan(guitar)+α
問合せ: 03-6383-0445(koen the TAO)



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 高円寺にある福祉作業所「koen the TAO」は、持ちこみ自由の喫茶店レストランとしてNPO法人が運営している障害者自立支援の場所だが、人々が自由に集うことのできる「屋内公園」を自称している。福祉作業所に「園」の名前が多いことと高円寺をかけているらしいことは見当がつくが、さらに重要なのは、ハンディキャップを負った人々を一方的な保護の対象にすることで、その善意にもかかわらず、結果的に社会から隔離してしまうことになる弊害を避けるため、(公園のように)地域に開かれた場所作りをめざしているということではないかと思う。「TAO」では、「東京雑楽堂」の主催で無料のコンサート「コマの足りないジグソーパズル」が開かれてきたが、これにピアニスト照内央晴が出演していて、420日(土)の第31回公演には、ダンサー木村由とのデュオで登場する運びとなったわけである。フォーク弾き語りの間に挟まって、一般には前衛的に感じられるだろうピアノとダンスの夕べが、実際にどう受け取られたのか知るよしもないが、この日の観客層を意識してか、パフォーマンス自体はわかりやすい展開をしていたと思う。照内央晴のピアノ、木村由のダンス、ともに個性的な表情を持つパフォーマンスのショーケースとして楽しむことができた。

 木村由と照内央晴の共演はこれが三度目となるが、「照リ極マレバ木ヨリコボルル」というタイトルをもつ二度目のセッション(20121223日)が、ダンス用の照明を入れた真っ向勝負だったのにくらべると、今回のものは、木村が初回の衣装を引用したことにはじまり、椅子の使用、床への突然の落下、直立しながら風に揺れる身体というように、いくつもの点で高円寺ペンギンハウスの初回セッションを連想させた。あのとき、壁際のアップライトピアノを弾いた照内は、ダンサーを見ることができず、共演者に背中を向けたまま弾奏したのだった。すなわち、初回を知らないものには、即興するダンスと音楽のショーケースだった「TAO」公演は、たまたま初回を見ていたものには、引用され、ずらされる身ぶりによって、過去の時間と現在の時間が二重映しになるような経験の場になったのである。ライティングで固有の空間構成をしなくても、このデュオは、楷書体の照内に草書体の木村というように、もともと表現の文体が異なっているため、パフォーマンスが二重焦点=楕円構造をとりやすい。この日、ピアノに踊らされる気味のあった木村が、フリーな展開のまっただなかで、出発点となった椅子に腰をおろし、繊細かつシームレスな動きを構成しなおした場面などが、デュオ演奏としてはもっとも力強い表現を獲得していたように思う。

 たとえば、椅子に腰かけて天井を見あげる。この動作が初回公演にあらわれたとき、木村は振り向かずにピアノ演奏をしていた照内の背中まで椅子を移動させ、そのことでパフォーマンスの終わりを(それとなく)示唆したのだが、今回はその終わりの形から、さらにふたつの椅子を使う最終場面を展開し、最後には椅子のうえに立って「ストップ」のサイン(左手の手のひらを広げて前方にさし出すしぐさ)を出すところまでいった。全体の流れは、楽章を区切って演奏するピアノによって作られた。(1)ダンサーのゆっくりとした動きを誘いだす、間の多い、散らし書きの序奏部分、(2)ダンスとピアノがパッショネートに切り結ぶ激しいフリーの演奏、<床への突然の落下>をはさみ、(3)パフォーマンスの出発点になった椅子のうえに立って演技するダンサーと、印象派ふうのジャズ・バラッドによる緩徐楽章、そして(4)中央に椅子を持ち出すカデンツァ部分である。ここで姿勢よく椅子のうえに立った木村は、いけないことを言ってしまったかのように手で口をおおい、頭痛がするかのように右の頭髪を手でおさえた。ちょっとしたことのように見えるが、これこそ一瞬にして意味を脱臼させてしまうもっとも木村らしい身ぶりであり、ダンスである。

 パフォーマンスの出発点となった椅子を、もとの位置に置いたままそのうえに立つこと、あるいは、動かしたあとの椅子のうえにパフォーマンスの着地点をおくこと──ステージの床から浮きながらの演技となるこれらの選択は、いうまでもなく、現在、卓上に立つ形に落ち着いている木村のちゃぶ台ダンスに直結したものである。ちゃぶ台よりも狭く、姿勢が不安定になる木製スツールのうえで、ヴァリエーションのある身ぶりを展開する木村のアイディアと身体能力はさすがだが、そうした技術的なことではなく、私たちはそのとき彼女が立っている場所に注目しなくてはならないだろう。このことは、木村の無音独舞公演「ひっそりかん」が、明大前キッドの最上階でおこなわれることとも、あるいは、彼女がダンスのいたるところで不安定な姿勢を選択することとも無関係ではないように思われる。周辺事情はさまざまでも、そうした違いを無視して、彼女のダンスを深いところで支えるこの衝動を、あるいは肉化されたダンス思想というべきものを、やや奇妙な言い方になるが、<二階にあがる>と一般化して呼ぶことにしたい。実際には、何階でもおなじことなのだが、要はステージの床のような「ここ」とは別の(「あそこ」ではない)位相に身を移したことを意味する身ぶりのことである。そこにしかあらわれない彼女らしさの謎がある。





  【関連記事|照内央晴+木村 由】
   「照内央晴+木村 由@高円寺ペンギンハウス」(2012-08-26)
   「照内央晴+木村 由: 照リ極マレバ木ヨリコボルル」(2012-12-26)

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高円寺 koen the TAO
 


2013年4月19日金曜日

【CD】金子雄生+河崎 純: ふたつの月



金子雄生河崎 純
ふたつの月
金子音楽工房|KOK-01|CD
曲目: 1. Les deux lunes (10:51)
2. マグリットの傑作 ~Le chef-d'oeuvre~ (11:31)
3.「月が綺麗ですね。」(1:26)、4. 上弦 (11:09)
5. Before dawn (10:10)
演奏: 金子雄生(cornet, pocket cornet, kalimba, bells, voice)
河崎 純(contrabass)
録音: 2013年1月17日
場所: 蔵のギャラリー 喫茶「結花」
発売: 2013年4月



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 トランぺット/コルネット奏者の金子雄生(かねこ・ゆうせい)が、コントラバスの河崎純と共演した『ふたつの月』が、金子が主宰するレーベル「金子音楽工房」からリリースされた。収録場所となった「結花」(ゆい)は、千葉県松戸市にあるギャラリー/喫茶店で、明治八年(1875年)に建てられた所沢市の見世蔵(店舗や住居を兼ねた土蔵)を移築して作られた、木のぬくもりのある空間である。演奏はすべて即興によるもので、ジャケットには「フリー・インプロヴィゼーション」の記載もあるが、あえてそうしたジャンル名を付すならば、金子雄生の音楽は、卓抜なそのアーティキュレーションとともに、明快なまでの形式性を備えたものであり、合衆国におけるフリージャズ以降の展開として、いまでは歴史的にとらえられているだろうクリエーティヴ・ミュージックの時代の空気感を、いまに伝えるような性格の演奏となっている。モダンなスタイルから感情表現にいたるまで、徹頭徹尾、スタイリッシュなジャズと呼べる金子の演奏は、デュオの相方をつとめる河崎純が、楽器の響きや演奏を、分節することのできない、まるごとの身体的現象としてあらしめる即興演奏をしているのに対し、むしろ対極をいくものとなっている。

 「ふたつの月」というタイトルは、曲名に示唆されているように、ルネ・マグリットの絵画「傑作または水平線の神秘」(1955年)からヒントを得ている。ブルーの夜空を背景に、山高帽をかぶった三人の男が、それぞれ頭のうえに、糸のように細い三日月を浮かべて別の方角を見ているというよく知られた絵だ。絵そのものは、おそらく月の動きにしたがって移動するひとりの人物を、時間経過に従ってひとつの画面のなかに描きこんだものと思われ、見えない時間を平面上に視覚化したものといえるが、本盤のタイトルは、そうした「月」を人間化してとらえたことになる。マグリットの採用は、これもまた、フリージャズが文学的シュルレアリスムの自動筆記にたとえられた時代の雰囲気を運んでいるが、そればかりではなく、異色デュオの妙味が、対極にある、溶けあうことのないふたつの個性がならび立つところに、ありえない風景=予想外の展開が発生することを示している。金子は雄弁なコルネット演奏の他にも、カリンバやベルや声を使っているが、少なくとも本盤では、それが音楽の構成そのものに影響を与えるということはなく、演奏を刷新するための呼び水にとどまっている。

 金子雄生のコルネットが、すみずみまでクリアーな音像を持っているのに対して、河崎純のコントラバスは、まるで演奏がこの楽器でなくてもよかったかのように、音塊のようなものを次々につむぎだし、激しい動きはあってもそれがなんであるかを簡単に言うことができないような不可解さを備えている。演奏が結果でしかない身体的パフォーマンスは、言葉や文学に関わる河崎自身のテーマにまぎれてわかりにくくなっているが、おそらくはコントラバス演奏の意味を(存在をたしかめるための)ノイズに見いだした齋藤徹の系譜を継承する音楽といえるように思う。演奏家がなにを弾いているかわからなくなるまでに自己を解体し、環境と一体になることを理想とする音楽といったらいいだろうか。その意味でいうなら、このふたりのデュオを、ミステリアスなふたつの月とは別に、光と闇にたとえてみたくなる。すなわち、すべてが明快な形式性のなかにある光の音楽と、すべてを鍋のなかに溶かしこんだ闇の音楽という対比的なありようだ。デュオの演奏は、光があるから闇が輝く、闇があるから光が輝くという、ほとんど神話的といえるような世界観のなかで展開されている。



   ※本盤は下記にある金子雄生さんのサイトから購入が可能です。   

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2013年4月18日木曜日

高原朝彦 d-Factory vol.2 with 太田惠資



高原朝彦 d-Factory vol.2
with 太田惠資
日時: 2013年4月17日(水)
会場: 東京/新宿「喫茶茶会記」
(東京都新宿区大京町2-4 1F)
開場: 7:30p.m.、開演: 8:00p.m.
料金: ¥2,500(飲物付)
出演: 高原朝彦(10string guitar) 太田惠資(violins, etc.)
予約・問合せ: TEL.03-3351-7904(喫茶茶会記)



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 10弦ギターの高原朝彦が、喫茶茶会記でスタートさせた隔月のシリーズ公演「d-Factory」は、さまざまなセッションに参加しながら、常日頃は、そのときどきの条件にこたえて演奏している彼が、長年の演奏によって培った彼自身のインプロヴィゼーションを全開にできる場所として構想された。高原と互角に高密度の演奏をするプレイヤーをひとりゲストに招くことで、彼の演奏は、ソロのとき以上に高く飛翔することができるようだ。それぞれの即興スタイルにいたった背景は各人各様でも、田村夏樹、太田惠資、蜂谷真紀といったゲスト・プレイヤーたちは、私たちが一般的に「饒舌」と呼ぶような高い密度と速度をもった演奏をする点において、高原とよく似たミュージシャンたちといえるだろう。密度と速度は、いうまでもなく演奏技術のたまものであるが、それだけでなく、音楽的な経験の厚み、すなわち、高度に蓄積された音楽情報の束から自由にイメージを引き出してきて演奏を展開するという、今風の表現でいうなら、「データベース身体」とでもいうような存在から引き出されてくるものである。ここにはもうフリージャズが持っていたような男臭さは存在しない。油断していると見過ごしてしまうほど微妙でありながら決定的なこの相違を、「d-Factory」は前面化することになるのではないだろうか。

 現代の即興シーンにおいて、このデータベース身体の存在はすでにあたりまえのようになっているが、そこから演奏家がさまざまな音楽を引き出してくるやり方に、一種の狂気に見まがうような過剰さであるとか破天荒さ、出所不明の巨大なエネルギーの負荷がかかるとき、高原の求めているような即興演奏の密度と速度が出現してくる。このような密度と速度によって編みあげられる演奏は、ふたりのインプロヴァイザーが、それぞれの個性をぶつけあう演奏とは異なったありようをしている。というのも、共演者の演奏が、自分の演奏を解き放つ青空のようなものになるからである。ソロではなくデュオだからこそ可能になる相乗効果というべきだろうか。即興演奏では、共演者の選択がその内容のほとんどを決定してしまうというのが常識になっているが、「d-Factory」においても事情はおなじで、共演者の選択を誤り、阿吽の呼吸でくりだされるこの密度と速度が少しでもずれてしまうと、そこに出現する青空が青空ではなくなり、まるで壁のようなものになってしまう。ジャンプ台のうえから一気にプールに飛びこむようにして、突然勃発する情報戦争のような丁々発止の演奏のなかでも、データベース身体が感応しあうところでしか音楽は成立しない。田村夏樹との共演にも、太田惠資との共演にも、このようなバイブレーションの交換を聴くことができた。

 第一部のセッションでは、朗々とメロディーを奏でながら、トラディショナルな風味のある演奏を次々にスイッチしていく太田惠資に対し、高原朝彦はいったん解体された10弦ギターのサウンド断片を、ふたたび再構成していく即興演奏で応じながら、彼ならではの速度と密度によって、はじけとぶような演奏を展開した。もしふたりの演奏にすれ違いが生じていたとすれば、それは高原が反転しあうふたつの青空のなかで同時進行するデュオを構想していたのに対し、太田の演奏が、ソロパートを交換しあうデュオという(ジャズ的な)音楽形式を持ちこもうとした点にあるように思われる。高原の即興演奏が、音楽の根拠となるすべての形式性を離れたところで、黄砂のように宙を舞うノイズ=サウンドが、猛烈なスピードで旋回しながらも、ある一定時間の滞留現象を引き起こすものになっている一方で、太田の即興演奏は、音楽形式を捨てずにいることで聴き手をいったん安心させながら、同時に、いくつもの形式を経めぐっていくことで音楽の根拠を奪い、習慣的な耳に驚きをもたらしつつ、次々にフェイクを重ねて転身していくというようにいえるだろうか。いずれも音楽の形式性から自由になった演奏なのだが、自由になるそのなり方が違っている。

 第一部で共演者の音楽のありどころを確かめたのだろう、第二部の冒頭、10弦ギターからシンソニードのエレキギターに持ち替えた高原に応じて、ブルーのボディを持った愛用のエレキヴァイオリンを手にした太田は、エフェクターを多用する演奏を展開した。ひとしきりサウンドの応酬がつづいたあとで、サンプリングでタンゴのようなリズムをループさせながら、また少しあとでは、アラビックな大衆音楽のリズムをループさせながら演奏、いくつものリズムの内外を出入りしながら、おもちゃの白い拡声器を使って、アザーンとシュプレヒコールを足して二で割ったようなヴォイスやアラブ歌謡で画竜点睛を決めた。ハードコアな即興演奏の応酬になれていない聴き手には、一種の風通しになるだろうリズムやヴォイスの演奏は、大きくいうなら、それ自身がサウンドのひとつのあらわれといえるようなものであり、高原のサウンド指向の演奏とがっぷり四つに組むものだった。ソロの交換を捨てた第二部の太田は、音楽の流れに乗りながら、太田らしさが前面化するような演奏を淡々とくり広げたのではないだろうか。共演者の音楽を見すえながら、みずからのスタンスを崩すことなく、それぞれが演奏に微調整を加えてアンサンブルを作りあげていくというスリリングなステージだった。


次回の公演は、d-Factory vol.3 with 蜂谷真紀   
2013年6月11日(火)開演: 20:00~   
会場: 喫茶茶会記   



 【関連記事|高原朝彦 d-Factory】
  「高原朝彦 d-Factory vol.1 with 田村夏樹」(2013-02-27)
 【YouTube動画】
  「喫茶茶会記 高原朝彦 Duo シリーズ [d-Factory]


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2013年4月14日日曜日

生西康典: おかえりなさい、うた



『おかえりなさい、うた』
Dusty Voices, Sounds of Stars
【音の映画 5.1ch Ver.】
(2010年)
アンコール上映|日時: 2013年4月13日(土)
開場/開演:(1)薄明かり 17:20/17:30
(2)完全暗転 19:20/19:30
(3)完全暗転 21:20/21:30
料金/一般: ¥1,500、学生: ¥1,300
シニア: ¥1,000、UPLINK会員: ¥1,000
会場: 渋谷アップリンク「ROOM 2F」
(東京都渋谷区宇田川町37-18 トツネビル1F)
構成/演出: 生西康典
録音/編集: AO
出演(歌/声):さや(テニスコーツ)、山本精一、飴屋法水、
大谷能生、相馬千秋、山川冬樹、吉田アミ、さとみ(ディアフーフ)
島田桃子、飯田芳、かわなかのぶひろ、グジェ・クルク
アリバート・アルガヤ、阿尾靖子、山元汰央
ほか
演奏: 植野隆司(テニスコーツ)
今井和雄、勝井祐二、坂本弘道、L?K?O
ジングル: ククナッケ
演出助手: 池田野歩



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 2010年開催の「第2回恵比寿映像祭」に参加、東京都写真美術館で上映された音の映画『おかえりなさい、うた』の再上映を中心に、2008年から2011年にかけ、美術家・生西康典が演出したダンスや演劇をフィルム構成した記録映画の特集が、渋谷アップリンク・ファクトリーで開催された。上映作品のうち、音の映画『おかえりなさい、うた』は、薄暗闇と完全暗転で構成される、映像のない、音だけの「映像作品」ということであったが、それよりもむしろ、音楽の領域で、しばしば「耳で聴く映画」といわれるようなサウンドアートとして制作されたものと受けとめられた。すなわち、たくさんの人の声、うた、朗読、楽器演奏、ノイズ、環境音など、作品を構成する響きは、それを聴く人の心のなかに映像的なるものを喚起するような性格のものではなく、美術的なコラージュ作品のように、音響断片の時間的モンタージュを聴かせようとするものだった。そのなかにあって、ふたりの女性が、おたがいを呼びかわす声を反響させながら、河原を思わせるだだっ広い場所に出ていく音風景が、休憩時間に流されたのだが、おそらくその場面がもっとも映像的だったのではないかと思う。その意味でいうなら、映像は、むしろ作品から排除されていた。

 テーマである「おかえりなさい、うた」は、歌の復権ということを意味しているのだろうか? 作品のなかで、在日異邦人と呼べるような人々に、思い出の歌を歌ってもらうシークエンスが登場する。そこでは、誰もがメロディーはたどれても、歌詞を正確には覚えておらず、ハミングをまじえながら、いわば声の身体性をもって歌(言葉)を異化していた。いうまでもなく、歌はすぐれて身体的な現象である。それが「身体的」であるのは、歌がその人ならではの声によって肉づけされてしか存在しないというだけでなく、ある原風景、音風景のなかにあることで存在をはじめるからだろう。その意味で、休憩時間を休憩時間たらしめた、ふたりの女性の声は、まさに声と歌の往還関係をシンプルな形で描き出していたといえる。20世紀におけるコラージュ美学のありようは、経験(身体)を断片化するメディアの発展とともに、近代的な視覚システムの破壊と再構成を企てるものであった。「おかえりなさい、うた」は、もしこうした私たちの経験の歴史に接続されるならば、なにがしかの身体の(再)獲得と不即不離に存在するものだろう。にもかかわらず、作品「おかえりなさい、うた」は、歌に呼びかけながら、響きを断片化するマイクロフォンの存在とともに、音風景の形で出現する身体のありようを、すなわち、映像的なるものを排除してしまう。

 ベルリンの壁が崩壊し、ドイツ再統一によって「東独」が消滅しようとしていたころ、劇作家ハイナー・ミュラーの作品が西側に紹介されるとともに、彼のヴィジョンを音楽的な作品にもたらすべく、ハイナー・ゲッベルスが音響モンタージュによって数々のラジオドラマを制作したということがあった。「落魄の岸辺」といった作品には、私たちが「ラジオドラマ」という言葉から連想するような通俗臭など皆無で、筋をたどることなどできない断片的な音響群から、壊滅的な世界像が立ちあらわれるようなものだった。いまにして思えば、ゲッベルスの音響作品において問われていたのは、激変する時代によってもたらされた崩壊感覚を、身体の機械的再編成によってつなぎとめる試みではなかったかと思われる。彼のラジオドラマにも、街ゆく人々にミュラーのテクストを読んでもらう声のシークエンスが登場する。そこでも声による言葉の身体化がおこなわれていた。たとえそこに出現するのがディストピアであったとしても、ある風景の獲得によって全体性を指向せずには現在が保てないというぎりぎりの選択があったと思われるが、対する「おかえりなさい、うた」は、同様に、断片的なるものの再構成をもって作品としていながら、なおも古い物語を語る段階にとどまっているように感じられた。あるいは、3.11以前の作品ということを割り引いたとしても、すでに存在しない物語を信じ(たふりをし)ているように感じられた。現代において歌を歓待しようとするのであれば、彼らが憩うことのできるひとつの身体を、新たに立ちあげなくてはならないのではないだろうか。

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ジェローム・フーケ+ヒグチケイコ+細田茂美+森重靖宗@喫茶茶会記



ジェローム・フーケ
ヒグチケイコ細田茂美森重靖宗
日時: 2013年4月13日(土)
会場: 東京/新宿「喫茶茶会記」
(東京都新宿区大京町2-4 1F)
開場: 2:00p.m.、開演: 2:30p.m.
料金: ¥2,500(飲物付)
出演: ジェローム・フーケ(trumpet) ヒグチケイコ(voice)
細田茂美(guitar) 森重靖宗(cello)
予約・問合せ: TEL.03-3351-7904(喫茶茶会記)

■■■ セッション組合せ ■■■
[第一部]
フーケ+細田茂美
フーケ+ヒグチケイコ
フーケ+細田茂美+森重靖宗
[第二部]
ヒグチケイコ+森重靖宗
フーケ+森重靖宗
フーケ+ヒグチケイコ+細田茂美



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 数多あるジェローム・フーケの来日公演のうち、来日直後に、チェロの森重靖宗が主催するライヴのひとつが四谷の喫茶茶会記でおこなわれた。共演者のなかで、ギタリスト細田茂美の参加はフーケのたっての希望によるものとのこと。デュオとトリオの組合わせで構成された即興セッションは、参加者の全員がフーケと総あたりすることと、近々のCDリリースが予定されている森重とヒグチケイコのデュオを入れることを条件に組まれた。ギター演奏というより、(電気)楽器のプリペアドを中心にしたノイズ演奏というべき細田の散文的な演奏と、特徴的な身ぶりとともに即興ヴォイスを展開するヒグチのパフォーマティヴな演奏との間には、音楽的にかなりの開きがある。本公演はフランスから来日したフーケを主賓とするものだが、内容的には、参加メンバーの間に大きく開いた資質の違いを、即興演奏によってアンサンブルさせる試みにもなっていたのではないかと思われる。ここでのフーケのトランペット演奏は、細田との共演においては音響的なアプローチをみせ、またヒグチとの共演では声の性格を前面に出すというように、まことに臨機応変だった。もちろんこれらをもはや「実験的」と呼ぶことはできず、即興演奏の現状を見渡してみれば、いまではむしろミュージシャンたちの共通感覚に属するものとなっている。

 エレキギターを弾いた細田茂美は、セットによって楽器を抱えたり、膝のうえに寝かせたりしながら演奏した。弦の間に割り箸をはさんだり、ペグをゆるめて弦の張りをゆるめたり、アンプの音量をゼロにしたりするなど、楽曲を演奏するときには不必要な操作を加えながら、ギターから断片的なサウンドを生み出し、それをノイズ的にあつかって演奏を構成していった。ギター演奏を捨てて、まるまるノイズ演奏に移行してしまうのではなく、ギター音とノイズ音の間を行き来するのは、おそらくギタリストで居つづけながら、同時に楽器の外側に出るという両面作戦によって、ありえざる楽器の「境界線」や「辺境地帯」を歩いてみせるということではないかと思われる。伝統楽器の異化というような出来事は、いまではもはや起こらない。そのノイズは、デレク・ベイリーが命名した「ノン・イディオマチック」な演奏を構成するサウンドとして響いていたように思う。もちろん彼の演奏に表現されるべき内容といったものはない。ギター演奏は、それ自体が固有の身ぶりを持ったアクションとしておこなわれている。細田の即興演奏は、楽器の制度性に対するディコンストラクティヴな身ぶり、楽器をケアするプレイヤーの立ち位置などの点で、意外にも、トイピアノをみずからの分身とするすずえりこと鈴木英倫子のそれを思わせた。

 古い音楽仲間でありながら、このところ共演する機会のなかった森重靖宗とヒグチケイコが、初のアルバム制作を実現し、第二部の冒頭で久しぶりにステージをともにしたことには、季節のめぐりが実らせた果実といった必然性があるように思う。ヒグチはマイクを使用せず、椅子に座ってパフォーマンスをスタートした。個性的なスタイルを持った感情表現をおたがいに交換しあいながら、最初にヒグチが語り、次に森重が語るといったシンプルな構成は、このデュオならではのものだろう。その他にも、フーケとのテュオで共演者に軽く耳打ちしたヒグチは、椅子を動かしながら観客席の中央を広く開け、演奏開始とともに共演者と相対した会場の後方に陣取って、遠くから生の声をぶつけた。さらに、このデュオに細田を加えた最後のトリオ演奏では、マイクを使って声をざわざわとしたものに変調させながら演奏するなど、セットごとにドラスティックな変化をつけながら、終始アグレッシヴな攻めの姿勢を崩さなかった。みずからの感覚に深く沈潜していく森重の安定性とは対照的に、とんでもない行動によって人を驚かせながら、結びつかないものを結びつけていくヒグチの身体性が、実はふたりの絶妙のコンビネーションを生んでいるということが、少しずつ見えてきたように思う。

 固有の即興ヴィジョンを持った男たちがならび立つ林のなかを、その静かなる安定性をかき乱すようにしながら、ヒグチケイコの声が足早に駆け回っていたような即興セッションだったのだが、そうしたなか、主賓となったジェローム・フーケは、これまでにも日本でさまざまなセッションを経験してきたのだろう、強引さの微塵もない演奏で、音響的なサウンド断片や、ジャズ的なフレーズを、ときどきの流れにしたがって淡々とくり出していた。フーケの状況判断は的確で、そのときどきのアンサンブルに金管楽器特有の華やかさとカラフルさをつけ加えながら、彼自身はけっして出しゃばることなく、音楽をよりふくよかなものにするために貢献するといった具合であった。目をつむったまま、飴色のボディを持ったトランペットをまっすぐにかまえて吹く。サウンドは微妙に変化していくが、彼の姿勢が崩されることはない。ときおり種類の違うプランジャーをベルにつけて音量を変化させる。不動のその姿勢は、すべてを耳に集中させ、周囲に起こる出来事を全身で聴いているからに他ならない。長い間、自己表現や自己表出が優先されてきた即興演奏の世界において、こうした態度はおそらくいまなお珍しいものであり、度重なる来日で獲得した日本の友人たちの存在もさることながら、こうしたフーケの演奏家としての資質が、日本という土地を彼の重要なツアー先に選ばせているのかもしれない。



   【関連記事|ジェローム・フーケ】
    「ジェローム・フーケ+松本健一@吉祥寺ズミ」(2012-04-21)

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2013年4月9日火曜日

すずえり: ピアノでピアノを弾く




すずえり: ピアノでピアノを弾く
suzueri: recursion piano
期日: 2013年4月8日(月)~4月29日(月)
時間:[月火]open: 3:00p.m. ~ close: 7:00p.m.
   [木金土]open: 3:00p.m. ~ close: 8:00p.m.
(最終日 close: 5:00p.m.)
会場: 東京/渋谷「20202」(休廊日: 日・水)
(渋谷区富ヶ谷1-14-20 森林ハイツ202)
入場: ドリンクオーダー(300円~)
問合せ: TEL.03-3465-5065(20202)

【ひきつぎコンサート
日時: 2013年4月29日(月・祝日)
開演: 7:00p.m.
料金: ¥1,000
出演: すずえり、舩橋 陽



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 48日(月)から29日(月)までの期間、渋谷区富ヶ谷にある森林ハイツの一室を利用したアートスペース「20202」(ツーオーツーオーツー)で、すずえりこと鈴木英倫子のトイピアノ・インスタレーション「ピアノでピアノを弾く」が開催されている。パフォーマンス、あるいはイベントというと、そこで起こる出来事そのものは特定のジャンルを持たないにしても、歴史的な文脈では、美術の領域にあるものと想定されることになるのだろうが、すずえりがトイピアノを使っておこなうそれは、高橋悠治が演奏する作曲家のありようを、かつて「コンポーザー=パフォーマー」と呼んだのとも違って、行為する美術というより、やはり音楽に対して脱構築的なものとしてあるように思われる。ピアノ、あるいはトイピアノという、音楽的な時間を生み出す装置として考えられている楽器の形象を、そこで出される音の内容から、また形式から切り離し(すなわち、演奏が生み出す音楽という出来事そのものから切り離し)、さらにはピアノの鍵盤と人の手との関連性を切断するような装置を、現場で、ローテクで構築することによって、いわば「楽器」を迂回するためのインスタレーションとなっている。ピアノの形象は、見たことのないからくり仕掛けによって、空間的に配分されるなにものかに変容している。

 すずえりが演奏をおこなわない「ピアノでピアノを弾く」は、いつものからくり仕掛けを用いて複数のトイピアノを連結し、一部屋のあちらこちらに配置するインスタレーションによって、こうしたトイピアノに自己言及性を持たせたものである。オートマトン化するトイピアノ。部屋の中央に置かれた大きな黒いトイピアノは、部屋の奥の机の下に置かれた茶色のピアノに接続され、そこからパソコンを介して机のうえに乗ったシェーンハットの黒いピアノを鳴らすと、コイルに吊りさげられたミニチュアピアノを動かしながら、次に押し入れを思わせるコーナー前の床面に置かれた平べったいピアノを鳴らす。電飾がすだれのようにかけられたコーナーは、まさに神棚のあつかいで、そのなかに置かれた二台のピアノも、紅白のめでたさをアンサンブルしている。白いピアノ、赤いピアノを巡回する動きは、この部屋の長押にくくりつけられた回転筒に連結され、ピアノの形をした小さな二台の鉛筆削りを上下させるようになっている。上下する鉛筆削りのピアノは、部屋のすぐ外で台に乗せられた真赤なピアノの鍵盤のうえに落ちて音を鳴らす。ここが終着点となる。一定の時間をおいて中央の大きなトイピアノが鳴らされると、動きがこの回路を一巡する。作品に手を触れてはならないが、部屋には自由に立ち入りができるので、観客はインスタレーションの内部からも一連の出来事を見ることができる。

 連結された動きは、ピアノ前に置かれたロッドの木の手が鍵盤を鳴らす音で聴覚的に確認できるが、それだけでなく、動きが起こっている場所でさまざまなタイプの電球を点灯させ、ミニチュアピアノを動かすことで、視覚的にも感覚できるようにしている。そうした仕掛けのすべてがかわいいのも、ひとつひとつのトイピアノの存在感につながっているようだ。からくり仕掛けは、ローテクな造作で壊れやすく、フラジャイルな危うさを保っている。いつも正確に作動するとはかぎらない。作家として立ちあってはいても、パフォーマンスするすずえりがいないこと、またトイピアノを連結するからくり仕掛けが、チャカチャカと機械的に作動するものではなく、そっと指でつかむようにやわらかなものであること、ときには動かなくなって周囲のものに世話をやかせること、こうした色々なことが、「ピアノでピアノを弾く」を、外から見たインスタレーションとして(だけ)ではなく、出来事を内側から体験するための装置にしている。音楽的な時間を迂回していく装置が、うまく働かないこと、まるでぐずる子どものように要領を得ないことから生まれる周囲のコミュニケーションが、作品そのものの一部になっているといえるのではないだろうか。

 アートスペース「20202」でとびきりの隠れ家的時間を過ごさせてくれるすずえりのトイピアノ・インスタレーション、最終日となる29日(月)には、次回の展示をする舩橋陽とのひきつぎコンサートが予定されている。



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(ツーオーツーオーツー)

 


2013年4月8日月曜日

長沢 哲+木村 由: 風の行方 砂の囁き



長沢 哲木村 由
風の行方  砂の囁き
日時: 2013年4月7日(日)
会場: 東京/八丁堀「七針」
(東京都中央区新川2-7-1 オリエンタルビル地階)
開場: 7:00p.m.、開演: 7:30p.m.
料金: ¥2,000
出演: 木村 由(dance) 長沢 哲(drums, percussion)
予約・問合せ: TEL.070-5082-7581(七針)



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 ドラムス/パーカッションの長沢哲とダンサーの木村由、昨年の11月中旬、長沢が江古田フライング・ティーポットで主催する「Fragments」シリーズに、木村を迎えておこなった初セッションは、会場に持ちこんだ投光器を床に転がすライティングが絶大な効果をあげ、洞窟へと一変したライヴハウスの壁にダンサーの影が踊るという、私たちの記憶の古層に訴えかけるイマジナリーなパフォーマンスとなった。ライトを持ちこんだからといって、また地階だからといって、その場所がかならずしも洞窟化するとはかぎらないので、これは木村のダンス、長沢の打楽のたまものといえるだろう。なかんずく長沢のドラミングは、ミニマルな時間的展開をするとともに、サウンドの奥行きを描き出すことにもたけている。亡霊的でもあれば、ときに機械じかけの人形やロボットを思わせもする木村のダンスは、シームレスで、緩慢な動きをベースに構成されているが、この晩は、まるで木の仏像に魂が宿って動き回るかのように、なにものかに触発され、動いてはならないものが動いてしまうような幻惑的な身ぶりを、次から次へと連ねていた。どうやら長沢打楽が持っている世界の奥行き(あるいは空間性)が、ダンス・インプロヴィゼーションを展開する木村の身体を触発する舞台となっているようである。

 換言すれば、身ぶりの出現を支える身体があり、そうした身体が立ちあらわれるための(ライトで視覚構成される)リアルな場があり、同時に、(サウンドで聴覚構成される)イマジナリーな奥行き──あるいは、墨絵の空間性とでもいったもの──がある。これらの重なりこそが、ライヴで観客が体験するもののように思われる。デュオの間で展開されるこうしたイメージ力学を、初回公演のレポートでは、「(デュオは)ともに静寂を、あるいは沈黙を、表現の糧にする部分が重なるともいえるだろうが、静寂どうしの、あるいは沈黙どうしの接近は、ふたつの闇が重ねあわさるようにアンサンブルするという以上に、闇がもつ固有の色彩の相違を際立たせる」と書いた。似た者どうしの接近による差異の浮上というわけである。七針での再会セッション「風の行方 砂の囁き」では、初回のソロ/ソロ/デュオという三部構成が、デュオ/デュオの二部構成になったため、床のうえに置かれるライトも、前後半で明暗の対称性を際立たせるように工夫された。完全生音の公演だったため、使用しない下手側のスピーカーをどけてステージを拡大し、打楽器はコーナーにできるだけ寄せてセッティングされた。ふたつのライトは、でこぼこした壁の表面を浮き立たせながら、壁面に沿って光を走らせるのだが、位置関係から、「明」を際立たせた前半では演奏者を正面から、「暗」を際立たせた後半では演奏者を側面から、それぞれ射ることになった。

 床に置かれるライトがふたつになったのは、ダンスする場の構造を変えるためではなく、前後半のセットに変化を持たせるためだったので、前述したデュオのイメージ力学には、まったく影響を与えなかった。再会セッションにおいては、むしろそうした安定的な関係を前提に、前回を大きくうわまわるような、瞬発力のある、起伏の多い、ダイナミックなパフォーマンスが展開された。公演の最後まで、緊迫感にあふれた即興演奏が持続したのは、初回公演で、ダンスの書き割りとなるような音風景をドラムで描き出していた長沢が、彼ならではの奥行きのある世界を作り出しながらも、ダンサーの身ぶりに合わせて伴奏するというのではなく、即興性の高い肉声のサウンドを、木村の身体にぶつけるように演奏したことにあるだろう。それはリズム的な交感というより、むしろ身体的な交感と呼ぶべきものになっていたと思う。即興演奏とダンスが共演する場合、即興する身体が音楽に踊らされないよう、ステージ上に独自の空間構成をおこなうことで、二重焦点の舞台を構成することが多い。即興演奏との間にずれや距離を作り出すテクニックは、木村もお手のものである。しかしこの日は、共演者と身体的な交感をおこなっているだけで、またたく間に時間が経過していった。

 ステージが広がれば、ダンスする身体に大きな自由が与えられる。その結果、みずからの身体に対するダンサーのイメージも、大きなヴァリエーションを獲得することになる。たとえば、床のうえに腰をおろしたり横たわったりするだけだったものが、安心して転がれたり、這いまわれたりすれば、そこから別のイメージ展開がはじまる。おそらくはこの要素も、この晩のパフォーマンスにダイナミズムを与えたもののひとつだろう。木村のダンスには、突然に倒れるという場面がよく出てくる。いつもは地球の引力にまかせて、といった感じなのだが、この晩は、床のうえにダイビングするようにして決然とおこなわれた。あふれるように湧き出てくる動きの数々。長沢のドラムと、上手に置かれたアップライト・ピアノとの間に通路のようなものができていて、その奥には客席からもっとも遠い壁がある。下手側の壁とならんで、ステージ奥のこの壁も、木村には重要なダンス環境だ。闇のなかの静止した立ち姿からスタートした後半のセットでは、奥の壁前のライトを背にして影になった彼女が、激しいダンスをくりひろげたのが印象的だった。さらに終演直前、打楽器前の暗がりに横たわった身体が、ゆっくりと楽器前を這っていく場面は、ひとつの終わりを終わることへの執着をみせて、ことさらに迫るものがあった。おそらくはこの這う女こそが、この晩の演奏を雄弁に物語っていたのではあるまいか。






  【関連記事|長沢 哲+木村 由】
   「長沢 哲: Fragments vol.14 with 木村 由」(2012-12-01)

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