2013年4月21日日曜日

ジェローム・フーケ+松本健一@吉祥寺ズミ



ジェローム・フーケ松本健一
Jérôme Fouquet & Ken-ichi Matsumoto
日時: 2013年4月20日(土)
会場: 吉祥寺「サウンド・カフェ・ズミ」
(東京都武蔵野市御殿山 1-2-3 キヨノビル7F)
開場: 6:30p.m.、開演: 7:00p.m.~
料金: ¥2,800(飲物付)
出演: ジェローム・フーケ(trumpet) 松本健一(sax, 尺八)
岩見継吾(contrabass)
問合せ: TEL.0422-72-7822(サウンド・カフェ・ズミ)



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 412日(金)から54日(土)にかけて、東京、横浜、大阪、京都各地のライヴハウスをめぐり、ほぼ毎日演奏するという過密なスケジュールを組んだトランペット奏者ジェローム・フーケだが、そのなかで、吉祥寺ズミでは、サックス/尺八の松本健一とのデュオ・セッションがおこなわれた。第二部では、数日前、八丁堀の「七針」で共演したコントラバスの岩見継吾がかけつけ、飛び入りでトリオ演奏を聴かせた。パリ在住のフーケは過去に何度も来日しているので、ジャンニ・ジェッビアやユーグ・ヴァンサンとならび、日本のライヴシーンではすでにおなじみの顔となっている。海外の演奏家といっても、今日では、見知らぬ場所から異文化を運んでくる異形の人といったニュアンスはなく、彼らの演奏からは、ヨーロッパの即興界も、日本とおなじような状況にあるらしいことが漠然と伝わってくる。「即興演奏のパラダイムシフト」として喧伝された音響的試行が、ブーム的な盛りあがりをみせた一時期を経過してから、この傾向はますます加速したように思われる。「世界」というのが大袈裟ならば、少なくとも、伝統的に即興演奏が聴かれてきたような地域においては、音楽の均質化がかなりの程度進行したということだろう。

 こうした文化状況にもかかわらず、音楽的な出来事が、なおも出来事であるためには、やはり外部からやってくる圧倒的なものが必要であることに変わりはない。ここに即興演奏のような、これまで逸脱的、越境的な身ぶりに価値を見いだしてきた音楽を聴こうとするときの困難がある。たとえば、千野秀一や藤井郷子/田村夏樹といったミュージシャンがベルリンに移住するのは、演奏活動に便利だからという以上のなにものでもない。そこに出来事はないといえるだろう。一般的には、グローバリゼーションの時代に、もうそうした世界の余白はないといわれている。あるのは「内破」といわれるようなもの、すなわち、「パラダイム」となる大枠を動かさずにおこなわれるあれこれのマイナーチェンジが、私たちに残されたすべてというわけである。たしかに音のあらわれが洗練度と複雑さを増していくなか、音楽はひたすら(内側に)拡散的な動きをくりかえすばかりで、八幡の薮知らず状態のなか、すでに出発点も到達点も見失われているように思われる。私たちが自分の周囲に視線を落として「生活」と呼んでいるようなものは、もしかしたら、こうした状況そのもののことかもしれない。その危険性はけっして小さくない。こうした音楽環境のなかで、演奏家たちは、いまも自分に可能な選択をしていくことになるだろう。

 フーケと松本のデュオ演奏もそのようなものとしてあった。音響派ブームの時代、それとは距離を置きながらも、いまからみれば同時代的試行というしかないようなありようで、南仏に住むミッシェル・ドネダなどが、サックスの領域において気息の演奏を切り開いた。この奏法が、ふたりの演奏においても換骨奪胎され、語法のひとつとして取り入れられることで、伝統的なフレーズによる即興演奏が、より微分的な響きを交換する演奏へと変容している。このデュオの場合、サウンド・インプロヴィゼーションというより、ジャズなどによって培われたフレーズの、さらなる細分化を中心にした即興というべきだろうが、いずれにしても演奏内容はより細かなものとなっており、そこに伝統的な即興語法の組み替え(内破)が起こっていることが想像される。感情の解放や爆発は抑制され、一貫して静かな演奏ならびにアンサンブルが展開していく。クライマックスに向かって盛りあがっていく物語構造をもたない演奏は、ひとつひとつの音の肌理を際立たせながら進行していくものであるため、演奏の持続には、プレイヤーも聴き手も、かなりの精神的な集中が求められる。この意味では、第二部で飛び入りした岩見継吾とのトリオ演奏は、ジャズ演奏に傾くことで、こうしたデュオの緊張感をいっきに解放するようなものとなった。前後半を通してみれば、デュオのありようを崩すことなく、集中から解放へと、大きな流れが形作られたと思う。

 デュオ演奏でとくに興味深かったのは、松本がテナーサックスを吹いた前半のセットが、かなりの精神集中を求められるものだったのと対照的に、尺八を吹いた後半冒頭の演奏が、なぜかリラックスした自然さのなかで聴けたことだった。前半と音楽の内容が変わっていたわけではない。楽器が違うだけである。私が日本人だからということも理由にはなりそうにない。というのも、私の人生では、尺八などよりはるかにサックス演奏を聴く機会のほうが多かったからだ。この違いはおそらく、松本が尺八の特殊奏法をいろいろと工夫していくなかで、サックスでそれをするときのようには自由に音がつなげられず、どうしても演奏と演奏の間に隙間ができてしまうことが、聴き手の耳には、逆に、一定の自由度を与えることになったと思われる。フーケがトランペットで尺八のような音色と息のタイミングを出そうとした方向性(かつてネッド・ローゼンバーグが体系的にこのやり方をとっていた)より、松本が意識しているかどうかはわからないものの、まさにドネダ的な気息の演奏を、尺八の吹奏という一種のずらしを加えながら、独自のカラフルなサウンドをもって拡大していく結果になっているのではないだろうか。デュオの語らいのなかで、ふたりはすぐれて現代的な即興演奏を展開したといえるだろう。





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