2013年4月14日日曜日

生西康典: おかえりなさい、うた



『おかえりなさい、うた』
Dusty Voices, Sounds of Stars
【音の映画 5.1ch Ver.】
(2010年)
アンコール上映|日時: 2013年4月13日(土)
開場/開演:(1)薄明かり 17:20/17:30
(2)完全暗転 19:20/19:30
(3)完全暗転 21:20/21:30
料金/一般: ¥1,500、学生: ¥1,300
シニア: ¥1,000、UPLINK会員: ¥1,000
会場: 渋谷アップリンク「ROOM 2F」
(東京都渋谷区宇田川町37-18 トツネビル1F)
構成/演出: 生西康典
録音/編集: AO
出演(歌/声):さや(テニスコーツ)、山本精一、飴屋法水、
大谷能生、相馬千秋、山川冬樹、吉田アミ、さとみ(ディアフーフ)
島田桃子、飯田芳、かわなかのぶひろ、グジェ・クルク
アリバート・アルガヤ、阿尾靖子、山元汰央
ほか
演奏: 植野隆司(テニスコーツ)
今井和雄、勝井祐二、坂本弘道、L?K?O
ジングル: ククナッケ
演出助手: 池田野歩



♬♬♬




 2010年開催の「第2回恵比寿映像祭」に参加、東京都写真美術館で上映された音の映画『おかえりなさい、うた』の再上映を中心に、2008年から2011年にかけ、美術家・生西康典が演出したダンスや演劇をフィルム構成した記録映画の特集が、渋谷アップリンク・ファクトリーで開催された。上映作品のうち、音の映画『おかえりなさい、うた』は、薄暗闇と完全暗転で構成される、映像のない、音だけの「映像作品」ということであったが、それよりもむしろ、音楽の領域で、しばしば「耳で聴く映画」といわれるようなサウンドアートとして制作されたものと受けとめられた。すなわち、たくさんの人の声、うた、朗読、楽器演奏、ノイズ、環境音など、作品を構成する響きは、それを聴く人の心のなかに映像的なるものを喚起するような性格のものではなく、美術的なコラージュ作品のように、音響断片の時間的モンタージュを聴かせようとするものだった。そのなかにあって、ふたりの女性が、おたがいを呼びかわす声を反響させながら、河原を思わせるだだっ広い場所に出ていく音風景が、休憩時間に流されたのだが、おそらくその場面がもっとも映像的だったのではないかと思う。その意味でいうなら、映像は、むしろ作品から排除されていた。

 テーマである「おかえりなさい、うた」は、歌の復権ということを意味しているのだろうか? 作品のなかで、在日異邦人と呼べるような人々に、思い出の歌を歌ってもらうシークエンスが登場する。そこでは、誰もがメロディーはたどれても、歌詞を正確には覚えておらず、ハミングをまじえながら、いわば声の身体性をもって歌(言葉)を異化していた。いうまでもなく、歌はすぐれて身体的な現象である。それが「身体的」であるのは、歌がその人ならではの声によって肉づけされてしか存在しないというだけでなく、ある原風景、音風景のなかにあることで存在をはじめるからだろう。その意味で、休憩時間を休憩時間たらしめた、ふたりの女性の声は、まさに声と歌の往還関係をシンプルな形で描き出していたといえる。20世紀におけるコラージュ美学のありようは、経験(身体)を断片化するメディアの発展とともに、近代的な視覚システムの破壊と再構成を企てるものであった。「おかえりなさい、うた」は、もしこうした私たちの経験の歴史に接続されるならば、なにがしかの身体の(再)獲得と不即不離に存在するものだろう。にもかかわらず、作品「おかえりなさい、うた」は、歌に呼びかけながら、響きを断片化するマイクロフォンの存在とともに、音風景の形で出現する身体のありようを、すなわち、映像的なるものを排除してしまう。

 ベルリンの壁が崩壊し、ドイツ再統一によって「東独」が消滅しようとしていたころ、劇作家ハイナー・ミュラーの作品が西側に紹介されるとともに、彼のヴィジョンを音楽的な作品にもたらすべく、ハイナー・ゲッベルスが音響モンタージュによって数々のラジオドラマを制作したということがあった。「落魄の岸辺」といった作品には、私たちが「ラジオドラマ」という言葉から連想するような通俗臭など皆無で、筋をたどることなどできない断片的な音響群から、壊滅的な世界像が立ちあらわれるようなものだった。いまにして思えば、ゲッベルスの音響作品において問われていたのは、激変する時代によってもたらされた崩壊感覚を、身体の機械的再編成によってつなぎとめる試みではなかったかと思われる。彼のラジオドラマにも、街ゆく人々にミュラーのテクストを読んでもらう声のシークエンスが登場する。そこでも声による言葉の身体化がおこなわれていた。たとえそこに出現するのがディストピアであったとしても、ある風景の獲得によって全体性を指向せずには現在が保てないというぎりぎりの選択があったと思われるが、対する「おかえりなさい、うた」は、同様に、断片的なるものの再構成をもって作品としていながら、なおも古い物語を語る段階にとどまっているように感じられた。あるいは、3.11以前の作品ということを割り引いたとしても、すでに存在しない物語を信じ(たふりをし)ているように感じられた。現代において歌を歓待しようとするのであれば、彼らが憩うことのできるひとつの身体を、新たに立ちあげなくてはならないのではないだろうか。

-------------------------------------------------------------------------------