2013年7月28日日曜日

長沢 哲+木村 由+須郷史人@岩本町ギャラリーサージ



長沢 哲木村 由須郷史人
2 drums and a dance
日時: 2013年7月27日(土)
会場: 東京/岩本町「ギャラリーサージ」
(東京都千代田区岩本町2-7-13 渡辺ビル1F)
開場: 5:30p.m.、開演: 6:00p.m.
料金: ¥2,000(終演後に同会場にて参加自由の交流会)
出演: 長沢 哲(drums) 須郷史人(drums)
木村 由(dance)
予約・問合せ: TEL.03-3303-7256(蟲/太田)



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 神田岩本町にあるオフィス街の一角に居を構えるギャラリーサージは、路地裏に面した壁の全面がガラス張りになった20畳ほどのスペースである。一般の音楽ファンには馴染みの薄い場所だろうが、ダンサーの木村由にとって、2011年の春、tamatoy project(秦真紀子、吉本裕美子)が企画したイヴェント「Irreversible Chance Meeting」でチェロの入間川正美と出会い、即興演奏家との共演に深く入りこむきっかけとなった連続公演「不機嫌な二人」をおこなった因縁の場所である。都会のオフィス街の一角、人通りや自動車の往来もある路地裏と地続きになっているので、公演中には、ガラス越しに見え聴こえするパフォーマンスに通行人が人だかりをつくる。この開放的な空間で、シリーズ公演「Fragments」でドラム競演(421日)した長沢哲と須郷史人が、ダンスの木村由とあいまみえるトリオ・セッションがおこなわれた。木村由の公演歴に即してみると、トリオの即興セッションは、本田ヨシ子/イツロウのコンビと共演する「絶光 OTEMOYAN」シリーズや、阿佐ヶ谷イエロービジョンで「音舞奏踊地点」(28日)を開催したおり、照内央晴+石原謙+木村由、本田ヨシ子+長沢哲+木村由という2組のセットで演奏したのにつづき、これが5本目ということになる。

 本田ヨシ子/イツロウのコンビによる安定感のある演奏のなかに、しずしずと足を踏み入れていく「絶光 OTEMOYAN」、イエロービジョンのステージが狭いため、ダンスのための動線が確保できないなかでおこなわれた「音舞奏踊地点」と、それぞれの条件を引き受けながらおこなわれた公演に対し、演奏者の影を壁に投影するという、木村ならではの照明プランを全面的に採用したギャラリーサージ公演は、<デュオ+デュオ+デュオ>という明快な論理構造を持っていた。ギャラリーの出入口となるガラス扉前から引かれた対角線をダンスの動線とし、この対角線の両面をなす壁前にふたりのドラマーを配し、下手の長沢哲には下手側の足もとから、上手の須郷史人には上手側の足もとからライトをあて、長くのびた影を壁に投影しながら中央部分でクロスさせる。もう一本、対角線上を動くダンサーを正面から照らし出すライトが、やや下向きかげんで床置きされ、ダンスの開始点(対角線奥のコーナー)と終着点(対角線上にあるライト前)を光の波動で連結する。さらに、それぞれの光は乱反射して、中央で重なりあう複数の影とは別に、濃く薄く、別々の方角からかたどられた演奏家やダンサーの三種類の影を壁面に投影して錯綜した文様を描き出す。こうした影のダンスを、デュオ構造をはみだすものの暗示と受けとってもいいだろう。

 逆にいえば、「2 drums and a dance」というタイトルがそれとなく告げるように、本公演におけるトリオ演奏は、余白の部分(タイトルでは「and」の部分)におかれたといえる。「影」や「余白」という言葉であらわされる空間感覚は、木村の表現の重要な質感をなしており、とりあえずダンスの専有事項と思われるものであるが、そればかりでなく、このトリオ演奏のありようそのものをも大きく規定することになったと思う。たとえば、ここでフリー・インプロヴィゼーションの<ソロ+ソロ+ソロ>形式を採用することも可能だったろう。もしそうしたならば、演奏内容はまったく違ったものになったはずだが、それはそうならなかった。個々のパフォーマンスを越えたところにあるもの、複数のデュオ演奏が重なり、ずれをみせるときに垣間見える境界的な場所からやってくる気配のようなものに、パフォーマンスが収斂していく。これが木村の世界を「亡霊的」と呼ぶ理由である。<即興演奏+即興ダンス>という明快なテーマは、デュオからトリオになることで一挙に複雑化するが、「2 drums and a dance」公演では、この木村美学が複雑さの度合いをさらに増していたように思われる。

 墨絵の世界をサウンドの濃淡で描きだす長沢哲のドラミングは、木村の亡霊感覚にこたえる奥行きそのものとして出現するが、須郷史人のドラミングは、人を踊らせるためのリズムと即物的な音色から構成されるもので、ある平面をどこまでも滑走していくように演奏される。伸縮自在の気配のような長沢のドラミングに対して、須郷の演奏を、ドラムマシーンの自動車に乗って移動していくようなものといったらいいだろうか。もっとわかりやすくいうなら、須郷の即興演奏は、オーソドックスなドラム演奏の感覚を保ったままでおこなわれる。質の違うふたりのドラマーに挟撃され、対角線のラインを前後しながらダンスを展開していく木村由は、ゆっくりとした細かな動きの積み重ねと、ダイナミックに素早く動くシークエンスを交互にくり出しながら、ふたりのドラマーによってつくられるサウンドの谷間を綱渡りしていく感じでパフォーマンスしていた。ふたつのデュオの間を架橋しようとしたのは、メンバーのふたりとそれぞれに共演経験があり、セッションのなかで奥行きのある演奏とない演奏を自在に往還することのできた長沢だったのではないだろうか。こうしたなりゆきは、須郷と木村が、デュオ演奏によっておたがいのありようを詰めていない段階で共演したことからくる必然的な結果だったように思う。





 【関連記事|絶光 OTEMOYAN|音舞奏踊地点】
  「絶光 OTEMOYAN」(2013-01-19)
  「音舞奏踊地点@阿佐ヶ谷イエロービジョン」(2013-02-09)

 【公演動画】
  「2 drums and a dance / Tetsu Nagasawa + Yu Kimura + Fumito Sugo

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2013年7月25日木曜日

池上秀夫+木村 由@喫茶茶会記9



おどるからだ かなでるからだ
池上秀夫デュオ・シリーズ vol.9 with 木村 由
日時: 2013年7月22日(月)
会場: 東京/新宿「喫茶茶会記」
(東京都新宿区大京町2-4 1F)
開場: 7:30p.m.、開演: 8:00p.m.
料金/前売: ¥2,300、当日: ¥2,500(飲物付)
出演: 木村 由(dance) 池上秀夫(contrabass)
予約・問合せ: TEL.03-3351-7904(喫茶茶会記)



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 木村由がゲストダンサーに迎えられた第二期「おどるからだ かなでるからだ」の最終公演は、例によって、木村が床置きの照明を持ちこみ、これまで縦に使ってきた喫茶茶会記の空間を横に使う構成をとりつつ、シリーズの主宰者であるコントラバスの池上秀夫の立ち位置を(少なくとも公演の冒頭では)会場の中央にすることで、多彩なダンスが見られた本シリーズなかでも、とりわけて異色のパフォーマンスとなった。同様の空間構成は、木村がピアニスト照内央晴としている「照リ極マレバ木ヨリコボルル」シリーズの第二回でも試みられたものだが、会場となった荻窪クレモニアホールよりも喫茶茶会記が格段に狭いところから、こちらはまったく別の環境のなかでのセッションとなった。それでも、一列に並べられた観客席は、「椅子どうしが密集していないところから、ステージと観客席の間に見えない壁を作ってしまう劇場の空間構成を脱して、見るものと見られるものがひとつの場を共有するなかの緊張感を生」んだことに変わりはない。それはパフォーマンス空間のなかに観客席が配分されることを意味しており、これから起こる出来事との間にじゅうぶんな距離を確保できない不安定性のなかで、観客が持ちこむ日常的な視線を戸惑わせる効果を生んだように思う。

 喫茶茶会記を狭いと感じさせた要因は、横にスペースを広くとる使い方をしたからという他に、質実剛健で、ダイナミックな即興演奏を展開する池上の音楽のサイズと、精度の高い、ミニマルな動きの集積を特徴とする木村のダンスの相違によってももたらされたように思う。コントラバスの即興演奏と拮抗する強度のあるダンスをしようとすれば、パフォーマンスに最低限求められるダイナミックさが必要となり、身体がそうしたダイナミックさを帯びるには、身ぶりの大きさを容れるようなスペースの広さが必要であるにもかかわらず、喫茶茶会記がコンパクトな空間だったため、ふたりの共演は、狭い空間で長い刀をふりまわしながら斬りあうような、アクロバティックな性格を持つことになったと思われる。それは椅子とともに前転するというようなダンス構成にもあらわれた。その意味で、空間の狭さは、単なる印象の問題ではなく、パフォーマンスの質感を決定づけるものとしてあったといえるだろう。中央に立つコントラバス奏者の周囲をまわりながらダンスした冒頭から、池上が共演者の動きを見て立ち位置を移動したとき、KAN-ICHIや木野彩子との共演で彼がそうしたときとは違い、空間全体がダイナミックに性格を変えるという出来事が起こったのだが、これもまた、この日ふたりが形作った絶対的距離のなせるわざと思われる。

 音楽の即興セッションには、演奏のなかであらわになる共演者の異質性を最大限に尊重するという暗黙の約束事があり、その結果、そのときのセッションがすれ違いに終わったり、挨拶程度のものにとどまったり、永遠に喧嘩別れする結果になったとしても、演奏家も聴き手も、それらを甘んじて受け入れるという倫理観を育てている。これには「ローマは一日にして成らず」という意味合いも含まれているだろう。いまはこうでも未来はどうなるかわからない。それはなんでもありということとはまったく別のことなのだが、人によって惰性に流れることもあれば、寛容の精神を育てることにもつながる。すべては個人の引き受け方次第であり、出来事の評価は、おそらくそこまでを含んで初めて可能になる。ホストの池上とゲストの木村の間には、共演者の異質性への対しかたにスタイルの違いがあった。それを一言でいうならば、異質なものの間を架橋しようとする池上の即興演奏と、異質なものどうしをぶつけようとする木村ということになるだろうか。むしろそのことをじゅうぶんに承知のうえでなされたセッションだったことで、ふたりの共演は、深い部分での緊張感をはらむものとなった。それは相手の懐に飛びこもうと抜き身を構える剣豪勝負であり、持続と切断をめぐる真摯な身体的対話としておこなわれた。

 細かい動きからなるシークエンスを断ち切り、突然、縦格子のはまった壁前までスタスタと歩いていったり、椅子を持ち出したり、椅子を持ち歩いたりというように、脈絡のない動きをつなげてパフォーマンスに切断を持ちこもうとする木村と、ときどき休止を入れながらも、全体をひとつの時間のなかで起こる出来事の連鎖とみなしてシークエンスをつなげていく池上の即興演奏は、すぐれて対照的なものだった。床置きのライトによってできるふたつの影が、ふたりの立ち位置によって大きくなり小さくなりして、最大限の効果を発揮した。共演者に影をかぶせ、共演者の影に隠れという、通常の音楽セッションには見られない影の使用法が、会場の狭さをおぎなうにじゅうぶんな演出効果を生んだからである。セッションの最終局面で、楽屋扉の前に移動していた池上には「背後」が生まれていた。そこまで共演者に相対することはあっても触れることのなかった木村が、池上の背後にできたこの領域に静かにたたずみ、背中の側から、池上本人の身体にではなく、コントラバスのボディにゆっくりと顔を寄せる節度をもって、「触れる」ことをイメージさせたのは印象的だった。「おどるからだ」シリーズにおいて、喫茶茶会記をよく知っている踊り手が、パフォーマンス空間の構造そのものにコミットしたのは初めてのことである。




  【関連記事|おどるからだ かなでるからだ】
   「池上秀夫+長岡ゆり@喫茶茶会記1」(2012-12-17)
   「池上秀夫+上村なおか@喫茶茶会記2」(2012-12-18)
   「池上秀夫+喜多尾浩代@喫茶茶会記4」(2013-02-19)
   「池上秀夫+木野彩子@喫茶茶会記7」(2013-05-21)
   「池上秀夫+笠井晴子@喫茶茶会記8」(2013-06-18)


  【公演動画】
   「Hideo Ikegami + Yu Kimura DUO at SAKAIKI

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2013年7月24日水曜日

小林嵯峨: 短夜──非在のものが顕われる/そして再びベルメール



小林嵯峨 ソロ舞踏公演
短夜 みじかよ
•••非在のものが顕われる/そして再びベルメール•••
日時: 2013年7月19日(金)~7月21日(日)
開場: 7:00p.m.(21日: 6:30p.m.) 開演: 7:30p.m.(21日: 7:00p.m.)
開場: 1:30p.m. 開演: 2:00p.m.(マチネ公演: 21日のみ)
会場: 東京/明大前「キッド・アイラック・アート・ホール」
(東京都世田谷区松原2-43-11)
料金/予約: ¥3,000、: 当日: ¥3,500
出演: 小林嵯峨(舞踏) 河崎 純(contrabass)
音楽: 河崎 純、八木美知依
映像: 坂田洋一 衣装: 有本裕美子
照明・音響: 早川誠司
主催: NOSURI
協力・舞台監督: ホワイトダイス
問合せ: 03-3322-5564(キッドアイラック)



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 短夜:みじか-よ。短い夜。夜明けの早い夏の夜。「たんや」とも。俳句では夏の季語。すぐに明けてしまう真夏の夜の、つかのまの時間に訪れる夢魔的な光景。あとかたも残さず、たちまちのうちに消えさってしまう時空間に出現する記憶のクレバス。昨年暮の「真冬の幽霊/ベルメール炎上」に引きつづき、会場もおなじ明大前キッド・アイラック・アート・ホールで、小林嵯峨のソロ舞踏公演「短夜」が開催された。休憩なしの二部構成でおこなわれた公演は、サブタイトルに「非在のものが顕われる/そして再びベルメール」とあるように、前半では、過去時から私たちのもとに侵入してくる、闇にうごめく非在のもの(幽霊)が身体/ダンス化され、後半では、未来時から私たちの世界に降臨する、まるで宇宙スーツに身を包んだバーバレラさながらの人形的/エロス的存在が身体/ダンス化された。いくつもの異質な要素を綜合していく小林の身体/ダンスは、過去の時間と未来の時間の間を往還することで、現世的な時制を混乱させる一方、存在するものと非在のものをへだてる境界線を越境していくメディア的身体をたちあげようとしていた。さまざまなものが折り重なり、次々に映し出されていく記憶のスクリーンのような身体といったらいいだろうか。

 過去と未来を、あるいは存在と非在をともに映し出す身体のスクリーン化は、実際のパフォーマンスのなかでも、池だとか海岸だとか、小林が魅了されている水に関連した風景の映像(撮影:坂田洋一)を、公演の前半で彼女が羽織った着物や、肌脱ぎになった背中に投影する形で表明されていた。映像にまみれ、スクリーン化した身体は、あの世とこの世の間をさまよう幽霊の半透明性に通じるものであり、この作品における小林嵯峨の舞踏のありようを、わかりやすく説明するものになっていたと思う。ステージ下手には天井から大きな白い布が垂れさがり、その背後には、観客の目から隠れて一脚の椅子が置かれている。上手にはコントラバス奏者の河崎純。演奏家の前には、譜面を乗せた譜面台がおかれていたが、会場が暗いにもかかわらず、譜面を見るためのライトはなかった。前半、長い沈黙を守っていた河崎は、楽器を弾きはじめてから、猛烈な勢いで派手に譜面台を転倒させた。クレジットのあった箏奏者の八木美知依はライヴ演奏せず、エロティシズムをテーマにした後半の場面に、録音で十七絃箏の響きを提供したにとどまった。箏のサウンドに対し、コントラバスを寝かせた河崎は、タイミングをずらせたケンガリ(あるいはチンだったかも)の強打で応じていた。

 公演開始とともに、アンデス民謡がにぎやかに鳴り響くなか、ギーッときしむ音を立てて会場の扉が開き、浴衣の胸をはだけた坊主頭の男が一本のローソクを立てた燭台を夜道を照らすように片手に掲げ、額が床につくほど腰を低くかがめながら、目隠しをした和装の女の手を引いて登場してきた。会場をひとめぐりすると、坊主頭はステージの中央にローソクと女を残して去る。ローソクのそばに置かれた洗面器。目隠しをしたままの女は、洗面器を前に、行水をしているような感じでパフォーマンス。コントラバスの演奏は、時間のなかの(音楽的な)出来事ではなく、ひとつの運動をもうひとつの運動につなげていくようなもので、それ自身がダンス的な性格をもっているため、すぐそばで舞踏家がおこなっていることを、音楽演奏によって邪魔することなく、それでいて演奏家としての存在をしっかりと立てるという共演のしかたをしていた。しかしながら、河崎純にとって、こうした演奏のあり方は特別なものではないように思われる。非在のものからベルメールへと、作品の構成をたどっていく小林のダンスに対して、河崎の存在は、まるで作品にとりつけられた飾り窓のなかで、別のダンスをずっと踊っているダンサーのようであった。

 ステージ中央に座り、肌脱ぎをした女の白い背中に、黒々と崩れていく波の映像がくりかえし映し出される。海と亡霊。波頭と非在のもの。あるかなしかの身体。皮膚だけの存在というべきもの。あるいは、みずからは非在となることで、何者かをこの場所に顕現させようとする身体のありよう。これと対照的だったのが、ステージ下手の大きな布の陰で衣装交換し、パフォーマンス後半に登場した身体──すなわち、ボンデージスーツを思わせるエロチックな宇宙服に身を包み、ライトアップした照明のなかに出現した人形的/エロス的身体だった。しかしながら、前後半の対照的なステージ構成にもかかわらず、これもまた、ベルメールの人形たちのように、性的な視線によってつくりあげられたひとかたまりの曲線としてあるものではなく、そのようなイメージを作りあげる(男たちの)視線を、皮膚としての宇宙スーツにからめとりながら、その実は、抜け殻としての身体を顕現させる行為ではなかったろうか。もし舞踏的身体というものがあるとしたら、つねにこうした危機的な瞬間を生きようとするもののことなのかもしれない。さまざまなものがときどきに構成する数々のあわいをさまよう非在の顕われのようなもの。このような場所において、ひとつの身体の喪失は、すなわち舞踏の喪失に他ならない。あとに残るものはなにもない。残骸ばかり。再び危機的な瞬間を生きようとする身体が出現するまで、舞踏はどこにもない。


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2013年7月17日水曜日

【CD】杉本拓と佳村萠: Live in Saritote



杉本拓と佳村萠
Live in Saritote
(ftarri|ftarri-993)
曲目: 1. Stairs (3:11)、2. Choucho (0:54)、
3. An Angel Passes (1:49)、 4. Three Words (1:19)、
5. A Chair 3 (1:18)、6. Saritote (2:39)、
7. A Minor/Three Words (5:50)、8. Because It Breezed (0.50)、
9. A Wind (1:04)、10. Inner Muscle (0:26)、
11. A Chair 2 (1:57)、12. Stay It Fragile (0:47)、
13. Fragile It, Stay (0:56)、14. Vexations (4:58)、
15. Inner Muscle (0:42)、16. Ino-Shika-Cho (7:36)、
17. Sato-kun (1:43)、18. Vexations (1:17)、
19. Hitori de Sabishi (3:24)、20. Macaroni (0:52)、
21. Sweet Melody A (1:33)、22. Ozouni Song (0:30)
(total time: 45:37)
演奏: 杉本拓(guitar, voice) 佳村萠(voice, words)
Guests: 池田武史(percussion, voice) 江崎将史(trumpet, voice) 
竹内光輝(flute, voice)
録音: 2010年5月~2013年1月
場所: 大阪「コモンカフェ」、岡山「蟲文庫」、東京「ループライン」
「カラードジャム」「現代HIGHTS」「キッドアイラックアートホール」、
ニューヨーク「Issue Project Room」
デザイン: 杉本拓、佳村萌
発売:2013年7月



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 佳村萠の声と杉本拓のギターが、インティメートで皮膚感覚的、あるいは触覚的な音のアンサンブルを編みあげながら、対位法的にからんでいく「さりとて」の音楽。2010年から13年にかけ、彼らが各地でおこなったライヴを一枚にまとめたアルバムがリリースされた。「Live in Saritote」は「Saritote in Live」の間違いじゃないの?という、素朴な疑問をいだかせるタイトルは、 『さりとて』『さりとて2』という、内容がそのままタイトルになったような前二作に対し、本盤が一般に聴かれることを意識して、「さりとて」がユニット名ではないことをあらためて宣言したものだろう。その意に沿うならば、「さりとて」は、「さりとて」プロジェクトとでも呼ぶのがいいかもしれない、楽曲はほぼ録音順に並べられており、ここ数年のユニットの変化を刻印しているはずだが、ルチアーノ・ベリオとキャシー・バーベリアンの関係がそうであるように、ある声があってなされる作曲という絶対的な関係性にあっては、楽曲のありようがすべてであって、その意味では、私にとって、旅する「さりとて」を意味するライヴ盤が出るというのは、予想外の出来事だった。

 収録された楽曲は、どれも短いものながら、入念な仕掛けをほどこしたからくり箱のようである。例えば、杉本が何度も取りあげているエリック・サティの「ヴェクサシオン」が歌詞つきで登場すること。あるいは、花札の「猪鹿蝶」からタイトルをとった楽曲は、あらかじめ作曲されたメロディー断片に「猪」「鹿」「蝶」の番号をつけて、演奏する際、そのなかのひとつを佳村が自由に選択して、冒頭で「猪」「鹿」「蝶」といってから合奏していくという、ケージの不確定性の音楽を採用していること。また、子どもたちが「〇〇くん、遊びましょ」と友だちの玄関に立つ声調をそのまま音楽にした「佐藤くん」は、古くから多くの作曲家を魅了してきたテーマであり素材だが、ここではそれがなんとも陰気な男声コーラスに伴われることになって、ちょっと玄関まで出ていけない「怪談新耳袋」な感じ(陰気な男声コーラスは、童謡「蝶々」にも、楽曲のイメージを破壊するものとして登場している)をふりまいているなど、杉本拓ならではの洒脱なずらしを加えながら、深い音楽愛とパロディー精神の異様な混合物として展開されている。

 以前にも書いたことだが、短い楽曲からなる「さりとて」の作品群は、現代音楽(あるいは実験音楽)の手法を採用していても、頭でっかちの堅固さや硬直性はどこにもなく、いまだ江戸のなごりをとどめた明治時代の文人を思わせる俳諧味と香気を漂わせながら、地面から少し浮きあがって歩いているような佳村萠と杉本拓の音楽を、あるいは張りつめた彼らのポエジーを、過不足のない簡素さで素描している。異質の要素が絶妙にブレンドして、実験音楽が地酒化したとでもいったらいいのだろうか。それはたぶん、音楽を小さくする積極的な行為でもあり、もしこのマイナー音楽を、極東の小国でローカルな音楽をやっていることの反映というように考えるむきがあるとしたら、不当なことのように思われる。音楽の根拠になるようなものを真摯に探していくとすれば、そもそもこうしたところにしか存在していないのではあるまいか。本盤には「さりとて」のニューヨーク公演も収録されているが、果たして、どこのライヴ会場にあっても、この声に対するこのギター演奏という関係(作曲)は変わらない。それは、佳村萠ばかりでなく、男声コーラスとの関係にもいえることだろう。

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2013年7月16日火曜日

【CD】杉本拓と佳村萠: さりとて



杉本拓と佳村萠
さりとて
(saritote disk、ST 1)
曲目: 1. 開けないでほしい、2. イス3、3. さりとて、 4. イス1、
5. イス2、6. かいだん、7. ポストリュード
演奏: 杉本拓(g)、佳村萠(vo, g, toy piano, words)、
宇波拓(contraguitar)
録音: 2007年5月
グラフィック: 杉本拓
発売: 2007年9月



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 杉本拓と佳村萠の異色コンビによる『さりとて』は、アコースティックとエレクトリックを使いわけた杉本拓のギターと佳村萠の声、さらに曲によっては佳村が鳴らすトイ・ピアノや宇波拓のコントラギターを加えて、非和声的であるために、歌というより語りを思わせるメロディーを、おそらくストップウォッチを見ながら、一音6秒ほどの長さに保ってユニゾン合奏した楽曲を中心に収録した作品集である。一曲一曲はまるで俳句のように短く、全7曲をあわせても1149秒にしかならない。そこはかとない短詩ポエジーの俳味・禅味がアルバムの全編にただよう、杉本拓ならではの作品となっている。

 言葉は言いさしてすべてを語らず、多くの余白を持つというより、余白そのもののなかに書きこまれたもののようであり、ささやくように坦々とした声はいかなる感情も運ばず、まるですべてをあきらめ切ったかのような風情でいながら、それでも断片的なメロディーに一片のポエジーをもたらさずにはいない。時計のように坦々と時間を刻みつづけるギターの響きは、そうすることによっていかなる音楽的な内容も空無化する杉本拓の常套手段だが、同時に、そこに生まれた空白を、ギター演奏という身体的な表出で埋めてしまうことを周到に回避する手段にもなっている。そもそもの最初から、コンセプトと呼ぶことを不適切に感じさせるような、まるで軽薄なその場かぎりの思いつきのようにして、音楽構造(演奏されるもの)や身体構造(演奏するもの)、さらには両者の関係性のなかに入ることがないよう、工夫されたものなのである。音楽の外部と内部をともども回避しながら、このようにして表層にとどまること、一枚の皮膚を編みあげること、つまりは一枚の皮膚のうえを滑っていくところに生まれるそこはかとない響きの滞留をもって、かりそめの、その場かぎりの<私>を立ちあげるような方法は、音楽はまったく異なるものの、まさしくデレク・ベイリーが示した即興のありかたに通底するものと言えるだろう。杉本拓はそれを私たちの文化的な土壌を活用してオリジナルになしとげようとしているのである。

 サウンドの強度というとき、私たちはその言葉尻をとらえて、つい強い音をイメージしてしまいがちだが、本当のところ、それは音量の大小だとか演奏への感情移入には関係なく、響きがある特異性を獲得していることを意味しているように思われる。本盤においては、杉本や佳村の演奏だけでなく、トイ・ピアノもコントラギターも、他ではあり得ないような特異な相貌を帯びている。私たちはこの状態を、音響そのものを聴くとか、音の物質性という表現でしか言ってこなかったのだが、ここに『さりとて』で編みあげられた皮膚のような、サウンドの場所性が大きく関わっていることは間違いないだろう。このとき、音楽の外部と内部をともども回避しながら、音価が3秒でも9秒でもなく6秒に設定されることは、大きな意味を持っている。杉本拓の作品においては、Sachiko M の演奏がそうであるように、響きの音価、演奏にかかる時間の長短は、音楽の本質的な部分をなすからである。たぶんそれは一枚の皮膚を編みあげるための響きの余韻の設定を意味している。耳が音をとらえてから、聴き手の身体に浸透していくその時間を設定し、そこにリズムを与えていこうとする行為。これもまた聴いたものに対する解釈ではなく、聴くことを成立させる身体的な構造という環境のひとつに、その外部から働きかけようとするものと言えるだろう。

 こうした実験的な試みがひとつのポエジーを形成するところに、余人にかえがたい杉本拓の独自性がある。それを日本の文化伝統で説明してしまう前に、まずは私たちの耳を、彼が構築する余白の世界にさまよわせてみようではないか。

 歌詞やメロディーにそっけない気分を添わせるだけの声とギター、ジャケットを飾る杉本のグラフィック画そのままの枯淡の味わい、凍てついた冬空のように乾いて、やけに明るい空気、シンプルであるだけに、わずかの動きが重大な事件へと発展してしまう『さりとて』は、ミニマルな世界での出来事を連鎖することでアルバムを構成している。そうしなければ永遠に失われてしまうようなさりげない日常を、出来事として書きとめておく佳村萠の詞は、ラブジョイの bikke が描く京都の日々の暮らしを連想させるが、さらにそこから人々の姿がなくなり、あとに残った影のようなものだけ、脱け殻になった気配だけをかろうじてつなぎとめている。一文だけ、あるいは副詞だけの曲「開けないでほしい」「さりとて」が、そのような気配にあふれた世界を端的なスタイルで物語っているが、さらに、


 秋の砂浜に 二脚のイス
 やがて夜 月明かり
 人影
(「イス1」)   


 あさやけの 交差点
 おかれてた まるいイス
 誰かな
(「イス3」)   


という、それぞれにご主人を待つ「イス」たちも、


 テーブルに 朝のコーヒー
 のぼっては おりてくる
 くつの音を んー 聴く
 タタトゥタター
 トゥトゥタタトゥー
(「かいだん」)   


と足音に聞き耳を立てる「かいだん」も、生身の人の身体にではなく、人の身体の残像を残すものたちに焦点をあてたものである。アルバム『さりとて』の世界は、こうした気配を感じとる繊細な感受性に、俳味・禅味を愛する杉本拓の美意識が、杉本と言えばイコール無音と短絡する聴き手たちにそれと知られることなく激しく共振した結果、誕生した作品集なのである。

 出来事はどんなふうに起こるのだろう。例えば、他の演奏とサウンドしないほとんどノイズのようなトイ・ピアノのずれた打鍵、ミュート気味に演奏される「さりとて」のギターのわずかなボリューム操作とフィードバック、ハミングで歌われる「イス2」の最後に登場する時報のような杉本と佳村のギター合奏、「ポストリュード」で巻き起こるギターのフラッター音の梵鐘のような響き、録音場所のせいだろう演奏の背後につねに流れる外気音、そして何よりもささやくような佳村萠の声──歌詞が描きとる人の気配、人の残像に、気配そのものと化したギター音や声が寄り添う。そうした影絵の世界にあって、これらのちょっとした出来事は、世界そのものをゆさぶる大事件である。トイ・ピアノの打鍵で時間が凍り、フラッター音に世界がゆらめくからだ。『さりとて』で感覚の細部にわけいった杉本拓と佳村萠は、せまく閉ざされた世界を描いているように見えるかもしれないが、とんでもない、杉本拓の俳味・禅味の美学を別にしても、それは例えば、やはりミクロな触覚(ザムザの虫の視線や、枯葉がかさこそ鳴るような笑い声を発するオドラデク)を通して視線を世界に放つカフカの文学などと通底するような世界なのである。私たちは本当はこんなふうに世界とつながっている。『さりとて』は聴くものにそんな原初的な感覚を思い出させてくれるアルバムである。



  ※文中の歌詞は、佳村萠さんの歌からディクテーションして活字に起こしたため、
     正確なものではありません。



[初出: mixi 2009-02-05&06「杉本拓と佳村萠:さりとて(1)(2)」]   


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2013年7月11日木曜日

おおたえみり@晴れたら空に豆まいて



taffy
nozomi、おおたえみり、ILU GRACE、SAWA
日時: 2013年7月10日(水)
会場: 東京/代官山「晴れたら空に豆まいて」
(東京都渋谷区代官山20-20 モンシェリー代官山B2)
開場: 6:30p.m.、開演: 7:00p.m.
料金/前売: ¥2,500、当日: ¥3,000+1drink order
出演: nozomi、おおたえみり、ILU GRACE、SAWA(出演順)
問合せ: TEL.03-5456-8880(晴れたら空に豆まいて)



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 ほとんどMCをさしはさむことなく、自己紹介もなく、ひたすら音楽に没頭して、つぎつぎに楽曲を演奏していくステージが印象的なおおたえみり。一般的には、ピアノの弾き語りだとか、シンガーソングライターと呼ばれることになるのだろうが、ビョークゆずりのパッショネートな声、ダイナミックであるとともに、雄弁にみずからを語ってやまない即興的なピアノ演奏、歌詞と曲作りの独創性など、すべてにわたって自分のむかうべき方向がわかっている強烈な個性の持ち主だ。求めている音楽の明快さが、彼女自身の内面や感覚を、あるいは激情や官能を、生々しいまでに観客に伝えることにつながっている。公開されている経歴をまとめると、19929月生まれの彼女は兵庫県の出身、ヤマハが1970年代から80年代にかけて開催していた「ポプコン」を、いまに引き継ぐ形でスタートした「ミュージック・レボリューション」の第一回大会(2007年)でグランプリを獲得(受賞曲「情の笛」)したのをきっかけに、15歳ころから関西エリアを中心に演奏活動をスタート、数年の雌伏期間ののち、パフォーマティヴな演奏が魅力のひとつになっているところから、CDよりもDVDに重点を置いたアルバム『セカイの皆さんへ/集合体』(20128月)で、avex 傘下のレーベル cutting edge からメジャーデビュー、現在にいたるということになる。

 代官山駅の近くにあるモンシェリー代官山ビル。切り立つ崖のように左右からせまる壁面を見あげながら、長い直線の階段を二階ぶん降りていったところに、小さなライヴハウス「晴れたら空に豆まいて」がある。代官山が坂の多い土地柄だからだろうか、ライヴハウスにも、地下二階というより、ビルのなかの坂下の店といった雰囲気がある。ステージが少し高くなっている「晴れ豆」は、観客席の後方に、畳と板敷きの桟敷席がそれぞれもうけられ、畳席のわきには、小さな瓢箪を吊りさげた赤い番傘が広げられている。寄席のイメージで内装されたライヴハウスということであろう。nozomi、おおたえみり、ILU GRACESAWA という、ヴァリエーションのある女性歌手4組を対バンにしたコレクション「taffy」のなかで、おおたえみりのピアノ弾き語りを聴いた。メジャーな歌謡界で経済的に淘汰されてしまうものも、ここではすべてが切り捨てられることのない声の欲望として表現されることとなり、現代の日本語歌謡の百家争鳴状態がどのようなものであるか教えてくれる。そのなかにあって、夏場の猛暑にもかかわらず、毛皮地の上着を着て、「毎日、寒い日が続きますね」と挨拶する彼女は、天の邪鬼ともいえず、風変わりなユーモアセンスの持ち主ともいえず、自分の内面からつきあげてくる特異な才能を、どう社会のなかに立てたらいいのか迷い、戸惑っている20歳の女性に見えた。

 自由闊達に演奏されるおおたえみりのピアノは、「弾き語り」という一般的なフレーズが連想させるようなもの、すなわち、歌に歌われる物語を効果的にする伴奏というだけにとどまらず、ヒグチケイコの歌とピアノ演奏の関係がそうであるように、声と手とが、歌と器楽演奏というように区別される以前に、不即不離の関係で誕生してきた身体的事情を、そのまま残したものとなっている。クラスターサウンドを多用する彼女の即興演奏は、即興的といっても、どのくらい対話的なものなのか(ジャズ的なインタープレイにどのくらいこたえられるものなのか)わからないが、おおたの楽曲作りに大きな影響を与えているであろう矢野顕子のピアノ演奏と比較するならば、さらに外部に開かれたものであり、演奏だけでも自己を語ることのできる、即興演奏家ならではの資質を感じさせるものとなっている。パッショネートな声は、ビョークのような(ある種の崇高さをたたえた原色の感情を沸き立たせるような)シャウトこそしないが、感情をまるごと乗せながら、言葉とサウンドの間くらいのところを歌っていくところに特徴がある。言葉が音響に開かれ、音響が言葉に開かれているという関係性が、つねに保たれているといったらいいだろうか。演歌のような、細部まで文体を作っていく歌でも、こうした事情に変わりはないのだが、語り物の伝統を受けつぐ演歌では、一般的に、こうした音響の側面は(歌い手が歌の主人公になりかわる演技によって)隠されてしまう傾向にある。

 邦楽でも洋楽でもないようなところに誕生したおおたえみりの才能、それがなんであれ、ひとつの歌謡伝統や歌謡ジャンルに依拠することでは判断のできない声の持ち主は、いくら J-POP に分類しようとしても、結局のところ、おおたがおおたでなくならないかぎり、マーケットが用意する枠組をはみ出してしまうだろう。これはつまり、ジャズやダンスや即興演奏に起こっていることが、歌謡の世界にも起こっている(それも強烈な才能を生むような形で)という単純なことなのだが、この事実は、長いこと「多様化」というタームで歌の現在を説明してきた歌謡界にとって、決定的な転換をせまることになるのではないかと思われる。こうした環境で歌を聴くときにも、かつて筆者がヴォイス論を構想したときの方法──特定のジャンルを想定することなく、ひとつの声をもうひとつの声と結んでいくところに、つねに新しく塗りかえられる地図を作製していく──が有効かもしれない。「声のリゾーム」(ドゥルーズ=ガタリ)、あるいは「声の星座」(ベンヤミン)という考え方は、いかにも80年代的に思われるだろうが、おそらく地下を這い回る新たな根茎の伸長によって、あるいは何億光年の彼方に観測される新星の爆発によって、歌謡史も音楽史も、これまでになかったような形で(たとえば、日本語歌謡の枠組すら超えて)組み替えられていくことになるのだろう。おおたえみりは、そのような未来に属している。




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2013年7月7日日曜日

高原朝彦 野村あゆみ “Solo Duo Trio” with 本田ヨシ子



高原朝彦 / 野村あゆみ
Solo Duo Trio
featuring 本田ヨシ子
日時: 2013年7月6日(土)
会場: 東京/江古田「フライング・ティーポット」
(東京都練馬区栄町27-7 榎本ビル B1F)
開場: 7:30p.m.、開演: 8:00p.m.
料金: ¥1,500+1drink order
出演: 高原朝彦(10string guitar, recorder) 野村あゆみ(dance)
Guest: 本田ヨシ子(voice)
問合せ: TEL.03-5999-7971(フライング・ティーポット)



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 長年月にわたって、荻窪高円寺グッドマンをソロ演奏の拠点にしてきた10弦ギターの高原朝彦が、諸事情から古巣を離れ、江古田フライング・ティーポットで新たなシリーズをスタートすることになった。ダンサーの野村あゆみは、高円寺グッドマン時代にも高原のライヴにゲスト出演していたが、なにぶんにも会場が極小スペースだったため、ダンスのための動線を確保することができず、立ちん坊になって身ぶりを作るという限定的なものにとどまっていた。新会場での試運転も兼ね、6月におこなわれた「高原朝彦 Solo & Duo」では、野村との共同企画であることが表明され、会場も格段に広くなったものの、このグッドマン形式を踏襲する形でおこなわれたものだった。かたや、本格的なシリーズのスタートとなった今回の「Solo Duo Trio」では、高原と野村の名前が連名となり、毎回ゲストを迎えての公演スタイルも、新たに、ソロ(高原)/デュオ(野村+ゲスト,高原+ゲスト)/トリオ(高原+野村+ゲスト)の三部構成がとられた。いまのところ、ゲストには即興演奏家とダンサーが想定されているらしく、デュオでは<ダンサー+ダンサー>という、またトリオでは<ダンサー+演奏家+ダンサー><演奏家+ダンサー+演奏家>という、いずれもあまりなじみのない実験的なセットが試みられることになる。

 初回のゲストに迎えられたのは、サンプリングとループを使ってヴォーカリーズを何重にも重ね、瞬時にして幻想的なサウンド・タペストリーを織りあげては、すぐに解きほぐしていく本田ヨシ子だった。高原と本田は、本公演に先立つ519日(日)に、蔵前にある「ギャラリーキッサ」で初共演している。一般的に「即興ヴォイス」といえば、器楽の即興演奏をモデルにして、単声でサウンド・モンタージュを構成しながら、言葉の意味を解体したり、先入観に支配されている声のイメージを異化したりする、拡張された声のパフォーマンスのことと理解されているが、本田ヨシ子の場合、電気的なエコーやディレイによって声を魔術化したり、ループを駆使して特徴的な声のモジュールを(原理的には限りなく)増殖させていくところに、彼女らしさが立ちあらわれるように思われる。本田のヴォイスは、意味のわからない言葉で話したり、ささやき声のようになったりするが、けっして演劇的にはならない。この日のセッションでは、野村あゆみとのデュオが、彼女の音楽を全面展開する場所になった。声のモジュールを作るのに、マイクと口の距離は重要であるらしく、織りあげられるサウンド・タペストリーが、聴き手からどのくらいの距離をもった音風景になるのかに、大きな影響を及ぼしていたように思われた。

 本田の作り出すサウンド・タペストリーは、それだけで完結した音塊たりえているが、彼女の即興には、やはり声のメッセージ性に対する郷愁のようなものが残っていて、舞台装置の前で演技する俳優のように、音風景の前景にソロ・ヴォイスを立てることが多いように思われた。というよりむしろ、音風景を作り出す演奏と、ソロ・ヴォイスを展開する演奏とは、いつでも反転が可能で、ソロとして登場したヴォイスが、増殖されて風景化していくなかに、次のヴォイスがソロとして侵入してくるといったらいいだろうか。次々に重ねられていく声のレイヤーは、メモリーをかけて呼び出すことはできても、その順番を変えることはできず、増殖された声はすべて層のようになって堆積していく。この意味では、本田の演奏は、ひとつの声をひとつの色として塗り重ねていくものともいえるだろう。会場の入口付近からパフォーマンスを開始した野村あゆみは、本田が編んでは解きほぐしをくりかえすサウンド空間に静かに侵入してくると、エフェクター類を細かく操作するため、マイクを右手に持ちながら床に座って演奏する本田の前で、おなじように座って演技をしたり、床に置かれたライトの光がステージを横断するなかに、身体をさしこみながらダンスをしていった。

 デュオの部の後半、高原と本田のセッションは、野村のときと違う展開にしたかったのだろう、本田がオフマイクで、また深いエコーをかけながら単声のヴォイスを使ったり、途中でハンドクラッピングを入れたりして注文をつける形になった。いっきにスペースが拡大した会場で、ソロ演奏をさらにダイナミックに、さらに自由に展開している高原は、遠い山の向こうから響いてくるようなエコーのかかった本田のヴォーカリーズに、生き生きとしたリズムを出して応戦、対照的な流れをぶつけるという演奏の妙でアンサンブルの幅を広げた。最後のトリオ演奏では、ダンスのあるなしによる高原の演奏の違いに注目させられた。演奏家ふたりの音数は、音楽セッションよりずっと抑制されたものとなり、重量のあるダンサーの動きをよく迎えるものとなった。野村は本田の対面におかれた椅子からスタート、会場の全面を移動しながら、上腕をつかんだり、胸を突き出したり、手を高く挙げたりといった彼女ならではの特徴的な身ぶりをつなげて、ダイナミックな動きを構成していった。本田は、演奏の前半、ミステリアスな雰囲気をたたえたヴォーカリーズに徹していたが、最後のクライマックスでは、宇宙空間に響きわたるアフロディーテの声とでもいうのだろうか、ほとんど宗教的なオーラを発する幻想的なコラールを編みあげていた。




  【関連記事|高原朝彦SOLO】
   「野村あゆみ+高原朝彦+木村 由」(2013-06-15)


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