2013年7月17日水曜日

【CD】杉本拓と佳村萠: Live in Saritote



杉本拓と佳村萠
Live in Saritote
(ftarri|ftarri-993)
曲目: 1. Stairs (3:11)、2. Choucho (0:54)、
3. An Angel Passes (1:49)、 4. Three Words (1:19)、
5. A Chair 3 (1:18)、6. Saritote (2:39)、
7. A Minor/Three Words (5:50)、8. Because It Breezed (0.50)、
9. A Wind (1:04)、10. Inner Muscle (0:26)、
11. A Chair 2 (1:57)、12. Stay It Fragile (0:47)、
13. Fragile It, Stay (0:56)、14. Vexations (4:58)、
15. Inner Muscle (0:42)、16. Ino-Shika-Cho (7:36)、
17. Sato-kun (1:43)、18. Vexations (1:17)、
19. Hitori de Sabishi (3:24)、20. Macaroni (0:52)、
21. Sweet Melody A (1:33)、22. Ozouni Song (0:30)
(total time: 45:37)
演奏: 杉本拓(guitar, voice) 佳村萠(voice, words)
Guests: 池田武史(percussion, voice) 江崎将史(trumpet, voice) 
竹内光輝(flute, voice)
録音: 2010年5月~2013年1月
場所: 大阪「コモンカフェ」、岡山「蟲文庫」、東京「ループライン」
「カラードジャム」「現代HIGHTS」「キッドアイラックアートホール」、
ニューヨーク「Issue Project Room」
デザイン: 杉本拓、佳村萌
発売:2013年7月



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 佳村萠の声と杉本拓のギターが、インティメートで皮膚感覚的、あるいは触覚的な音のアンサンブルを編みあげながら、対位法的にからんでいく「さりとて」の音楽。2010年から13年にかけ、彼らが各地でおこなったライヴを一枚にまとめたアルバムがリリースされた。「Live in Saritote」は「Saritote in Live」の間違いじゃないの?という、素朴な疑問をいだかせるタイトルは、 『さりとて』『さりとて2』という、内容がそのままタイトルになったような前二作に対し、本盤が一般に聴かれることを意識して、「さりとて」がユニット名ではないことをあらためて宣言したものだろう。その意に沿うならば、「さりとて」は、「さりとて」プロジェクトとでも呼ぶのがいいかもしれない、楽曲はほぼ録音順に並べられており、ここ数年のユニットの変化を刻印しているはずだが、ルチアーノ・ベリオとキャシー・バーベリアンの関係がそうであるように、ある声があってなされる作曲という絶対的な関係性にあっては、楽曲のありようがすべてであって、その意味では、私にとって、旅する「さりとて」を意味するライヴ盤が出るというのは、予想外の出来事だった。

 収録された楽曲は、どれも短いものながら、入念な仕掛けをほどこしたからくり箱のようである。例えば、杉本が何度も取りあげているエリック・サティの「ヴェクサシオン」が歌詞つきで登場すること。あるいは、花札の「猪鹿蝶」からタイトルをとった楽曲は、あらかじめ作曲されたメロディー断片に「猪」「鹿」「蝶」の番号をつけて、演奏する際、そのなかのひとつを佳村が自由に選択して、冒頭で「猪」「鹿」「蝶」といってから合奏していくという、ケージの不確定性の音楽を採用していること。また、子どもたちが「〇〇くん、遊びましょ」と友だちの玄関に立つ声調をそのまま音楽にした「佐藤くん」は、古くから多くの作曲家を魅了してきたテーマであり素材だが、ここではそれがなんとも陰気な男声コーラスに伴われることになって、ちょっと玄関まで出ていけない「怪談新耳袋」な感じ(陰気な男声コーラスは、童謡「蝶々」にも、楽曲のイメージを破壊するものとして登場している)をふりまいているなど、杉本拓ならではの洒脱なずらしを加えながら、深い音楽愛とパロディー精神の異様な混合物として展開されている。

 以前にも書いたことだが、短い楽曲からなる「さりとて」の作品群は、現代音楽(あるいは実験音楽)の手法を採用していても、頭でっかちの堅固さや硬直性はどこにもなく、いまだ江戸のなごりをとどめた明治時代の文人を思わせる俳諧味と香気を漂わせながら、地面から少し浮きあがって歩いているような佳村萠と杉本拓の音楽を、あるいは張りつめた彼らのポエジーを、過不足のない簡素さで素描している。異質の要素が絶妙にブレンドして、実験音楽が地酒化したとでもいったらいいのだろうか。それはたぶん、音楽を小さくする積極的な行為でもあり、もしこのマイナー音楽を、極東の小国でローカルな音楽をやっていることの反映というように考えるむきがあるとしたら、不当なことのように思われる。音楽の根拠になるようなものを真摯に探していくとすれば、そもそもこうしたところにしか存在していないのではあるまいか。本盤には「さりとて」のニューヨーク公演も収録されているが、果たして、どこのライヴ会場にあっても、この声に対するこのギター演奏という関係(作曲)は変わらない。それは、佳村萠ばかりでなく、男声コーラスとの関係にもいえることだろう。

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