taffy
nozomi、おおたえみり、ILU GRACE、SAWA
日時: 2013年7月10日(水)
会場: 東京/代官山「晴れたら空に豆まいて」
(東京都渋谷区代官山20-20 モンシェリー代官山B2)
開場: 6:30p.m.、開演: 7:00p.m.
料金/前売: ¥2,500、当日: ¥3,000+1drink order
出演: nozomi、おおたえみり、ILU GRACE、SAWA(出演順)
問合せ: TEL.03-5456-8880(晴れたら空に豆まいて)
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ほとんどMCをさしはさむことなく、自己紹介もなく、ひたすら音楽に没頭して、つぎつぎに楽曲を演奏していくステージが印象的なおおたえみり。一般的には、ピアノの弾き語りだとか、シンガーソングライターと呼ばれることになるのだろうが、ビョークゆずりのパッショネートな声、ダイナミックであるとともに、雄弁にみずからを語ってやまない即興的なピアノ演奏、歌詞と曲作りの独創性など、すべてにわたって自分のむかうべき方向がわかっている強烈な個性の持ち主だ。求めている音楽の明快さが、彼女自身の内面や感覚を、あるいは激情や官能を、生々しいまでに観客に伝えることにつながっている。公開されている経歴をまとめると、1992年9月生まれの彼女は兵庫県の出身、ヤマハが1970年代から80年代にかけて開催していた「ポプコン」を、いまに引き継ぐ形でスタートした「ミュージック・レボリューション」の第一回大会(2007年)でグランプリを獲得(受賞曲「情の笛」)したのをきっかけに、15歳ころから関西エリアを中心に演奏活動をスタート、数年の雌伏期間ののち、パフォーマティヴな演奏が魅力のひとつになっているところから、CDよりもDVDに重点を置いたアルバム『セカイの皆さんへ/集合体』(2012年8月)で、avex 傘下のレーベル cutting edge からメジャーデビュー、現在にいたるということになる。
代官山駅の近くにあるモンシェリー代官山ビル。切り立つ崖のように左右からせまる壁面を見あげながら、長い直線の階段を二階ぶん降りていったところに、小さなライヴハウス「晴れたら空に豆まいて」がある。代官山が坂の多い土地柄だからだろうか、ライヴハウスにも、地下二階というより、ビルのなかの坂下の店といった雰囲気がある。ステージが少し高くなっている「晴れ豆」は、観客席の後方に、畳と板敷きの桟敷席がそれぞれもうけられ、畳席のわきには、小さな瓢箪を吊りさげた赤い番傘が広げられている。寄席のイメージで内装されたライヴハウスということであろう。nozomi、おおたえみり、ILU GRACE、SAWA という、ヴァリエーションのある女性歌手4組を対バンにしたコレクション「taffy」のなかで、おおたえみりのピアノ弾き語りを聴いた。メジャーな歌謡界で経済的に淘汰されてしまうものも、ここではすべてが切り捨てられることのない声の欲望として表現されることとなり、現代の日本語歌謡の百家争鳴状態がどのようなものであるか教えてくれる。そのなかにあって、夏場の猛暑にもかかわらず、毛皮地の上着を着て、「毎日、寒い日が続きますね」と挨拶する彼女は、天の邪鬼ともいえず、風変わりなユーモアセンスの持ち主ともいえず、自分の内面からつきあげてくる特異な才能を、どう社会のなかに立てたらいいのか迷い、戸惑っている20歳の女性に見えた。
自由闊達に演奏されるおおたえみりのピアノは、「弾き語り」という一般的なフレーズが連想させるようなもの、すなわち、歌に歌われる物語を効果的にする伴奏というだけにとどまらず、ヒグチケイコの歌とピアノ演奏の関係がそうであるように、声と手とが、歌と器楽演奏というように区別される以前に、不即不離の関係で誕生してきた身体的事情を、そのまま残したものとなっている。クラスターサウンドを多用する彼女の即興演奏は、即興的といっても、どのくらい対話的なものなのか(ジャズ的なインタープレイにどのくらいこたえられるものなのか)わからないが、おおたの楽曲作りに大きな影響を与えているであろう矢野顕子のピアノ演奏と比較するならば、さらに外部に開かれたものであり、演奏だけでも自己を語ることのできる、即興演奏家ならではの資質を感じさせるものとなっている。パッショネートな声は、ビョークのような(ある種の崇高さをたたえた原色の感情を沸き立たせるような)シャウトこそしないが、感情をまるごと乗せながら、言葉とサウンドの間くらいのところを歌っていくところに特徴がある。言葉が音響に開かれ、音響が言葉に開かれているという関係性が、つねに保たれているといったらいいだろうか。演歌のような、細部まで文体を作っていく歌でも、こうした事情に変わりはないのだが、語り物の伝統を受けつぐ演歌では、一般的に、こうした音響の側面は(歌い手が歌の主人公になりかわる演技によって)隠されてしまう傾向にある。
邦楽でも洋楽でもないようなところに誕生したおおたえみりの才能、それがなんであれ、ひとつの歌謡伝統や歌謡ジャンルに依拠することでは判断のできない声の持ち主は、いくら J-POP に分類しようとしても、結局のところ、おおたがおおたでなくならないかぎり、マーケットが用意する枠組をはみ出してしまうだろう。これはつまり、ジャズやダンスや即興演奏に起こっていることが、歌謡の世界にも起こっている(それも強烈な才能を生むような形で)という単純なことなのだが、この事実は、長いこと「多様化」というタームで歌の現在を説明してきた歌謡界にとって、決定的な転換をせまることになるのではないかと思われる。こうした環境で歌を聴くときにも、かつて筆者がヴォイス論を構想したときの方法──特定のジャンルを想定することなく、ひとつの声をもうひとつの声と結んでいくところに、つねに新しく塗りかえられる地図を作製していく──が有効かもしれない。「声のリゾーム」(ドゥルーズ=ガタリ)、あるいは「声の星座」(ベンヤミン)という考え方は、いかにも80年代的に思われるだろうが、おそらく地下を這い回る新たな根茎の伸長によって、あるいは何億光年の彼方に観測される新星の爆発によって、歌謡史も音楽史も、これまでになかったような形で(たとえば、日本語歌謡の枠組すら超えて)組み替えられていくことになるのだろう。おおたえみりは、そのような未来に属している。■
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