杉本拓と佳村萠
『さりとて』
(saritote disk、ST 1)
曲目: 1. 開けないでほしい、2. イス3、3. さりとて、 4. イス1、
5. イス2、6. かいだん、7. ポストリュード
演奏: 杉本拓(g)、佳村萠(vo, g, toy piano, words)、
宇波拓(contraguitar)
録音: 2007年5月
グラフィック: 杉本拓
発売: 2007年9月
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杉本拓と佳村萠の異色コンビによる『さりとて』は、アコースティックとエレクトリックを使いわけた杉本拓のギターと佳村萠の声、さらに曲によっては佳村が鳴らすトイ・ピアノや宇波拓のコントラギターを加えて、非和声的であるために、歌というより語りを思わせるメロディーを、おそらくストップウォッチを見ながら、一音6秒ほどの長さに保ってユニゾン合奏した楽曲を中心に収録した作品集である。一曲一曲はまるで俳句のように短く、全7曲をあわせても11分49秒にしかならない。そこはかとない短詩ポエジーの俳味・禅味がアルバムの全編にただよう、杉本拓ならではの作品となっている。
言葉は言いさしてすべてを語らず、多くの余白を持つというより、余白そのもののなかに書きこまれたもののようであり、ささやくように坦々とした声はいかなる感情も運ばず、まるですべてをあきらめ切ったかのような風情でいながら、それでも断片的なメロディーに一片のポエジーをもたらさずにはいない。時計のように坦々と時間を刻みつづけるギターの響きは、そうすることによっていかなる音楽的な内容も空無化する杉本拓の常套手段だが、同時に、そこに生まれた空白を、ギター演奏という身体的な表出で埋めてしまうことを周到に回避する手段にもなっている。そもそもの最初から、コンセプトと呼ぶことを不適切に感じさせるような、まるで軽薄なその場かぎりの思いつきのようにして、音楽構造(演奏されるもの)や身体構造(演奏するもの)、さらには両者の関係性のなかに入ることがないよう、工夫されたものなのである。音楽の外部と内部をともども回避しながら、このようにして表層にとどまること、一枚の皮膚を編みあげること、つまりは一枚の皮膚のうえを滑っていくところに生まれるそこはかとない響きの滞留をもって、かりそめの、その場かぎりの<私>を立ちあげるような方法は、音楽はまったく異なるものの、まさしくデレク・ベイリーが示した即興のありかたに通底するものと言えるだろう。杉本拓はそれを私たちの文化的な土壌を活用してオリジナルになしとげようとしているのである。
サウンドの強度というとき、私たちはその言葉尻をとらえて、つい強い音をイメージしてしまいがちだが、本当のところ、それは音量の大小だとか演奏への感情移入には関係なく、響きがある特異性を獲得していることを意味しているように思われる。本盤においては、杉本や佳村の演奏だけでなく、トイ・ピアノもコントラギターも、他ではあり得ないような特異な相貌を帯びている。私たちはこの状態を、音響そのものを聴くとか、音の物質性という表現でしか言ってこなかったのだが、ここに『さりとて』で編みあげられた皮膚のような、サウンドの場所性が大きく関わっていることは間違いないだろう。このとき、音楽の外部と内部をともども回避しながら、音価が3秒でも9秒でもなく6秒に設定されることは、大きな意味を持っている。杉本拓の作品においては、Sachiko M の演奏がそうであるように、響きの音価、演奏にかかる時間の長短は、音楽の本質的な部分をなすからである。たぶんそれは一枚の皮膚を編みあげるための響きの余韻の設定を意味している。耳が音をとらえてから、聴き手の身体に浸透していくその時間を設定し、そこにリズムを与えていこうとする行為。これもまた聴いたものに対する解釈ではなく、聴くことを成立させる身体的な構造という環境のひとつに、その外部から働きかけようとするものと言えるだろう。
こうした実験的な試みがひとつのポエジーを形成するところに、余人にかえがたい杉本拓の独自性がある。それを日本の文化伝統で説明してしまう前に、まずは私たちの耳を、彼が構築する余白の世界にさまよわせてみようではないか。
歌詞やメロディーにそっけない気分を添わせるだけの声とギター、ジャケットを飾る杉本のグラフィック画そのままの枯淡の味わい、凍てついた冬空のように乾いて、やけに明るい空気、シンプルであるだけに、わずかの動きが重大な事件へと発展してしまう『さりとて』は、ミニマルな世界での出来事を連鎖することでアルバムを構成している。そうしなければ永遠に失われてしまうようなさりげない日常を、出来事として書きとめておく佳村萠の詞は、ラブジョイの bikke が描く京都の日々の暮らしを連想させるが、さらにそこから人々の姿がなくなり、あとに残った影のようなものだけ、脱け殻になった気配だけをかろうじてつなぎとめている。一文だけ、あるいは副詞だけの曲「開けないでほしい」「さりとて」が、そのような気配にあふれた世界を端的なスタイルで物語っているが、さらに、
秋の砂浜に 二脚のイス
やがて夜 月明かり
人影
(「イス1」)
あさやけの 交差点
おかれてた まるいイス
誰かな
(「イス3」)
という、それぞれにご主人を待つ「イス」たちも、
テーブルに 朝のコーヒー
のぼっては おりてくる
くつの音を んー 聴く
タタトゥタター
トゥトゥタタトゥー
(「かいだん」)
と足音に聞き耳を立てる「かいだん」も、生身の人の身体にではなく、人の身体の残像を残すものたちに焦点をあてたものである。アルバム『さりとて』の世界は、こうした気配を感じとる繊細な感受性に、俳味・禅味を愛する杉本拓の美意識が、杉本と言えばイコール無音と短絡する聴き手たちにそれと知られることなく激しく共振した結果、誕生した作品集なのである。
出来事はどんなふうに起こるのだろう。例えば、他の演奏とサウンドしないほとんどノイズのようなトイ・ピアノのずれた打鍵、ミュート気味に演奏される「さりとて」のギターのわずかなボリューム操作とフィードバック、ハミングで歌われる「イス2」の最後に登場する時報のような杉本と佳村のギター合奏、「ポストリュード」で巻き起こるギターのフラッター音の梵鐘のような響き、録音場所のせいだろう演奏の背後につねに流れる外気音、そして何よりもささやくような佳村萠の声──歌詞が描きとる人の気配、人の残像に、気配そのものと化したギター音や声が寄り添う。そうした影絵の世界にあって、これらのちょっとした出来事は、世界そのものをゆさぶる大事件である。トイ・ピアノの打鍵で時間が凍り、フラッター音に世界がゆらめくからだ。『さりとて』で感覚の細部にわけいった杉本拓と佳村萠は、せまく閉ざされた世界を描いているように見えるかもしれないが、とんでもない、杉本拓の俳味・禅味の美学を別にしても、それは例えば、やはりミクロな触覚(ザムザの虫の視線や、枯葉がかさこそ鳴るような笑い声を発するオドラデク)を通して視線を世界に放つカフカの文学などと通底するような世界なのである。私たちは本当はこんなふうに世界とつながっている。『さりとて』は聴くものにそんな原初的な感覚を思い出させてくれるアルバムである。■
※文中の歌詞は、佳村萠さんの歌からディクテーションして活字に起こしたため、
正確なものではありません。
[初出: mixi 2009-02-05&06「杉本拓と佳村萠:さりとて(1)(2)」]
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