2013年7月24日水曜日

小林嵯峨: 短夜──非在のものが顕われる/そして再びベルメール



小林嵯峨 ソロ舞踏公演
短夜 みじかよ
•••非在のものが顕われる/そして再びベルメール•••
日時: 2013年7月19日(金)~7月21日(日)
開場: 7:00p.m.(21日: 6:30p.m.) 開演: 7:30p.m.(21日: 7:00p.m.)
開場: 1:30p.m. 開演: 2:00p.m.(マチネ公演: 21日のみ)
会場: 東京/明大前「キッド・アイラック・アート・ホール」
(東京都世田谷区松原2-43-11)
料金/予約: ¥3,000、: 当日: ¥3,500
出演: 小林嵯峨(舞踏) 河崎 純(contrabass)
音楽: 河崎 純、八木美知依
映像: 坂田洋一 衣装: 有本裕美子
照明・音響: 早川誠司
主催: NOSURI
協力・舞台監督: ホワイトダイス
問合せ: 03-3322-5564(キッドアイラック)



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 短夜:みじか-よ。短い夜。夜明けの早い夏の夜。「たんや」とも。俳句では夏の季語。すぐに明けてしまう真夏の夜の、つかのまの時間に訪れる夢魔的な光景。あとかたも残さず、たちまちのうちに消えさってしまう時空間に出現する記憶のクレバス。昨年暮の「真冬の幽霊/ベルメール炎上」に引きつづき、会場もおなじ明大前キッド・アイラック・アート・ホールで、小林嵯峨のソロ舞踏公演「短夜」が開催された。休憩なしの二部構成でおこなわれた公演は、サブタイトルに「非在のものが顕われる/そして再びベルメール」とあるように、前半では、過去時から私たちのもとに侵入してくる、闇にうごめく非在のもの(幽霊)が身体/ダンス化され、後半では、未来時から私たちの世界に降臨する、まるで宇宙スーツに身を包んだバーバレラさながらの人形的/エロス的存在が身体/ダンス化された。いくつもの異質な要素を綜合していく小林の身体/ダンスは、過去の時間と未来の時間の間を往還することで、現世的な時制を混乱させる一方、存在するものと非在のものをへだてる境界線を越境していくメディア的身体をたちあげようとしていた。さまざまなものが折り重なり、次々に映し出されていく記憶のスクリーンのような身体といったらいいだろうか。

 過去と未来を、あるいは存在と非在をともに映し出す身体のスクリーン化は、実際のパフォーマンスのなかでも、池だとか海岸だとか、小林が魅了されている水に関連した風景の映像(撮影:坂田洋一)を、公演の前半で彼女が羽織った着物や、肌脱ぎになった背中に投影する形で表明されていた。映像にまみれ、スクリーン化した身体は、あの世とこの世の間をさまよう幽霊の半透明性に通じるものであり、この作品における小林嵯峨の舞踏のありようを、わかりやすく説明するものになっていたと思う。ステージ下手には天井から大きな白い布が垂れさがり、その背後には、観客の目から隠れて一脚の椅子が置かれている。上手にはコントラバス奏者の河崎純。演奏家の前には、譜面を乗せた譜面台がおかれていたが、会場が暗いにもかかわらず、譜面を見るためのライトはなかった。前半、長い沈黙を守っていた河崎は、楽器を弾きはじめてから、猛烈な勢いで派手に譜面台を転倒させた。クレジットのあった箏奏者の八木美知依はライヴ演奏せず、エロティシズムをテーマにした後半の場面に、録音で十七絃箏の響きを提供したにとどまった。箏のサウンドに対し、コントラバスを寝かせた河崎は、タイミングをずらせたケンガリ(あるいはチンだったかも)の強打で応じていた。

 公演開始とともに、アンデス民謡がにぎやかに鳴り響くなか、ギーッときしむ音を立てて会場の扉が開き、浴衣の胸をはだけた坊主頭の男が一本のローソクを立てた燭台を夜道を照らすように片手に掲げ、額が床につくほど腰を低くかがめながら、目隠しをした和装の女の手を引いて登場してきた。会場をひとめぐりすると、坊主頭はステージの中央にローソクと女を残して去る。ローソクのそばに置かれた洗面器。目隠しをしたままの女は、洗面器を前に、行水をしているような感じでパフォーマンス。コントラバスの演奏は、時間のなかの(音楽的な)出来事ではなく、ひとつの運動をもうひとつの運動につなげていくようなもので、それ自身がダンス的な性格をもっているため、すぐそばで舞踏家がおこなっていることを、音楽演奏によって邪魔することなく、それでいて演奏家としての存在をしっかりと立てるという共演のしかたをしていた。しかしながら、河崎純にとって、こうした演奏のあり方は特別なものではないように思われる。非在のものからベルメールへと、作品の構成をたどっていく小林のダンスに対して、河崎の存在は、まるで作品にとりつけられた飾り窓のなかで、別のダンスをずっと踊っているダンサーのようであった。

 ステージ中央に座り、肌脱ぎをした女の白い背中に、黒々と崩れていく波の映像がくりかえし映し出される。海と亡霊。波頭と非在のもの。あるかなしかの身体。皮膚だけの存在というべきもの。あるいは、みずからは非在となることで、何者かをこの場所に顕現させようとする身体のありよう。これと対照的だったのが、ステージ下手の大きな布の陰で衣装交換し、パフォーマンス後半に登場した身体──すなわち、ボンデージスーツを思わせるエロチックな宇宙服に身を包み、ライトアップした照明のなかに出現した人形的/エロス的身体だった。しかしながら、前後半の対照的なステージ構成にもかかわらず、これもまた、ベルメールの人形たちのように、性的な視線によってつくりあげられたひとかたまりの曲線としてあるものではなく、そのようなイメージを作りあげる(男たちの)視線を、皮膚としての宇宙スーツにからめとりながら、その実は、抜け殻としての身体を顕現させる行為ではなかったろうか。もし舞踏的身体というものがあるとしたら、つねにこうした危機的な瞬間を生きようとするもののことなのかもしれない。さまざまなものがときどきに構成する数々のあわいをさまよう非在の顕われのようなもの。このような場所において、ひとつの身体の喪失は、すなわち舞踏の喪失に他ならない。あとに残るものはなにもない。残骸ばかり。再び危機的な瞬間を生きようとする身体が出現するまで、舞踏はどこにもない。


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