2012年2月29日水曜日

秋山徹次 - 池上秀夫@七針



秋山徹次 - 池上秀夫
Duo Improvisations
日時: 2010年3月12日(金)
会場: 東京/八丁堀「七針」
(東京都中央区新川2-7-1 オリエンタルビル 地階)
開場: 7:00p.m.、開演: 7:30p.m.
料金: ¥2,000
出演: 秋山徹次(guitar) 池上秀夫(contrabass)
問合せ: TEL.03-6806-6773(七針)


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 秋山徹次と池上秀夫のデュオによる3度目のセッションを、八丁堀の七針(ななはり)で聴いた。途中休憩をはさんでのツーセット公演で、前半後半ともに30分強のライヴだった。エピフォンのアコースティック・ギターを抱えて下手の椅子に座る秋山は、数種類のカポタストやボトルネック、ヘアブラシなどの周辺機材に加え、簡単な小物を使って、ほんの少しずつサウンド環境を変えながら演奏した。上手に立ったコントラバスの池上秀夫は、唯一そこだけにあるライトのなかにいて、つねにゆらゆらと揺れるように楽器を弾きつづけ、共演者の秋山がかもし出すゆったりとしたヴァイブレーションのなか、いつもよりずっと自由になって、自分自身の演奏に集中していたように思われた。かたや一方の秋山徹次は、ゆっくりとダンスをするように腕を動かし、断片的なフレーズというより、むしろ弦に対するアタックの強弱、ハーモニクス、不協和音と、ギター弦の即物的な響きに集中し、特徴づけられた一音一音を、その場にひとつ、またひとつ投げ出していくといった演奏を展開した。共演者を縛ることのない自由度の高い演奏。空間性にあふれた独特のムードのなかで、池上秀夫の演奏は、とてもジャズ的に響いていた。それはおそらく、サウンドであれリズムであれ、池上の演奏が、共演者との対話的コミュニケーションを求め、長いシークエンスのなかのひと連なりの物語としてつづられているからであり、力強いフィンガリングで弦を爪弾くときが、もっとも雄弁に自らを語るからではないかと思われる。

 ミュージシャンの要望で、演奏中は照明が暗くされ、池上の頭のうえにたったひとつともったライトが、ふたりの背後にある白い漆喰の壁を淡々と照らし出し、会場に居あわせたものを、まるでスペインの片田舎にでも来たような気分にさせた。カンテラの光のような、どこか懐かしい気分をかきたてる照明。これはおそらく秋山が奏でるギターの音色がかもし出す、ときにスパニッシュな、ときにウェスタンな感覚によるマジックなのだろう。連想は最初期のリベレーション・ミュージック・オーケストラに飛び、池上秀夫がチャーリー・ヘイデンに見えてくる。

 第一部を、ゆったりとしたギターの弾奏で通した秋山は、第二部に入ってボトルネックを多用、前半の雰囲気を一掃する夢幻的な倍音の世界を構築した。弦に金属のボトルネックをあてながら、細かく振動させる特殊奏法からは、ヴァイオリンの弓で弦を弾くような効果が得られるのだが、かもし出される倍音の複雑さは、ヴァイオリン奏法の代替物というより、むしろハーディガーディの猥雑さに近いもののように感じられた。倍音がもたらす魔的な喚起力によるのだろう。このサウンドが池上を触発したのは、しかしその夢幻性のゆえではなく、指板のうえで細かく振動するボトルネックから生みだされる、ミクロなリズムの速度だったように思われる。というのも、池上のアルコが奏でる響きも、次第にミクロなものとなり、ハーモニックスの細かなヴァイブレーションをとらえて共振しはじめたからである。

 秋山徹次と中村としまるの “蝉印象派” デュオが、決定的に非対称の関係を結ぶのに対して、秋山徹次と池上秀夫のデュオは、ともに弦楽器ということもあるのだろう、どこかに共通感覚を確保しながらおこなわれるものだった。ふたりの間にある最大の相違は、秋山の演奏が、持続する時間をぶつ切りにしておこなわれる瞬間瞬間のサウンドの提示──デレク・ベイリー的といってもいい──である一方で、池上の演奏が、ひとつのシークエンスを別のシークエンスへとつないで、流れくだる時間を切断することのないもの──ジャズ的ということができる──という点にあるように思われる。おそらくふたりは、共演者の演奏を意識することで自らを切断すると同時に、これまでとは別のシークエンスを生みだしていくのではないだろうか。このことが意味するのは、中村としまるとのデュオでは実現できないこと──すなわち、ジャズからフリー・インプロヴィゼーションへといたる音楽実験のすべてが、このデュオならではの語りなおしを受けて、演奏にあらわれるということだと思われる。そんななかにあって、デュオ演奏を基調において支えていたのは、池上秀夫をこの上なく自由にした、まるで静止しているかのようにゆったりとした秋山徹次のバイオリズムだった。



[初出:mixi 2010-03-13「秋山徹次/池上秀夫@七針」加筆訂正]  

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2012年2月27日月曜日

Bears' Factory Annex vol.5



Bears' Factory Annex vol.5

高原朝彦&池上秀夫 with ノブナガケン
日時: 2012年2月25日(日)
会場: 東京/阿佐ヶ谷「ヴィオロン」
(東京都杉並区阿佐谷北2-9-5)
開場: 7:00p.m.,開演: 7:30p.m.
料金: ¥1,000(飲物付)
出演: ノブナガケン(perc)
高原朝彦(10string guitar) 池上秀夫(contrabass)
問合せ: TEL.03-3336-6414(ヴィオロン)


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 阿佐ヶ谷にある名曲喫茶「ヴィオロン」が、ライヴ公演に場所を提供しはじめてから、使い勝手のよさばかりではなく、良心的な経営が評判を得て、ブッキングはすでにかなり先まで予約でいっぱいになっているという。この場所で定期的に持たれているシリーズ公演のなかに、10弦ギターの高原朝彦と、コントラバスの池上秀夫のふたりを軸にした即興セッション「ベアーズ・ファクトリー」があり、そのなかで「アネックス」と銘打たれたシリーズは、これまで共演したことのないミュージシャンを招く本シリーズとは別に、気心の知れた共演者を迎えておこなう拡大判ベアーズ・ファクトリーという趣向になっている。この日ゲストに迎えられた打楽器のノブナガケンは、おそらく場所の狭さも考慮したのだろう、大型タンバリンといった恰好のフレームドラムと、裸足になった足をつっかけて音を出すラトル類や金属製の小鉢を床に転がして使っていた。リズムということを別にすると、打楽器の場合、声のヴァラエティは音色にあらわれるので、この日のパフォーマンスは、あらかじめサウンドを限定しての演奏だったというふうにいえるだろう。それぞれの共演歴は長いが、このトリオの組み合わせは初めてという。

 ノブナガケンのパフォーマンスは、これまでに何回か聴いているが、私の場合、そのいずれもが向井千恵と共演したものだった。周知のごとく、向井千恵は、どこか巫女的に感じられる感性を発揮して、身体表現やインプロヴィゼーションに固有のアプローチを見せる古株のパフォーマーである。実際のところ、初共演からさほど時間はたっていないものの、共演回数はとても多いという話からすると、なによりも聴く人であり、即興演奏でも適切なサポートのできるノブナガケンは、彼女から求められるところが多いということなのだろう。そうしたノブナガケンの資質は、ひとつの打楽器への集中と、なによりも聴く人という点で、かもしだす世界は違っても、いまは亡き韓国のパーカッショニスト金大煥(キム・デファン)を思い起こさせるものだった。銅鑼ひとつ、タムひとつに世界の無限の音を響かせるといい、どんな共演者の演奏にも寄り添えるようなリズムを探究していた金大煥のサウンドに対する姿勢を、彼にも感じることができる。ただ金大煥の演奏は、世界の中心にいようとする音楽なのだが(だって世界はリズムで織りあがっているのだから)、ノブナガケンの音楽はそのようなものではないようで、むしろその場にそっと身体を寄り添わせるような演奏が身上のように思われた。

 ベアーズ・ファクトリーのふたりが第三のゲストを迎えるという構図そのものが、すべてがフリー・インプロヴィゼーションであること、すなわち、すべてが自由であるように見える演奏の枠組みに、じつは「聴く」というテーマがあることを示している。というのも、迎えるとは、あるいは歓待とは、迎えられたものの声を聴くことであり、ときに主客の転倒ですらあるからだ。黒田京子を迎えた前回の公演の前半のセットが、ピアノ・トリオのようになったのもゆえなしとしない。逆に言うなら、迎えられたものは、この場で、なにごとかをステートメントせよと求められていることになる。ベアーズ・ファクトリーのコミュニケーションは、アネックスであると否とにかかわらず、というのはつまり、迎えられたものが初共演するミュージシャンか否かにかかわらず、こうしたトリオ構造のなかでやりとりされていくもののように思われる。ノブナガケンがなによりも聴く人であること(じつは黒田京子の本質もそうなのだが、彼女の場合、ふられた役割をあえて引き受けることも心得ている)は、それがアネックス・シリーズの特徴になっているのかもしれないが、池上秀夫の演奏をいつもより攻撃的に(もう少し正確にいうなら、より「表現的 expressive」に)させたように思う。

 10弦ギターによる即興演奏から、ときにリュートのような、ときにウードのような、トラッドでカラフルな弦の響きを生み出す高原朝彦、どっしりとした身体の重厚さそのもののようなベースサウンドを前面に押し出してくる池上秀夫、そしてけっして声高にならない端正なノブナガケンのフレームドラムという楽器のとりあわせから、ECMがときおり採用する想像的民族音楽に通じるサウンド群が生み出されてくるのであるが、特定の音楽の形を持たず、あくまでも過程を生きようとするトリオ・インプロヴィゼーションは、そうした聴きやすい音楽イメージにとどまることなく、結ばれたサウンドの関係性を、何度となく突き崩し、突き崩ししながら、演奏の終わりまであちらへまたこちらへとゆくえも定めずに浮遊していく。そうしたなかにあって、ノブナガケンの演奏は、もう少し確実なもの、形に結実するようなものを求めているようであったが、ここではフリー・インプロヴィゼーションが最大の約束事になっているのであった。



【関連記事】
■「Bears' Factory vol.11」(2012-01-23)

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阿佐ヶ谷ヴィオロン




2012年2月21日火曜日

宵(酔い)どれ黒海周遊ジャズツアー 十一番目の航海

向かって左から、泉秀樹、岡島豊樹、片岡文明の諸氏

宵(酔い)どれ黒海周遊ジャズツアー
第11回 ユーゴスラヴィアに分け入る
会場: 吉祥寺「サウンド・カフェ・ズミ」
(東京都武蔵野市御殿山 1-2-3 キヨノビル7F)
開演: 2012年2月19日(日)5:00p.m.~(3時間ほどを予定)
料金: 資料代 500円+ドリンク注文(¥700~)
添乗員: 岡島豊樹(「ジャズ・ブラート」主宰)、片岡文明
主催: サウンド・カフェ・ズミ


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 旧ユーゴスラビアにもジャズは輸入されていた。地中海の多様性に開かれたイタリア半島のジャズ史を2回にわけてたどった宵(酔い)どれ黒海周遊ジャズツアーは、その足でアドリア海を渡り、対岸のバルカン半島に上陸する。周知のように、ソ連型の社会主義から距離を置く独自の路線をとることで、一定の政治的自由を実現したチトー政権の冷戦時代から、ソ連邦の崩壊とともに始まった東欧革命のなかで、多民族国家であるがゆえに、隣人どうしが殺しあう内戦へと発展して、連邦そのものが崩壊するという悲劇の歴史をもつ地域である。ボラ・ロコヴィッチ、ドゥシュコ・ゴイコヴィッチ、ララ・コヴァチェフ、ボヤン・ズルフィカルパシッチなど、紹介されるミュージシャンにも、自由な活動を求めて海外に出た演奏家が多く、合衆国ジャズ史のように、“より多くの自由を求めて” 変転していった形式史として音楽の歴史を再構成できない側面をもっている。考えてみればあたりまえのことではあるが、世界の多様性のなかで、ジャズは、地域ごとにじつに様々な形で、他の音楽とまったく新たにシャッフルされることになり、ナショナル・ジャズ史の考え方(それぞれの国に固有のジャズ史があると考える立場)をゆるがすことはもちろん、門外漢の聴き手が、外部から容易に見通すことのできない隠された意味を持ったということなのであろう。

 音盤をたどっていくかぎりでは、旧ユーゴスラビアに、ハードバップのようなジャズは輸入されたかもしれないが、ニュージャズ/フリージャズは輸入されなかったという。アドリア海を隔てた対岸のイタリアには伝わったものが、旧ユーゴスラヴィアには上陸してこなかった。これがどうしてなのか、はっきりとした理由はいまのところわかっていない。以下は、この日かけられた音盤を聴いての雑感にしかすぎないが、音楽スタイルとしてのモダンジャズの受容ということはありえても、即興演奏が音楽形式を規定していくというフリーの精神は、バルカン半島の場合、大衆芸能の領域に、ロマ音楽のような強力な “生成の音楽” が根を張っていたために、阻まれたというふうには考えられないだろうか。ベオグラード放送ジャズ・オーケストラ(1957年)の「マンボ」から、フェンダーローズが響くレビソルの演奏(1979年)までをたどった前半で、圧倒的だったのは、かの “ジプシー・クイーン” エスマ・レジェポーワ&ステヴォ・テオドシエフスキー楽団の「Cae Sukarije」(1960年代初期)だったからだ。

 もうひとつ、私たちはしばしばこのふたつを混同してとらえてしまうが、ジャズの世界性をいう場合に、ワールド・ミュージックとしての普遍的な側面と、インターナショナル・ミュージックとしての普遍的な側面を、ふたつ別々のものとしてわけてとらえておくべきではないかと思われる。いうまでもなく、前者は文化の多様性へと結びつき、後者は文化革命へとたどりつく。ともに生命的なあらわれではあるものの、前者は、生物が生き変わり死に変りする自然の摂理のようなもので、後者は、いってみれば突然変異のようなものである。思いもかけなかった者に(世界の外から)呼びかけられる経験といったらいいだろうか。ニュージャズ/フリージャズが輸入されなかったバルカン半島のジャズに、前者はあっても後者はなく(後者を受容する文化的な回路はなく)、1980年代以降は、世界をおおうことになったポストモダンの潮流に、多民族国家の実質をもって、それこそダイレクトに合流していくことになったのではないか、という仮説である。この考え方の結論は、旧ユーゴのジャズは、地域史のような形では可能でも、一国音楽史としては記述不可能ということになるだろう。ロマ音楽のあるところでは、どこでもそうなったということにはならないだろうが、ジャズを生成の音楽としてとらえた場合、生まれながらのワールド・ミュージックであるロマ音楽は、フリージャズの即興とは相容れない生成原理によって駆動しているように思われる。

 バルカン半島をめぐる宵(酔い)どれ黒海周遊ジャズツアーの後半では、1980年代以降の音楽が網羅的に紹介された。1960年代から活躍しているミュージシャンとともに、名前だけあげれば、トン・ヤーンシャ、ボリス・コヴァッチ、ヴラトコ・クチャン、ミロスラフ・タディッチ、ヴァシル・ハジマノフ、プレドラグ・ゴイコヴィッチ、イリーナ・カラマルコヴィッチ(洗練された女性ジャズ歌手)などが登場し、さらに現代音楽で知られるヴィンコ・グロボカールの硬質な演奏(作品というべきか)も紹介された。これも妄想の域を出ないが、バルカン半島にニュージャズ/フリージャズが輸入されなかったのには、もうひとつ別の理由があって、ジャズの十月革命などとは違い、バルカン半島ではジャズが芸術と接点を持たず、あくまでもポピュラー音楽の領域にあるものとして受け止められていたからかもしれない。もちろん、実際にそうだとしても、これは決して否定的なことではない。というのも、いまはなきニック・ドミートリエフの言葉を借りれば、バルカン半島の音楽とは、「芸術」の概念を生んだ西ヨーロッパ的な価値観に染まらない、西欧を迂回する(西欧的なるものを迂回して、西欧的ならざるものどうしをダイレクトに結びつける)音楽だったのかもしれないということだからである。

 私自身は、宵(酔い)どれ黒海周遊ジャズツアーに乗船してまだ日が浅いのだが、岡島豊樹をチーフ・アテンダントにすえたこのツアーは、ジャズの世界的な撒種を通じ、不均衡に発展し、相互にからみあう地域を照らしあわせることで、激動する同時代への多角的なまなざしを可能にしてくれるマジカル・ミステリー・ツアーになっていると思った。



※「宵(酔い)どれ黒海周遊ジャズツアー」は、4月1日開催の第12回ツアーで、とりあえずの区切りとなる。最終回は、ハンガリーと旧チェコスロヴァキアをのぞいてから、ドナウ河を下り、この旅の出発点である黒海に帰還するという長旅の終わりを祝う回になるとのこと。

※当日配布された「旧ユーゴスラビアのジャズ史断章」は、セルビア出身のウラジミル・マリチッチへの聞き取り調査から再構成されたもの。ナビゲーターを務めた以下の岡島豊樹のサイトで閲覧が可能。かけられた音盤の概要も記されている。

 【東欧ロシアジャズの部屋】

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吉祥寺サウンド・カフェ・ズミ

2012年2月11日土曜日

宝示戸亮二と山口とも[2009]その3


宝示戸亮二+山口とも
日時: 2009年3月20日(金・祝日)
会場: 東京/新宿「ピットイン」
(東京都新宿区新宿2-12-4 アコード新宿 B1F)
開場: 7:30p.m.、開演:8:00p.m.
料金: ¥3,000(飲物付)
出演: 宝示戸亮二(p, small instruments, vo, etc.)
山口とも(perc, vo, etc.)
予約・問合せ: TEL.03-3354-2024(新宿ピットイン)
TEL.03-3316-7376(キャロサンプ)


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 周囲を大小の音具で埋めた山口ともの打楽ブースのなかで、石油缶やゴミ箱のようなガラクタと、共演者のジャズ的な展開に対応してビートを出すため、シンバルのような “まともな” 楽器を組みあわせたドラムセットは、ほとんどの場面で、パタパタというミュートされたサウンドによるミニマルな展開をみせていた。シークエンスの全体を方向づけるビートが排除されるために、演奏のあらゆる場所で、あらゆる瞬間で、急角度に折れ曲がる方向転換が可能になるのである。しかしこの演奏、どこかで聴き覚えがないだろうか? そう、1980年代のニューヨーク・シーンに「ノイズ・ミュージック」として登場してきたデヴィッド・モスのリズム・ミニマリズムを思わせるのである。モスもまた、細分化された、加速度のあるリズムを生みだすため、ドラムの皮をすべてミュートしながら演奏していた。次々に重ねられていく、予測のつかない短いシークエンスの連続、あるいは「ドラマーがじっと黙って演奏しているのはおかしい」と主張して、奇声を発しながら演奏していく独特なスタイルと、山口ともの演奏には、モスのドラミングを思わせる数々の点が見つかるのである。

 声との関連でいうなら、ミルフォード・グレイヴスや土取利行など、アフリカ音楽のトーキング・ドラムをベースにオリジナルな演奏スタイルを確立した演奏者たちは、声を出すのが当たり前、ドラムが声のようなものになることが当然の世界にいる。トーキングができなければ、ドラムが語るところも理解できないからだ。

 「見立ての音楽」は、サウンドの独立度が高いために、こうした関連性のなかにおくことができず、響きを単体であつかうしかない場合に登場してくるようである。それは山口が、各種の楽器セクションに向かう途中で、気まぐれに寄り道して拾いあげる音群といえるだろう。例えば、丸い輪が描かれたオレンジ色の傘を開閉してバサバサといわせながら、口にほおずきのようなものをくわえてピーピーと鳴らすときには、身体を直立させてみずからを「小鳥」の姿に見立てたり、くわえたストローの吸い口を指で狭めて、プーッという、弱く、小さく、糸のように細い音を出したかと思うと、思い切りよく手前で手をはたいて夏の蚊をはたく場面に見立てるといった、そんな具合なのである。あるいは、コンサートの冒頭にはこんな場面もあった。哺乳瓶の頭のゴムをペコペコいわせていたかと思ったら、ドラムセットにすわってパタパタと太鼓をたたき、突然「トゥイーッ」という奇声を発しては、スティックを両手に捧げ持ち、身体を硬直させたまま椅子から立ちあがったり、椅子にすわりなおしたりをくりかえすのである。いったいなにが見立てられているのか、まるで見当がつかない。山口の演奏を数多く見ていないので、じつは、これらがファンにはおなじみのクリシェなのか、あるいはその場で即興的にパフォーマンスされたものなのか、判断はつかないのだが、本人が感じる新鮮味がパフォーマンスの生命線だろうから、たぶん何度かやっては捨てるということをくりかえしているのではないかと想像される。

 かたや宝示戸のパフォーマンスは、ピアニカを吹きながらステージ前まで歩み出たり、ピアノの下に潜りこんで底板をたたいたりと、つねに彼自身の作りあげた演奏の流れを切断するためにおこなわれる。それがサウンドとサウンドの間をイマジネーションの飛躍によってつなごうとする即興演奏の延長線上にあるパフォーマンスであることは言うまでもない。宝示戸の場合、観客の前に突出してくるのは、なにがしかの物語や文脈やイメージを支える山口のような身体ではなく、文脈を切断する行為そのものとなるような身体なのである。即興演奏のヴィジョンがそうであるように、ふたりのパフォーマンスのありようも対照的だ。デュオ演奏は、いたるところで切断されては新たにつなぎなおされ、つなぎなおされるたびごとに別の方向を選択しながら、ジグザグに進行していく。そのようでありながら、この晩のセッションがとてもオーソドックスなものに響いたのは、ふたりの即興スタイルが、すでに「盤石な」といっていいほどの安定性をもっていたことによるのではないかと思う。



[初出:mixi 2009-05-22「宝示戸亮二&山口とも(3)」の全面加筆] 
[掲載した写真のうち、宝示戸のものは当日の記録がすでになく、一年後にリューダス・モツクーナスと共演したときのものを使用]

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宝示戸亮二

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山口とも

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新宿ピットイン
 

2012年2月10日金曜日

宝示戸亮二と山口とも[2009]その2


宝示戸亮二+山口とも
日時: 2009年3月20日(金・祝日)
会場: 東京/新宿「ピットイン」
(東京都新宿区新宿2-12-4 アコード新宿 B1F)
開場: 7:30p.m.、開演:8:00p.m.
料金: ¥3,000(飲物付)
出演: 宝示戸亮二(p, small instruments, vo, etc.)
山口とも(perc, vo, etc.)
予約・問合せ: TEL.03-3354-2024(新宿ピットイン)
TEL.03-3316-7376(キャロサンプ)


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 この夜おこなわれたデュオ演奏から、山口の「見立ての音楽」の具体例をひろってみたいと思うのだが、その前に、デュオ演奏の全体像を素描しておいたほうがいいだろう。

 ライヴ構成は、17分の途中休憩をはさんで前半(44分)と後半(45分)、アンコール演奏(4分)というふうにわかれ、前半と後半のそれぞれに、ふたつのセッションがあったのだが、「もう、全部の楽器を演奏しちゃったよ」と、アンコール直前に山口が冗談ぽくいっていたように、全体はひとつらなりの音楽として聴くべきものだった。山口にとって、即興とは “二度と同じ演奏をしないこと” であるらしく、それを “二度と同じ楽器を演奏をしないこと” に置きかえた彼は、その実現のために、スネアに見立てられた小型でボコボコの石油缶、バスドラに見立てられた四角いプラスチック製のゴミ箱などの “ガラクタ” を使った創作ドラムキットだとか、演奏者の周囲をとり囲むように配置された多種多様なガラクタや小物の打楽器のひとつひとつを、順番に演奏していったのである。

 ステージに置かれたのは、一般的なドラムセットに見立てられるような楽器ばかりではなく、たとえば、山口の背後には、目線の少し上あたりに、両端に紙コップのついたコイルのような線がぶらんと張られていて、演奏者がその線をたたいたりこすったりすると、深いエコーのかかった電気的なノイズが増幅されて聴こえてくるといった、現代音楽のパロディーのような創作楽器もあった。演奏の都合で、それまでに使った楽器に戻りながら、ペース配分を考えて順々に楽器間を移動していき、たとえ演奏時間は短くても、いったんすべての楽器に触れまわった時点が、同時にライヴの「終了」につながるということであるらしい。それを配置された楽器を譜面に見立てた作曲ということもできるだろう。というのも、この場合のコンポジションというのは、五線譜によらずとも、演奏の外枠をどのようなもので構造化するかがポイントと思われるからである。

 デュオの演奏は単線的なものではない。あちこちに折れ曲がりながら連結していく短いシークエンスの連続が、方向性を見失ってしまうことがないよう、楽器のセッティングによって演奏の構造をあらかじめ素描している山口とも。それと対照的に、サウンドに対する衝動的な瞬発力を生命にしている宝示戸亮二のパフォーマンスは、サウンドとサウンドの間をイマジネーションの飛躍によって切断し、同時につなげようとする。宝示戸にとっては、この想像力のジャンプが高いほど、また遠くまで飛べるほど、パフォーマンスはより高度な即興になると思われているようである。響きと響きの間には、底なしの深淵が横たわっているのだが、そのような場所をことさらに選んで、宝示戸は演奏を構成していくのだ。彼の場合も、ピアノの周辺に雑多に配置される様々な小物類は、それが宝示戸のステージとすぐわかるくらいオリジナルな風景をなしており、その意味では、山口と同じように、それを譜面なしの作曲行為と解釈できないこともないが、宝示戸の場合、すべての楽器が演奏されるかどうかはなりゆき次第である。つまり、楽器構成はパフォーマンスの環境をなしてはいても、パフォーマンスそのものを制限する構造としては働いていないのである。この相違はけっして小さくない。

 興味深いのは、このような即興に対するヴィジョンの相違にも関わらず、ふたりがともに所有していた同じ楽器があったことである。申しあわせたように同時に鳴らされたそれらの響きは、おたがいを呼びかわすものとしてあり、共演の必然性を示す合言葉として響いていた。ひとつはチリリンと鳴る自転車のベル。もうひとつはグルグルとぶんまわすことで風を切る音を出す楽器以前の楽器(もともと出所不明の亡霊的な響きを介して、その場に呪術的な力を招き寄せるために使われた宗教的な道具という)。そして意味不明の言語による奇怪なヴォイス、あるいは奇声といったもの。これらは、即興を含めたすべての演奏に対して異化的であるばかりでなく、それ自身が楽器分類の以前にあるような音具であった。宝示戸亮二と山口とものふたりは、この世の出会いのはるか以前から、これらの響きによってつながっていたのである。



[初出:mixi 2009-05-21「宝示戸亮二&山口とも(2)」を改稿した。] 

[掲載した写真のうち、宝示戸のものは当日の記録がすでになく、一年後にリューダス・モツクーナスと共演したときのものを使用した。]

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宝示戸亮二

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山口とも

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新宿ピットイン

2012年2月9日木曜日

宝示戸亮二+山口とも[2009]その1


宝示戸亮二+山口とも
日時: 2009年3月20日(金・祝日)
会場: 東京/新宿「ピットイン」
(東京都新宿区新宿2-12-4 アコード新宿 B1F)
開場: 7:30p.m.、開演:8:00p.m.
料金: ¥3,000(飲物付)
出演: 宝示戸亮二(p, small instruments, vo, etc.)
山口とも(perc, vo, etc.)
予約・問合せ: TEL.03-3354-2024(新宿ピットイン)
TEL.03-3316-7376(キャロサンプ)


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 札幌市在住のピアニスト宝示戸亮二は、地元公演はもとより、ロシア・ツアーの敢行、不定期になされる東京への出張公演など、ゆったりとしたテンポの音楽活動を通じ、叙情的にして破壊的という、ユニークな即興スタイルを獲得したインプロヴァイザーである。かつてピアノの内部に丸太を打ちこむような激しい内部奏法で人々の度肝を抜いた宝示戸も、天命を知る50歳を過ぎ、これまで意識的に距離をおいてきた彼自身のなかの叙情性に、よけいなこだわりを捨て、自然に向かうことができるようになったようだ。あらためて問いただしたことはないが、暴力的なまでに過激なピアノへのアプローチは、伝統性な日本的情緒と結びつき、ときにセンチメンタルに響くことすらある彼のなかの感受性に対する、全面戦争だったのだと思う。伝え聞くところによれば、50歳になったその日の朝、起床したベッドのうえに正座した宝示戸は、「今日からオレは変わる」と宣言したとか。現在は、内面から湧き出てくるメロディーで、たくさんの歌を作っているという。コンサート終了後、観客がはけたあとの会場で弾かれたそれらの楽曲は、ゆったりとした大らかなラインを描き出しており、まさに北海道の大地が生み育てた自然賛歌と呼べるようなものだった。

 ピアノのいたるところに小物をつるしたり、ステージ中央にまで進み出てカズーやピアニカを吹き鳴らしたり、衝動的になにごとかを叫びながら演奏したり、小物とバイブレーターをいれた円形の容器を、ピアノ弦のうえに置いてガタガタいわせるというような奇想天外な内部奏法をするなど、2年ぶりとなる新宿ピットインでの東京公演でも、異質なサウンド群を、一山いくらでぶつけあう宝示戸ならではのスタイルに大きな変化はなかったが、かつてのように、つねに衝動的であること、つねにピアノとの対決姿勢を示すことをインプロヴィゼーションとしていた姿勢は影を潜め、この楽器に対して、これまでになくセンシティヴに対していたのが印象的だった。がらくた打楽器の製作者にして演奏者である山口ともとは、札幌ですでにセッションずみとのことだが、ライヴでの宝示戸の変化は、この希有の共演者がいたからという以上に、なにほどかの転機を決意した彼の現在の心境を反映したものと考えるべきなのだろう。はじめて宝示戸の演奏を聴く音楽ファンにとって、それはやはりいまでも異様なもの、容易に理解しがたいものと映るだろうが、彼はいま、これまで奉じてきた即興演奏のヴィジョンが根底から変わってしまうような、大きな転機を迎えつつある。

 共演者の山口ともも、宝示戸に引けをとらないユニークな演奏スタイルを持つ打楽器奏者である。廃品回収されたがらくたで、オリジナルに創作されたリサイクル・ドラムセットばかりがユニークなのではない。この晩も、胸もとにヒラヒラのついたピンクのシャツに白いチョッキ、白いパンツに白い靴と、白づくめの衣装でかため、髪を巻きこんだような布をターバンふうに後頭部にのせ、おなじみの黒ぶち眼鏡をかけ、ヒトラーを連想させるチョビヒゲをはやし、装飾模様のようにくるくるとカールしたもみあげでサルバドール・ダリふうにキメるという、なんとも奇妙奇天烈ないでたちで登場した。奇声を発したり、ことあるごとに身体を痙攣させて演奏をストップしたり、「見立ての音楽」と呼んだらいいのだろうか、パントマイムらしき身ぶりをはさみこんでおこなわれる演奏は、硬質なインプロヴィゼーションを愛する生真面目な即興ファンの眼には、わざとらしいギミックとしてしか映らないだろう。しかしそれは「見立ての音楽」なのである。

 先にこのことを説明しておくべきかもしれない。山口の即興スタイルをシンプルに表現するなら、通常の即興演奏のように、サウンドを環境から切り離して提示するのではなく、それらのサウンドと同時に、あるいはときにサウンドに先立って、その関係性を決定づける物語や論理的コンテクストを、即興的に添えていくものではないかと思われる。ジャズだとか民族音楽、あるいはフリー・インプロヴィゼーションのような即興演奏においてさえも、通常、コンテクストは暗黙のうちに前提されているものだが、山口の演奏にあっては、演奏のなかで次々に展開されていく短いシークエンスごとに、その場で即興的に示されることになる。



[初出:mixi 2009-05-20「寶示戸亮二&山口とも(1)」を改稿した。]
[掲載した写真のうち、宝示戸のものは当日の記録がすでになく、一年後にリューダス・モツクーナスと共演したときのものを使用した。]      

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宝示戸亮二

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山口とも

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新宿ピットイン