Bears' Factory Annex vol.5
高原朝彦&池上秀夫 with ノブナガケン
日時: 2012年2月25日(日)
会場: 東京/阿佐ヶ谷「ヴィオロン」
(東京都杉並区阿佐谷北2-9-5)
開場: 7:00p.m.,開演: 7:30p.m.
料金: ¥1,000(飲物付)
出演: ノブナガケン(perc)
高原朝彦(10string guitar) 池上秀夫(contrabass)
問合せ: TEL.03-3336-6414(ヴィオロン)
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阿佐ヶ谷にある名曲喫茶「ヴィオロン」が、ライヴ公演に場所を提供しはじめてから、使い勝手のよさばかりではなく、良心的な経営が評判を得て、ブッキングはすでにかなり先まで予約でいっぱいになっているという。この場所で定期的に持たれているシリーズ公演のなかに、10弦ギターの高原朝彦と、コントラバスの池上秀夫のふたりを軸にした即興セッション「ベアーズ・ファクトリー」があり、そのなかで「アネックス」と銘打たれたシリーズは、これまで共演したことのないミュージシャンを招く本シリーズとは別に、気心の知れた共演者を迎えておこなう拡大判ベアーズ・ファクトリーという趣向になっている。この日ゲストに迎えられた打楽器のノブナガケンは、おそらく場所の狭さも考慮したのだろう、大型タンバリンといった恰好のフレームドラムと、裸足になった足をつっかけて音を出すラトル類や金属製の小鉢を床に転がして使っていた。リズムということを別にすると、打楽器の場合、声のヴァラエティは音色にあらわれるので、この日のパフォーマンスは、あらかじめサウンドを限定しての演奏だったというふうにいえるだろう。それぞれの共演歴は長いが、このトリオの組み合わせは初めてという。
ノブナガケンのパフォーマンスは、これまでに何回か聴いているが、私の場合、そのいずれもが向井千恵と共演したものだった。周知のごとく、向井千恵は、どこか巫女的に感じられる感性を発揮して、身体表現やインプロヴィゼーションに固有のアプローチを見せる古株のパフォーマーである。実際のところ、初共演からさほど時間はたっていないものの、共演回数はとても多いという話からすると、なによりも聴く人であり、即興演奏でも適切なサポートのできるノブナガケンは、彼女から求められるところが多いということなのだろう。そうしたノブナガケンの資質は、ひとつの打楽器への集中と、なによりも聴く人という点で、かもしだす世界は違っても、いまは亡き韓国のパーカッショニスト金大煥(キム・デファン)を思い起こさせるものだった。銅鑼ひとつ、タムひとつに世界の無限の音を響かせるといい、どんな共演者の演奏にも寄り添えるようなリズムを探究していた金大煥のサウンドに対する姿勢を、彼にも感じることができる。ただ金大煥の演奏は、世界の中心にいようとする音楽なのだが(だって世界はリズムで織りあがっているのだから)、ノブナガケンの音楽はそのようなものではないようで、むしろその場にそっと身体を寄り添わせるような演奏が身上のように思われた。
ベアーズ・ファクトリーのふたりが第三のゲストを迎えるという構図そのものが、すべてがフリー・インプロヴィゼーションであること、すなわち、すべてが自由であるように見える演奏の枠組みに、じつは「聴く」というテーマがあることを示している。というのも、迎えるとは、あるいは歓待とは、迎えられたものの声を聴くことであり、ときに主客の転倒ですらあるからだ。黒田京子を迎えた前回の公演の前半のセットが、ピアノ・トリオのようになったのもゆえなしとしない。逆に言うなら、迎えられたものは、この場で、なにごとかをステートメントせよと求められていることになる。ベアーズ・ファクトリーのコミュニケーションは、アネックスであると否とにかかわらず、というのはつまり、迎えられたものが初共演するミュージシャンか否かにかかわらず、こうしたトリオ構造のなかでやりとりされていくもののように思われる。ノブナガケンがなによりも聴く人であること(じつは黒田京子の本質もそうなのだが、彼女の場合、ふられた役割をあえて引き受けることも心得ている)は、それがアネックス・シリーズの特徴になっているのかもしれないが、池上秀夫の演奏をいつもより攻撃的に(もう少し正確にいうなら、より「表現的 expressive」に)させたように思う。
10弦ギターによる即興演奏から、ときにリュートのような、ときにウードのような、トラッドでカラフルな弦の響きを生み出す高原朝彦、どっしりとした身体の重厚さそのもののようなベースサウンドを前面に押し出してくる池上秀夫、そしてけっして声高にならない端正なノブナガケンのフレームドラムという楽器のとりあわせから、ECMがときおり採用する想像的民族音楽に通じるサウンド群が生み出されてくるのであるが、特定の音楽の形を持たず、あくまでも過程を生きようとするトリオ・インプロヴィゼーションは、そうした聴きやすい音楽イメージにとどまることなく、結ばれたサウンドの関係性を、何度となく突き崩し、突き崩ししながら、演奏の終わりまで、あちらへまたこちらへとゆくえも定めずに浮遊していく。そうしたなかにあって、ノブナガケンの演奏は、もう少し確実なもの、形に結実するようなものを求めているようであったが、ここではフリー・インプロヴィゼーションが最大の約束事になっているのであった。■
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阿佐ヶ谷ヴィオロン